大正12年(1923年)、中村忠左衛門が今治で初めて「ジャカード織機」を導入したことで、今治タオルは無地や縞模様といった単純なデザインから脱却し、複雑な模様や織りの美しさを表現できる高級タオルへと進化を遂げました。
しかし、この「ジャカード織機」はもともとタオル用に開発されたものではなく、そのままでは十分に活用することができませんでした。タオルの生産には独特の織り方が求められるため、従来の織機では、タオル特有の風合いや耐久性を維持しつつ、細かい模様を再現することが困難だったのです。
そこで、この織機をタオル専用に改良し、より高度なデザインのタオル生産を可能にしたのが、技師・「菅原利鑅(すがわら としかね)」でした。
菅原利鑅の軌跡
明治24年(1891年)、山形県鶴岡市に生まれた菅原利鑅(すがわら としかね)は、東京高等工業学校(現・東京工業大学)を卒業後、繊維業界に進みました。
福島県工業試験場技手、埼玉県工業学校教諭を経て、日本の大手繊維メーカーで「東洋紡織(株)」に入社し、島田工場長として繊維製造の最前線に立ちました。
紡績技術の最前線!菅原利鑅が培った東洋紡での経験
東洋紡織(株)(現・東洋紡)は、日本の繊維産業の発展に大きく貢献した企業のひとつであり、明治・大正期における綿紡績業界のリーディングカンパニーでした。
特に、紡績技術の発展や新素材の開発において先進的な取り組みを行い、当時の日本の繊維産業を大きく牽引しました。
同社は、近代的な紡績機の導入や、日本国内の綿産業の強化に力を注ぎ、国内外の市場における競争力を高める役割を果たしました。
また、繊維製品の品質向上と生産効率の向上に貢献し、日本の繊維産業の近代化を支えました。
菅原は、東洋紡織の島田工場長を務める中で、最先端の繊維加工技術を学び、織機の改良や生産管理のノウハウを蓄積しました。
今治タオルを成長させた愛媛県工業講習所
この頃、愛媛県では繊維産業の発展に向けた取り組みが本格化していました。
当時の今治のタオル産業は、大阪・泉州の技術を模倣する形で生産を続けていましたが、品質面で本場に及ばず、独自の競争力を確立できていませんでした。
さらに、三重県のタオル産業が急成長したことで、今治は市場において後れを取る状況にありました。
大正7年(1918年)、忠左衛門によって「先晒し製法」が導入され、今治タオルは品質の向上と生産効率の向上を実現しました。この技術革新により、今治のタオル産業は飛躍的な成長を遂げ、大正10年(1921年)には、大阪についで全国第2位の生産高を記録するまでに発展しました。
しかし、市場競争が激化する中で、今治タオルのさらなる成長には、新たな技術革新と人材の育成が急務とされていました。高度な技術を持つ職人の育成、新しい生産技術の開発、そして品質の向上が求められたのです。
このような状況を受け、県内の染織工業の発展を目的とし、技術者の養成、業界の指導、新技術の試験研究を推進するために、大正10年(1921年)11月、今治市の蒼社川(そうじゃがわ)のほとりの、蔵敷榎町(くらしきえのき)に「愛媛県工業講習所」が設立されました。
そして、翌年の大正11年(1922年)、この講習所の先生として抜擢されたのが菅原利鑅でした。
菅原利鑅が挑んだ高級化への道
菅原利鑅が愛媛県工業講習所の先生に着任した頃、タオル市場ではより高級感のあるタオルが求められていました。
従来のシンプルな無地や縞模様のタオルに対し、より意匠性に富んだデザインや高品質な素材を活かした製品の需要が高まっていたのです。菅原はこのニーズに応えるべく、技術革新に取り組みました。
タオルを美術品へ!ドビー機を考案
1923年(大正12年)、菅原はタオル専用のドビー機を考案しました。
これにより、当時はまだ片面織りのみではあったものの、鳥や花などの模様を織り出すことが可能となり、従来の単調な無地や縞模様のタオルに比べ、装飾性のある織柄を施せるようになりました。
この発明は今治タオルの特徴が創生された重要な第一歩となり、今治タオルの品質とデザインに新たな可能性をもたらしました。
この革新により、今治のタオル産業はさらなる発展を遂げ、三重県のタオル産業を追い抜くきっかけとなりました。市場ではより意匠性の高いタオルが好評を博し、需要は飛躍的に増大していきました。
しかし、菅原はさらに複雑な柄を織るために研究を重ね、タオルのデザイン性を向上させる新たな技術の開発に挑戦しました。
菅原利鑅が挑んだジャカード織機の革新
菅原は、より精緻な模様をタオルに織り込むために「ジャカード織機」に着目しました。
この織機は、19世紀初頭の1801年にフランスのジョセフ・マリー・ジャカール(Joseph Marie Jacquard)によって発明されたもので、織物の歴史に革新をもたらしました。
ジャカード織機の最大の特徴は、織りのパターンを制御するために「パンチカード(紋紙)」を用いる点にありました。
模様の情報が刻まれたパンチカードを織機が順番に読み取ることで、糸を持ち上げたり下げたりする動作が自動化され、手作業では困難だった複雑な模様を織り込むことが可能になりました。
この技術により、花柄や幾何学模様、企業のロゴや家紋など、細かい意匠を布地に施すことができるようになりました。
菅原は、この技術をタオル製造に応用するため、ジャカード織機をタオル用の力織機に取り付ける研究に没頭しました。そして、1924年(大正13年)、既存のタオル織機を改造し、200口の半木製ジャカード機を取り付けた試織を実施しました。
その結果、この試みはほぼ成功し、今治タオルにおけるデザイン性と装飾性を飛躍的に向上させる礎が築かれました。
紋織タオルの誕生
さらに、大正14年(1925年)には、講習所で購入した木製600口ジャカード機をタオル織機に取り付け、北織式広幅ジャカード機が完成しました。
これにより、ジャカード機をタオル用の力織機に組み込むことが可能となり、より高度なデザインのタオルを大量生産することができるようになりました。
この技術を活用し、菅原はくじゃく模様が施された今治で最初の「紋織(もんおり)タオル」の製織に成功しました。この時に織られたタオルは、現代のフェイスタオルや小さめのバスタオルに相当するサイズであり、使い勝手の良い実用性を兼ね備えた高級タオルでした。
このタオルの織りの仕様は、「三ピック・片面タオル」と呼ばれるもので、通常のタオルに比べてより細かく密度の高い織り方がされており、肌触りが滑らかで、しなやかな質感と高級感のある仕上がりとなっていました。
さらに、このタオルはジャカード織機によって織られたものであり、そのデザインを表現するために1320枚ものジャカードカード(紋紙)が使用されました。
ジャカードカードとは、織機が模様を織り込む際に使用する設計図のような役割を持つものであり、カードの枚数が多いほど、より精巧で複雑な模様を織ることが可能となる。
つまり、このタオルは単なる実用品ではなく、高度な技術を駆使した織物としての価値を持つ高級タオルへと進化していたのです。
紋織タオルが築いた今治ブランド
ジャカード織機によって織られた紋織タオルの誕生により、今治タオルはそれまでの無地や縞模様といった単純なデザインから脱却し、より高級感のある織物としての価値を確立しました。
従来のタオルとは一線を画す織り柄の美しさと装飾性を持ち、全国市場での評価を高めるきっかけとなりました。
同年の大正15年(1926年)、中村忠左衛門が今治で初めてジャカード織機を実践導入し、紋織タオルの製造を本格的に開始しました。
これにより、大阪市場や東京市場において今治タオルの品質が認められ、その評価が確立しました。さらに、海外市場への展開も視野に入るようになり、今治は日本を代表するタオル産地としての地位を確立することとなったのです。
ジャカード機は、他の後晒しタオル産地でも導入されていましたが、大量生産が可能な後晒しタオルの単純な柄出しにはドビー織機の方が効率的であったため、ジャカード機の活用は限定的でした。
一方で、多種多様な織り柄を織糸によって精緻に表現できるジャカード機の紋織技術は、先晒し織物が主流であった今治のタオル産業においてこそ、その強みを最大限に活かすことができました。
こうして、今治のタオル産業はデザイン性と品質の両面において他の産地と差別化を図り、より高級感のある織物としての価値を確立していったのです。
菅原利鑅が歩んだ今治タオル産業の道
菅原利鑅は、昭和21年(1946年)、55歳で22年間にわたる指導者としての職を退任し、第一線を退きました。
しかし、故郷の山形県鶴岡市には戻らず、愛する今治の地にとどまりタオル業界の技術指導や技術者の育成に尽力し続けました。
その活動の中で、昭和25年(1950年)、天皇陛下が今治のタオル工場「楠橋紋織株式会社」をご視察された際、菅原は今治のタオル業界を代表し、今治タオルの歴史や技術について説明を行いました。
この時、陛下からは次のようなお言葉を賜りました。
「君の話された綿業の振興は、こんにちの日本において最も大切なことなので、いっそう努力をされますよう。帰られたら皆のものにこのことをよくお伝えして下さい。」
この言葉は、今治のタオル産業に関わる人々にとっても大きな励みとなり、さらなる発展への道を切り開く契機となりました。
そして昭和28年(1953年)、菅原利鑅はその功績を讃えられ、第1回愛媛文化賞を受賞しました。
日本一のタオル産地「今治」
その後も、今治のタオル産業はさらなる成長を遂げ、高品質なタオル製造の技術が確立されました。
この中で、昭和30年(1955年)、今治のタオル業界にとって画期的な発明となる「タオルケット」が開発されました。
その人気は急速に広まり、昭和35年(1960年)には全国的な大ヒットを記録。ついにこれまでタオル産業の中心地であった大阪泉州を抜いて、生産高一位になりました。
この成功を受けて、今治市ではタオルに関連する企業が次々と設立され、全国有数の繊維産業都市へと発展していきました。生産規模の拡大とともに、技術革新も進み、タオルの品質向上が追求されるようになりました。
そして、日本最大のタオル産地としての地位を確立した今治は、その後も独自の技術と品質基準を守りながら成長を続け、現在では国内外から高い評価を受ける世界的なタオルブランドへと進化しました。
菅原利鑅の功績とその継承
菅原利鑅が技術指導を行っていた愛媛県工業講習所は、昭和10年(1935年)に愛媛県染織試験場へと改組され、繊維産業の技術研究および指導機関としての役割を強化しました。
その後も繊維技術の発展に貢献し続け、昭和43年(1968年)には頓田川(とんだがわ)のほとりにある東村南(ひがしむらみなみ)へと移転。
さらに平成元年(1989年)には愛媛県繊維産業試験場と改称され、今治の繊維産業の技術革新を支え続けました。
現在で今治市矢田の今治新都市第1地区に移転し、「愛媛県新繊維産業技術センター」として菅原が築いた技術と意思は今なお受け継がれています。
「先生」吹揚公園に刻まれた言葉
昭和33年(1958年)4月2日、菅原利鑅は67歳でなくなり、文子夫人と共に故郷の新海町の禅源寺に埋葬されました。
今治市ではその功績を讃え、市の中心部の今治城の吹揚公園には菅原利鑅の功績を記念した像が建てられました。この像には
その偉大な功績を讃え、今治城の吹揚公園には菅原利鑅の功績を記念した銅像が建てられました。
像の台座には「菅原利鑅“先生”」と刻まれ、先生として多くの生徒を育成し、今治の繊維産業の発展に多大な貢献を果たしたことへの敬意が込められました。
先生の指導のもとで磨かれた技術は、単なる職人の技にとどまらず、「品質へのこだわり」として今治タオルの基盤となったのです。