愛媛という地名はこうして生まれた、女神・愛比売と今治藩医の物語
四国の北西部に位置する「愛媛(えひめ)」。
道後温泉の湯けむり、瀬戸内海に浮かぶ多島美、しまなみ海道を走る爽快なサイクリング、そして温州みかん・鯛めし・砥部焼といった豊かな名産品がそろう魅力あふれる地域です。
さらに西日本最高峰の石鎚山や、豪華絢爛な太鼓台で知られる秋祭りなど、自然と伝統が織り成す魅力も豊かで、見どころにあふれています。
こうした多彩な風土と文化が息づく愛媛は、観光・グルメ・歴史のすべてを楽しめる場所として、多くの人々に親しまれています。
「伊予の語源」名称が紡いだ自然・信仰・歴史
現在の愛媛県は、東予(とうよ)・中予(ちゅうよ)・南予(なんよ)の三地域に分かれていますが、この「〜予(よ)」という呼び名はすべて、古代の “伊予国” から続く名残です。
では、この「伊予」という言葉は、どこから生まれ、どのように使われてきたのか。
そして、現在の県名「愛媛」は、いつ・どのような経緯で生まれたのか。
その語源と変遷には、古代の自然観、生活文化、そして神々への信仰が複雑に折り重なっています。
湧き出る「湯(いゆ)」から生まれたとする説
伊予の語源として最もよく知られている説が、古語の「いゆ(湯・温かい湧水)」が変化して「いよ」になったとする考え方です。
愛媛県は古くから温泉が豊富で、とくに道後温泉は『日本書紀』にも記される日本最古級の名湯として知られています。
古代の「いゆ(湯)」が音韻変化を経て「いよ」→「伊予」になった可能性は十分に指摘されています。
しかし、全国に温泉地が多く存在するにもかかわらず、伊予だけが温泉を地名の起源とする理由については議論が分かれています。
また、上代特殊仮名遣いの観点では「ユ → ヨ」への明確な音韻変化を証明するのが難しいという指摘もあります。
清らかな水脈を意味する「イヨ(水源)」説
もう一つ有力な説が、「イヨ」が“澄んだ水の湧く場所”を指す古語に由来するという水源説です。
伊予地方には古来より豊かな清流や湧水が多く、水源を聖域とみなし祀る水神信仰が各地で営まれてきました。
湧水を中心に集落が形成された例も多く、遺跡の分布からも水をめぐる生活文化の重要性が確認されています。
地名学の観点からは、古語の「井(い)」と「淵・與(よ)」が結びついて「伊予」という名称が生まれたとする説があり、水の豊かな土地を象徴する呼称として成立した可能性があります。
「弥(いや)」が変化した“栄えゆく国”の意味
語源として注目されるもう一つの説に、「弥(いや)」が変化して「いよ」になったという考え方があります。
「いや」は古語で“ますます・いよいよ”を意味し、古代では繁栄や勢いを象徴する語として広く用いられていました。
古墳時代、伊予には前方後円墳が集中し、瀬戸内海航路を通して早くから大和政権と関係を築いた地域でもありました。
こうした歴史的背景から、伊予が“勢いある土地”を示す名称として解釈された可能性が指摘されています。
古代に見えるさまざまな「伊予」の表記
伊予という名称を理解するうえで重要なのが、古代文献に見える表記の多様性です。
最古の歴史書である『古事記』、そして『古事記』とともに伝わる日本最初の正史『日本書紀』(奈良時代成立)をはじめ、和歌の宝庫である『万葉集』、国家が編纂した六国史(『続日本紀』『日本後紀』『日本文徳天皇実録』など)、さらに地方の地誌や社寺縁起に至るまで、多くの史料において実に多様な表記が用いられてきました。
「伊子」良い字を当てた表記
「伊子(いこ・いよ)」という表記は、『古事記』、古事記の一部とされる系譜資料『神代巻』、六国史の『光仁紀』、さらには平安初期の歴史書『清和実録』などに見えます。
後世の地誌『豫章記』(平安期以降の伊予地誌)では、「伊(か)の子(こ)=彼に預ける国」という解釈が記され、伊予国を“託すに値する良い国”とみなす思想が反映されています。
もっとも、これは倭語「いよ」の語源ではなく、漢字の字義を借りた後付けの説明にすぎないと考えられます。
しかし奈良時代、元明天皇が「国名・郡名・郷名には好字(よい意味の字)を用いるべし」と命じたこともあり、縁起の良い字面を持つ「伊子」は、表記として重視されるようになりました。
「伊余」ゆたか・安らぐを示す表記
『古事記』や、古代の地方支配者層である国造(くにのみやつこ)の系譜・任叙をまとめた『国造本紀(こくぞうほんぎ)』などに確認される表記が「伊余」です。
『国造本紀』は、平安時代に編纂された『先代旧事本紀』の一部で、大化前代の地方組織を知る上でほとんど唯一といえる体系的史料です。
この史料に「伊余」が見えるという事実は、当時すでに中央の記録においても“伊余”が公的な地名表記のひとつとして認識されていたことを示しています。
「余」の字は、中国古辞書において“ゆとり・ゆたかさ・安らぎ”といった意味を持つ字として説明され、日本でも「よし」「よろし」に通じる肯定的で柔らかな語感を帯びた字として用いられていました。
そのため「伊余」という表記には、豊かで、安らぎに満ちた土地としての伊予というイメージが重ねられていたと考えられます。
実際、伊予地方は古代から、瀬戸内海の穏やかな海、温暖な気候、豊かな水系に恵まれ、集落や祭祀が水の湧く地を中心に営まれてきました。
こうした風土と、「余」が象徴する豊穣性・安寧性はきわめて相性が良く、古代の人々が伊予の土地性を肯定的に表したいとき、もっともふさわしい字が「余」だったともいえます。
つまり「伊余」は、音写としてだけでなく、伊予という地名そのものが持つ“豊かで、心地よい土地”という価値観を漢字によって表そうとした美称的表記だったと考えられます。
「夷与」いよ村から広がった地名
603年(法興6年)、聖徳太子が四国を巡行し道後温泉を視察したとする伝承が碑文資料に見えます。
その記録の中に登場するのが「夷与(いよ)」という表記です。
この「夷与」は、しばしば「夷与村(いよむら)」と読まれてきましたが、学術的には特定の“村名”ではなく、「伊予国の村=伊予の地」 を意味する語句であると解釈されています。
日本古典文学大系本の頭注でも、これを“伊予国の村”と解するのが妥当であると明記されています。
当時この地域はすでに温泉郡として成立しており、「伊予」という小字の地名も別に存在していました。
したがって「夷与村」を個別の村名とみなす必要はなく、伊予国の一地域を指す一般的な地名表現として書かれたものと考えられます。
ここで用いられた「夷」という字には、単なる音写を超えて、中央(大和)から見た周辺地域・辺境を示す漢字を選び取った可能性が指摘されています。
古代の万葉仮名は音を主としながらも、書き手の意識が意味に影響する場合があり、「夷与」はまさにそのような“音と意味の混在する表記”だったと考えられます。
差別意図を含むものではなく、古代的な「周縁の地」を示す語感による選字です。
なお、道後温泉周辺には、祝谷の田高(北西方)と、上市の内代(東方)の二か所に廃寺があり、礎石や百済式蓮華文瓦の出土から、いずれも飛鳥時代の寺院跡とみられています。
聖徳太子との直接の関係は明らかではありませんが、こうした早期の仏教文化の存在が、後世に太子巡行伝承を生む背景になった可能性があります。
このように「夷与」は、“いよ”という地域名がまだ定まる以前、音と字が揺れ動いていた時期の表記を伝える貴重な証拠です。
やがて「いよ」は国名として確立し、地名の範囲も大きく広がっていきましたが、その過程の一端を示すのが、この「夷与」という特異な表記なのです。
「伊与(いよ)」最も純粋な音写としての表記
「伊与(いよ)」という表記は、『先代旧事本紀』や『日本書紀』持統紀など、古代の重要史料に広く見られます。
『先代旧事本紀』は、平安初期にまとめられたとされる神代から推古朝に至る系譜・伝承を収めた書物で、古代氏族の系譜や地方制度を知る上で貴重な資料です。
これらの公的・半公的な文献に「伊与」の表記が頻繁に登場することは、「伊与」が古代において もっとも純粋な音写として“いよ”を表した漢字表記 であったことを意味します。
「伊」は i(イ)を表す標準的な万葉仮名、「与」は yo(ヨ)を表す代表的な万葉仮名であり、この二字の組み合わせは、意味よりも“音”を忠実に反映するための最も自然な選択でした。
後世には、「伊豫」「伊子」など字義(意味)に良いイメージを持つ“好字”が選ばれていきますが、「伊与」がそのような意味性を重視して選ばれたわけではありません。
音写としての純度が高く、より古い層の発音「いよ」をそのまま写し取った形と考えられています。
そのため「伊与」は、伊予という地名を表す多くの表記の中でも、もっとも古層に近い音形を伝える表記のひとつと位置づけられています。
「伊豫」古代が付与した美称としての表記
このように、「伊予」という地名には、古代からいくつかの漢字表記がありますが、その中でも最も格調高く、品位ある表現として選ばれてきたのが 「伊豫(いよ)」 という書き方です。
「豫」という字は、中国の古い辞書で「よろこぶ・安らぐ・ゆとりがある・前もって整う」といった良い意味を持ち、日本でも「こころよし」「めでたい」「栄える」といった肯定的な意味が与えられてきました。
そのため、古代の人々はこの字を選ぶことで、“伊予とは安らぎと豊かさに満ちた土地である”というイメージを美しい漢字に託したと考えられます。
奈良時代、元明天皇は「国名や郡名には良い字(好字)を用いるべし」と命じましたが、「伊豫」という表記はまさにこの方針に合致し、正史や格の高い文献で用いられる代表的な書き方となりました。
『日本書紀』や『万葉集』など、重要な文献が「伊豫」を採用しているのは、この地名がただの地理的名称ではなく、“称えるべき土地”として特別の意味を持っていた証拠です。
「伊予」“豫”から“予”へ ― 文字の移り変わり
「伊予銀行」「伊予灘」「伊予郡」「伊予鉄道」「伊予市」など、現代でも広く使われている表記が「伊予(いよ)」です。
「予(よ)」は「豫(よ)」の新字体(略字)で、明治六年に愛媛県が設置されて以降、公的な場面でも次第に「伊予」の表記が一般化していきました。
しかし、明治六年当時、この二つの字はまだ旧字・新字という関係ではなく、まったく意味の異なる“別の漢字”でした。
本来、「予」は古くから一人称(われ)を表す漢字であり、伊予国に用いられてきた「豫」とは、成り立ちも意味も異なっていました。
それでも、画数が少なく書きやすい「予」が実務でしだいに使われるようになり、明治期から戦前まで、「伊豫」と「伊予」は長く併用され続けます。
その後、戦後の当用漢字・新字体の制定によって、「豫(よ)」の新字体が正式に「予」と定められたことで、「伊予」が統一された表記として広く定着しました。
伊予の始まり、古事記に登場する女神「愛比売」
長い歴史の中で、さまざまな漢字表記が用いられてきた「いよ」ですが、これらに共通しているのは、古代から一貫して「いよ」という響きそのものが、この地の自然・信仰・人々の暮らしの豊かさを象徴する言葉として受け継がれてきた点です。
この名称は、単に地域を指すためのものではなく、古代の人々がこの土地に抱いた思いや、自然への敬意を映し出す呼び名だったと考えられます。
そして、その源流に位置するのが、古事記に登場する女神「愛比売(えひめ)」です。
愛比売と四国の成り立ち
『古事記』の国生み神話では、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)・伊邪那美命(いざなみのみこと)の二柱の神が、淡路島・本州・九州といった島々を次々に生み出していきます。
その2番目(『書紀』の一書では3番目)に誕生するのが、四国の原型となる 「伊予之二名島(いよのふたなじま)」 です。
この島は 「身一つにして面四つあり」 とされ、一つの島でありながら 四つの“顔”すなわち四つの地域と神名を持っていると説明されます。
その四つの神名は次の通りです。
- 伊予国(いよのくに):現在の愛媛県 ― 愛比売(えひめ)
愛比売は「美しい女性・愛すべき女」を意味する名を持ち、清らかさや調和を象徴する女神。県名「愛媛」の由来にもなった神。 - 讃岐国(さぬきのくに):現在の香川県 ― 飯依比古(いいよりひこ)
飯依比古は「比古(ひこ)」を名に持つ男性神で、力強さや豊穣を象徴するとされる。讃岐の肥沃な土地性とも結びつけられる。 - 阿波国(あわのくに):現在の徳島県 ― 大宜都比売(おおげつひめ)
大宜都比売は食物をつかさどる女神で、山海の恵みをもたらす存在。古くから阿波の自然と生業を象徴する神格とされる。 - 土佐国(とさのくに):現在の高知県 ― 建依別(たけよりわけ)
建依別は「建(たけ)」の名が示す通り、武勇・剛健を象徴する男性神。急峻な山地や荒々しい自然を持つ土佐の国風と響き合う存在。
四つの神名のうち、伊予を司る愛比売(えひめ) は、とくに後世の伊予文化と深く結びつき、神話を越えて長くその名を残していきました。
例えば、椿さんとして知られる松山の伊豫豆比古命神社(椿神社)では、伊予国の主宰神とされる伊豫豆比古命と並び、主祭神の一柱として愛比売命が祀られ、伊予の守護神として古くから厚い信仰を集めています。
「伊予国」古代から続く地名の変遷
神話の中に登場した伊予という名は、古代国家が形成されていくなかで、現実の地名として歴史資料に姿を現すようになります。
古代のこの地域は、大化改新より前には五つの地域勢力が存在し、それぞれを「国造(くにのみやつこ)」と呼ばれる豪族が治めていました。
伊余・怒麻・久味・小市・風早という五つの“国”は、前方後円墳の分布や式内社の存在によってその領域が推定され、早い段階から瀬戸内海を背景に文化が発達していたことを物語ります。
やがて7世紀後半、大宝律令によって全国が国・郡・里へと再編されると、この地域はひとつに束ねられ、正式に「伊予国(いよのくに)」と呼ばれるようになりました。
伊予国の中心となる国府は越智郡、現在の今治市付近に置かれ、有力豪族・越智氏の根拠地として栄えた今治平野が政治・文化の中心となっていきます。
瀬戸内海航路の要衝に位置し、古くから大和政権と深い結びつきを持っていた土地柄が、伊予国の中枢に選ばれた理由と考えられています。
“伊予”という名称の広がりと変遷
律令制のもとで確立された伊予国という名称は、単なる行政区分にとどまらず、人々の暮らしや文化の中に深くしみ込み、地域を象徴する名として定着していきました。
古代から中世にかけて、伊予は瀬戸内海航路の重要拠点として発展し、海を通じて都や大陸との交流が盛んに行われました。
そのため、「伊予」という名は海上交通、産業、祭祀など多様な場面で用いられ、地域のアイデンティティとして強く意識されるようになります。
中世に入ると、武士団の台頭や荘園制度の広がりによって地域構造は複雑化しましたが、それでも国名としての「伊予」は一貫して使われ続けました。
史料には「伊予国住人」「伊予国内某郷」「伊予国守護」などの表現が頻繁に登場し、この呼称が地域の枠組みとして揺るぎない存在であったことがうかがえます。
近世、すなわち江戸時代には、松山藩・今治藩・西条藩・宇和島藩などの藩が置かれ、行政単位は藩へと移行しました。それでも、人々の意識や文化の中では「伊予」という古い国名は色褪せることなく生き続けています。
地誌や和歌、俳諧の世界でも「伊予の海」「伊予路」「伊予の国」といった表現が数多く用いられ、伊予は単なる地名ではなく、瀬戸内の風土や文化を象徴する言葉として長く親しまれてきました。
「伊予」から「愛媛」へ ― 県名誕生の背景と半井梧菴の功績
明治維新によって日本の行政区画が大きく再編されると、旧来の藩は廃止され、新たに「県」が設置されていきました。
伊予地方でも、松山・今治・西条・小松など東中予の四藩が合併して松山県(のち石鉄県)が、宇和島・大洲・吉田・新谷など南予の四藩が合併して宇和島県(のち神山県)が成立します。
しかし明治6年(1873)、この両県を統合し、伊予一国に相当する新しい県をつくる際、その名称を「伊予」とするべきか、それとも新たな名を与えるべきかが検討されました。
結局、このとき選ばれたのが、現在の県名 「愛媛(えひめ)」でした。
ではなぜ、千年以上続いた国名「伊予」ではなく、新しい名「愛媛」が県名となったのでしょうか。
なぜ「伊予」ではなく「愛媛」が選ばれたのか
明治政府が新しい県名を決めるにあたって重視したのは、「意味が良く、縁起のよい漢字(好字)を用いること」という原則でした。
この方針は、奈良時代に元明天皇が「国名・郡名・郷名には佳字を用いるべし」と命じた古代の地名政策に由来し、明治でもその思想が継承されていました。
すなわち、土地の名には、美称としてふさわしい漢字を選ぶことが求められたのです。
こうした背景のもとで、伊予国の新県名を考える際に鍵となったのが、古事記に見える伊予国の女神「愛比売(えひめ)」でした。
愛比売は「美しい女性」「愛すべき女」を意味し、伊予の自然の豊かさや穏やかさを象徴する存在です。
伊予という地名の精神的源流ともいえるこの神名は、「好字」の考え方にも合致し、新県名として理想的でした。
「愛媛」の誕生を決定づけた人物 ― 今治の国学者・半井梧菴
県名「愛媛」を決定づけた最大の要因は、今治藩医であり国学者であった「半井梧菴(なからい ごあん)」の存在です。
文化10年(1813)、今治藩医の家に生まれた梧菴は、幼くして父を亡くし、母とともに京都へ移り住みました。
京都では名医・荻野家のもとで医学を学び、のちには国学や和歌にも精通する多才な学識を身につけます。
その後、天保10年(1839)1月、27歳で今治藩医として召し抱えられ、ゆかり深い伊予の地へと帰任しました。
『愛媛面影』と「愛媛」という名
梧菴は慶応2年(1866)、伊予の山川・社寺・名所旧跡・人物・産物を網羅的にまとめた地誌『愛媛面影(えひめのおもかげ)』を著しました。
この書物の序文で、梧菴は次のように述べています。
是を愛媛の面影としも名づけたるゆゑよしは、古事記に、此島は身ひとつにして面四あり、かれ伊豫国を愛比売といふとあるによりて、やがて巻の名におほせつるなりけり。
【現代語訳】
この書を『愛媛面影』と名づけた理由は、『古事記』に伊予国の神として“愛比売(えひめ)”が記されているためである。四国には四つの顔(地域)があるとあり、その中で伊予を司る神が愛比売である。よってその神名にちなんで、この巻を『愛媛面影』と名付けた。
この記述こそが、『古事記』に登場する伊予の神「愛比売(えひめ)」に初めて“愛媛”という漢字(二字)を正式にあてた例とされています。
県名選定と梧菴の影響
明治6年(1873)、松山県(旧石鉄県)と宇和島県(旧神山県)が統合され、新しい県名を定める際、候補に挙がったのが「伊予」と「愛媛」でした。
当時、石鉄県の地理掛(地理担当官)には半井梧菴(なからい ごあん)が就任しており、地名や村名の整理に携わっていました。
梧菴の著した伊予地誌『愛媛面影』はすでに広く知られ、その序文で『古事記』の「愛比売(えひめ)」に初めて“愛媛”の二字を宛てた人物としても注目されていました。
そして時代を経るなかで、梧菴は「愛媛」という名の名付け親と称されるようになりました。
京都での晩年と、海禅寺に残る「もう一つの墓所」
梧菴は1882年(明治15)、若き日を過ごした京都へ移り住み、静かに晩年を送りました。
1889年(明治22)1月2日、77歳の梧菵は京都で静かに生涯を閉じました。
墓所は京都の神楽岡にあり、いまも静かな環境の中に墓碑が佇んでいます。
また、今治にゆかり深い人物として敬われた梧菴を偲び、多くの今治藩士が眠る海禅寺の日吉山墓地にも、梧菴の遺髪と遺歯をおさめた墓があらためて設けられました。
静寂の中で、梧菴の墓は今も故郷を見守るように佇み、「愛媛」 という名とともに、静かに息づき続けています。

神様の名を持つ、ただ一つの都道府県
実は、都道府県名の中で、古代神話の神の名をそのまま受け継いでいるのは愛媛県だけです。
愛媛という名のルーツとなった美しい女神 愛比売(えひめ) は、“愛らしい女性・美しい姫” を意味する古代の美称を宿しています。
その名を受け継ぐ愛媛県は、温暖な瀬戸内の気候、みかん色に染まる山並み、柔らかな海風がそよぐ穏やかな海岸線など、どこかやわらかく穏やかな風土に包まれています。
瀬戸内のゆったりとした自然と温厚な人々の気質は、まるで愛比売が象徴する “やすらぎ” と “豊かさ” を今に伝えているかのようです。
愛すべき姫の国、愛媛。
その名は、今もこの土地の豊かさとやわらかな魅力を静かに語り続けています。