日本には、古くから人々の暮らしとともに歩んできた在来馬が存在します。その中でも最も小柄な品種として知られるのが、愛媛県今治市を中心に育まれてきた「野間馬(のまうま)」です。
体高110~120センチメートルほどの小さな体、愛らしい姿、穏やかな性格——。かつて野間馬は、農作業を手伝い、荷物を運び、子どもたちの乗馬用として活躍し、地域の人々に親しまれてきました。
四国・東予地方の風土の中で育まれた野間馬は、今も今治市の「ふる里の宝」として大切に守られています。
野間馬のルーツと歴史
四四国地方にはかつて、土佐駒(高知県)や越智駒(愛媛県)といった在来馬が存在し、それぞれの地域で人々の暮らしを支えてきました。野間馬もその一種と考えられており、縄文時代末期にはすでにその祖先が存在していたと推測されています。
野間馬の起源について、具体的な記録が残されているのは江戸時代のことです。
野間馬の起源
寛永12年(1635年)、伊勢国桑名から松平定行が松山城に転封となりました。同年、弟の松平定房も伊勢長島藩から今治藩の初代藩主となりました。
松平定行は定房に、今治港の北4kmの来島海峡に浮かぶ島に、戦で使用する軍馬を繁殖するために放牧場を作るように命じました。この出来事からこの島は「馬島」と呼ばれるようになりました。
しかし、馬島での放牧は病気や飼料不足の影響で多くの馬が死亡し、計画は失敗に終わってしまいました。
そこで今治藩は、当時松山藩領であった野間郡(現在の「のまうまハイランド」周辺)に住んでいた農家に馬の飼育を委託し、繁殖を進めることとしました。
軍馬を必要としていた松山藩は、体高4尺(約121cm)以上の馬を買い取り、報奨金を与えて増産を支えました。その一方で、それよも小さい馬は野間郡の農民に無償で払い下げられました。
野間馬の特徴と活用
農民の元に渡ったこの小さな馬は、人懐っこくおとなしい性格で、粗食にも耐え、さらに非常に丈夫で力持ちで蹄鉄をはめずに約70kgの荷物を運ぶことができました。
そのため、田畑を耕したり、荷物を運んだりする農作業の相棒として広く活用されていました。
このため、小さな馬は農民たちの間で積極的に繁殖され、「野間駒(ノマゴマ)」「野間子(ノマゴ)」と親しみをこめて呼ばれるようになりました。
最盛期には約300頭が飼育され、野間郡は馬の産地として大いに栄えました。
特に瀬戸内海の島々や久万地方では、農耕や運搬に不可欠な輸送手段として利用されました。島しょ部の急傾斜地や細道での駄載用として適していたため、小型馬同士の交配が進み、さらに小型化が進みました。
こうして、日本最小の在来馬「野間馬」が誕生しました。
明治時代には、地元の大沢佐之衛門(おおさわ さのえもん)によって野間馬の育成が進められました。佐之衛門が育てた野間馬は、一旦愛媛県新居郡の保木村(現・西条市)に預けられ、久万方面へと販売されていたため「佐之衛馬(さのえもんうま)」とも呼ばれるようになりました。
野間馬の危機
明治時代に入り、日本の社会は大きな変革を迎えました。 明治政府は軍備強化を目的に産馬改良政策を推進し、軍馬として適した大型馬の繁殖を奨励しました。その一方で、小型馬は軍用に適さないとして繁殖が禁止され、多くの在来馬が淘汰されることになります。野間馬も例外ではなく、この政策の影響を受け、頭数が急激に減少しました。
それでも、野間馬は農耕馬として一般の農家で使われ続けました。農作業や荷物の運搬、子どもたちの乗馬用として重宝され、一部の農家によって密かに飼育されていたのです。
しかし、今治の野間地方は広い平野部が広がる地域であり、政府の指導のもとで大型馬の導入が進められたため、小型の野間馬を維持することが難しくなっていきました。
一方で、越智郡の島しょ部では、大型馬の導入が進みにくかったこともあり、野間馬の伝統が残されることになりました。
絶滅の危機
しかし、それでも野間馬の減少は止まりませんでした。かつて人々の暮らしを支えていたこの在来馬は、わずか数頭を残すのみとなり、消滅寸前の状態に追い込まれていました。
そんな中、昭和36年(1961年)、松山市の道後動物園(とべ動物園の前身)が、島しょ部に残っていた2頭を引き取り、飼育を開始しました。 これは、野間馬を公的に保存しようとする初めての動きでしたが、根本的な解決には至りませんでした。
同じ頃、日本の伝統文化を守ることに尽力していた長岡悟(ながおか さとる)さんが、野間馬の存続に向けて動き始めます。昭和34年(1959年)から愛媛県内を巡り、わずかに残っていた4頭を見つけ出し、個人での飼育を開始しました。
しかし、この時点で全国に残る野間馬はわずか6頭。このままでは、絶滅が避けられない状況に陥っていました。
保護での問題と繁殖の成功
道後動物園では野間馬の絶滅を防ぐために繁殖を試みましたが、絶対数が少なかったため、別の在来種の系統が入ったり、兄妹(姉弟)で子供を作ったりしたことから、次第に近交劣化(近親交配による劣悪化)が進んでいました。
また、長岡さん個人での保存には限界がありました。そこで1978年(昭和53年)、長岡氏は野間馬のふるさとである今治市で飼育・繁殖を行い、保存をしてほしいと、野間馬4頭(雄1頭、雌3頭)寄贈しました。
これと同時に野間馬保存会が設立され、関係機関、団体、有志各位が集い、地域ぐるみで野間馬を「ふる里の宝」として大切に保存することになりました。
繁殖プロジェクトの始動
こうして野間馬の絶滅を防ぐため、本格的な繁殖プロジェクトが始まりました。保存活動は地域社会の協力を得ながら進められ、野間馬の繁殖を軸とした飼育環境の整備が進められていきました。
このプロジェクトを担ったのは、牛の飼育経験が豊富な新開豊(しんがい ゆたか)・美代香(みよか)夫妻でした。夫妻は、乃万地区の野間集落に開設された「野間馬放牧場」で寄贈された4頭に穀類の給餌を抑え、良質な粗飼料と放牧を取り入れる方法を実践し、繁殖の安定化を目指しました。
しかし、繁殖は順調には進みませんでした。誕生する子馬は雌ばかりで、一時は血統維持が困難になり、絶滅の危機が再び懸念されました。
そんな状況の中、1983年(昭和58年)に待望の雄馬2頭が誕生。 これにより繁殖が軌道に乗り、野間馬の存続に希望が見え始めます。
その後の繁殖は安定し、1987年(昭和62年)には個体数が24頭に増加。 ついに絶滅の危機を脱した野間馬は、保存活動の継続により、その存在を未来へとつないでいくことができました。
「野間馬ハイランド」
1989年(平成元年)には飼養頭数が28頭に増加し、当初の放牧場が手狭になりました。
そこで、野間馬の有効活用と飼育環境の改善を目的として、今治市の中心部から北西約5kmの国道196号線沿いの丘陵地に新たな敷地を整備し、「のまうまハイランド」として開園しました。
野間馬の正式な認定と未来への展望
野間馬の保存活動が進む中で、その価値が正式に認められる動きも加速しました。
1984年(昭和59年)、日本馬事協会が「野間馬に関する学術調査」を実施。この調査により、野間馬が日本の在来馬としての特徴を備えていることが正式に認められ、翌1985年(昭和60年)には全国で8番目の日本在来馬として認定されました。
さらに、1988年(昭和63年)には、野間馬が今治市の指定文化財(天然記念物)に認定。これにより、自治体としても保存と繁殖活動を支援する体制が整い、野間馬の保護は地域の重要な取り組みとして確立されました。
その後、1992年(平成4年)には飼育されている全頭(38頭)を対象にDNA鑑定を実施。親子識別による血統管理が確立され、2002年(平成14年)にはDNA鑑定を活用した血統管理システムの運用が開始されました。これにより、遺伝的多様性を確保しながら計画的な繁殖が可能となり、長期的な視点での保存が進められるようになりました。
また、2001年(平成13年)には日本馬事協会が野間馬を全国で4番目に種馬登録の対象として認定。 これにより、繁殖・飼育の基準が明確化され、野間馬の保存活動はさらに強化されることとなりました。
未来へ受け継がれる野間馬
今では、今治市の「のまうまハイランド」だけでなく、とべ動物園をはじめ、国内各地の動物園で飼育され、種の保存だけでなく、教育普及や観光振興の一環としても活用されています。
訪れた人々は、愛らしい野間馬と触れ合いながら、日本の在来馬としての貴重な歴史や文化を学ぶことができます。
かつて絶滅の危機に瀕していた野間馬は、多くの人々の努力によって守られ、今もなお、その魅力を伝え続けています。これからも、野間馬は日本の在来馬として大切に受け継がれていくことでしょう。