今治市民がつくり上げた「おんまく」の誕生と発展の物語
「おんまく」は、愛媛県今治市で毎年8月の第1土曜日と日曜日に開催される、市内最大の夏祭りです。
今治港周辺や商店街一帯を会場に、踊りや花火大会などさまざまなイベントが行われ、市民はもちろん、県内外からもたくさんの人が訪れます。
「おんまく」という言葉は、今治地方の方言で「めちゃくちゃ」「思いっきり」「精いっぱい」という意味があります。
この名前には、参加するすべての人が思いっきり楽しみ、今治全体が一つになろうという願いが込められています。
おんまくは比較的新しいお祭りで、1998年(平成10年)に始まりました。
しかしその背景には、今治のまちの発展とともに歩んできた二つの祭り。
港町の誇りを受け継いだ「みなと祭り」と、若者たちのエネルギーが生んだ「バリ祭」がありました。
これらの流れがひとつになって、市民みんながつくる祭りとして生まれたのが「おんまく」なのです。
港町の誇り『みなと祭り』
今治の「おんまく」が生まれるずっと前、市民にとって夏といえば「みなと祭り」でした。
この祭りは昭和30年(1955年)、今治商工会議所が中心となって始まったもので、港町・今治の発展を支えてきた港への感謝の気持ちを込めて開催されたのが始まりです。
当時の商工会議所のメンバーは、商店街の店主が多く、地域全体で協力して祭りを盛り上げていました。
開会式では、今治港が四国で初めての開港場となったことを祝う「港湾感謝祭」が行われ、港の神様に感謝を捧げる厳かな雰囲気の中で祭りがスタートしました。
この港湾感謝祭は、後におんまくへと引き継がれ、今も大切な行事として残っています。
みなと祭りの時代の今治は、まさに「港町」でした。
昭和40年ごろまでは、港の方が駅よりもにぎやかで、朝になると周辺の島々から約60隻もの渡海船が港に集まり、島の人たちは日用品や食料品を買いに商店街へやってきていました。
昼過ぎにはそれぞれの島へ帰るという光景が、毎日のように見られました。
舞台は商店街!仮装と笑顔があふれる日
祭りでは、商店街協同組合が警備に協力したり、地域ごとに仮装行列を出したりしていました。
中でも本町の商店街では、八幡船をかたどった山車をつくり、その上で七福神の姿に扮して練り歩くなど、ユニークな出し物が人気を集めました。
芝居小屋「今治劇場」から衣装やかつらを借りて仮装行列に参加したという話も残っています。
昭和34年ごろには商店街にアーケードができ、昭和63年にはどんどび交差点まで完成して「今治銀座」と呼ばれるようになります。
商店街では朝市や夜市を開き、みなと祭りと並んで人々が集うにぎわいの中心でした。
当時、今治市内には秋祭りがほとんどなかったため、夏の「みなと祭り」は市民にとって特別な行事だったのです。
吹揚神社から受け継がれた祭りの心
もともと今治では、吹揚神社の例祭が旧暦の8月14日・15日に行われていました。
しかし、時期のずれが商売に影響するとの理由から、大正時代に春祭りへと移行します。
その結果、秋に市全体の大きな祭りがなくなり、代わって「みなと祭り」が市民の心をつなぐ役割を担うようになりました。
こうして「みなと祭り」は、港町の誇りと感謝を表す祭りとして、平成9年(1997年)まで長く続きました。
何度か台風などで中止になった年もありましたが、40年以上にわたり今治の夏を彩り、市民に愛され続けたのです。
若者の情熱から生まれた『バリ祭』
昭和の終わりから平成にかけて、今治では新しい時代を見据えた若者たちの動きが始まっていました。
その中心となったのが、今治青年会議所(JC)です。彼らは、しまなみ海道の開通を見据え、「架橋後の今治をどう発展させていくか」をテーマに町おこしの企画を立てました。
「ホッと今治」 海から始まった挑戦
最初の取り組みは、昭和63年(1988年)に始まった「ホッと今治」。
白い砂浜と青い海が広がる唐子浜を舞台に、ビーチバレーボール大会とジェットスキー大会を開催し、今治の美しい海と島なみを全国に発信しました。
平成元年からは浜辺でコンサートも行われ、夏の若者イベントとしてにぎわいました。
「瀬戸内音楽祭」瀬戸内に響く音楽
さらに平成3年(1991年)には、広域行政事務組合「ふるさと創成基金」から支援を受け、「瀬戸内音楽祭」を開催します。
海の上に浮かべたポンツーン(台船)のステージで行われた音楽イベントは大きな話題となり、今治の海と音楽が結びついた新しい観光イベントとして注目を集めました。
「バリ祭」タオルと太鼓が生んだ今治流
この流れの中から、平成5年(1993年)に誕生したのが「バリ祭」です。
今治青年会議所が中心となって、「商業中心のみなと祭りとは違う、市民が主役の踊りの祭りをつくろう」と立ち上がりました。
最初は「プレバリ祭」として開催され、踊りの基本曲を収録したCDを5,000枚配布し、市民に踊りへの参加を呼びかけました。
踊りのルールはとてもシンプルです。
今治産のタオルを身に着けること、そして水軍太鼓をイメージしたバチを持つこと。
振り付けや衣装は自由で、それぞれのチーム(連)が個性を競い合いました。
初回は28連ほどの参加でしたが、平成9年(1997年)には100連を超える規模に成長し、今治の夏を象徴する一大イベントとなりました。
また、地場産業の今治タオルを生かしたファッションショー「バリコレクション(バリコレ)」も誕生。
パリコレにちなんだこの企画は、若者たちの遊び心と地域のものづくり文化を融合させたユニークな催しとして人気を集めました。
バリ祭は、みなと祭りと競い合うものではなく、「違う形で今治を盛り上げたい」という思いから生まれました。
自由な発想と若者の情熱が支えたこの祭りは、のちに市民全体の力を結集した「おんまく」へとつながっていく大切な一歩となったのです。
新しい時代の祭りへ!二つの祭りの融合
平成に入るころ、今治のまちでは大きな変化が訪れていました。港町としてのにぎわいを支えてきた「みなと祭り」と、若者の創造力があふれる「バリ祭」。
それぞれに魅力のある二つの祭りでしたが、時代の流れとともに、市民全体で一体感を感じられる新しい形を求める声が高まっていきました。
平成9年(1997年)、今治商工会議所と今治市は「これからの時代にふさわしい市民の祭りを」と考え、二つの祭りをひとつにまとめる方針を打ち出します。
とはいえ、どちらかの祭りを吸収するのではなく、まったく新しい組織をつくって新しい祭りを始めるという考え方がとられました。
こうして商工会議所内に「祭り活性委員会」が設立され、そこに市内のさまざまな団体や市民の代表が参加して、今治全体の祭りをつくる準備が始まりました。
家族が集うお盆に合わせて
開催時期についても議論がありました。
みなと祭りは10月、バリ祭は7月に行われていましたが、「せっかく一緒にやるなら、お盆の帰省シーズンに合わせて、市外に出ている家族や友人にも楽しんでもらえる時期にしよう」という意見が出され、8月上旬に開催することが決まります。
これが、現在の「おんまく」の開催時期の始まりです。
今治弁「おんまく」に込められた思い
また、名前についても意見が分かれました。40年以上続いた「みなと祭り」という名前を残してはどうかという声もありましたが、「せっかく新しい祭りを始めるなら、すべてを新しくしよう」という方向で話がまとまりました。
市民からの公募を行い、選定委員会で慎重に検討を重ねた結果、今治弁で「めちゃくちゃ」「思いっきり」を意味する『おんまく』という名前が選ばれたのです。
発表当初は、「おんまく」という言葉に驚いた市民も多く、苦情の電話も寄せられたといいます。
しかし次第に名前が浸透し、市が主催していた「今治の流行語大賞」にも選ばれるほど定着しました。
こうして、長年親しまれた港町の祭りと、若者の踊りの祭りがひとつになり、市民全体でつくる新しい時代の祭り「おんまく」が誕生したのです。
名称の誕生!方言が生んだ「おんまく」
新しい祭りの名前を決めるにあたって、今治商工会議所の「祭り活性委員会」は、市民からの公募を行いました。
これまでの「みなと祭り」や「バリ祭」とは異なり、どちらか一方に偏るのではなく、今治全体を象徴する新しい言葉が求められたのです。
選定委員会では数多くの候補が寄せられ、何度も議論が重ねられました。
40年以上続いた「みなと祭り」という名前を残してはどうかという声もありましたが、「せっかく新しい祭りを始めるのなら、すべてを新しくしよう」という方向で意見がまとまりました。
最終的に選ばれたのが、今治地方の方言で「めちゃくちゃ」「思いっきり」「とてもすごい」といった意味を持つ『おんまく』という言葉でした。
この言葉は古くから地元で親しまれてきた表現でありながら、語感の勢いと明るさがあり、まさに「思いっきり楽しむ」祭りの名前にぴったりでした。
そして何より、市民が自分たちの言葉で祭りを名づけたことには、「市民みんなでつくる祭り」という新しい理念が込められていたのです。
h4
発表当初、「おんまく」という言葉に驚く市民も多く、「変な名前だ」「ふざけているように聞こえる」といった意見が寄せられました。
商工会議所には苦情の電話も相次ぎ、長年親しまれた「みなと祭り」という名称を惜しむ声も少なくありませんでした。
しかし、祭りの準備が進むにつれて、「おんまく」という言葉の持つエネルギーが不思議とまちに浸透していきました。
市民のあいだではいつの間にか「おんまく頑張ろう!」「おんまく楽しもう!」という言葉が交わされ、町全体がひとつの空気でつながっていったのです。
そして平成10年(1998年)、ついに新しい祭り「おんまく」が開催されました
「第一回おんまく(平成10年)」平成10年に始まった3日間 市民が主役の祭り
1998年(平成10年)、ついに今治市民の手による新しい祭り「おんまく」が誕生しました。
それはまさに「みなと祭り」と「バリ祭」がひとつになり、商店街や地域団体、学校、企業、市民グループなど、まち全体が協力して作り上げる“市民総参加の祭り”でした。
第一回おんまくは、3日間の構成で行われました。
「1日目」前夜祭に高まる期待と市民の熱気
1日目は前夜祭。
会場となった今治市公会堂では、踊りの代表連によるステージ披露やイベント紹介が行われました。
会場には多くの市民が集まり、翌日の本番に向けて期待が一気に高まります。
「いよいよ新しいお祭りが始まるんだ」という空気が、まち全体に広がっていきました。
「2日目」広小路が巨大なダンスステージに!
2日目は祭りの中心となる「踊りの祭典」です。
午後4時からは若者たちによる「ダンスバリサイ」、午後7時からは自治会や町内会による「盆踊り」が始まりました。
会場となった広小路通りは全面通行止めとなり、全長数百メートルにわたって踊りの列が続きました。
約6,000人もの踊り手が音楽に合わせて踊りながら進み、その熱気に包まれた通りはまるで巨大なダンスステージのようでした。
「ダンスバリサイ」はコンテスト形式で行われ、各連が個性豊かな演出を披露。衣装やフォーメーション、振り付けなど、それぞれの創意工夫が光りました。
一方、「盆踊り」は審査を設けず、世代を問わず誰でも自由に参加できる、まさに“市民の輪”でした。
そして夜のクライマックスでは、ダンスバリサイの踊り手も盆踊りの参加者も観客も入り混じって踊る「総踊り」が行われました。
広小路いっぱいに踊りの輪が広がり、音楽と歓声がひとつになった瞬間。
こうして、今治の新しい夏の姿が生まれたのです。
「3日目」港の夜空を彩るおんまく花火大会
3日目の夜、祭りの締めくくりを飾るのは「おんまく花火大会」。
今治港の夜空を背景に、約1万発の花火が次々と打ち上げられました。
海辺に集まった観客からは歓声があがり、海面には花火の光が反射して幻想的な光景が広がりました。
港町の伝統と、若者文化のエネルギーがひとつに溶け合う。
それはまさに、「おんまく」という言葉に込められた“思いっきり”を体現する瞬間でした。
“おんまく”が今治の夏の代名詞に!
第一回おんまくは、市民の予想を超える盛り上がりを見せ、観客動員数はなんと11万人。
市民が自分たちの力で作り上げた“新しい今治の祭り”として大きな成功を収めました。
「おんまく」という言葉は今治の夏を象徴するキーワードとなり、翌年には市が主催する「今治の流行語大賞」にも選ばれるほど市民に定着しました。
街のあちこちで「来年のおんまくも頑張ろう!」という声が聞かれるようになり、祭りが人々の合言葉として今治の日常に溶け込んでいったのです。
「おんまく」がもたらした変化と絆
「おんまく」が始まってから、今治のまちは大きく変わりました。
それは、単なる新しいお祭りの誕生ではなく、市民一人ひとりの心に“つながり”を生み出した出来事だったのです。
もともと「みなと祭り」は商店街と港を中心とした行事であり、「バリ祭」は若者の情熱を軸にした踊りの祭りでした。
その二つが一つになった「おんまく」では、世代や地域、立場の垣根を越えて、今治全体が一体となる新しい夏の風景が生まれました。
踊りがつなぐ世代の輪
特に大きな変化は、「踊り」を通じた世代間の交流でした。
それまで「若者はダンスバリサイ、年配者は盆踊り」と分かれていた練習も、「おんまく」をきっかけに自然と混ざり合うようになります。
同じ会場で時間をずらして練習するうちに、互いの踊りを見て覚え合い、やがて年配の人もダンスバリサイを踊り、若者も盆踊りを楽しむようになりました。
若い人たちが年配の方に振り付けを教えたり、逆に昔ながらの盆踊りを一緒に踊ったり。
踊りの場は、世代を超えた“出会いと交流の場”になっていったのです。
市民の手でつくる祭り
「おんまく」は、市民自身が主役となって作り上げる祭りでもありました。
実行委員会には、商店街、青年会議所、企業、学校、自治会などの代表が加わり、企画から運営までを自らの手で担いました。
踊り手として舞台に立つ人、スタッフとして支える人、観客として声援を送る人。
それぞれの立場は違っても、同じ時間を共有し、一緒に祭りをつくり上げる喜びが「おんまく」にはありました。
広小路通りに広がった“市民のまち”
そしてもう一つ、象徴的な変化があります。
それが、広小路通りの通行止めが実現したことです。
かつては交通量の多さから不可能と言われていたこの取り組みが、市民の声と協力によって初めて実現しました。
車の通りを止め、通りいっぱいに人々が踊り、笑い、拍手を送る。
その風景は、今治がひとつになった瞬間として多くの人の記憶に残りました。
当時、実行委員の一人はこう振り返っています。
「広小路を通行止めにして、6,000人が一斉に踊っている光景を見たとき、胸が熱くなりました。みなと祭りとバリ祭りが別々だった時代にはできなかったことが、“おんまく”という形でようやく実現したんです。」
絆が生まれた祭り
こうして「おんまく」は、世代や地域を超えて人々を結びつける“絆の祭り”へと成長しました。
市民が支え合い、まちを誇りに思う心を取り戻したこの祭りは、今では今治の文化そのものとなっています。
港の歴史を受け継ぎながら、若者と年配者が手を取り合って踊る――。
その光景こそが、まさに「おんまく」の原点であり、今も変わらず今治の夏を彩り続けているのです。
港の歴史を受け継ぎながら、若者と年配者が手を取り合って踊る――その光景こそが、まさに「おんまく」の原点だったのです。
現代のおんまく ― 未来へ続く市民文化
こうして誕生した「おんまく」は、今では今治の夏を象徴する一大イベントとして定着しました。
初回の開催では、前夜祭・踊り・花火の3日間構成で行われていましたが、来場者の増加や運営体制の整備、参加者の負担軽減などを踏まえ、現在は毎年8月の第一土曜と日曜の2日間の開催となっています。
しかし、開催期間が短くなっても、祭りの熱気はむしろ一層高まりました。
内容を凝縮したことで、二日間に「踊り・音楽・食・花火」が集約され、まち全体が“思いっきり楽しむ二日間”として一体感に包まれるようになったのです。
まちをひとつにする「土のセレモニー」
おんまくの幕開けを飾るのは、今治市全16校区が参加する「土のセレモニー」です。
この行事は、地域の人々が持ち寄った“ふるさとの土”を、記念植樹された楠の根元に集めるというもの。
そこには、地域すべての世代が一つになり、今治の未来を育てていこうという願いが込められています。
子どもたちが笑顔で土を運び入れる姿は象徴的で、「おんまく」が単なる祭りではなく、世代を超えて文化を受け継ぐ行事であることを感じさせます。
熱狂のメインステージ!!広小路がダンス会場に!
おんまくの最大の魅力は、何といっても「踊り」です。
祭りのメイン会場となるのは、今治市役所前から港へと続くメインストリート「広小路通り」。
この道路が二日間にわたって全面通行止めとなり、巨大なダンスステージへと姿を変えます。
ここで披露されるのが、今治を代表する三つの踊り。
「ダンスバリサイ」、「今治お祭り音頭」、そして「木山音頭」です。
- ダンスバリ
1993年のプレバリ祭で「暑い夏をおどりまくろう」というコンセプトのもとに生まれた今治のオリジナルダンスです。エスニックなリズムとメロディが特徴で、その躍動感あふれるパフォーマンスは観客を魅了します。 - 今治お祭り音頭
1980年に市制60周年を記念して市民公募により作られた盆踊りです。シンプルで親しみやすいメロディが世代を超えて愛されており、市民参加型の踊りとして毎年多くの参加者がいます。 - 木山音頭
約400年前、藤堂高虎公による今治城の築城の際に、土木工事をまかされた木山六之丞(きやまろくのじょう)が、地盤を突き固める作業員の士気を高めるために考え出した唄で、今では今治の夏を彩る伝統的な盆踊りとして受け継がれています。
これら、三つの踊りが一緒に踊られる「おんまく」では、今治の歴史が今へとつながれていくことを感じることができます。
伝統と交流
さらに「おんまく」では、今治地方に伝わる継ぎ獅子やしまなみ海道太鼓競演などの伝統芸能が披露され、地域の文化を次世代に伝えています。
また、姉妹都市である尾道市(広島県)や太田市(群馬県)との交流イベントも行われ、地域を越えたつながりが広がっています。
今治の味とともに楽しむ夏の宴
会場周辺には多くの屋台やキッチンカーが並び、B級グルメや地元の味覚を楽しむことができます。
今治ラーメンや焼き鳥、焼豚玉子飯、地元の柑橘を使ったスイーツなど、訪れる人々の舌を楽しませます。
また地元産のクラフトビールや日本酒も提供され、おんまくの夜は、踊りと音楽、そして今治の味を楽しむ“夏の宴”としてにぎわいます。
中四国最大級規模を誇る花火
そして2日目の夜、祭りはクライマックス「おんまく花火大会」を迎えます。
中四国最大級規模を誇る花火が、瀬戸内海と今治城を背景に打ち上げられます。
海に映る光の反射が幻想的で、まち全体が花火の光に包まれる光景は、今治の夏の風物詩となっています。
市民がつくる、市民の祭り
また、「おんまく」は単なる観光イベントにとどまらず、地域の絆を深める市民文化としての役割も担っています。
地域の学校では、児童や生徒が「おんまく踊り」を練習し、授業の一環として地域の祭り文化を学ぶ取り組みも行われています。
地元企業やボランティア団体も協力し、交通整理や会場運営、清掃活動などに積極的に参加しています。
こうした連携の積み重ねが、今治というまちを“顔の見えるコミュニティ”へと変えていったのです。
今治の心をひとつにする夏
「おんまく」は、今治のまちがひとつになる夏。
太鼓の音が響き、笑顔があふれ、人と人とがつながっていく。
そこには、港町としての誇りや、受け継がれてきた伝統、そして新しい世代の情熱が息づいています。
過去と現在が重なり合うその瞬間、今治というまちは、確かにひとつになります。
この夏は「おんまく」で、今治が歩んできた歴史と魅力を、ぜひ全身で感じてみてください。