今治市の中心部を流れる川「蒼社川(そうじゃがわ)」。
平安時代初期「総社川」と呼ばれていたこの川は、昭和の中頃までは頻繁に氾濫を繰り返し、「暴れ川」として恐れられていました。
その繰り返される洪水被害により「人取川」とも揶揄されるようになりました。この名称は、蒼社川の氾濫によって、田畑や家屋が流され、時には尊い人命さえも奪われるという恐怖を反映したものでした。
当時の今治の人々にとって、蒼社川の氾濫はまさに自然災害の象徴であり、災厄そのものでした。特に雨季になると川の水位が急激に上昇し、堤防が決壊しやすく、地域に甚大な被害をもたらしていました。
このため、蒼社川は地域住民にとって恐ろしい存在となり、その災害を防ぐための治水対策が長年の課題となっていました。
今治の歴代藩主たちはこの川の改修に取り組んできましたが、蒼社川の上流が花崗岩の風化地帯であることから、洪水とともに大量の土砂が流れ込み、河床が年々高くなるため、大規模な洪水が繰り返されていました。
今回は1200年の時をかけた、今治の治水の歴史を振り返りたいと思います。
弘仁6年(815年)「弘法大師による治水と泰山寺の創建」
弘仁6年、弘法大師(空海)が今治の地を訪れた際、蒼社川は度重なる豪雨により頻繁に氾濫し、村人たちに大きな被害をもたらしていました。
特に梅雨の時期には急勾配の地形によって川の水が一気に流れ込み、川沿いの集落を水浸しにすることが多かったのです。弘法大師はこの状況に心を痛め、村人たちを指導して堤防を築き、川の流れを抑えるための工事を指揮しました。
さらに、弘法大師は仏教の秘法である「土砂加持」を行い、災害の鎮静を祈りました。この儀式は、光明真言によって加持した土砂を用いて人々の安全や平和を祈願するものであり、古くから伝えられた祈祷です。
蒼社川の氾濫が鎮まるまで、弘法大師は何度も土砂加持を繰り返し、その最中に延命地蔵菩薩が現れ、治水祈願が成就したと伝えられています。これをきっかけに、弘法大師は延命地蔵菩薩を本尊として泰山寺を創建し、泰山寺は、川の氾濫を鎮めた象徴として今も深く信仰され続けています。
しかし、蒼社川の氾濫はその後も繰り返されることになります。
慶長7年(1602年)「藤堂高虎と蒼社川の治水
慶長7年(1602年)、藤堂高虎が今治藩の初代藩主として着任し、今治城の築城に着手しました。
今治は、地理的に海に面し、蒼社川(当時は総社川)に隣接していたため、戦略的にも重要な土地でしたが、治水の観点では非常に課題の多い地域でもありました。高虎は築城の名手として知られ、城の設計だけでなく、城下町全体の安全対策も考慮していました。
蒼社川の上流は、花崗岩が風化しやすい地帯であり、そのため土砂が大量に川へ流れ込み、川床が年々高くなっていく問題がありました。この現象は、豪雨のたびに川の氾濫を引き起こし、洪水が頻発していたのです。
特に平野部に住む人々や、農業を営む村々にとって、蒼社川の氾濫は重大な脅威であり、これに対する対策は急務とされていました。
築城名人としても知られる藤堂高虎であれば、このような地理的なリスクを理解し、城下町と城を洪水から守るために、蒼社川周辺の改修にも意識を向けたと考えられます。
記録には、高虎が堤防の強化や川の流れの修正など、具体的な治水対策を行った明確な資料は残されていませんが、築城における防御的な設計や、水を使った「海城」の特徴から、自然災害への対策も同時に行っていたことは容易に予測できます。
また、城下町の設計には、堀や溝で洪水を防ぐ構造が取り入れられており、西端に竹藪を配置するなど、自然を利用した防御策も見られます。これらの対策が、今治城とその周辺地域を蒼社川の氾濫から守るための一環だったと考えられます。
高虎が築いた防御的な城と町の構造は、その後の藩主たちにも引き継がれ、江戸時代を通じて今治藩の治水対策の基盤となりました。
寛永12年(1635年)「久松定房による治水事業の開始」
寛永12年(1635年)、久松定房(ひさまつ さだふさ)は今治藩の藩主として今治城に入部しました。
定房は、濃尾平野の三川(木曽川、長良川、揖斐川)の治水で培った経験を活かし、今治の治水事業に取り組むことになりました。
当時の蒼社川は急勾配と花崗岩の風化土で覆われた山地から土砂が流れ込みやすく、頻繁に洪水が発生していました。こうした状況に対処するため、久松定房は堤防の強化や川の流路の安定化を進めました。
定房の治水事業は、地元の農民や村人を動員して堤防を建設し、浚渫(しゅんせつ)という川ざらえ作業を行わせるという大規模なものでした。川ざらえは川底に堆積した土砂を取り除き、洪水のリスクを軽減するための作業のことです。
現代のような重機がなかった時代、人力による作業は困難を極めましたが、久松定房の治水政策は今治地域に安定をもたらし、経済的な発展に寄与しました。
享保7年(1722年)「今治藩の危機と川ざらえの開始」
享保7年(1722年)6月、蒼社川の堤防が大規模に決壊し、今治藩は深刻な危機に直面しました。この時の洪水は今治城の三ノ丸の堀にまで達し、城下町全体に甚大な被害をもたらしたのです。
村々の田畑は水に浸かり、家屋やインフラは壊滅的な打撃を受け、地域住民の生活は脅かされました。この災害を通じて、今治藩は蒼社川の治水対策が急務であることを痛感することとなり、住民にとっても洪水リスクの重大さが改めて浮き彫りになりました。
そして今治藩は新たな治水対策に乗り出します。その中心となったのが大規模な「川ざらえ(宗門掘)」の実施でした。
享保9年(1724年)の4月から始まったこの宗門掘は、毎年春に3日間行われ、郡奉行や勘定奉行の厳しい監督のもとで進められました。各村からは15歳から60歳までの男子が2人1組で動員され、指定された場所で川底に堆積した土砂を取り除く厳しい作業が行われました。
さらに元文元年(1736年)の4月には、地方から2,460人、 町の中からも1,000人が動員され、堤防のさらなる強化と大規模な宗門掘が実施されました。
また、この宗門掘は、寛永3年(1750年)の4月に頓田川でも実施され、今治地域全体の治水意識を高め、川の氾濫を防ぐための重要な対策として定着していきました。
宝暦元年(1751年)「宝暦の大規模改修工事」
第四代藩主久松定基(ひさまつ さだもと)は、宝暦元年(1751年)に蒼社川の改修と付け替えを決断しました。この工事は13年の歳月をかけて行われ、川の流路を直線化する大規模な事業でした。
工事を指揮したのは、勘定目付を務めていた河上安固(かわかみ やすもと)です。安固は土木工事に精通しており、特に蒼社川の治水問題に対して強い関心を持っていました。
当時の蒼社川は、現在とは異なり、玉川町から日高の片山、馬越を経て浅川方面に大きく曲がって海に注いでいました。この曲がりくねった川筋が、洪水の主な原因とされていました。
安固は毎日、鳥生にある自宅から権現山に登り、蒼社川を観察し、夜も川の音に耳を傾けるほど、治水に情熱を注いでいました。そして考えを巡らせた結果、川筋を真っ直ぐに付け替えることで洪水を防ぐことができるという結論に達し、藩主に計画を提案しました。
しかし、この計画はあまりにも規模が大きく、当初は許可を得ることができませんでしたが、安固の情熱に心を動かされた藩主は、最終的に安固にすべての工事を任せる決断をしました。
こうして宝暦元年(1751年)に着工されたこの大規模な改修工事では、まず川筋に沿う農民たちを動員し、支流を廃止して川筋を直線化しました。工事当初、農民たちは安固のやり方に反発しましたが、熱意に押されて最終的には協力するようになりました。
さらに、川の付け替えだけでは豪雨時に水が溢れる可能性があるため、堤防のさらに高くして地盤を固めるために松を植えました。また、宗門堀も引き続き毎年春に実施していきました。
しかし、工事が進められている最中の6月、蒼社川は再び決壊しました。この再度の決壊により、計画は再検討されることとなり、安固はさらに改良を加えることを決意しました。安固は洪水の被害を最小限に抑えるため、流路の変更と堤防の強化だけでなく、水門の設計も進め、従来の治水対策をさらに発展させたのです。
こうして13年に及ぶ改修工事を終え、蒼社川は現在のような直線的な川筋へと変わりました。この徹底した治水対策の結果、蒼社川の氾濫は大幅に減少し、地域の安全が確保されました。
安固は蒼社川だけでなく、呑吐桶や鳥生高下浜の唐桶といった他の地域の土木工事にも携わり、その優れた技術を発揮しました。
その功績は称えるため、安固の墓は鳥生公民館の北側に設けられ、「古土居家先祖累代墓」と記されています。墓の左側には、今治市教育委員会や鳥生史談会、鳥生老人会によって建てられた「史跡河上安固之墓」という木碑が立てられ、右側には「河上安固墓所」という石碑も建立されています。
しかし、残念ながらそこまでして治水対策が完全に洪水を防ぐことができたわけではありませんでした。明治時代に入っても、蒼社川やその支流の堤防が度々決壊し、大規模な洪水災害が発生してしまったのです。
明治6年(1873年)「頓田川堤防の決壊」
明治6年(1873年)8月、頓田川の堤防が決壊は頓田川周辺の集落に大きな被害をもたらしました。豪雨が続いた結果、川の水位が急激に上昇し、その圧力に耐え切れず堤防が破壊されたのです。
川の氾濫によって広範囲が浸水し、農地は甚大な被害を受け、多くの家屋が損壊しました。この災害は、村々に深刻な損失を与えたばかりでなく、住民の生活を脅かしました。
明治26年(1893年)「蒼社川の大洪水と復興」
さらに明治26年(1893年)10月11日から降り始めた豪雨は、13日に台風の接近に伴って暴風雨となり、蒼社川流域を襲いました。連日の豪雨と暴風により、蒼社川の堤防は耐え切れず、10月13日に決壊し、大規模な洪水が発生しました。
この災害は、鈍川村を中心に甚大な被害をもたらし、家屋が倒壊し、田畑が流失しました。さらに10月17日には、蒼社川の堤防がさらに14箇所で決壊し、死者や行方不明者が多数にのぼる大災害となりました。
この災害を契機に、地域の治山治水に対する意識が高まりました。特に、共有山組合による植林事業が進められるようになり、森林保全と治水対策が強化されました。
共有山組合は、洪水の原因となる土砂崩れや山崩れを防ぐために、地域の山林に木を植える活動を推進しました。これにより、山林の保護が進み、蒼社川流域の治水効果が高められることとなりました。
しかし決定的な解決には至っていませんでした。
明治34年(1901年)「台風による甚大な被害」
明治34年(1901年)6月に発生した台風は、蒼社川流域に甚大な被害をもたらしました。6月6日から8日にかけて続いた豪雨により、蒼社川の堤防が複数箇所で決壊し、流域の農地や集落が大きな被害を受けました。
特に丸和村と龍岡村では、堤防が大規模に崩壊し、龍岡村では180間余(約327メートル)にわたる堤防が決壊しました。この決壊によって、多くの水田が流失し、橋梁も2か所で流失するなど、地域のインフラが壊滅的な打撃を受けました。
この災害は、蒼社川流域の住民にとって再び治水対策の必要性を痛感させるものでした。度重なる洪水や堤防の決壊は、流域の農業生産に大きな影響を与え、地域経済にとっても深刻な問題となりました。
これにより、今治市や周辺地域での治水対策がさらに加速することになり、堤防の強化や川底の浚渫作業が進められることとなりました。
しかし、当時の技術と資源では、洪水被害を根本的に防ぐことが難しく、依然として蒼社川は「暴れ川」として恐れられていました。このような状況下で、治水対策は一時しのぎに過ぎず、より大規模な抜本的対策が求められていました。
昭和45年「蒼社川流域と玉川ダムの建設」
戦後、今治市を含む蒼社川流域は急速な経済発展と人口増加を経験しました。これに伴い、蒼社川流域で再び洪水リスクが顕著になり、農業用水や都市用水、工業用水の需要も急増しました。
特に、蒼社川沿岸には約1,300ヘクタールの水田があり、この川の水を利用した灌漑が行われていましたが、昭和9年(1934年)の大旱魃をはじめとする水不足が頻発し、地下水の枯渇や水源の確保が深刻な問題となっていました。
こうした状況の中、昭和39年(1964年)、今治市を含む地域が新産業都市に指定されたことで、都市用水の需要がさらに急増しました。
これに対応するため、蒼社川の治水・利水計画が本格的に始動し、抜本的な解決策として玉川ダムの建設が決定しました。
昭和45年(1970年)に玉川ダムの工事が着工しましたが、その建設の途上でも自然災害は避けられませんでした。
昭和47年「ダム建設途中の氾濫」
昭和47年(1972年)9月8日、今治市は集中豪雨に見舞われ、蒼社川、浅川、龍登川が氾濫しました。この災害では、重軽傷者8人、家屋の全半壊14戸、床上浸水972戸、床下浸水5,496戸、田畑の流失39ヘクタール、崖崩れ586箇所など、甚大な被害が出ました。
これにより、大西町は災害救助法が適用される事態にまで発展、さらなる治水対策が求められました。
昭和53年「玉川ダムの完成」
昭和53年(1978年)に、ついに玉川ダムが完成しました。ダムは蒼社川の上流に位置し、貯水能力を持つことで川の水位を調整し、下流域の洪水リスクを効果的に軽減しました。
また、ダムに貯えられた水は、農業用水や飲料水として利用され、地域の水資源の安定化に大きく寄与しました。特に工業の発展に伴う都市用水・工業用水の需要増加に応え、今治市の産業発展を支える重要なインフラとなっています。
玉川ダム完成と蒼社川の洪水リスクの軽減
玉川ダム完成以降、蒼社川流域での洪水リスクは大幅に軽減され、決壊寸前までいくことはあったものの、堤防の決壊には至っていません(2024年8月現在)。しかし、この安定した状況にもかかわらず、油断は禁物です。
近年、気候変動の影響で極端な気象現象が増加しており、今治市でも豪雨や台風による被害が発生しているのです。
例えば、2018年の西日本豪雨では、今治市も豪雨による土砂災害や浸水被害に見舞われ、地域住民に大きな影響を及ぼしました。このような経験から、再び大規模な災害が発生する可能性が現実のものとなっています。
そのため、地域住民や関係者は引き続き防災意識を高く保ち、油断しないことが重要です。豪雨時には、早めの避難行動を心がけ、日頃から防災グッズの準備や避難経路の確認を行っておくことが大切です。
これらの備えは、命を守るための最も重要な手段となります。
過去の経験を教訓に、今後も災害に備え、地域一丸となって安全を守りましょう。