名称に隠された歴史の足跡
今治の名称は、長い歴史の中でいくつもの変遷を経てきました。
その起源はおよそ800年前にさかのぼりますが、実は正式な名称として確立されたのは比較的近代になってからのことです。
それでは、今治という名前がどのようにして誕生し、時代の流れの中でどのように姿を変えていったのか、一緒にその歴史の謎をひも解いてみましょう。
古代の「府中」と「越智郡」
その昔、今治の中心地域は、「越智郡」の一部で、「日吉」や「立花郷」といった地域に属していて、当時の今治エリアは「府中」と呼ばれていました。
府中という名称は、当時、国府が設置されたことに由来しており、この場所が行政や政治の中心地であったことを示しています。
「府中(ふちゅう)」という名称は、昔の日本において特定の行政機関が置かれた場所、つまり国府が設置された地域を指します。国府は、律令制に基づく地方行政の中枢機関であり、各国の政務や司法を担当していました。
そのため、府中という名前は、国府がある場所、すなわちその地域の政治や行政の中心地を意味していたのです。
文献上の「今治」
「今治」という名称が初めて文献に登場したのは、建治二年(1276年)頃のことです。
当時、鎌倉時代に活躍した東大寺学僧「凝然大徳(ぎょうねんだいとく)」が記した消息文の中に、「今治」や「今治津」という地名が確認されています。
凝然大徳は、東大寺戒壇院の長者を務めた高名な僧侶で、その消息文は宗教的な内容だけでなく、地域社会や地名に関する情報も含まれており、今治の名がこの時期にすでに使われていたことを示しています。
さらに、凝然がまとめた『新居系図』という中世の系図にも「今治孝清」という人物名が見られ、この時代には地域内で「今治」という名称が広く用いられていたことが裏付けられます。
これらの文献によって、今治という名称は中世にはすでに確立されており、歴史的な地名として地域社会に定着していたことがわかります。
中世の多様な呼称
中世においては、現在の今治を指す名前としていくつかの異なる表記が存在していました。
一遍聖絵に見える「今針」と「元津」
鎌倉時代に伊予国で生まれた一遍上人(一遍智真)の生涯と事績を描いた絵巻物『一遍聖絵(いっぺんひじりえ)』には、「今針(いまはり)」および「元津(もとつ)」という地名が記されています。
この『一遍聖絵』は、鎌倉末期に制作された大規模な絵巻で、一遍の遊行の足跡を克明に描いた貴重な史料です。
ここに見える「元津」は「元の津(みなと)」を意味すると考えられ、古くから港として栄えた地域を指したものと推定されています。
『太平記』と中世の「今張」表記
南北朝時代(14世紀)の政治的・軍事的事件を記した軍記物語『太平記』では、「今張(いまはる)」という表記が用いられています。
この「張」の字は音を表す当て字とみられ、「いまはり」あるいは「いまばり」という地名音に対応したものです。
『太平記』のような軍記では、語音を重視した表記が採用される傾向があり、当時の地名がまだ定型化していなかったことをうかがわせます。
厳島神社神官の記録と海の今治
さらに、明応九年(1500年)の安芸厳島神社神官による手記には、「イマハリノマトバト海賊」と記されており、「イマハリの的場と海賊」という意味を持つ表現として伝わります。
この記述は、当時の今治が海上交通の要衝であり、水軍勢力と深く関わる地域であったことを示すものです。港町としての今治の性格がすでに明確であったことが読み取れます。
多様な表記が語る中世の今治
これらの史料からわかるように、中世の今治周辺では、「今針(いまはり)」「今張(いまはる)」「今治(いまばり)」といった複数の表記が並存していました。
この表記の揺れは、当時の日本語音韻における「ハ行転呼」(は→ば/ぱ への変化)や、写本ごとの当て字の違いに起因すると考えられます。
また、宗教絵巻や軍記、神職の日記といった文書の性格の違いも、表記の多様化を生んだ要因の一つでした。
「今治」という地名は、鎌倉時代から戦国時代にかけて、少しずつ姿を変えながら受け継がれていったのです。
「今治」の命名は藤堂高虎
藤堂高虎は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将であり、大名としての名声を確立しました。
高虎は若い頃から主君を転々としながらも、軍略や築城技術を磨き、やがて豊臣秀吉に仕えるようになります。
秀吉のもとで数々の城を築くことで築城の名手としての評価を高め、その後、関ヶ原の戦いでは徳川家康の東軍に加わり、勝利に貢献しました。
この戦功が認められ、家康から伊予国東部を領地として与えられたのです。
慶長6年(1601年)、高虎はこの新たな領地の統治を開始し、城下町の整備を進めました。
この時、東部地域は「今張」という名前で呼ばれていましたが、高虎はこれを「今治」と改め、幕府に正式に届け出ました。
この名称変更は、単なる地名の変更ではなく、藤堂高虎が「新たにこの地を治める」という強い意思を反映したものでした。
その意図は、新しい時代の始まりを象徴するために地域の名前を変えることにあったとも考えられます。
今治の名称の変遷と定着
一方、『太平記』で大きく取り上げられた「今張」という地名は、その後もしばらく消えずに使用され続けました。
それは江戸時代に入ってからも続き、『武鑑(ぶかん)』と呼ばれる大名や藩主の官位・役職を記した書物の中でも時折使用されていました。
しかし、江戸時代が進むにつれて「今治」の名称が次第に定着していきました。
『武鑑』の記録によると、「今治」という表記が多く登場するようになったのは宝永年間(1704年~1711年)以降のことです。
それ以前は「今張」との表記が併用されていたものの、18世紀初頭からは「今治」が一般的な表記として認識されるようになりました。
この頃から、今治の名前は国内だけでなく、海外にも広まっていきました。
元文5年(1740年)にオランダで発行された世界地図には「IMABARI」と記載されており、この時点で西洋の地図にも地名が明確に記録されていたことがわかります。
明治時代も続く名称の混乱
明治時代に入ると、1878年に郡区町村編制法が施行され、続いて1889年に市町村制が施行されました。
これにより、日本全国で市町村の設立が進められ、現在の今治市にあたる地域も「今治町」として設立されました。
しかし、この時点では「いまばり」という呼び方はまだ統一されておらず、さまざまな呼称が混用されていました。
明治時代の文献にもこれが反映されており、例えば徳冨蘆花の著作『黒い目と茶色の目』や、明治33年(1900年)に発表された『伊予鉄道唱歌』にも「イマハル」という表記が見られます。
近代の幕開けと「今治」
大正9年(1920年)2月11日、越智郡今治町と隣接する越智郡日吉村が合併し、今治市が誕生しました。
この市制施行は、愛媛県内では松山市に次ぐ二番目の市制施行で、面積は8.01平方キロメートル、人口は32,296人でした。
呼び方の混乱と新聞報道の違い
しかし、今治市が誕生した時点でも、地域の名称の呼び方については混乱が続いていました。
たとえば、当時の地方紙『海南新聞』は「いまばる(今張)」と報じ、松山を拠点とする『愛比賣新報』(のちの『愛媛新報』、通称「ヒメ新」)は「いまばり(今治)」と表記していました。
『海南新聞』は、1876(明治9)年に松山で創刊された「愛媛新聞」を前身とし、翌年に改題された地方紙で、今治や越智郡を中心に地域の出来事を伝えていました。自由党系の論調を持ち、県東部を中心に広く読まれていた新聞です。
一方、『愛比賣新報』は明治14年(1881)に創刊され、文学少年であった正岡子規が漢詩を投稿したことでも知られています。
翌年には廃刊しましたが、その流れを受けて明治21年(1888)に改進党系の『豫讃新報』(のちの『愛媛新報』)が創刊され、県都松山を中心に影響力を持つようになりました。
以後、この『愛媛新報』は通称「ヒメ新」と呼ばれ、『海南新聞』と並ぶ愛媛県の代表的な新聞となりました。
当時の両紙は、政治的立場や編集方針に違いがあり、そうした背景が「いまばり」と「いまばる」という表記の差にも反映されたのかもしれません。
市議会による正式決定
こうした混乱を解消するために、大正9年(1920年)9月8日の市議会で、今治史談会の調査資料をもとに審議が行われ、「いまばり(今治)」という呼称を正式な公称とすることが決定されました。
これにより、現在の「いまばり」という読み方が確立し、長い表記の揺れに終止符が打たれたのです。
未来へ紡がれる800年の物語
このように、時代を越えて受け継がれてきた「いまばり(今治)」の名は、今もこの地に深く根付いています。
800年にわたる歴史とともに、この名前は新たな物語を紡ぎ続け、未来へと引き継がれながら、人々の記憶の中にいつまでも残り続けていくことでしょう。