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古くから信仰を集めてきた神社の由緒と、その土地に根付いた文化を紹介。

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TEMPLE寺院の歴史を知る

嘯月院(今治市・日高地区)

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「嘯月院(しょうげついん)」は、別宮村(現・今治市別宮町)の人々との深い信仰と結びつきの中で育まれてきた寺院です。

現在は無住となっていますが、檀家による清掃や維持が欠かさず行われており、境内は今も静かで落ち着いた雰囲気を保ち続けています。

「嘯月庵」と越智玉澄公

嘯月院の由来は古く、奈良時代の慶雲二年(705年)にさかのぼると伝えられています。

この年、伊予の豪族であった越智玉澄(おちのたますみ)公が、別名村のこの地に、自らの念持仏である薬師如来を安置する堂宇を建立し、「嘯月庵(しょうげつあん)」と号したとされます。

越智玉澄の出自

越智玉澄は、古代伊予を拠点とした有力豪族・越智氏の一族にあたります。

越智氏は大山祇神(おおやまづみのかみ)を祖神と仰ぎ、伊予大三島に大山祇神社を創祀した氏族で、古くから「神の末裔」として地方支配の権威を持っていました。

ヤマト王権からは伊予国造(いよのくにのみやつこ)に任じられ、行政・軍事・祭祀を一体的に担うことで、伊予国における中核的な支配氏族として地位を確立しました。

古記録には「乎致」「小千」「子致」などの表記が見られ、玉澄自身も「乎致宿祢玉澄(おちのすくねたますみ)」と記されています。

この「宿祢(すくね)」は高位の氏族に与えられる称号であり、玉澄が豪族として高い地位にあったことを示しています。

父・越智守興(もりおき)は、七世紀後半の国際戦争「白村江の戦い(663年)」に伊予水軍を率いて参戦した人物で、日本・百済連合軍の一翼を担ったと伝えられています。

敗戦によって捕虜となったものの、のちに帰国し、再び伊予で勢力を回復しました。

玉澄はその系譜を継ぎ、越智氏の後継者として伊予国内における地位を確立しました。

宇摩大領(うまだいりょう)に任じられ、現在の四国中央市一帯にあたる宇摩郡を統治したと伝えられています。

大領は郡司層の筆頭にあたり、地方の政治・軍事・祭祀を総べる要職で、玉澄が伊予国において強大な権力と影響力を持っていたことがわかります。

さらに玉澄は風早郡河野郷(現・松山市北条)に居を構え、自らを「河野玉澄」と称しました。

これが、中世伊予国を代表する有力豪族として後世まで繁栄する河野氏の始まりとされています。

そして、河野氏はその後、嘯月院の歴史とも深く結びついていくことになります。

玉澄と寺院伝承

玉澄を開基とする伝承をもつ寺院は、嘯月院のほかにも愛媛県各地に残されています。

  • 石手寺(松山市・神亀四年=728年創建)
  • 上福寺(川内町・神亀四年=728年創建)
  • 道場寺(丹原町・天平十二年=740年創建、後の道満寺)

これらはいずれも奈良時代に成立した伊予の古代寺院であり、その縁起や寺伝に玉澄の名が記されていることは、当時の地域社会において玉澄が重要な役割を担っていたことを示しています。

大楠と樹下大明神

伝承によれば、天平十九年(747年)に玉澄は八十四歳で亡くなり、その亡骸は嘯月院から徒歩十分ほどの今治市別名・本郷の田園に埋葬されたといいます。

そして、その御霊は「樹下大明神(じゅげだいみょうじん)」として祀られ、古くから地域を守護する神として崇敬を受けてきたと伝えられています。

その墓標として植えられたと伝わるのが、今日もそびえ立つ巨大な楠で、地元では「玉澄さんの大楠(たまずみさんのおおくす)」と呼ばれています。

根回り約10メートル、高さ22メートルに達するこの老樹は、昭和三十四年(一九五九)に愛媛県の天然記念物に指定され、千年近い樹齢をもつ神木として厚い信仰を集めています。

うした玉澄の伝承は嘯月院にも受け継がれており、境内には玉澄の位牌が安置され、今日まで大切に守られ続けています。

嘯月院を創建した高僧・南明禅師の生涯

その後、嘯月庵は時代の流れとともに荒廃しましたが、江戸時代に再興されて「霊塔山嘯月院」と改名され、現在に続く寺院として新たな歩みを始めました。

この再興を手掛けたのが、伊予三大禅師の一人と称される高僧、南明東湖(なんめいとうこ)禅師です。

南明禅師の出自

南明東湖禅師は、元和2年(1616年)に安芸国(現在の広島県)で誕生し、幼名を岩松丸(いわまつまる)といいました。

父は伊予・幸門城主の正岡盛元(常元とも)、母は周敷郡小松町妙口の剣山城主・黒川通広の娘と伝えられます。

  • 正岡氏:正岡氏は、伊予国風早郡正岡郷(現・松山市北条付近)を本拠としていましたが、保延年間(1135〜1140年)頃に越智郡へ進出して幸門城(今治市玉川町龍岡下)を拠点としました。中世には河野氏の重臣として仕えましたが、天正13年(1585年)の豊臣秀吉による四国征伐に際しては、城主・正岡経政が籠城の末に討ち死にし、幸門城は落城。ここに正岡氏は滅亡しました。
  • 黒川氏:黒川氏は、伊予国周敷郡千足村黒川を本拠とする国衆で、その起源には河野氏流説・長宗我部分流説・在地説など諸説があります。享禄元年(1528年)、黒川元春が剣山城を築き、周敷郡の旗頭にのし上がりました。やがて正岡氏から養子を迎えて一族を継ぎ、河野氏の勢力下で地域を治めましたが、天正13年(1585年)の豊臣秀吉による四国征伐で剣山城が落城し、黒川氏は没落しました。

このように、父母双方に名門の血を引く家系に生まれた南明は、幼少の頃より宗教的環境に育まれ、やがて出家の道を歩むこととなりました。

幼少期と出家

寛永元年(1624年)、9歳の南明は母方の祖父の導きによって、長福寺(現・西条市北条)に入門し、同寺院の住職・沢甫西堂(たくほ さいどう)に弟子入りしました。

沢甫西堂は、学識と修行に優れた高僧でありながら、黒川通広に仕えた家老・今井左京の四男でした。

つまり、沢甫は南明にとって単なる師僧ではなく、母方の縁戚関係にあたる存在だったのです。

そのため、南明の修行生活は厳しい一方で、家柄に裏打ちされた温かな後援のもとに始まったと考えられます。

長福寺での本格的な修行の始まり

南明東湖が幼少期に入門した長福寺は、鎌倉時代にさかのぼる由緒ある禅刹です。

弘安5年(1282年)、河野氏第26代当主である河野通有(みちあり)が、弘安の役(元寇)で戦死した将兵を弔うために建立したと伝えられています。

以来、長福寺は河野氏の篤い帰依を受け、伊予国における禅宗の拠点として栄えましたが、天正年間(16世紀末)の豊臣秀吉による四国攻めの際、主家・河野氏が滅びるとともに長福寺も戦火を被り荒廃してしまいました。

しかし、慶長年間(1596〜1615年)には再興され、往時の面影を取り戻すとともに、再び伊予国の禅宗寺院としての役割を担うようになりました。

そんな長福寺で南明は最初の修行を積むこととなったのです。

寛永六年(1629年)には、14歳で剃髪の儀を受け、髪を落として清らかな僧形となり、正式に仏門に入ることとなりました。

剃髪は単なる通過儀礼ではなく、「俗世を離れ、仏道に身を捧げる」という決意を示す重要な行いであり、このときを境に南明の本格的な修行僧としての生涯が始まったのです。

大本山・妙心寺での修行

寛永八年(1631年)、17歳になった南明は、さらなる学問と修行を志して京都へ向かいました。

当時の京都は学問と仏教の中心地であり、多くの若き修行僧にとって憧れの地でした。

南明はここで臨済宗妙心寺派の大本山・妙心寺の一院である海福院(かいふくいん)に入門します。

海福院は「塔頭(たっちゅう)」と呼ばれる小寺院のひとつで、本山を支える学問と修行の場として知られており、南明はこの地で本格的な修行生活を始めました。

雲居禅師と伊達家との繋がり

さらに翌年、南明は奥州・松島(現:宮城県松島町)にある臨済宗の名刹・瑞巌寺(ずいがんじ)に赴きました。

そこで師事したのが、伊予国上三谷(現・愛媛県伊予市)の出身で、後に「慈光不昧禅師」「大悲円満国師」とも号された高僧・雲居希膺(うんごきよう・うんごけよう)禅師です。

雲居禅師は天正10年(1582)に伊予国三谷の毘沙門堂で誕生しました。

若くして京都に上って修行を積んだのち、諸国を巡り歩き、多くの名僧から学びを深めました。

寛永13年(1636)、仙台藩祖・伊達政宗と二代藩主・忠宗の度重なる要請を受けて、瑞巌寺第99世住職となり、中興の大業を成し遂げました。

質素倹約を旨とし、生涯を通じて木綿の僧衣を纏い続け、権力者にも庶民にも隔てなく接したその姿は「生き仏」と称されるほど広く尊崇を集めました。

南明が修行を仰いだのは、まさに同じ伊予国に生まれた先輩でもありました。

南明にとって雲居禅師は、ただの師というだけでなく、「同郷の師」として深い縁を感じさせる存在であったに違いありません。

このころの瑞巌寺は、伊達政宗による壮大な造営事業を経て、東北随一の禅刹として藩の精神的支柱を担っていました。

南明はここで5年間にわたり雲居禅師のもとで修行を重ね、その学徳を身につけると同時に、伊達家とも深く関わることになりました。

そして、この時に得た伊達家(仙台藩)との縁は、のちの南明の布教活動や伊予各地における寺院再興の広がりへと繋がっていくことになります。

長福寺への帰郷と中興の歩み

寛永14年(1637年)、23歳のとき、南明は奥州での修行を終えて故郷の長福寺に戻り、師の教えを受け継いで住職となりました。

以後は寺を支え、伊予における布教と修行の中心的な役割を果たしていきました。

寛永20年(1643年)には、父・正岡盛元が85歳で摂津国にて病没すると、その冥福を祈るために大阪市旭区中宮町に正岡山寒松寺を建立しました。

同年十月には再び京都の大本山・妙心寺に入り、さらなる研鑽を積んだのち故郷の長福寺へ戻り、それまでの山号「海印山」を「東海山」に改め、宗派も東福寺派から妙心寺派へと改宗して再興を果たしました。

このことから、南明は長福寺の中興開山としてその名を刻むこととなったのです。

瑞巌寺での修行と法脈の承継

正保三年(1643年)、31歳の南明は再び奥州・松島の瑞巌寺に赴き、かつて師事した雲居禅師のもとで修行を重ねました。

その際、戦国時代に活躍した臨済宗妙心寺派の高僧・快川紹喜(かいせん じょうき、快川国師 1502〜1582)より伝わる法脈を継ぐことを許され、紫衣を拝受しました。

快川国師は美濃(現・岐阜県)の出身で、妙心寺派の名僧として早くから頭角を現し、やがて甲斐の武田信玄に迎えられて恵林寺の住持を務めました。

信玄の厚い帰依を受けて恵林寺を中興したものの、天正10年(1582年)、武田家の滅亡に際して織田軍の焼き討ちに遭い、寺に籠る僧俗と共に炎に呑まれて殉じたことで知られます。

その最期に「安禅不必須山水、滅却心頭火自涼(安禅は必ずしも山水をもちいず、心頭を滅却すれば火も自ずから涼し)」と唱えた逸話は、今も禅の精神を象徴する言葉として広く伝わっています。

紫衣(しい)はもともと朝廷から高徳な僧に与えられる特別な僧衣で、僧位の高さを示すものでしたが、禅宗では師から弟子へと伝えられる法統の象徴とされます。

その快川国師の法脈を継ぐことを認められた南明は、若くして臨済宗正統の流れに連なる高僧と見なされるに至ったのです。

龍華院の総研に込められた母への想い

また、同じ年には実母が72歳で亡くなりました。

仏教では亡くなった人に戒名(法名)を授ける習わしがあり、母には「龍華院」という法名が贈られました。

南明はその菩提を弔うため、故郷の愛媛県西条市小松町新屋敷に一寺を建立し、母の法名をそのまま寺号として掲げ、「龍華院」と名づけました。

この寺は、母への深い孝心を示すとともに、南明の祈りと信仰を後世に伝える場となりました。

仏心寺の開山と河野氏との繋がり

慶安3年(1650年)、35歳のとき南明は小松藩第2代藩主・一柳直治(ひとつやなぎなおはる)に招かれ、藩の菩提寺として仏心寺(西条市小松町新屋敷)を建立しました。

南明はこの寺の「開山(かいさん)」、すなわち最初に住職となって寺の礎を築いた高僧として迎えられました。

仏教寺院における「開山」とは、単に創建に関わるだけでなく、寺の理念を定め、法灯を掲げ、後世に続く信仰と修行の基盤を築くことを意味します。

したがって、仏心寺は南明の宗風を色濃く伝える道場となったのです。

この招請の背景については、南明の出自である正岡家と一柳家が、ともに河野氏の末裔であったことが関係したと考えられています。

こうした血縁的なつながりに加えて、当時すでに南明が高僧として高い評価を受けていたことが、一柳家からの招きを後押ししたとみられます。

長福寺の住職ヘ

明暦三年(1657年)、師の沢甫正堂が亡くなると、南明はその跡を継いで長福寺の住職となりました。

このとき南明は四一歳で、ちょうど厄年にあたっていました。弟子たちは師の無事長久を願い、寿像(肖像仏)を造って長福寺に安置したと伝えられています。

それは南明の徳を慕うとともに、厄年を吉祥へと転じたいという弟子たちの祈りを込めたものだったのでしょう。

寿昌寺の再興と伊達家と絆

寛文八年(1668年)、53歳を迎えた南明は江戸に招かれ、荒廃していた寿昌寺(じゅしょうじ)の再興を託されました。

そして新たな住職として迎えられ、寺の再興に尽力します。

寿昌寺は仙台藩伊達家と深い縁を持つ寺院であり、その再興は単なる一寺の復興にとどまらず、伊達家の菩提と信仰を支える大きな意味を持つものでした。

寿昌寺は、江戸時代初期に雲居禅師(大悲円満国師)によって深川新田島に開かれた禅寺を前身とします。

正保二年(1645年)、仙台藩祖・伊達政宗の夫人である寿昌尼(法号:陽徳院栄庵)が強く支援し、自ら開基となって大崎袖ヶ先(現・東京都品川区東五反田)へと移転しました。

寺号の「寿昌寺」は、寿昌尼の名に由来するものです。

以後、寿昌尼の庇護のもとで同寺は発展し、仙台伊達家の江戸における菩提寺的性格を帯びるようになりました。

そして再興を推し進めたのが、伊達氏20代当主で仙台藩第4代藩主の伊達綱村(だてつなむら)でした。

綱村は文化事業や学問を重んじる名君として知られ、仏教にも理解を示しました。

高僧として広く知られていた南明を寿昌寺の住持(住職)として迎えたのは、伊達家がこの寺を単なる菩提寺としてではなく、学徳を備えた僧を中心とする精神的拠点にしようとした意図によるものでした。

南明が寿昌寺の住職に就いたことで、同寺は伊達家の厚い帰依を受けつつ、江戸における宗教的・文化的中心の一つとして活気を取り戻しました。

このことは南明の名声を東国にも広め、やがて仙台藩領の松島瑞巌寺との縁へとつながっていく重要な契機ともなったのです。

妙心寺派の大本山の住職

寛文九年(1669年)、南明が54歳のとき、京都・花園にある臨済宗妙心寺派の大本山「妙心寺」の住職に任ぜられました。

妙心寺は室町時代、花園法皇(後醍醐天皇の弟で第95代天皇)が深く信仰を寄せたことで大きく栄え、江戸時代には全国の妙心寺派を統括する中心寺院として名声を誇っていました。

その住職に選ばれることは、臨済宗全体の最高の地位を担うことを意味しており、南明が若いころから積み重ねてきた修行と徳が広く認められた証でした。

さらにこのとき、朝廷からの勅命を受け、霊元天皇に対して禅の講義(御進講)を行うという大任も託されました。

天皇に仏法を説くことは限られた高僧にのみ許される名誉であり、南明の学徳がいかに高く評価されていたかが分かります。

嘯月院の創建

翌寛文十年(1670年)、55歳となった南明は、故郷・伊予の別名村(現・今治市別名)に小庵を結び、阿弥陀如来像を安置して本尊としました。

もともとこの地には、奈良時代に越智玉澄が建立したと伝えられる草庵「嘯月庵」が存在していましたが、長い歳月のなかで荒廃していました。

南明はこの草庵を整備し直し、山号を「霊塔山」、寺号を「嘯月院」と改め、正式に妙心寺派の末寺として再興しました。

そして同年2月8日付で自ら住職に就任し、この寺を生涯の拠点と定めると、延宝4年(1676年)、61歳となった南明は小松藩の菩提寺であった仏心寺の住職を退き、再興した嘯月院に移り住みました。

こうして嘯月院は、古代の創建伝承を背景に、南明の手によって禅宗寺院として新たな歴史を歩むこととなったのです。

「足の南明」東西を往復した高僧

以降の南明は、江戸・大阪・伊予を絶えず往復しながら各地を巡錫し、寺院の創建や荒廃した寺の再興に尽力しました。

終生どこかに定住することなく歩み続け、その健脚ぶりから「足の南明」と称され、人々の間にその名が広まりました。

東へ西へと奔走するその姿は、ただの巡礼者ではなく、多くの僧俗を教化し、仏法を広め、同時に地域の寺院復興を現実のものとする力強い布教活動そのものでした。

そうした広域にわたる活動の一環として、延宝8年(1680年)、62歳のときには仙台藩からの招きを受け、再び奥州・松島の瑞巌寺に入りました。

さらに江戸では寿昌寺に迎えられて住持を務め、その後再び伊予に帰郷して嘯月院へと戻っています。

まさに奥州から畿内、そして故郷の伊予に至るまで、南明の歩みは宗派や地域の枠を超えて広がりを見せました。

しかし、この帰郷の時期、嘯月院のある別名村は深刻な事態に直面していました。

延宝の飢饉と南明の慈悲

延宝六年(1678年)、伊予の地は夏の干魃によって田畑が干上がり、作物は枯死寸前の状態に追い込まれていました。

農民たちは飢えに苦しみ、ようやく秋を迎えたものの、今度は豪雨が降り注ぎました。

その豪雨は、古来より暴れ川として恐れられた蒼社川(そうじゃがわ)を氾濫させ、別名村を含む今治平野一帯に甚大な被害をもたらしました。

蒼社川は、高縄山系から流れ出る急勾配の河川で、花崗岩の風化した土砂を大量に押し流す特性を持っていました。

そのため、ひとたび大雨が降れば流域は濁流に襲われ、人命と村落が脅かされることが度々ありました。

すでに寛永12年(1635年)、今治藩初代藩主・松平定房が入部して以降、藩を挙げて治水事業に取り組んでいましたが、自然の猛威を完全に抑えることはできませんでした。

この年の氾濫は農民たちの生活基盤を根こそぎ奪い去り、伊予一帯に深刻な飢饉をもたらしました。

嘯月院のある別宮村でも飢えに苦しむ者が続出し、村全体が危機に瀕しました。

この厳しい現実を目の当たりにした南明は、嘯月院の整備のために蓄えていた建築資金のすべてを投じて、南明は村民の飢餓を救いました。

その慈悲深い行いに、村人たちは深い感謝を寄せ、後世に至るまで報恩の念を忘れることはありませんでした。

村を救った英雄への感謝の気持ち

延宝九年(1681年)、南明が嘯月院に戻ったとき、別宮村の人々は師への感謝をあらためて形にしました。

村人たちは「永代にわたり、毎年四斗俵四俵の米を嘯月院へ寄進する」ことを誓い、村をあげて南明への深い感謝を表したのです。

こうした誓約は嘯月院の歴史に深く刻まれ、後世に至るまで伝えられていくこととなりました。

「四斗俵(しとだわら)」とは米俵の大きさを示す単位で、一俵はおよそ60kg前後とされています。

つまり「四斗俵四俵」とは約240kgにあたり、これは現代の日本人一人が一年に食べる米(約70kg前後)の三年以上に相当する量でした。

当時の農民にとって米は、日々の糧であると同時に領主に納める年貢としても課される極めて貴重な財産でした。

したがって、この寄進は決して小さくない負担だったはずです。

しかし村人たちは、それほどの重みを承知のうえで誓約を結び、毎年欠かさず嘯月院へ納め続けることを“永代の約束”としました。

そこには、南明の慈悲深い行いへの深い感謝と、子や孫の世代にまで恩を伝えようとする強い意思が込められていたのです。

「天然のサウナ」桜井石風呂と南明の療養

また、このとき南明はすでに66歳を迎えており、長年の巡錫と厳しい修行生活の疲れから病を患っていました。

そこで、療養のために今治市桜井に伝わる「石風呂(現在休止中)」を訪れました。

この石風呂は、洞窟の中で柴を焚き、その上に海藻を敷き詰めて蒸気を発生させる仕組みで、いわば天然のサウナです。

古来より難病平癒に効験があるとされ、多くの庶民のみならず、公家や高僧までもが遠方から足を運ぶ信仰と癒しの場でした。

  • 奈良時代に創建
     奈良時代に、国分尼寺(現・法華寺)の開祖・證爾尼(しょうじに)が庶民の病苦を癒すために桜井の海蝕洞を石風呂として整備し、さらに法徳院を建立して薬師如来を本尊に祀ったのが始まりとされます。
  • 弘法大師(空海)の伝承
    法華寺(国分尼寺)に伝わる「 温石窟縁起(いしぶろえんぎ)」には、平安時代に弘法大師(空海)もここを訪れ、「除病延寿の霊地にまさるものなし」と称賛し、自ら薬師如来像を刻んで祀ったと伝えられています。この伝承から「石風呂」は、空海が里人の病気平癒のために開いたとされ、四国遍路における番外霊場の一つとしても知られるようになりました。
  • うつぼ舟伝説
     昔、業病を患った高貴な姫が小舟に乗せられて流され、桜井の浜に漂着しました。村人に助けられた姫は土地の長・孫兵衛に伴われ岩窟に移り、石風呂で療養を続けたところ病が全快し、その後は孫兵衛と生涯を共にしたといわれています。

このように石風呂は、古代から人々の信仰と癒しを支える霊場として語り継がれてきました。

南明もここで石風呂に入浴し、持病の「しびれ」がたちどころに治まり、体調が回復したと伝えられています。

その喜びを詩に託し、薬師如来の功徳を讃えて次の漢詩を残しました。

巌洞焼柴敷海藻 平治萬病一方浜
医王善逝如来徳 遊泳浴餘幾計人

【現代語訳】
「岩の洞窟で柴を焚き、海藻を敷いたこの浜の石風呂は、万病を癒やす霊験あらたかな場である。ここに祀られる薬師如来の功徳は計り知れず、多くの人々が湯浴みをしてその恩恵を受けている」

この漢詩は、文化7年(1810年)に桜井石風呂の境内に石碑として刻まれましたが、時を経て風化が進んだため、昭和63年(1988年)に桜井石風呂運営委員会によって再建されました。

そして、現在も「桜井石風呂碑」としてその事績を伝えています。

最期の旅と入寂

翌年の春、病が癒えた南明は、嘯月院再建の援助を得るため、かねてより縁の深かった仙台藩・伊達家を頼り、仙台へと旅立ちました。

しかしその途上、京都に到着した際に再び病を再発し、信者の家で療養に努めますが、ついに回復することはありませんでした。

貞享元年(1684年)十月十五日、南明は69歳でその生涯を閉じました。

入寂の後、その高徳と布教活動の功績は広く称えられ、朝廷からも正式に顕彰されます。

没後三年目の貞享四年(1687年)、東山天皇により「虚霊空妙禅師(きょれいくうみょうぜんじ)」の禅師号が追贈されました。

これは、一代の高僧としての功績が国家的にも認められた証であり、南明が宗門のみならず地域社会や諸大名との関係においても大きな役割を果たしていたことを裏づけています。

南明東湖の晩年と受け継がれる意思

南明の晩年の歩みは、伊達家との縁に導かれながらも病に阻まれ、その志をすべて果たしきることなく終焉を迎えました。

しかし、その慈悲深い行いと各地での布教・寺院再興の実績は、嘯月院をはじめ多くの寺々、そして人々の記憶に確かに刻まれ、後世に至るまで語り継がれていくこととなったのです。

南明が関わった寺院

南明が愛媛県内で開創あるいは再興に関わった寺院はきわめて多く、長福寺・仏心寺・嘯月院の三寺をはじめ、各地にその功績を残しました。

  • 安国寺(東温市・旧川内町)
  • 大安寺(東温市・旧重信町)
  • 本源寺・寂光寺(西条市・旧東予市)
  • 浄寂寺(今治市)
  • 盛景寺(伊予市・旧中山町)

このほかにも二十二か寺に及び、さらに県外にも七か寺を残しました。

これらの寺院は今日に至るまで南明の事績を伝える場として存在し、地域の仏教文化の発展に影響を与えています。

無住となった嘯月院と地域の信仰

嘯月院は時代の変遷のなかで一時荒廃し、寺が所有していた田地や畑も戦後に失われ、寺勢は徐々に衰退していきました。

その結果、昭和五十年(1975年)代以降には住職が常駐しない「無住寺院」となり、かつての賑わいを失うこととなりました。

しかし、地域の信仰の場としての役割が完全に途絶えたわけではありません。

現在は丹原町にある同派寺院・清浄寺の和尚さんが兼務して管理にあたり、境内の整備や年中行事の法要を引き継いで行っています。

檀信徒や地域の人々も協力し、先祖供養や年中行事を絶やさぬよう支え続けており、嘯月院は今もなお地域の人々にとって心の拠り所であり続けています。

嘯月院再整備と顕彰碑

また、南明の遺徳を慕う檀信徒の尽力によって、昭和五十五年(1980年)には荒廃していた伽藍が再び整えられ、往時の面影を取り戻しました。

再建にあたっては地域の人々が力を合わせ、長らく守り伝えてきた信仰を次の世代へと受け継ぐ象徴的な営みとなりました。

さらに平成十年(1998年)には、妙心寺管長の揮毫による「南明禅師隠栖の地」と題した大きな顕彰碑が、村人たちの浄財によって建立されました。

この碑は単なる記念物ではなく、南明の生涯とその教えを後世に伝える証であり、地域の精神的支柱として大切にされています。

こうして南明の慈悲と教えの精神は、今日に至るまで地域の誇りとして息づき、嘯月院の歴史とともに生き続けているのです。

寺宝と伊達家との縁

境内には、南明が坐禅をしたと伝わる石の台も残されており、往時を偲ぶことができます。

また、寺宝として伝わる「九條法衣(麻袈裟)」は、仙台藩主・伊達政宗の息女・天麟殿が亡き父の菩提のために自ら麻を栽培・紡績し、縫い上げて南明に奉納したものと伝えられています。

これは南明と伊達家との深い縁を示す貴重な史料で、現在は今治城に保管されています。

覚用首座の墓と新都市開発

境内の左側、観音堂の前を南に進むと、嘯月院歴代の和尚の墓所があります。

その最も手前にあるのが、南明に次いで二代目を務めた覚用素構首座の墓です。

南明が一か所に長く留まらなかったため、嘯月院を守る役割を担い、寺の留守を支えた人物でした。

もとは「寺谷山一本松」の傍らに墓がありましたが、近年の今治新都市開発に伴う造成工事のため、現在の嘯月院境内へと移されています。

今治新都市開発は、西瀬戸自動車道(しまなみ海道)の開通を契機に、今治市西部の丘陵地で進められた大規模な都市計画です。

2006年から分譲が始まり、現在では以下のような施設が整備され、今治の新しい顔となっています。

  • イオンモール今治新都市(2016年開業)
  • ありがとうサービス.夢スタジアム(2017年完成)
  • 岡山理科大学獣医学部 今治キャンパス(2018年開学)
  • アシックス里山スタジアム(2023年完成)

こうした近代的な開発のただ中において、嘯月院境内に静かに佇む覚用首座の墓は、地域の歴史を現代に伝える貴重な存在となっています。

境内の豊かな自然

庭先には南明が坐禅をしたと伝わる石の台が残り、境内にはタラヨウやイチョウ、ヤマモモ、モミジなどが繁茂しています。

中でも、境内のタラヨウ(多羅葉)は昭和50年(1975年)3月27日に今治市指定保存樹に認定されました。

高さ約15メートル、幹周約2メートル、樹齢は80年以上と推定される大木で、古くから「葉書の木」とも呼ばれ、葉の表面に文字を刻むことができる珍しい樹種です。

実はつかない個体ですが、今も嘯月院の歴史を見守る存在として大切に保存されています。

また、境内のイチョウも昭和50年(1975年)3月26日に保存樹として指定されており、秋には黄金色の葉が境内を彩ります。

その美しい景観は近隣の人々に親しまれ、地域の四季を象徴する風景となっています。

こうして嘯月院は、南明の遺徳とともに自然の恵みを今に伝え、地域の人々の心に生き続けているのです。

寺院名

嘯月院(しょうげついん)

所在地

愛媛県今治市別名819

宗派

臨済宗妙心寺派

山号

霊塔山

本尊

阿彌陀佛

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