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明比城主神社・片上砦跡(今治市・波方地区)

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「明比城主神社(あけびじょうしゅじんじゃ)」は、波方の樋ノ口にある半島四国八十八箇所の「延命地蔵」や「地蔵菩薩」が祀られている大平池(前池)のすぐそばにある片上砦跡に鎮座しています。

波方城砦群の一つ

片上砦は、16世紀に村上水軍の御三家の一つである来島村上氏が波方浦(野間郡)に拠点を移した際、防衛拠点として築かれた波方城砦群の一つです。

波方城砦群には、片上砦のほか、西浦砦、龍神鼻砦、弁天島砦などが含まれており、これらの砦はそれぞれが周辺地域の防御や海上交通の監視において重要な役割を果たしていました。

武士たちの弓の練習場

大平池の奥川の地名は「マトデ」と名付けられています。

「マトデ」は、弓矢の的を出す場所、すなわち「的出(まとで)」を語源とする地名であると考えられています。

戦乱の時代、弓は武士にとって最も重要な武器の一つでした。

遠距離から敵を攻撃する手段として、また海上や城砦での戦闘においても不可欠な武具であり、弓術の習得は武士のたしなみであると同時に、生死を分ける技でもありました。

そのため、片上砦に駐屯していた武士たちは、日々弓の鍛錬に励み、戦に備えていたと考えられます。

明比城主神社の謎

一方で、明比城主神社の正確な創建年代や経緯については、現存する記録が極めて少なく、なぜ片上砦跡にこの神社が鎮座しているのかも謎に包まれています

しかし、神社内に残されている記載や伝承から、かつてこの地に根を下ろしたある一族の敬虔な信仰心と、祖先を祀る強い思いが伝わってきます。

その一族こそが、明比家です。

神社内に扁額には次のように記されています。

  明比家大御先祖様

鎮西武公 西征将軍 小弐朝臣 春実公 春実公より後将軍耺八代

初代将軍 種直公 萬蔵院殿嵩山常栄大襌定門

二十四代大名 信種公 昭烈院殿叟隆心大襌定門 

  明比城主神社

右之将軍並び大名の方々を信仰すれば

御貴殿方は幸せになります余に不禮(ぶれい)

を致すものは天罰があたり五年以内に

不幸なことが起こります夢々疑ってはなら

ぬ 此処に記すのは若し明比城主神

社並び明比家御先祖代々に不禮(ぶれい)な行為を

して皆様に天罰でも被(こうじ)つてわと老婆心

迄お知らせ致します

武道師範 明比治郎右ェ門 

祖神を守る戒めの言葉

この扁額から、明比城主神社は明比家の祖神を祀る大切な場所であることがわかります。

また、訪れた人々に向けた厳かな戒めが記されており、その現代語訳は次のようになっています。

「右に記した将軍や大名の方々を信仰すれば、皆さまは幸せを得ることができます。
しかし、もし私やこの神社に対して不敬な行いをする者があれば、天罰が下り、五年以内に不幸が訪れるでしょう。決して疑ってはなりません。
ここに記すのは、万が一、明比城主神社や明比家のご先祖に不敬な行為をし、皆さまが天罰を受けるようなことがあってはいけないという思いから、あえてお知らせするものです。」

そして、この戒めの文を記した人物として、扁額には「武道師範 明比治郎右エ門」という名が記されています。

この人物は明比家の武道における師範でありながら、この神社と明比家の歴史を守るために、厳格な教えを遺した人物であったのではないかと考えられます。

祀られている3人祖神

では、明比家の大御先祖様として祀られている「春実公」「種直公」「信種公」とは、いったいどのような人物なのでしょうか。

これら三人は、「大蔵氏」を祖とし、その流れをくむ大蔵姓原田家の一族、すなわち「大蔵春実(おおくら の はるざね)」「原田種直」「原田信種」であると考えられています。

大倉氏とは

大蔵氏は、古代日本において大和朝廷の財政・官物管理を担当した氏族です。

姓(かばね)は「朝臣(あそん)」を賜り、「大蔵省(大蔵寮)」に仕える氏族として、国家の財政、租税、官物(朝廷に納められる貢物や税物)の管理にあたっていました。

「大蔵」という名はその職掌に由来し、朝廷の物資や財宝を納める倉(大蔵)を司ったことから名付けられたとされています。

また、大蔵省・大蔵寮の職員を世襲する官人貴族の家柄であり、律令制下の国家財政を支える重要な地位を占めていました。

そして、明治維新後、近代国家の財政機構が整備される際、この大蔵氏や大蔵寮の名と役割が由来となり、国家の財政を担う機関として「大蔵省」(現・財務省)が設置されました。

この名称には、古代から続く日本の財政管理の伝統と歴史が引き継がれているのです。

そんな名門・大蔵氏の一族の中で、特に歴史にその名を刻んだのが、大蔵春実(おおくら の はるざね)です。

「大倉春実」平安の武人

「大蔵 春実(おおくら の はるざね)」は、平安時代中期に大蔵氏の一族として生まれ、その卓越した軍才で武人としても高く評価された人物です。

父は官人「大蔵常直(おおくら の ひろかつ)」、母は平安時代を代表する歌人で『古今和歌集』にも多くの歌が収められている藤原敏行(ふじわら の としゆき)の娘であったと伝えられています。

後に、参議であった小野好古(おの の よしふる)の娘を妻とし、九州北部の大宰府(太宰府)で要職に就き、その地で軍事的手腕を発揮しました。

そんな春実の最大の功績が、「藤原純友の乱」の鎮圧です。

大蔵春実と藤原純友の乱

藤原純友の乱は、平安時代中期の天慶年間(939~941年)に瀬戸内海一帯で起きた反乱です。

純友は伊予国の国司として任官していましたが、その後、海賊勢力と結びつき、瀬戸内海の制海権を掌握するまでに勢力を拡大していきました。

純友の乱が勃発した背景には、地方政治の混乱や中央政権の統制力の低下、海賊化する地方豪族の増加がありました。

藤原純友はこのような状況の中で、地方官の立場を越えて独自勢力を築き、ついには朝廷に反旗を翻したのです。

純友は、現在の愛媛県宇和島市沖にある日振島(ひぶりしま)を拠点に、瀬戸内海を行き交う商船や公的輸送船を襲撃、制海権を掌握するとともに、九州・四国沿岸の国府や役所を攻撃しました。

これによって朝廷の権威は大きく揺らぎ、西国一帯は大混乱に陥りました。

天慶3年(940年)、こうした事態を受けた朝廷は純友の乱を鎮圧するため「追捕山陽南海両道凶賊使」という臨時の軍事指導官を設置し、その長官に小野好古を任じました。

大蔵春実はその一員として追捕使の実務を担い、鎮圧活動に従事することになりました。

天慶4年(941年)の春、純友軍は九州の中枢・大宰府を狙って博多湾に上陸します。

海上戦で優勢に立ち、大宰府の政庁や、外交・貿易の要衝であった鴻臚館(こうろかん)を焼き討ちにしました。

これは単なる損害以上に、朝廷にとって大きな屈辱でした。さらに純友の弟・藤原純乗が筑後に侵攻し、柳川周辺を制圧。陸海からの攻勢を強めました。

しかしその勢いも長くは続かず、大宰府の橘公頼(たちばな の きみより)率いる朝廷軍が蒲池(現在の福岡県柳川市付近)で純乗軍を撃退し、陸上戦の優位を失った純友軍は次第に追い詰められていきます。

そして同年5月、朝廷の本格的討伐軍が九州に到着。

陸からは小野好古が軍を率いて博多へ、海上では藤原慶辛と大蔵春実が水軍を率いて博多湾に進出し、純友軍を海陸から包囲。純友の艦隊800余艘を撃破・奪取する大勝利を収めました。

この戦で敗れた純友の最期については諸説ありますが、故郷の伊予へ落ち延び、やがて潜伏先で捕らえられ、獄中でその生涯を閉じたと伝わっています。

こうして藤原純友の乱は終焉を迎え、西国の秩序はようやく回復しました。

その立役者の一人であった大蔵春実は、その功績を朝廷から高く評価され、従五位下に叙せられるとともに、対馬守兼大宰大監として大宰府に留まり、西国の軍事と治安維持を担う重職に就きました。

大宰府は当時、西国防衛と外交の要衝であり、その職責は極めて重要なものでした。

やがて春実は、西国の守りのみならず、都の防衛においてもその力を発揮することとなります。

天徳4年(960年)、平将門の残党が京都への侵入を企てているとの風聞が広まると、春実は自ら武士団を組織・動員し、都の防衛にあたりました。

この行動は、従来の官人や文官の枠を超えて地方の武士を率い、軍事行動を起こした初の例とされ、後の武士社会の成立「武士が国家防衛や秩序維持に積極的に関わる時代の到来」に大きな影響を与えたと考えられています。

大宰府の「府官」を世襲

藤原純友の乱で大きな功績を挙げた大蔵春実の子孫は、その後九州に定着し、大宰府の重職を世襲する家系となっていきます。

春実の子である「大蔵種光(おおくら の たねみつ)」は、財政や物資管理を司る役職である大宰府大貫主(だざいふ だいかんしゅ)に任じられました。

大貫主は、大宰府に集められる租税・貢納物・軍需物資などの保管・分配を担う役職で、西国防衛の後方支援の要ともいえる存在でした。

さらに種光の子、大蔵種材(たねき)は、寛仁3年(1019年)の「刀伊の入寇(といのにゅうこう)」 に際し、九州沿岸を襲った女真族(刀伊)の侵攻に対して奮戦し、異賊撃退の功により壱岐守(いきのかみ) に任ぜられます。

刀伊の入寇は、九州北部の沿岸部に甚大な被害をもたらした外敵襲来であり、種材の防衛戦での働きは、九州防衛における大蔵氏の地位をさらに高めるものとなりました。

武士としての道へ

大宰府は、単なる地方行政の拠点ではなく、西国(九州全域、そして朝鮮や中国大陸に対する国防と外交)の最前線であり、中央政権にとって極めて戦略的な要衝でした。

ここを任されることは、行政・軍事の両面で大きな責任と権限を担うことを意味し、選ばれるのは実力ある豪族や官人に限られていました。

その中で大蔵氏は、藤原純友の乱や刀伊の入寇といった西国の危機を乗り越える中で、府官としての地位を代々世襲し、九州の統治と防衛に強い影響力を持ち続けます。

そして戦乱の時代の中で、大蔵氏は他の在地豪族と同じように、自らの領地や地域社会を守るために武力を持つようになり、やがて武士としての道を歩み始めました。

この流れの中で登場するのが、大蔵春実の子孫にあたる「原田種直(はらだ たねなお)」です。

「原田種直」平家に仕えた武士

原田種直は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて活躍した武将であり、大蔵氏の正統な継承者として、九州地方で大一族が築きあげた名声と遺産を引き継ぎました。

平家との繋がり

原田種直は、九州の要衝・大宰府を拠点に、平家政権と深く結びついた存在でした。

保元の乱(1156年)以降、平清盛を中心とする平家一門は、中央政界だけでなく西国支配を強化していく中で、大宰府における軍事・行政の実務を信頼のおける武士層に委ねる必要がありました。

その役割を担ったのが種直をはじめとする大蔵氏の一族でした。

種直は、平清盛やその弟・平頼盛らと私的な主従関係を築き、大宰府の実務を通じて平家の西国統治を支えました。

さらに種直は、平清盛の嫡男・平重盛の養女を妻に迎えることで、血縁関係でも平家と結ばれています。

これにより、単なる主従関係を超え、平家政権の一翼を担う家門として確固たる地位を築きました。

また、種直は大宰府の地で日宋貿易や西国の港湾管理にも関与し、経済面からも平家政権を支える役割を果たしました。

平家は宋(中国)との貿易によって財力を蓄え、政治基盤を強固にしていきましたが、その一端を大宰府の種直らが担っていたのです。

このように原田種直は、軍事・行政・経済の三方面から平家政権を支え、西国における平家の統治体制の重要な支柱の一つとなっていましたが、その盤石に見えた体制もやがて大きな試練を迎えることとなります。

それが「源平合戦(治承・寿永の乱)」です。

「治承三年の政変」源平合戦のはじまりのはじまり

治承3年(1179年)、平清盛は政敵である後白河法皇の院政を停止させ、武力を背景に国家の実権を掌握しました。

その背景には、治承元年(1177年)の「鹿ケ谷の陰謀」による両者の不和が根底にありました。この陰謀では、清盛が首謀者の藤原成親や西光を処刑し、後白河法皇との関係が悪化。さらに治承2年(1178年)には清盛の娘・徳子が高倉天皇の皇子(のちの安徳天皇)を出産し、清盛はこの皇子を皇太子に立て、皇室に対する影響力を決定的なものとします。

しかし、後白河法皇は摂関家領を平家の支配から奪うなど、清盛の権威に揺さぶりをかけ、両者の対立は深刻化しました。この緊張の中で平重盛が死去、平家内の調停役を失った清盛は、ついに決定的な行動に出ます。

治承3年(1179年)11月、清盛は数千騎の大軍を率いて福原から上洛し、京都を制圧しました。

関白・松殿基房、太政大臣・藤原師長ら反平氏勢力の重鎮を解官・追放し、後白河法皇を鳥羽殿に幽閉。

これにより後白河の院政は停止され、高倉天皇と安徳天皇を擁する平家の軍事独裁体制が確立されます。

このとき、原田種直は平家の軍事力の中核として行動し、郎党を率いて御所の警護を担当しました。

「源平合戦」弟・原田敦種の討死

この政変によって、平家の権力は頂点に達したかのように見えました。

しかし、その強引な手法と武力による支配は、かえって全国の反平氏勢力の反発を招くこととなります。

そして治承4年(1180年)、ついに後白河法皇の皇子・以仁王(もちひとおう)が、源頼政とともに平家追討の令旨を発し、各地の源氏や武士たちに挙兵を呼びかけました。

この令旨は瞬く間に全国に広まり、関東では源頼朝が、信濃では木曾義仲が、奥州では源義経が次々に蜂起。

こうして、日本全土を巻き込む大乱「 源平合戦」が始まったのです。

原田種直は、平家の忠実な家臣として、西国の軍事・行政の要である大宰府を拠点に平家政権を支え続けました。

しかし、全国規模で源氏勢力が次々と蜂起し、戦いが全国に広がる中、平家の立場は急速に厳しさを増していきます。

文治元年(1185年)2月、源範頼軍との「葦屋浦の戦い」で弟・原田敦種が討ち死にし、さらに同月の「屋島の戦い」でも平家は敗北。

原田種直もまた、平家とともに劣勢に追い込まれていきました。

「壇ノ浦の戦い」

各地敗走を重ねる平家は、ついに西国の海上に最後の拠点を求めることとなります。

そして寿永4年(1185年)3月24日、関門海峡を舞台に、平家と源氏の運命を懸けた最終決戦「壇ノ浦の戦い」が始まったのです。

潮流の激しい海峡において、平家は幼い安徳天皇を奉じ、三種の神器を守りつつ、堂々たる大艦隊を構えて源義経率いる源氏軍と対峙しました。

戦の序盤、潮の流れを味方にした平家は優勢に戦を進めましたが、やがて潮目が変わると形勢は一変。義経の奇策と源氏軍の猛攻の前に、平家の船団は次々と撃破され、戦局は急速に傾いていきました。

原田種直は、平家の軍勢を支えんと戦い続けますが、源氏の勢いを前に打つ手は尽き、平家は滅亡の淵へと追い詰められていきます。

もはやこれまでと悟った平家の公達や女官たちは、幼い安徳天皇を抱き、三種の神器とともに入水。

その姿は、平家の栄華と無常を象徴する悲劇として、後世に語り継がれることとなりました。

こうして壇ノ浦の戦いは源氏の勝利に終わり、長きにわたり武家の頂点に君臨した平家の時代は、静かに幕を閉じたのです。

平家の落人と幽閉

平家側に仕えていた武士たちの一部は、平家滅亡後、追討を逃れるために山深い隠れ里や谷間の村に身を潜め、ひっそりと暮らすようになりました。

こうした人々は「平家の落人(へいけのおちうど)」と呼ばれ、その悲運と無常の物語は後世まで語り継がれ、各地に伝説や民話として今も残されています。

その中にあって、原田種直はなおも武器を手に最後の抵抗を試みましたが、源氏側の将軍・源範頼が率いる軍勢に敗れ、ついに捕らえられてしまいます。

種直はこれまで築いてきた地位と誇りを失い、関東へと送られ幽閉の身となり、一族の領地は「平家没官領」として取り上げられ、源氏方の有力御家人たちに分与されてしまいました。

「地頭職」九州の地で再起

しかし、建久元年(1190年)に源頼朝による鎌倉幕府が安定を見せ始める中で、種直は赦免され、筑前国怡土庄(現:福岡県糸島市周辺)の地頭職(じとうしき)を与えられました。

地頭職とは、鎌倉幕府が全国の荘園や公領に置いた武士の統治職で、領地の管理、年貢の徴収、治安維持、軍役指揮などを担う極めて重要な役目でした。

とくに九州のような戦略的要地では、地頭は単なる領主ではなく、幕府の地方支配の要とも言える存在だったのです。

この頃、源頼朝は九州の統治体制の強化を図り、現地の旧平家方の有力武士たちも新たに御家人として取り込む政策を進めていました。

種直への地頭職の授与も、まさにその一環として行われたものだと考えられます。

こうして種直は新たな時代の中で御家人として再起を果たし、原田氏(大蔵氏)は再び九州の地において武士の家としての歩みを続けることとなりました。

「原田信種」筑前高祖城の城主

その後も原田氏(大倉氏)の家系は、九州の地で地頭や領主として勢力を保ち、糸島・怡土地方をはじめとする地域で武士団を率い、鎌倉・室町・戦国と時代を超えて確かな存在感を示し続けたのです。

そして時は下り、安土桃山時代(1568〜1600年)。

九州の地もまた、戦国の荒波に飲み込まれていました。島津氏、龍造寺氏、大友氏といった有力大名たちが九州制覇をめぐって激しく争う中、原田氏もまたその渦中に身を置くこととなります。

この時代に登場するのが、大蔵氏の嫡流である原田氏の第80代当主「原田信種(はらだ のぶたね)」です。

草野五郎として過ごした幼少期

永禄3年(1560年)、肥前国(現在の佐賀県唐津地方)の国衆・草野鎮永(宗揚)と、原田氏本家から嫁いだ女性との間に一人の男子が生まれました。

この子は「五郎」と名付けられ、肥前国で幼少期を過ごしました。

この草野五郎こそが、後に原田信種(はらだ のぶたね)と名乗り、戦国の動乱期にその名を残すこととなる人物です。

人質として龍造寺氏の元へ

松浦草野氏は、筑後の草野氏を本家とし、その庶流として肥前松浦の地に拠点を構えました。

唐津庄を中心に地盤を固め、南北朝期以降は武家方として肥前で勢力を保ち、戦国期には波多氏と並ぶ地方の有力勢力の一つとして存在感を示していました。

しかし戦国の乱世の中で、松浦草野氏は次第に龍造寺氏など周辺の台頭する勢力から圧力を受けるようになります。

そして永禄11年(1568年)頃、父・草野鎮永が龍造寺氏の当主・龍造寺隆信に降伏し、草野五郎(後の原田信種)は人質として龍造寺氏の元へ送られることとなりました。

これは、松浦草野氏が家を存続させるための苦渋の選択でした。

当時の「人質」は、単なる捕虜や身代わりではなく、臣従や和睦の証として差し出されていました。

戦国時代は、武家同士の結びつきが一見固く見えても、状況が変われば親子や兄弟であっても裏切りや寝返りが起こり得る、不安定な時代でした。

そのため、家同士の信頼を確かなものにするためには、血縁の者を人質として送ることが重要な慣習となっていたのです。

人質となった武士の子は、敵対していた相手のもとで生活を保証され、その中で教育を受け、主従関係を築き、やがてその家の重臣や有力な家臣団の一員となることも珍しくありませんでした。

徳川家康もまた、幼少期に織田家や今川家に人質として送られ、その中で多くを学び、後の天下統一への礎としたことは広く知られています。

草野五郎が人質として差し出されたことも、戦国の時代において大名同士の信頼関係や結びつきを強めるための、現実的な策のひとつだったのです。

原田氏の誇りと悲劇
一方で、母方のお家である原田氏本家も、緊迫した状況に置かれていました。

この頃の、原田氏は筑前国高祖山城を拠点とし、糸島・怡土・早良地方に勢力を持つ有力な国衆でした。

しかし、戦国の九州北部は、大内氏・少弐氏・大友氏・龍造寺氏・島津氏といった強大な大名たちが覇を競う激戦地であり、原田氏は独立勢力としての地位を保とうとするものの、常に外圧と内紛にさらされ、存亡の危機に立たされていました。

その中で、原田氏は大友氏に臣従していましたが、それはあくまで形式的なもので、原田氏は独立性を保とうとする強い意識がありました。

そんな中、原田氏と臼杵氏(うすきし)との間で緊張が高まっていきます。

臼杵氏は、大友氏の名代(代理)として筑前統治を任されていましたが、その立場を背景に他の国衆たちに対して強圧的な態度をとることが多く、筑前で大きな軋轢を生じさせる存在となっていました。

原田氏も例外ではなく、臼杵氏の横柄とも取れる振る舞いや一方的な命令に対し、たびたび不満を募らせ、両者の間には衝突や緊張状態が繰り返されるようになったのです。

この対立が決定的となったのが、元亀3年(1572年)の第2次池田川原合戦でした。

この戦いで原田氏は臼杵鎮氏(臼杵宗暦の一族で筑前における大友家家臣)を討ち取り、原田氏の独立性と意地を示したものの、それは大友宗麟に対する公然たる反逆と受け取られ、原田氏にとって致命的な結果を招くことになりました。

天正2年(1574年)、大友氏の当主・大友宗麟は高祖山城に使者を派遣し、城主の原田隆種(原田了栄)の首を差し出すよう厳しく要求しました。

原田氏の親族・重臣たちは、宗家の存亡をかけた重大な決断を迫られ、城内で会議を開いていました。そこへ、鷹狩りから帰城した隆種の息子・原田親種がこの話を耳にします。

そして原田氏の親族・重臣たちがこれについて会議を開いていたところ、隆種の息子の原田親種は鷹狩りから帰城し、その話を耳にします。

親種はこの要求に激しく憤り、武士の意地と原田家の誇りを示すべく、櫓に登り、大友の使者を呼び寄せると、腹を十字に切り裂き、「我が首を大友に渡せ」と叫び、自ら髷をつかんで首を刎ね、使者に投げ落としました。

さらにその壮絶な最期に殉じた十余名の家臣たちも、次々と追腹をしたといいます。

「原田五郎」原田氏本家の養嗣子 

このとき、親種の嫡男であった原田秀種(ひでたね)もすでに討死しており、原田家は後継者を失い、滅亡の危機に直面することとなりました。

そこで、当時龍造寺隆信のもとで暮らしていた草野五郎(後の信種)が、原田氏にとって内孫であった縁から、龍造寺氏に請う 養嗣子として迎えられることになったのです。

この「養嗣子(ようしし)」とは、血縁関係を越えて家督を継がせるための養子のことで、武家社会においては家名存続のための重要な手段でした。

とくに戦国の乱世では、後継者のいない家はそのまま滅亡を意味するため、こうした縁組は不可欠な現実的策だったのです。

こうして五郎は原田姓を名乗り、「原田五郎」とし、元服の際には、龍造寺隆信から「信」の一字を賜り、「原田信種」と改名し、龍造寺氏との結びつきをさらに強めました。

そして、天正8年(1580年)には隆信の娘(あるいは養女とも伝わります)を妻として娶り、その絆を一層深めることとなったのです。

原田信種と滅びゆく高祖山城

原田氏の当主となった原田信種は、戦乱の世に翻弄されつつ原田家の維持と勢力拡大に努めました。

天正10年(1582年)、信種は那珂郡方面に勢力を広げようと試み、筑紫広門と手を結んで大友領への侵攻を図ります。

しかし、これに立ちはだかったのが大友氏の宿将・立花道雪です。

道雪の巧みな指揮のもと大友軍が反撃し、信種の砦は焼かれ、やむなく退却を余儀なくされました。

その後、原田家の家中は、信種が実父・草野鎮永を重用したことで家臣団の不満が高まり、内部分裂が表面化します。

この混乱に乗じて、岸岳城主・波多親が国境を越え原田領へ侵攻。

天正12年(1584年)、波多勢約3,000が鹿家に押し寄せ、民家を焼き討ちし、多数の住民を虐殺しました。

しかし信種はすぐに兵を整え、鹿家合戦において波多軍を挟撃、唐津方面へ敗走させ、原田氏の威信を保つことに成功しました。

天正13年(1585年)、九州に勢力を拡大する島津氏に同族の秋月種実が従属すると、信種も島津方に属します。

しかし翌天正14年(1586年)、豊臣秀吉の九州平定軍が来襲すると、当初は降伏を拒否し高祖城で籠城の構えを見せました。

とはいえ圧倒的な大軍を前に、戦わずして降伏し、高祖城は開城のうえ破却されることとなりました。

信種は秀吉に赦免されたものの、所領の過少申告が発覚し、旧領は没収されてしまいます。

その後、肥後国に移され、はじめ佐々成政、のち加藤清正の与力として仕えることとなりました。

原田信種の最期

原田信種の最期については、史料によって伝わる内容が分かれ、はっきりしたことは分かっていません。

一説によれば、信種は朝鮮出兵(文禄・慶長の役)において加藤清正の旗下に属し、朝鮮に渡ったとされています。

そして、慶長3年(1598年)の第二次蔚山城の戦いで奮戦の末、討死したとも伝わります

ただし、文禄5年(1596年)以前に消息を絶ったとの説もあり、死没時期には諸説が残されています。

また、信種が朝鮮で降将となり「沙也可(後の金忠善)」と名乗り日本軍と戦ったとする伝説もありますが、これは史料的な裏付けが乏しく、研究者の間では否定的に見られています。

明比城神社の謎を追う

ここまでが、明比家の大御先祖様として祀られる 「春実公」、「種直公」、「信種公」 の人物像と、その大蔵姓原田家一族としての由来でした。

しかし、なぜこの三人が、遠く離れた四国の地・今治で「明比城神社」に祀られることになったのでしょうか。

「落人伝説」

源平合戦の最終決戦となった壇ノ浦の戦いで、平家は源氏に敗北し、数多くの武将が討ち死にしましたが、平家の武将たちが密かに逃れ、落ち延びたという「落人伝説」が西日本各地に数多く伝わっています。

四国地方にも、この伝説は多く残されており、四国山地の山奥には、合戦後に逃げ延びた平家の落ち武者の子孫を名乗る家がいくつもあります。

例えば、阿波(徳島)の阿佐家、土佐(高知)の門脇や小松という姓は、平家の落人の代表例として知られています。

今治でも、「自分の家は平家の落人を先祖にもっているので鯉のぼりをあげない」という話を、子どもの頃に聞いたことがあるという人もいます。

このように、落人たちは平家の敗北後もひっそりと生活を続け、祖先に敬意を払いながら代々その物語を語り継いできました。

こうした伝承から考えると、源平合戦で敗れた後、原田種直を祖とする大蔵姓原田家の一族の一部が、戦火を逃れて今治のこの地にひっそりと落ち延び、身を隠すようにして姓を明比と改め、静かに暮らしていた可能性も十分に考えられます。

そして彼らは、落人としての辛く不安定な暮らしの中で、先祖の英霊を祖神として深い敬意と祈りを捧げ、自身と子孫の安寧を願うため、人目に付きにくい山間の地に、自らの新たな姓を社名に掲げた神社を創建したのでは?

そんな仮説が成り立つのです。

その社には、大蔵氏・原田氏としての誇り、そしてかつての一族の栄華を忘れまいとする想いが込められていたのかもしれません。

今治に息づく明比(あけひ)の姓

「明比(あけひ)」という姓は、全国的に見ても特に愛媛県に多く見られ、特に今治市の越智郡(島嶼部)では多くの明比姓の家系が存在しています。

郷土史の歴史家である明比学氏の研究によると、明比家は今治市大三島町明日(あけび)を発祥の地とし、後に波方町や西条市中野に分派した武将の一族であったとされています。

現在でも、明比姓を名乗る一族が多く住み、その周辺には砦や城跡などの遺構が残っており、これが一族の歴史を物語っています。

西条市には「明比神社(あけひじんじゃ)」があり、ここでは天正13年(1585年)の「天正の陣」で小早川隆景率いる豊臣軍と戦い、討ち死にした明比善兵衛家茂が祀られています。

家茂は、石川氏の家臣であり高峠城の城主の家に仕えていた人物です。

一方、「明比城主神社(あけびじんじゃ)」も同様に先祖の英霊を祀っていますが、こちらで祀られているのは「大蔵姓原田家の一族」と考えられます。

このことから、明比神社と明比城主神社が祀る「明比」は異なる家系であるか、あるいは歴史の中で何らかの血縁関係を持つようになった可能性もあります。

もしかすると、大蔵姓原田家一族がこの地に移り住み、後に明比家と血縁を結び、姓を明比に変えたということも考えられます。

ただし、これらはあくまで仮説であって真相は不明です。明比城の存在と片上砦跡の関係についても、現在のところ明確な記録はなく、歴史の謎の一つとして残されています。

それでも、このような歴史的背景に思いを馳せると、過去の時代を生きた人々の物語や伝承には、ロマンを感じずにはいられません。

今も残る「明比」という姓や地名が、そうした伝説を現代に伝えているのかもしれません。

神社名

明比城主神社(あけびじょうしゅじんじゃ)

所在地

愛媛県今治市波方町樋口658

主祭神

春実公・種直公・信種公

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