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古くから信仰を集めてきた神社の由緒と、その土地に根付いた文化を紹介。

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人々の心のよりどころとなった寺院を巡り、その背景を学ぶ。

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時代ごとの歴史を刻む史跡を巡り、今治の魅力を再発見。

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安養寺・馬越(今治市・日高地区)

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今治市馬越町。

鯨山と呼ばれる古墳の上に立つ、全国的にも珍しい寺院「安養寺・馬越(あんようじ)」。

古代の墳墓と中世・近世の信仰が重なり合うこの地には、時代を超えて受け継がれてきた歴史と信仰の物語が静かに息づいています。

大山祇神社の分霊と安養寺の起源

安養寺・馬越の始まりは、大三島に鎮座する伊予国の総鎮守・「大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)」の信仰と密接に結びついています。

和銅年間(708〜714年)、元明天皇の詔勅を受けた伊予国司・越智玉純(おちのたまずみ)は、国土鎮護と地方支配の安定を目的として、伊予国内の九十四郷それぞれに大山祇神社の神霊を勧請し、「三島神社」の創建を進めました。

その一社として、和銅5年(713年)8月23日、現在の今治市馬越町に「三島神社・馬越」が創建されました。

「神宮寺」として誕生

そしてその境内には、神宮寺(じんぐうじ)という仏教寺院も建立されました。

この新宮寺こそが、「安養寺・馬越」の起源にあたります。

神仏習合と本地仏信仰「大通智勝如来」

当時の日本では、神と仏を一体の存在とみなす「神仏習合」の思想が広まり、神々は仏が姿を変えて現れたもの(垂迹)とされていました。

この教義に基づき、神道の神々には仏教の側から「本地仏(ほんじぶつ)」が対応づけられ、神社には仏教寺院である「神宮寺(じんぐうじ)」が作られていました。

例えば、大三島の大山祇神社では、御祭神である「大山積神(おおやまつみのかみ)」は、仏教における「大通智勝仏(だいつうちしょうぶつ)」と同体とされ、大通智勝如来を本尊とする新宮寺(現:祖霊社)が建立されていました。

大山祇神社から神霊を勧請された、三島神社・馬越も祭神は同じく「大山津見命(別名:大山積神)」であったことから、新宮寺(現:安養寺・馬越)でも、大通智勝如来を本尊として祀っていたと考えられます。

これは、現在の安養寺・馬越の本尊が「大通智勝如来」であることからも裏付けられます。

「安養寺・馬越の誕生」空真沙彌による再興

その後、三島神社・馬越に併設された新宮寺(現:安養寺・馬越)は、神仏習合の拠点として長らく地域の信仰を担ってきましたが、時代の変遷とともに次第に荒廃していきました。

そうした中、江戸時代初頭の元和元年(1615年)、ひとりの僧侶によってこの寺は再び息を吹き返すことになります。

その人物こそが、空真沙彌(くうしんしゃみ)です。

空真沙彌は、荒廃していた新宮寺を自らの手で再建し、本尊である「大通智勝仏(だいつうちしょうぶつ)」をあらためて安置しました。

寺の宗派は真言宗に改められ、寺名も「安養寺・馬越」と定められました。

ここに、空真沙彌を開山(かいさん)とする真言宗寺院「安養寺・馬越」が新たに出発することとなったのです。

三島神社・馬越の別当寺

安養寺・馬越は、単なる神宮寺の役割にとどまらず、やがて三島神社・馬越の「別当寺(べっとうじ)」としての立場を担うようになりました。

一般に、神宮寺は神社の祭祀を仏教的に補完する宗教的・精神的な支柱としての役割を担っていました。

一方で別当寺は、祭礼の運営、社殿の維持管理、財務や檀家の統括といった、神社の実務的な管理運営を担当する存在です。

安養寺・馬越は、こうした神宮寺と別当寺の両方の機能を兼ね備える寺院として、三島神社・馬越と一体となった信仰空間を形成し、地域における精神的・制度的な宗教拠点となっていきました。

南光坊との関係

寛永年間(1624〜1644年)に入ると、安養寺・馬越は「南光坊(なんこうぼう)」の末寺となり、安養寺・馬越の住職職は南光坊によって兼務されるようになります。

当時の南光坊は、大山祇神社の別宮として創建された「別宮大山祇神社(べっくおおやまずみじんじゃ)」の別当寺を務めており、今治地域における神仏習合体制の中心的存在でした。

こうした背景のもと、安養寺・馬越もまた南光坊を上位寺とする体制の中で、三島神社・馬越の別当寺としての役割を引き続き担い、広域的な宗教組織の一翼を構成していたと考えられます。

俊照阿闍梨と享保の中興

その後、安養寺・馬越はしばらく無住の時期が続き、寺運も衰微していきましたが、享保年間(1716〜1736年)に入り、再び大きな転機を迎えることになります。

再興の中心となったのが、第二世住職・俊照阿闍梨(しゅんしょうあじゃり)です。

俊照は、その学識と人徳により「この者、凡人にあらず」と評され、第3代今治藩主・松平定陳(まつだいら さだのぶ)の厚い信頼を得ていました。

定陳は俊照の願いに応じて、数百人にのぼる作業者を動員し、境内整備のための谷の埋立てを命じます。

この大規模な土木事業によって寺地が拡張され、伽藍の再建が本格的に進められました。

地域の人々からも多くの寄進と協力が寄せられ、安養寺・馬越はふたたび信仰の場としての活気を取り戻していきます。

「明治維新と神仏分離」寺院に訪れた試練

安養寺・馬越の中興を果たした俊照阿闍梨は、享保7年(1722年)にその生涯を閉じました。

しかし、その志はその後の住職たちに受け継がれ、安養寺・馬越の整備と発展はその後も続けられていきます。

天明元年(1781年)には本堂が建立され、以後も再建・修繕を重ねながら、三島神社・馬越と共に、地域の人々にとっての信仰の拠点として、親しまれていきました。

安養寺・馬越と三島神社の決別

ところが、明治時代に入ると、日本の宗教制度は大きな転換を迎えます。

明治新政府は近代国家の形成にあたり、仏教との混淆を排した純粋な神道を国家の宗教体系とする方針を掲げ、明治元年(1868年)には「神仏分離令(神仏判然令)」を発布しました。

これにより、全国の神社とその付属仏教寺院(神宮寺・別当寺)は強制的に分離されました。

さらに、多くの寺院が破却されたり、仏具・仏像が廃棄される「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」という破壊運動が全国各地で発生しました。

この時代の中で、安養寺・馬越は三島神社・馬越の別当寺として密接に結びついていた関係を解消させられ、明治8年(1875年)には、社地を神社側へ譲渡することを余儀なくされました。

神仏分離後の歩み

こうして安養寺・馬越は、神仏習合の時代に築かれた神社との一体性を失い、仏教寺院としての独自の道を歩み始めることとなりましたが、その信仰は絶えることなく受け継がれ、寺院の再建と整備が続けられていきました。

明治26年(1893年)4月には、大破していた伽藍の再建が行われ、向拝(ごはい)が新たに増築されました。

明治33年(1900年)には、宝部上人のもとで石垣の大規模な修理と構築が実施され、境内の整備が進められました。

その後も再建は行われ続け、昭和57年(1982年)には、さらに大規模な再建工事が行われ、現在見られる荘厳な本堂が完成しました。

こうして、歴代の住職たちは、地域の人々の信仰と支援を力に、安養寺の伝統を守り続け、時代の変化に応じて寺院を維持・発展させてきたのです。

鯨山古墳の由来と安養寺・馬越の関係

こうして幾多の困難を乗り越えて存続してきた安養寺・馬越ですが、その立地にもまた、古代から続く由緒があります。

実はこの寺が建つ「鯨山古墳(くじらやまこふん)」は、古代の有力者が眠るとされる、謎に満ちた大型古墳なのです。

地名に残る海の風景

鯨山古墳は、愛媛県指定史跡として「日高鯨山の古墳」と名付けられている大型の古墳で、その名前の由来は、その地形と古代の地理的環境に深く関係しています。

古墳の場所は、現在でこそ丘陵として残っていますが、かつてこの地域は入り江に面しており、今の地形とは異なる海岸線が形成されていました。

この山は元々は串山呼ばれていましたが、満潮時には丘陵がまるで海に浮かぶクジラのように見えたことから、神亀5年(728年)に鯨眠山と名付けられました。

この伝承について、江戸時代の地誌である『愛媛面影』には次のように記録されています。

「かつてこの地域は海に面しており、現在の丘陵が海上から突き出る姿がクジラのように見えたため、地域の人々が『クジラが泳いでいるようだ』と称した」

時代が進むにつれて、地元の人々はこの山を「鯨眠山」からより簡略化した「鯨山(くじらやま)」と呼ぶようになりました。

安養寺・馬越の呼称と山号の変遷

安養寺・馬越もまた、時代と共にその呼ばれ方が変わってきました。和銅5年(712年)にまでさかのぼります。

和銅5年(712年)、「串山」に三島神社・馬超が建立され、その神宮寺として「串山安艱寺」が建てられました。

しかし、串山が鯨眠山と呼ばれるようになったため、神亀5年(728年)に「鯨眠山安艱寺」と山号を変更。

元和元年(1615年)には、空真沙彌によって山号を「新宮山」とし、現在の「新宮山安養寺」となりました。

そして、明治8年(1875年)に神仏分離令が発令され、三島神社・馬越は神道の施設として、安養寺・馬越は仏教寺院としてそれぞれ独立して存在することとなりました。

地殻変動にでクジラのような丘陵地へ

約1万年前、氷河期が終わり地球の気温は急激に上昇しました。この温暖化によって氷河や氷床が溶け出し、海面が上昇しました。

この現象は「海進(かいしん)」と呼ばれ、世界中の沿岸地域で海面が内陸へ進出し、海岸線が大きく後退しました。

古墳がある馬越町もこの時期に海岸線が内陸まで進入していた地域の一つとされています。

海面の上昇は数千年にわたって続き、特に約6千年前の温暖期には、海面がさらに高くなり、現在の馬越町一帯はほとんど海に囲まれた状態でした。

この頃、丘陵地であった鯨山古墳の位置する場所は、周囲の低地に海水が入り込み、まるで島のように海に浮かぶ地形となっていました。

このため、地域の人々はこの丘陵を「クジラのようだ」と見なし、やがて鯨山と呼ばれるようになったと考られます。

地質学的な調査によって、この地域に海水が入り込んでいたことが明らかになっています。特に、蒼社川や浅川などの河口が現在よりもはるかに広がっていたことが確認されています。

これらの河川は、長い時間をかけて土砂を運搬し、次第に内陸部の低地を埋め立てていきましたが、氷河期終焉直後の時期にはまだ海が深く入り込んでいました。

馬越町の標高は約7メートルですが、過去の研究によれば、約2200年前にはこの地域が海岸線に接していたことが推定されています。

この推定は、土木工事などの際に発見された地質的な証拠、例えば岩盤に付着したカキ殻の存在からも裏付けられています。カキ殻は、海洋生物であるため、海水がこの地域まで達していた証拠と見なされます。

馬越の由来

また、馬越という地名には「かつてこの地域が海であった頃、人々が馬に乗ってこの地を越えた」という伝説が残されています。

この話は、地域の伝承として長く語り継がれていますが、歴史的な観点からは矛盾も存在します。

たとえば、中国の歴史書『魏志倭人伝』では、弥生時代の日本には馬が存在していなかったと記されています。

したがって、この伝説は実際の歴史というより、後世に作られた物語と考えられます。

しかし、こうした伝説が必ずしも事実にもとづいていないとしても、地域の人々にとっては重要な歴史の一部であり、世代を超えて口伝され続けてきました。

遺跡から浮かび上がる海の記憶

また、周辺地域の考古学的発見として、阿方貝塚や片山貝塚などの遺跡からも、海岸線がかつてこの地域まで広がっていたことが示されています。

これらの貝塚は、古代の人々が食料として利用した貝殻などを捨てていた場所であり、標高約10メートル付近で発見されています。

このことから、当時の海岸線が現在よりも内陸に位置していたことが確認されています。

このような地殻変動は、海面の上昇だけでなく、周辺の河川の堆積作用も地形に大きな影響を与えました。

蒼社川や浅川など、馬越町を流れる河川は、山間部から土砂を運び、次第に低地に堆積させていきました。

この堆積作用によって、次第に内陸部の海が埋め立てられ、現在のような平地が形成されました。

今治地方では、河川の堆積物が100年間に約10センチメートルのペースで蓄積すると言われており、数千年を経て広大な平野が形成されていきました。

馬越町の標高は約7メートルで、これは現在の海面よりも高い位置にありますが、過去に海水が侵入していた時代にはこの地が海岸線に接していました。

このことからも、当時の人々はこの地を「クジラのような島」として認識していた可能性があります。

古墳時代の地方豪族の権威の象徴

古墳時代(500年〜)にはいると、この地域は現在のような丘陵地帯としての特徴を持つようになりました。

古墳時代の特徴の一つが、地域の豪族たちが自らの権威を示すために大規模な古墳製造です。

鯨山古墳もその一例であり、この地域を統治していた豪族の重要な墓として位置づけられています。

鯨山古墳には、「越智国造(おちのくにのみやつこ)」という地方豪族が深く関わっているとされています。

越智国造は、古代の伊予国(現在の愛媛県)を統治していた有力な豪族であり、瀬戸内海一帯を中心に強大な影響力を持っていました。

国造制度は、古墳時代から飛鳥時代にかけて、日本各地の地方での統治者が、中央の大和朝廷から国造としての地位を与えられる制度で、国造はその地域の行政や治安、宗教的な儀式を統括する役割を果たしていました。

越智国造は、古代の伊予国においてその勢力を強め、地域の政治的・宗教的リーダーとして位置づけられで、中央の大和政権ともつながりが深い一族でした。

乎知命のお墓

越智国造の中で重要な人物であり、鯨山古墳に埋葬されたと伝えられているのが「小千御子(おちのみこ)」、すなわち「乎知命(おちのみこと・小千命)」です。

乎知命は、大三島の大山祇神社を創建したと伝えられる人物であり、古代においては単なる地方豪族にとどまらず、政治的な統治者であると同時に、宗教的な権威者でもありました。

そのため、乎知命が眠るとされる鯨山古墳は、この地における聖域として、長く特別な意味をもっていたと考えられます。

この伝承を裏付ける史料としては、天正7年(1579年)、中世三島神社の高位神職・大祝(おおほうり)であった三島安人(みしまやすとう)の手記に「小千御子御墓」との記述が残されています。

これは、古代から中世に至るまで、鯨山が信仰の対象であり続けたことを示す貴重な記録になります。

また、鯨山古墳の北部からは土器や埴輪が出土しており、少なくともこの地が古代からの祭祀の場であったことが、考古学的にも裏付けられています。

こうした伝承を大切に受け継いできた地元の人々は、鯨山の北斜面に小さな祠を建て、「小千命社(おちのみことしゃ)」として、乎知命を静かにお祀りしています。

現在の鯨山古墳

現在、鯨山古墳は今治市の住宅地に囲まれており、その全体像を一望することは難しいですが、地域の重要な歴史的遺産として大切に保存されています。

1950年(昭和25年)には愛媛県指定史跡に指定され、今もなおその歴史的価値が広く認識されています。

鯨山古墳は、古代から現代に至るまで、多くの歴史と文化を抱えた存在です。

発掘調査が行われていないため、古墳の全貌はまだ明らかになっていませんが、今後の研究や調査によって、さらなる発見が期待されています。

寺院名

安養寺 (あんようじ)

所在地

愛媛県今治市馬越町2−3−20

番号

0898-22-2916(南光坊)

宗派

真言宗御室派

山号

新宮山

本尊

大通智勝佛

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