「荒木八幡大神(あらきはちまんおおかみ・宅間荒木八幡大神)」は、日本古来の八幡信仰にもとづき、今治市の宅間地域における守護神として深い崇敬を受けてきた神社です。
創建と時代背景
創建は、己酉二年三月(西暦587年頃)にさかのぼります。
この年は、崇峻天皇(すしゅんてんのう、在位587~592年)の御代であり、飛鳥時代初期、古代日本が大きな転換点を迎えていた時期でした。
崇峻天皇と丁未の乱
荒木八幡大神が創建されたとされる587年は、日本の歴史において重要な転換点にあたります。
この頃の朝廷では、古代日本に仏教を受け入れるかどうかをめぐって、2つの有力氏族が対立していました。
- 蘇我氏(そがし):仏教を積極的に受け入れ、渡来人の文化も取り入れる進歩派
- 物部氏(もののべし) :古来の神祇信仰(じんぎしんこう)を重んじ、仏教に反対する伝統派
この対立は、587年、用明天皇の崩御(天皇の死)をきっかけに激化します。
次の天皇を誰にするかという政治的な争いは、宗教の対立と重なり、ついに武力衝突に至りました。
これが、後に「丁未の乱(ていびのらん)」と呼ばれる戦いです。
この戦いで、物部氏を率いた物部守屋(もののべのもりや)は戦死し、物部氏は事実上滅亡しました。
一方、勝利した蘇我氏は、当主の蘇我馬子(そがのうまこ)がさっそく、欽明天皇の第十二皇子である崇峻天皇(すしゅんてんのう)を即位させ、自らの傀儡(かいらい)政権として朝廷の実権を握りました。
しかし、次第に崇峻天皇は蘇我馬子の横暴に不満を募らせていきます。
「自分は天皇でありながら、実権はすべて蘇我氏に握られている」
この状況に耐えられなくなった崇峻天皇は、密かに馬子を討とうと考えるようになりました。
ところがその動きは馬子に察知され、592年、崇峻天皇は蘇我氏の手によって暗殺されてしまいます。
この事件は、日本史上で初めての「天皇暗殺」とされ、蘇我氏の権力の強大さと、古代政治の不安定さを示す象徴的な出来事となりました。
崇峻天皇の暗殺後、蘇我馬子は皇太后の炊屋姫(かしきやひめ)を推して、日本史上初の女性天皇である推古天皇(すいこてんのう)を即位させました(592年)。
さらに、馬子は厩戸皇子(うまやどのおうじ)、後の聖徳太子(しょうとくたいし)を摂政に据え、実質的な政務を担わせます。
ここから、古代日本は本格的な中央集権化と仏教興隆の時代へと進んでいきます。
胸肩大明神を勧請
荒木八幡大神の創建は、まさに古代の政争と宗教変革の時代にあたり、宅間の地に、宗像大社(むなかたたいしゃ)から胸肩大明神(宗像大明神・むなかただいみょうじん)を勧請したことに始まります。
宗像大社は、宗像三女神(むなかたさんじょしん)を祀る日本最古級の神社で、以下の三社の総称です。
- 沖津宮(おきつぐう)
- 中津宮(なかつぐう)
- 辺津宮(へつぐう)
宗像三女神は、日本神話において天照大神(あまてらすおおみかみ)と須佐之男命(すさのおのみこと)の誓約(うけい)によって生まれたとされる三柱の女神です。
- 田心姫神(たごりひめのかみ):沖津宮
- 湍津姫神(たぎつひめのかみ):中津宮
- 市杵島姫神(いちきしまひめのかみ):辺津宮
この三女神は、古代より海上交通・陸上交通・あらゆる「道」を守護する神として篤く信仰されました。
その安全を祈る宗像信仰は、地方の海人族の信仰にとどまらず、やがて朝廷にも受け入れられ、国家的な意義を持つに至ります。
後世においても、三女神は交通安全の神として人々に崇敬され続けました。
そして、この信仰を受けて創建された荒木八幡大神は、創建当初には「胸肩明神(むなかたみょうじん)」あるいは「胸肩神社」、または「宗像神社」と称されていたと考えられます。
これらの神号は、いずれも宗像三女神を総体として祀ることを示す呼称であり、古代の宗像信仰を受け継ぐものです。
現在の荒木八幡大神へ
現在の荒木八幡大神の姿が整えられたのは、平安時代初期の貞観元年(西暦859年)。
平安時代の情勢と信仰
この頃の日本は、清和天皇の御代で、幼少の天皇に代わり藤原良房が摂政として政務を担っていました。
しかし、国内では地震・洪水・噴火などの天変地異が相次ぎ、天然痘や疫病も人々を苦しめました。
外では蝦夷との戦いや海外からの脅威もあり、朝廷も民衆も大きな不安を抱えていました。
こうした状況の中で、人々は国家の鎮護と外敵の平定を願い、神仏にすがる心を一層強めていきました。
その中心となったのが、国家的守護神としての地位を確立しつつあった八幡信仰です。
八幡信仰の広がり
八幡神は、古代の英雄である応神天皇を神格化した神で、武運長久・国家守護の象徴とされました。
奈良時代には宇佐八幡宮が朝廷から勅願所として重視され、八幡信仰は国家的な保護のもとに全国へと広がります。
延暦十三年(七九四)の平安遷都以降は、朝廷や武家がこぞって八幡神を祀るようになり、やがて全国の城下や交通の要衝に八幡宮が建立されました。
八幡信仰は単に武運を祈るだけでなく、国家の安泰や地域の繁栄を願う信仰として、人々の生活に深く根づいていきました。
宇佐八幡宮からの御分霊と合祀
こうした八幡信仰の高まりの中で、宅間の地にも八幡神の御分霊が勧請されることになりました。
その際、総本宮である大分県宇佐市の宇佐八幡宮より、極めて高い格式をもって御神霊を賜り、古くからこの地に鎮まっていた胸肩大明神(宗像大明神)に合祀されました。
現在へ受け継がれる信仰
そして、長い歴史を経た現在も、荒木八幡大神は地域の人々に篤く信仰され続けています。
古代海洋国家としての日本を支えた宗像信仰と、国家守護の象徴である八幡信仰が交わるこの神社は、過去から現在に至るまで、海の安全と地域の繁栄を願う祈りの場であり続けています。