水ノ上(朝倉上)に位置する庵「毘沙門堂・朝倉上(びしゃもんどう)」は、現在は無住ですが、かつては地域の信仰の中心として栄え、多くの参拝者が訪れていました。
歴史が息づく毘沙門堂
毘沙門堂・朝倉上の歴史は古く、万治年間(1657年頃)には、すでにその存在が確認されています。
境内には、越智鬼衛門道久(おちきえもんみちひさ)の墓をはじめ、由緒ある数々の墓石が残されており、長年にわたって地域の人々がこの地を大切に守り続けてきたことがうかがえます。
尼僧たちの庵
尼僧の墓も多く見られることから、かつてこの地に女性の修行僧たちが集い、庵を拠点として活動していたと考えられます。
当時、江戸時代初期から中期にかけては、戦乱の時代が終わり、社会が安定する一方で、庶民層にも仏教信仰が広く浸透していった時代でした。
一方で、女性が本格的に修行できる寺院はまだ少なく、身分や経済的な事情から、正式な尼寺への入門が難しい女性たちも少なくありませんでした。
このような時代の中で、毘沙門堂・朝倉上のある水ノ上(朝倉上)の静かな山里は、世俗を離れて修行と祈りに専心したい女性たちにとって、最適な場所だったと考えられます。
周囲に人々の営みもあり、最低限の生活支援が得られる環境でありながら、山の静寂の中で心を清め、仏に仕えることができたのです。
また、庵に祀られていた毘沙門天は、福徳や勝運を司る神として信仰され、女性たちにとっても心強い守護神でした。この信仰も、彼女たちをこの地に引き寄せた大きな要因であったと考えられます。
渡邉家が守り続けた「多宝寺毘沙門堂」
毘沙門堂・朝倉上は、正式名称を「多宝寺毘沙門堂」といいます。
渡邉家の屋号「多宝寺」
これは、かつて竜門山城の家老職を務めた渡邉家(渡部家)の屋号(家号)「多宝寺」に由来しています。
屋号(家号)とは、同じ姓を持つ家々を区別するために用いられた呼称であり、特に武家や商家、農家といった旧家においては、家の由緒や社会的立場を示す重要な意味を持っていました。
渡邉家とは
そんな渡邉家は、渡辺、渡邉、渡邊、渡部などさまざまな表記を持つ、日本でも有数の大姓「渡辺」系統に連なる名家でもあります。
その祖とされるのが、嵯峨天皇の血を引く嵯峨源氏の末裔・渡辺綱(わたなべ つな)です。
渡辺綱から始まる一族の系譜
渡辺綱は、平安時代中期、源頼光(みなもと の よりみつ)に仕えた名将で、居住していた摂津国渡辺津(現・大阪市中央区付近)の地名を取り、「渡辺」の姓を名乗ったとされます。
その後、渡辺綱の子孫たちは「渡辺党」として全国に広がり、優れた操船技術を活かして源平合戦では源氏方として戦い抜き、各地で勢力を築いていきました。
伊予に根づいた一族
やがて伊予地方においても、渡辺(渡邉)の一族は有力な武家勢力を形成し、伊予の守護大名である河野氏につかえてるようになりました。
戦国時代には、渡部内蔵進(わたなべ くらのしん)をはじめとする一族が、菊間町松尾の黒岩城を拠点に地域を当地していましたが、豊臣秀吉による四国征伐により黒岩城は落城。
その後、一族は各地に分散しながらも、地域社会に根を下ろしていきました。
戦国武士と守護仏
戦国時代から江戸時代にかけて、各地の有力な武家は、自らの守護仏(しゅごぶつ)を祀るために寺院や仏堂を建立することがよくありました。
守護仏とは、一族の繁栄や戦勝、家運隆盛を祈願するために、個々の家が特別に信仰した仏や神のことであり、武家にとっては精神的な支柱であると同時に、家の威信を示す存在でもありました。
特に、戦国時代のような乱世においては、運命を大きく左右する「武運」を祈ることは切実な願いであり、各家はこぞって寺院や仏堂を整え、自らの加護を願ったのです。
また、こうした寺院や堂宇は単なる祈願所にとどまらず、領民との結びつきを強める場ともなりました。地域の信仰の中心として機能し、祭祀や年中行事を通じて、共同体の精神的な拠り所にもなっていったのです。
守護仏・毘沙門
このような歴史的背景を踏まえると、水ノ上(伊予国越智郡朝倉上村水ノ上)に住んでいた渡邉家もまた、家の繁栄と一族の結束を願い、守護仏・毘沙門天を祀る「多宝寺毘沙門堂」を建立したものと考えられます。
【本尊】武神・財神として崇められた「毘沙門天」
毘沙門堂・朝倉上の本尊は、堂の名前の通り毘沙門天像です。
毘沙門沙門天(びしゃもんてん)は、四天王の一柱であり、多聞天(たもんてん)とも呼ばれ、仏教において武神・守護神として信仰されてきました。
戦国時代に輝いた毘沙門天信仰
戦国時代には武将たちの間で篤く信仰され、勝負運・戦勝の神として崇められました。
特に、戦国武将である上杉謙信が毘沙門天を深く信仰していたことは有名で、自らを「毘沙門天の化身」と称し、軍旗にも「毘」の一字を掲げていました。
このことからも、毘沙門天は戦いの神であると同時に、武士の守護神としての側面が強い存在であることがわかります。
戦の神から福の神へ
毘沙門天は財運をもたらす神ともされ、商人や庶民からも信仰を集めました。
これは、毘沙門天がインドの財宝神であるクベーラ(Kubera)に由来するためで、日本では「七福神」の一柱としても数えられています。
そのため、毘沙門堂・朝倉上においても、戦国時代には武家の信仰の対象として、また時代が進むにつれて商人や庶民の信仰の対象としても重要な役割を果たしてきたと考えられます。
力と富をもたらす神
毘沙門堂・朝倉上に安置される毘沙門天像は、多くの場合、甲冑を身にまとい、右手に宝塔、左手に鉾(あるいは三叉戟)を持つ姿で表現されます。
これは、仏法を守護する力強さと、財運をもたらす徳を象徴するものです。地域によっては、独自の意匠が施された毘沙門天像が祀られることもありました。
毘沙門天像盗難事件と、地域の祈りの再生
毘沙門堂・朝倉上の本尊であった毘沙門天像は、像高約60センチの小さな像で、制作年代は正確には不明ながら、かなり古い時代に作られたと考えられています。
…ここで「本尊であった」と過去形で記されるのには、悲しい理由があります。
西条・今治を揺るがした文化財盗難事件
なんとは2010年代、堂内に備えられていた青銅製の叩き金(呼び鐘)と一緒に盗難に遭ってしまったのです。
この事件は、西条市や今治市の無人のお堂を狙った組織的な犯行で、桜三里にあった骨董品を扱う業者を中心とする骨董業者ネットワークの数名による犯行でした。
犯人は逮捕されたものの、毘沙門天像や叩き金は行方不明になってしまいました。
失われた本尊、そして新たな祈りへ
こうして毘沙門堂・朝倉上の本尊であった毘沙門天像は、盗難によって失われ、長らく厨子(ずしは空のままになっていました。
しかし、地域の祈りを絶やすまいと、毘沙門堂・朝倉上を管理する光蔵寺の住職が立ち上がります。
住職は専門の仏師に依頼して、新たに樟木製の毘沙門天像を制作してもらうと、光蔵寺の本堂でしばらく祀ったのち、同住職自らが開眼供養の作法を修し、正式に毘沙門堂・朝倉上へと入仏させました。
また、盗まれた青銅の叩き金(呼び鐘)も同住職が新たに購入し、お堂に寄進されました。
現在、毘沙門堂・朝倉上にはこの新しい毘沙門天像が静かに祀られており、その台座の裏には、失われた本尊と盗難事件の経緯が墨書きされ、かつての出来事と地域の祈りの記憶を静かに後世へと伝えています。