仏城寺は、愛媛県における禅宗の本山として、その深い歴史と文化的意義を誇る寺院で、日本史を大きく揺るがした鎌倉幕府の滅亡と、室町幕府を樹立した将軍「足利尊氏(あしかが たかうじ)」と深い関係があります。
鎌倉幕府滅亡と室町幕府
鎌倉幕府は、1185年に源頼朝によって創設され、約150年間にわたり日本を統治してきました。しかし、14世紀初頭に入ると、幕府内部の権力争いや外部からの反乱が続き、次第にその統治能力が衰退していきました。1331年、後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒すために挙兵し、元弘の乱が勃発しました。
この乱の中で、足利尊氏は初めは鎌倉幕府側についていましたが、後に天皇側に寝返り、幕府の打倒に大きく貢献しました。1333年、足利尊氏は京都の六波羅探題を攻略し、鎌倉においては北条氏が滅亡することで、鎌倉幕府は終焉を迎えました。
鎌倉幕府が1333年に滅亡した後、後醍醐天皇は中央集権的な政治体制を目指して建武の新政を開始しました。しかし、この政治体制は武士たちの不満を引き起こし、特に武士層の間で大きな反発が生まれました。この不満を背景に、足利尊氏は自らの勢力を拡大し、次第に後醍醐天皇に対して対立するようになりました。
1336年、尊氏は後醍醐天皇に反旗を翻し、光明天皇を立てて京都で新たな朝廷「室町幕府」を開きました。この新しい朝廷は、もともとあった北の朝廷と正統性をめぐって衝突、これが南北朝時代と呼ばれる日本史の混乱期の始まりでした。
やがてこの分裂は各地に飛び火、激しい戦乱を引き起こしやがて全国的な政治的混乱を招きました。
征夷大将軍となった足利尊氏の最大の使命は、この南北に分裂した日本を再び統一し、中央集権的な統治を確立することでした。尊氏は、自らが擁立した北朝を正統な朝廷とし、南朝との戦いを通じて日本全土の支配を確立するために尽力することになります。
尊氏はまず、地方の有力な武士や領主たちを統制し、彼らを室町幕府の支配下に組み込むことで、全国的な統治体制を整えました。また、各地で反乱や抵抗に直面することも多く、そのたびに軍事的な行動を起こしてこれらの勢力を鎮圧していきました。
その一環として、中国・四国地方も尊氏の統治下に置かれることとなりました。この地域は戦略的にも経済的にも重要な位置にあり、尊氏にとって見過ごすことのできない地域でした。
「仏城寺」の創設
今治市鳥生の武将である越智又三郎貞実(おちまたさぶろうさださね)は、足利尊氏の忠実な臣下として仕えました。尊氏は、貞実のような地元の有力武将と協力しながら地域を平定し、その支配力を広げていったのです。
暦応2年(1339年)には貞実は尊氏の命を受けてあるお寺を創設することになります、これが仏城寺です。
足利尊氏の家紋が与えられた寺
仏城寺は初代将軍「足利尊氏(室町幕府)」の統治を象徴する寺院として、足利家の家紋である「二ツ引き両(ふたつびきりょう)」をあたえられました。
これは、仏城寺が足利尊氏(室町幕府)の保護下にあったことを示すもので、尊氏の権威をこの地域に示す象徴的でもありました。この家紋は現在でも寺の屋根や本堂の至る所に見られます。
また、仏城寺には、現在も足利尊氏の位牌が祀られています。尊氏の位牌がこの寺に残されていることから、仏城寺が足利家にとって特別な存在であったことがうかがえます。
城としての機能を持ったお寺
仏城寺という名前には「城」という文字が含まれていますが、この名称を持つ寺院は全国的にも非常に希少です。日本の多くの寺院名は「寺」や「院」といった宗教施設にふさわしい名称を持っていますが、「城」という文字が含まれている寺院はほとんど存在しません。
足利尊氏は戦略的に重要な場所に寺院を建設する際に、その寺院が非常時に「城」として利用できるようにする意図を持っていた可能性が考えられています。
例えば九州の佐賀市大和町にある「高城寺」も、足利尊氏によって創建された寺院の一つです。当時の九州は激しい戦乱の中にあり、尊氏はこの地域を支配するために、高城寺を設立し、軍事的な拠点としての機能を持たせることを意図していたと考えられます。
「葵の御紋」徳川の家紋を与えられた寺
仏城寺は江戸時代において、さらに深く日本史に刻まれることになります。
それが徳川家との関係です。
江戸時代に徳川家が日本全土を支配する将軍家として君臨すると、将軍家のお寺であるという歴史的背景から、仏城寺はなんと徳川家の家紋の「葵の御紋(あおいのごもん)」を使うことが許されることになりました。
水戸黄門でもおなじみの紋で、「頭が高い!控えおろう!」という声とともに葵の御紋が示されると、周囲の人々は畏怖の念を抱き、土下座をするシーンが有名です。
「葵の御紋」は、徳川家の象徴として非常に厳格に管理されており、勝手に利用することは絶対に許されませんでした。もしを無断で使用した場合、斬首されるほどの厳しい罰が課されることもありました。
お坊さんたちがそんな「葵の御紋」の袈裟を身にまとう姿は、寺院の格式と威厳を際立たせ、仏城寺がただの宗教施設ではなく、政治的にも社会的にも非常に高い地位にあった重要な証拠となっています。
格式の高いお寺
このように歴史的に重要な役割を果たし続けてきた仏城寺は、仏の山「法幢山仏城寺(ほうどうさんぶつじょうじ)」と呼ばれ、古くから禅宗を統括する役割も担っており、愛媛県の禅宗の本山でもあります。
京都「東福寺」との関係
仏城寺の住職は代々、京都の東福寺の管長を務める伝統があります。
仏城寺の住職は、代々、京都の東福寺の管長を務める伝統がありました。東福寺は日本の禅宗の中でも特に重要な寺院であり、臨済宗の教えを広める中心的な役割を果たしてきました。
鎌倉時代に九条道家が創建を発願し、円爾(聖一国師)が開山となった東福寺は、その壮大な伽藍と格式の高さで知られ、京都五山の一つとして名を連ねています。特に三門や仏殿、庭園などは、禅の思想と美意識を反映しており、日本文化に大きな影響を与えました。
「天真和尚」
仏城寺の歴史ある伝統の中で、明治時代初期に活躍した天真和尚(てんしんおしょう)は、東福寺のみならず、鎌倉時代に創建された名刹・円覚寺でも管長を務めた人物として知られています。
天真和尚、「本名:広田天真(ひろた てんしん)」は、安政4年(1857年)に弓削島の越智郡弓削村(現在の弓削町)で生まれました。幼少期から非常に聡明で、村の人々からも愛されていました。
僧侶を志すきっかけとなったのは、幼い頃に起こった出来事です。ある日、弓削島を訪れた殿様が広田家に立ち寄り、村の人々は殿様を深く敬い、土下座をして迎えました。その光景を見た幼い天真は、「なぜ皆が殿様に対してこのように接するのか」と不思議に思い、母に尋ねました。母は「お坊さんだけが殿様と対等に話せる」と教えました。これを聞いた天真は、僧侶となり、殿様とも対等に話せる人物になることを目指し、6歳という若さで清水村の仏城寺に入門しました。
寺での生活は幼い天真にとって厳しいものでしたが、心を強く持ち、両親に会いたいという気持ちを何度も抑えながら修行に励みました。寺の掃除を熱心に行い、経典の勉強にも一心に取り組むことで、着実に僧侶としての道を歩み始めました。仏城寺での10年間の修行を通じて、僧侶としての基礎を築きました。
16歳になると、天真はさらに深い学びを求めて京都の東福寺に向かいました。東福寺では禅の教えをさらに深め、多くの優れた僧侶たちと共に修行を続けました。その後、24歳の時に鎌倉の円覚寺に入り、住職として務めながらも修行を続けました。円覚寺は鎌倉五山の一つであり、日本の禅宗において非常に重要な寺院です。住職となることで、禅僧としての経験と知識をさらに深めていきました。
その後、仏城寺に戻り住職となりましたが、明治43年(1910年)には円覚寺から呼ばれ、円覚寺の管長に就任しました。管長という役職は、寺院全体を取りまとめる最高位の僧侶が務めるものであり、この地位に就くことは非常に名誉あることでした。さらに、大正5年(1916年)には、京都の東福寺の管長にも選ばれ、僧侶としての最高の地位に達しました。
天真和尚は、東福寺と円覚寺という日本の禅宗において重要な二つの寺院で管長を務め、その影響力は日本全土に広がりました。仏教界で高い地位を築き、学問や修行を重視し、多くの僧侶たちの指導にもあたりました。
しかし、大正13年(1924年)、天真和尚は69歳でこの世を去りました。その死は仏教界にとって大きな損失となりましたが、その教えと影響は今も残り、仏城寺や東福寺、円覚寺を通じて伝えられています。
現在も大きな影響力を持つお寺
現在の住職である岡平篤道(おかひらあつみち)住職も、全国的な宗教の中心的な人物として東福寺の管長を務めるなど、重要な役職に就いています。このため、仏城寺の住職は京都での活動が多く、今治の寺にはあまり滞在していないことが多いのが現状です。
仏城寺には6つの末寺があり、住職が不在の際はこれらの末寺が檀家の世話をしています。仏城寺を訪れる際には、こうした背景を踏まえて、その歴史と文化の深さを感じ取ることができるでしょう。仏城寺は、日本の禅宗の歴史において重要な役割を果たしてきた寺院であり、その伝統と格式を今に伝え続けています。