「三人寄れば文殊の知恵」ということわざをご存知でしょうか?
これは「ただの凡人でも3人で話し合えば、知恵を司る文殊菩薩のようにすごい知恵が出る」という意味です。
その文殊菩薩をまつっているのが日本三文殊霊場の一つ、今治市朝倉地区にある「竹林寺(ちくりんじ)」です。
竹林寺は、戦国時代には鷹取山城主・正岡家の祈願寺として栄え、江戸時代には今治藩松平家や小松藩一柳家からも篤く信仰を受けてき寺院で、現在も地域の人々の祈りとともに歩み続けてきた知恵と信仰の拠点です。
越智氏から始まった創設
竹林寺の起源は、白鳳二年・癸酉(673年)、僧・観量によって開かれたことに始まります。
当初は小さなお堂で、「多岐都比売命(やつひめのみこと)」と、「盧舎那仏(毘盧遮那仏・びるしゃなぶつ)」を勧請し、真如坊(しんにょぼう)と称していました。
奈良時代
奈良時代に入ると、聖武天皇(在位724年〜749年)のもと、国家は仏教による国の安定を目指す政策を推進していました。
聖武天皇は、天災や疫病、反乱など不安定な情勢の中で、仏教の力によって国を守ろうと考え、国ごとに国分寺・国分尼寺を建立させる「国分寺建立の詔」を発しました。
また、奈良の東大寺と大仏(盧舎那仏)の建立を命じたことでも知られ、奈良時代は仏教文化が国家事業として大きく花開いた時代となりました。
その流れのなかで、伊予国を治めた有力豪族・越智氏の一族、小千守興(おちのもりおき)が願主となり、竹林寺の整備と発展が進められていきました。
山号「五台山」
735年(天平7年)、唐から帰国した吉備真備(きびのまきび)が、文殊菩薩の聖地である中国・五台山から持ち帰った薬師如来像を、多伎神社(現在の今治市朝倉地区)境内に祀りました。
これにより、寺院の山号は「五台山」と改められたと伝えられています。
寺号「竹林寺」
さらに同年、著名な高僧であった行基(ぎょうき)がこの地を巡錫した際、中国・五台山の竹林寺になぞらえて、自ら文殊菩薩像を木彫で刻み、寺に安置したと伝えられています。
これを契機に、寺院の正式な寺号は「竹林寺(ちくりんじ)」と定められ、五台山竹林寺として、文殊菩薩を深く信仰する霊場としての歴史を歩み始めました。
文殊の智恵を伝えて…弘法大師と竹林寺
平安時代初期の弘仁6年(815年)頃、弘法大師(空海)が四国を巡錫していた際、竹林寺を訪れました。
当時の竹林寺住職であった観光上人(かんこうしょうにん)と交流を深めた弘法大師は、その縁により、文殊菩薩に関する重要な秘法である「文殊菩薩五百万遍の秘法」を観光上人に授けたと伝えられています。
「文殊菩薩五百万遍の秘法」
「文殊菩薩五百万遍の秘法」とは、文殊菩薩の名を五百万回唱えることで、知恵を授かり、諸願を成就させる特別な祈念法です。
密教の修法の一つに位置付けられ、通常の読経や祈願とは異なり、極めて厳格な作法と長期にわたる修行が求められます。
五百万遍という膨大な数を唱えることは、単なる数合わせではなく、修行者自身の精神と体を極限まで練磨し、
文殊菩薩の象徴する叡智そのものに到達することを目指すものでした。
この秘法を授けられた竹林寺は、 以後「文殊菩薩の霊場」としての格式を高め、 文殊の智慧を求める修行者や信仰を寄せる人々が集うようになりました。
「知恵の文殊さん」竹林寺に受け継がれる信仰
やがて竹林寺は、「日本三所霊場 知恵文殊菩薩」の一つに数えられるまでに至り、 四国における文殊菩薩信仰の中心地として揺るぎない地位を築いていきます。
江戸時代、寛永15年(1638年)にまとめられた『空性法親王四国霊場御巡行記』にも竹林寺の名が記されており、当時からすでに地域の信仰の中心として、多くの人々の厚い崇敬を集めていたことがうかがえます。
そして今日では、学業成就や受験合格を祈願する学生やその家族が、「知恵の文殊さん」のご利益を求めて参拝する姿が後を絶たず、竹林寺は今もなお、多くの人々の祈りを受け止める霊場として親しまれています。
「十三まいり」十三歳、人生の節目に
その信仰の中でも、特に古くから大切にされてきたのが「十三まいり」です。
十三まいりは、数え年13歳(満12歳)を迎えた子どもが、文殊菩薩のご加護を受け、知恵を授かり、健やかに成長できるよう祈願する通過儀礼であり、「知恵詣り」「知恵もらい」とも呼ばれます。
十三歳という年齢は、干支が一巡して生まれ年の干支に戻ることから、人生の大きな節目とされています。
さらに、昔はこの年齢で元服(成人の儀式)を迎えることが多く、「大人としての第一歩を踏み出す時期」と考えられてきました。
そのため、文殊菩薩の知恵を授かり、これからの人生をよりよいものにしていくための大切な儀式として、現在も竹林寺を訪れています。
「伊予国を支えた祈り」河野氏を支えた祈りの地
さらに竹林寺は、越智氏を祖とする伊予国の中世武家、河野氏との深いゆかりを持つ寺院としても知られています。
河野氏は、平安時代末から中世にかけて伊予国を拠点に勢力を伸ばした有力な豪族であり、神道や仏教を篤く信仰し、多くの神社や寺院を保護しました。
竹林寺もまた、河野氏の庇護を受けた寺院の一つであり、信仰と支援によって発展を遂げていきました。
やがて竹林寺は、単なる一寺院にとどまらず、伊予国における河野氏の精神的支柱のような存在となり、時に武家の命運に関わる、重要な役割を果たすことになります。
その象徴的な出来事が、貞治3年(1364年)の「世田山合戦(せたやまかっせん)」です。
南北朝時代の四国を巡る攻防
南北朝時代(1336年〜1392年)、日本列島は二つの朝廷「北朝(京都)」と南朝(奈良の吉野)に分かれ、全国各地で熾烈な戦いが繰り広げられていました。
伊予国を拠点とする河野氏は、当初、南朝方に近い立場にありましたが、やがて北朝方の勢力が強まる中で、複雑な対応を迫られていました。
この混乱の最中、四国では北朝方の有力武将・細川頼之(ほそかわよりゆき)が勢力を拡大し、阿波・讃岐を掌握したのち、さらに土佐・伊予への勢力を伸ばしていきました。
「白峰合戦」細川頼之 vs 細川清氏
貞治元年(1362年)、北朝方の細川頼之と南朝方の細川清氏が、同族でありながら互いに対立し、戦うことになりました。この戦いは「白峰合戦(しらみねかっせん)」として知られています。
この背景には、当時全国を二分していた南北朝の争乱がありました。本来、頼之も清氏も同じ細川氏の一族でしたが、頼之は幕府(北朝方)に仕えて中央の政権を支える立場を取り、清氏は南朝に与して独自の勢力を築こうとしました。
この立場の違いが、血を分けた一族を敵味方に分かつこととなり、やがて武力衝突に発展したのです。
両者は、讃岐の宇多津と高屋(現在の坂出市林田)で長い間睨み合いを続けていましたが、当初、情勢は北朝方の頼之にとって不利でした。
頼之は、同じ北朝方に属する伊予の河野通盛に味方するように要請しましたが、通盛はその要請に応えず動きませんでした。
結果的に、頼之は単独で戦いを続け、最終的に白峰合戦で勝利を収めました。
この勝利によって、頼之は讃岐と土佐の守護に任命され、すでに勢力下に置いていた阿波と伊予を含めて、四国全体を統治する立場に立ちました。
「世田山合戦」細川頼之 vs 河野氏
「四国管領」と呼ばれるようになった細川頼之は、伊予の河野通盛が白峰合戦の際に兵を出さなかったこと大義名分に、幕府から正式な討伐命令を取り付けると、貞治3年(1364年)、伊予国へ侵攻を開始しました。
こうして、細川軍と河野軍が激突することとなりました。
この戦いこそが、四国全体の覇権をめぐる重要な戦い「世田山合戦」です。
戦略的要所「世田山と笠松山」
世田山合戦は、その名の通り、世田山が主戦場となった戦いです。
標高339mの世田山は、伊予国における戦略的要所であり、隣接する笠松山(357m)とともに、平野(越智平野・今治平野)を見下ろす位置にありました。
そのため、両山には古来より城が建てられており、河野氏はこれらを拠点として陣を構えました。
河野通盛はこの戦いの際に病気にかかっており、代わりに息子の河野通朝が世田山城を守っていました。
「世田山城陥落」河野通朝討死と河野家の衰退
河野軍は、2か月間にわたり、細川軍の猛攻に耐え籠城しましたが、細川軍の圧倒的な兵力を前に、次第に追い詰められていきました。
そして、貞治3年(1364年)11月6日、世田山城はついに陥落し、河野通朝(こうの みちとも)はこの戦いで討死しました。
その後、戦いの最中に病気で床に伏していた父河野通盛も、通朝の死から20日後に亡くなり、河野家は一時的に大きな打撃を受けることとなりました。
竹林寺に託された河野家の命運
この時、河野通朝の息子でまだ15歳だった徳王丸(後の河野通堯・河野通直)も一緒に戦っていました。
しかし、戦況が不利になり決定的な敗北が近づく中で、通朝は息子の命を助けるため、僧侶の助けを借りて、徳王丸ひそかに竹林寺に脱出させました。
こうして若き後継者・徳王丸の命は救われ、やがて河野氏の再興へとつながっていくことになります。
この出来事は、河野家の存亡を賭けた危機の中で紡がれた、重要な逸話として、今なお竹林寺に伝えられています。
「チクリンジザクラ」時を超えて咲き続ける桜
竹林寺はこのような激動の歴史だけではなく、長い時の流れの中で、自然と人々の祈りが調和した、美しい文化も育んできました。
その象徴の一つが、境内に咲く非常に珍しい四季桜、「チクリンジザクラ」です。
この桜は、通常の桜とは異なり、10月から翌年4月にかけて長い期間にわたって次々と花を咲かせます。
花びらが一般的な四季桜よりも大きく、色彩も豊かで美しいことから、八木繁一によって「チクリンジザクラ」という名前が付けられました。
愛媛に生きた理科教育者・八木繁一
八木繁一は、愛媛県出身の理科教育者であり、植物研究者としても多くの業績を残しています。
八木繁一は愛媛県内の自然植物に深い関心を持ち、多くの植物を観察・研究し、それぞれに適した学名を命名しました。
竹林寺の歴史を見守る
この桜は、江戸時代に今治藩士の堀主水(ほりもんど)によって竹林寺に植えられたと伝えられています。
以来、長い年月の中で地域の人々に大切に守り伝えられ、その希少な美しさから旧朝倉村の天然記念物にも指定され、今では竹林寺のシンボルの一つとして親しまれています。
このように、竹林寺はこれからも、知恵と祈り、そして自然への感謝を伝え続ける、かけがえのない場所であり続けています。