「三人寄れば文殊の知恵」ということわざをご存知でしょうか?これは「ただの凡人でも3人で話し合えば、知恵を司る文殊菩薩のようにすごい知恵が出る」という意味です。その文殊菩薩をまつっているのが日本三文殊霊場の一、今治市朝倉地区に鎮座する「竹林寺(ちくりんじ)」です。
竹林寺は、戦国時代には鷹取山城主・正岡家の祈願寺として栄え、江戸時代には今治藩松平家や小松藩一柳家からも篤く信仰を受けてきました。
越智氏から始まった創設
竹林寺の歴史は、奈良時代、聖武天皇(724年〜749年)の治世、越智大領の小千(越智)守興(おちのもりおき)が願主となり、観堂僧侶によって開基されました。
当初はまた小さなお堂で、「多岐都比売命(やつひめのみこと)」と舎那仏(毘盧遮那仏・ビルシャナ仏)を「盧舎那仏(毘盧遮那仏・ビルシャナ仏)」を勧請し、真如坊(しんにょぼう)と号していました。
山号「五台山」
735年(天平7年)には吉備真備(きびのきび)が唐から日本へ帰国した際、五台山から持ち帰った薬師如来像を多伎神社(朝倉地区)の境内に祀りました。これにより山号が「五台山」になりました。
五台山は、中国で文殊菩薩の聖地として崇められている場所であり、竹林寺が文殊菩薩を祀る霊場として知られるようになったのもこの由来からです。
「五台山竹林寺」
その後、 天平7年 (755年)に著名な僧侶「行基」がこの地を巡錫した際、文殊菩薩の霊地である中国(唐)の五台山にある竹林寺を模して、自ら木を彫って文殊菩薩像を作り寺に安置しました。このことから、同寺は「五台山竹林寺」と呼ばれるようになりました。
弘法大師
弘法大師(空海)が四国を巡錫する際、当時の竹林寺住職であった「観光上人」と交流を深め、この縁により、観光上人は文殊菩薩に関する重要な秘法である「文殊菩薩五百万遍の秘法」を弘法大師から授かりました。
この秘法は、文殊菩薩の知恵と加護を受けるための重要な修法であり、竹林寺の信仰に大きな影響を与えました。
「知恵の文殊さん」
こうして、日本三文殊霊場の一つに数えられるようになった竹林寺では、学業成就や受験合格を祈願する学生やその家族が「知恵の文殊さん」のご利益を求め参拝するようになりました。
この信仰を象徴ともいえるのが、竹林寺に伝わる御詠歌です。
竹林寺の御詠歌 「南無文殊 三世諸佛の 母ときく 我れも子なれば ちちぞほしけれ」 は、文殊菩薩が知恵の象徴であることを表し、多くの参拝者の心に刻まれてきました。この詠歌には、「三世(過去・現在・未来)の諸仏を生み育てる存在である文殊菩薩を我が親と仰ぎ、その教えを授かりたい」という願いが込められています。参拝者たちは、この詠歌を唱えながら文殊菩薩への信仰を深め、知恵を授かることを願います。
また、竹林寺の歴史の深さは、江戸時代の紀行記にも記録されています。寛永15年(1638年)に記された『空性法親王四国霊場御巡行記』*にも竹林寺の名が登場し、当時から地域の信仰の中心として人々の厚い信仰を集めていたことが伺えます。このように、竹林寺は長い歴史を通じて文殊菩薩の知恵と加護を求める人々のよりどころとなってきました。
「十三まいり」
その信仰の中でも、特に古くから大切にされてきたのが「十三まいり」です。十三まいりは、数え年13歳(満12歳)を迎えた子どもが、文殊菩薩のご加護を受け、知恵を授かり、健やかに成長できるよう祈願する通過儀礼であり、「知恵詣り」「知恵もらい」とも呼ばれます。
十三歳という年齢は、干支が一巡して生まれ年の干支に戻ることから、人生の大きな節目とされています。さらに、昔はこの年齢で元服(成人の儀式)を迎えることが多く、「大人としての第一歩を踏み出す時期」と考えられてきました。そのため、文殊菩薩の知恵を授かり、これからの人生をよりよいものにしていくための大切な儀式として、現在も竹林寺を訪れています。
「チクリンジザクラ」
竹林寺の境内には、「チクリンジザクラ」と名付けられた非常に珍しい四季桜があります。この桜は、旧朝倉村の天然記念物にも指定されており、竹林寺のシンボルの一つとして知られています。
竹林寺の境内には、旧朝倉村の天然記念物にも指定されている「チクリンジザクラ」と名付けられた非常に珍しい四季桜があります。この桜は、通常の桜とは異なり、10月から翌年4月にかけて長い期間にわたって次々と花を咲かせます。花びらが一般的な四季桜よりも大きく、色彩も豊かで美しいことから、八木繁一によって「チクリンジザクラ」という名前が付けられました。
八木繁一は、愛媛県出身の理科教育者であり、植物研究者としても多くの業績を残しています。八木繁一は愛媛県内の自然植物に深い関心を持ち、多くの植物を観察・研究し、それぞれに適した学名を命名しました。その中で、竹林寺に咲く桜を「チクリンジザクラ」と名付けたのは、桜の美しさと竹林寺の歴史的背景を反映した命名でした。
この桜は、江戸時代に今治藩士「堀主水」が竹林寺に植えたと伝えられており、長い歴史の中で地域の人々に大切に守られてきました。
「世田山合戦」河野氏との関係
さらに竹林寺は、河野氏との深いゆかりを持つお寺としても知られています。
河野氏は伊予国を中心に中世期に栄えた有力な豪族であり、南北朝時代(1336〜1392年)には、「河野通盛(みちもり)」が北朝川の足利尊氏に味方し、その功績によって伊予の守護者の地位を授かり、その勢力を広げました。河野氏は、強力な武家の一族であり、神道や仏教を篤く信仰し、多くの神社や寺院を保護しました。
その中での一つが竹林寺でした。
貞治元年(1362年)、北朝側の細川頼之と南朝側の細川清氏が、同族でありながら互いに対立し、戦うことになりました。この戦いは「白峰合戦(しらみねかっせん)」として知られています。両者は、讃岐の宇多津と高屋(現在の坂出市林田)で長い間睨み合いを続けていましたが、当初、情勢は北朝側の頼之にとって不利でした。
頼之は、同じ北朝側に属する伊予の河野通盛に味方するように要請しましたが、通盛はその要請に応えず動きませんでした。結果的に、頼之は単独で戦いを続け、最終的に白峰合戦で勝利を収めました。
この勝利によって、頼之は讃岐と土佐の守護に任命され、すでに勢力下に置いていた阿波と伊予を含めて、四国全体を統治する立場に立ちました。こうして、頼之は「四国管領」と呼ばれるようになり、四国での影響力を大きく広げました。
その後、四国統一を目論んだ細川頼之は、伊予の河野通盛が頼之方に兵を出さなかったことを大義名分に、幕府からの命令を取り付けて、貞治3年(1364年)に伊予に向かって侵攻を開始しました。
この戦いは四国の覇権を握るための重要な戦いで、世田山合戦と呼ばれています。
世田山合戦は、その名の通り、世田山が主戦場となった戦いです。標高339mの世田山は、伊予国における戦略的要所であり、隣接する笠松山(357m)とともに、平野(越智平野・今治平野)を見下ろす位置にありました。そのため、両山には古来より城が建てられており、河野氏はこれらを拠点として陣を構えました。
河野通盛はこの戦いの際に病気にかかっており、代わりに息子の河野通朝が世田山城を守っていました。
河野軍は、2か月間にわたり、細川軍の猛攻に耐え籠城しましたが、細川軍の圧倒的な兵力を前に、次第に追い詰められていきました。そして、貞治3年(1364年)11月6日、世田山城はついに陥落し、河野通朝(こうの みちとも)はこの戦いで討死しました。
その後、戦いの最中に病気で床に伏していた父河野通盛も、通朝の死から20日後に亡くなり、河野家は一時的に大きな打撃を受けることとなりました。
この時、河野通朝の息子でまだ15歳だった徳王丸(後の河野通堯)も一緒に戦っていました。しかし、戦況が不利になり決定的な敗北が近づく中で、通朝は息子の命を助けるため、僧侶の助けを借りて、徳王丸ひそかに竹林寺に脱出させました。
この出来事は、河野家の後継者が危機に瀕した中で命を守られた重要な逸話として、竹林寺に伝わっています。