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古くから信仰を集めてきた神社の由緒と、その土地に根付いた文化を紹介。

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人々の心のよりどころとなった寺院を巡り、その背景を学ぶ。

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時代ごとの歴史を刻む史跡を巡り、今治の魅力を再発見。

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長本寺(今治市・菊間地区)閏

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因島に拠点を築いた村上水軍。因島村上氏が最後に辿り着いた祈りの寺

菊間町佐方の地に佇む「長本寺(ちょうほんじ)」。

静かな山里の寺院でありながら、その歴史の背後には、伊予の歴史を語る上で決して外すことのできない一族の記憶が刻まれています。

それが、瀬戸内海に覇を唱えた村上水軍の一角・因島村上氏であり、そしてその当主が村上吉充(よしみつ・吉光・義光)です。

寺院の由緒と本尊

長本寺の最も古い伝承は、鎌倉時代初期の元久二年(1205)閏七月二十八日にさかのぼります。

この日、伊予国守であった河野伊予守通信によって、後に本尊となる地蔵菩薩が奉祀されたと伝えられています。

河野通信は、源平合戦において源氏方として活躍し、屋島・壇ノ浦の戦いでは河野水軍を率いて源氏の勝利を支えた武将です。

源平合戦後は、鎌倉幕府成立に大きく寄与した功臣として、伊予国における統治権を確立しました。

このような通信が、仏教信仰、とりわけ地蔵信仰を通じて自らの統治基盤を安定させようとしたことは、当時の武士の宗教観をよく示しています。

鎌倉時代初期は、戦乱の世から新たな秩序へと移行する時代でした。

地蔵菩薩は、六道をめぐり衆生を救済するとされる仏であり、戦没者供養や現世安穏の信仰対象として、武士や庶民を問わず広く信仰を集めていました。

河野通信が地蔵菩薩を奉祀した背景には、戦没者の供養、領国安泰、そして新たな時代における平和への願いが込められていたと考えられます。

朝廷の詔により造立された本尊

この地蔵菩薩は、土御門院(つちみかどのいん)の詔を受け、仏師・安阿弥(あんあみ)によって彫刻されたと伝えられています。

  • 土御門院とは
     土御門院とは、第八十三代天皇・土御門天皇(つちみかどてんのう)の院号です。諱は為仁といい、後鳥羽天皇の第一皇子として生まれました。建久九年(1198)、わずか三歳で即位しましたが、実権は父・後鳥羽上皇による院政のもとにありました。承元四年(1210)に譲位して上皇となったのち、「土御門院」と称されます。在位期間は短いものの、その時代は鎌倉幕府が成立し、朝廷と武家政権が並立する新たな政治体制が形成された重要な転換期にあたります。
  • 安阿弥とは
     安阿弥(あんあみ)とは、鎌倉時代初期を代表する慶派仏師・快慶(かいけい)の別名です。快慶は運慶(うんけい)と並び称される名匠であり、写実性と気品を兼ね備えた仏像彫刻によって、鎌倉仏教美術を大きく発展させた人物として知られています。阿弥陀信仰に深く関わったことから、「安阿弥陀仏師」あるいは「安阿弥」と称され、その名は寺院縁起や仏像伝承の中にしばしば見られます。その作風は後に「安阿弥様」と呼ばれ、均整の取れた体躯、柔らかな衣文、穏やかで慈悲に満ちた表情を特徴としています。その造形は、彫刻でありながら絵画的とも評される優美さを備えています。

この地蔵菩薩造立の伝承からは、鎌倉時代初期における朝廷の宗教的権威と、伊予国在地勢力である河野氏との間に、強い結びつきがあったことがうかがえます。

戦国動乱後の寺院再編と長本寺

しかし、この時点で現在につながる寺院組織や伽藍が整ってはいませんでした。

中世においては、仏像や信仰の場が先に成立し、後世になってから寺院としての形が整えられる例も多く見られます。

長本寺もまた、地蔵信仰を核とする霊場的存在として始まり、時代の変遷の中で姿を変えていったと考えられます。

その後、時代が下って慶安六年(1653)、遍照院の隠居であった快遍上人が、川向小坂の地に小さな庵を結びました。

この出来事が、現在につながる長本寺の始まりであり、快遍上人は長本寺の開基といわれています。

この時期は、戦国期の動乱を経て寺院制度が再編され、幕府の宗教統制のもとで末寺組織や寺格が整えられていった時代でした。

快遍上人は、古くからこの地に伝えられてきた地蔵信仰を受け継ぎつつ、総本山・長谷寺の法脈を明確に位置づけ、長本寺を近世寺院として再構築していきました。

そのため快遍上人は、単なる開基の僧にとどまらず、鎌倉時代以来の信仰を継承し、寺院としての体制を整え直した人物として、中興の祖とも位置づけられています。

奈良県・長谷寺を総本山とする真言宗豊山派

こうして創建された長本寺は、奈良県桜井市初瀬に所在する長谷寺を総本山とし、その法脈に連なる寺院として位置づけられていきました。

長谷寺は、朱鳥元年(686)、天武天皇の勅願によって創建されたと伝えられる古刹です。

現在は真言宗豊山派の総本山として知られ、古来より観音信仰の中心寺院として篤い崇敬を集めてきました。

また、西国三十三所観音霊場第八番札所としても名高く、本尊である十一面観音菩薩立像は、日本最大級の木造仏として知られています。

この観音像は、国家安泰、五穀豊穣、病気平癒などの祈願所として、平安時代以来、朝廷や武家から厚い信仰を受けてきました。

中世以降、長谷寺は皇族や公家のみならず、武家政権からも庇護を受け、寺領を拡大しながら全国各地に末寺を展開していきました。

平安時代から鎌倉時代にかけては、観音霊場としての性格を強めると同時に、密教寺院としての教義体系を整え、地方寺院への教線拡大を積極的に進めていきました。

こうした流れの中で、伊予国を含む西日本各地にも長谷寺の法脈が及び、長本寺もまた、その系譜に連なる真言宗豊山派の一寺院として成立したと考えられます。

地域の賀茂信仰を支えた別当寺

長本寺は、佐方村一宮である賀茂別雷神社(上賀茂神社)の別当寺として、神仏習合の時代において地域の宗教的中核を担いました。

賀茂別雷神社は、京都の上賀茂神社(賀茂別雷神社)から御分霊を勧請したと伝えられる古社であり、佐方を含む一帯の総産土神として古くから崇敬を集めてきました。

中世においてこの地域は、上賀茂神社の荘園である佐方保として位置づけられ、京都の本社と密接な関係を保っていました。

こうした背景のもと、長本寺は賀茂別雷神社の別当寺として、神社祭祀と仏教儀礼の双方を担う立場にありました。

別当寺とは、神社に付属して祭祀や管理を司る寺院であり、神前での読経や修法、神宮寺的機能を通じて、神と仏を一体のものとして信仰する中世的宗教観を体現する存在でした。

長本寺では、本尊である地蔵菩薩への信仰を基盤としつつ、賀茂大神の祭祀と結びついた祈祷や法会が行われ、五穀豊穣、雨乞い、疫病退散、地域安泰など、人々の生活に直結する祈願が重ねられてきました。

こうした活動を通じて、長本寺は単なる一寺院にとどまらず、地域社会の精神的支柱として重要な役割を果たしていきました。

長本寺が迎えた近代の転換点

しかし、このような神仏習合の体制は、近代に入って大きな転換点を迎えます。

明治元年(1868)以降、政府によって神仏分離令が発布され、神社と寺院を明確に分離する政策が全国的に進められました。

これにより、長く続いてきた別当寺制度は廃止され、長本寺も別当寺としての役割を終えることとなりました。

神仏分離は、地域の信仰形態に大きな影響を与えましたが、長本寺と賀茂別雷神社の間に築かれてきた精神的な結びつきが、ただちに失われたわけではありません。

祭礼や年中行事、土地に根づいた信仰意識の中には、神仏習合の時代の名残が静かに受け継がれていきました。

こうして長本寺は、別当寺としての制度的役割を終えた後も、地域における仏教寺院として存続し、本尊地蔵菩薩への信仰を中心に、人々の祈りと向き合い続けてきました。

その歩みは、佐方の地において神と仏が共に人々の暮らしを支えてきた歴史そのものを映し出しています。

長本寺の残る因島村上の歴史

長本寺の歴史は、単に一寺院の由緒にとどまるものではなく、伊予という地域が歩んできた歴史そのものと深く結びついています。

中世から近世にかけて、伊予の政治・軍事・海上支配を担った武家勢力の動向は、寺院の興隆や存続にも大きな影響を与えてきました。

その中で、長本寺と特に関わりを持ったのが、瀬戸内海に勢力を張った村上水軍・因島村上氏です。

瀬戸内の海を制した村上水軍

中世の瀬戸内海は、日本と中国・朝鮮半島を結ぶ重要な海上交通路であり、経済・文化・外交・軍事すべてを支える「海の道」でした。

この海域を行き交うのは交易船だけでなく、遣明船や武家の軍船も含まれており、海を制する者が地域の安全と繁栄を握る時代でもありました。

村上水軍は、こうした重要な瀬戸内海において早くから影響力を持ち、海上交通を掌握する存在として活動していました。

村上水軍は“村上海賊”としても知られていますが、いわゆる海の無法者ではなく、海上交通の要衝を押さえて航行する船の安全を保障し、その代償として「関銭」や「通行料」を徴収して暮らしていました。

当時は海賊が乱立する時代でしたが、村上水軍の縄張りを犯す者はほとんどおらず、結果として瀬戸内の海上秩序の維持に大きな役割を果たしていたのです。

さらに、戦国期に入ると各大名に属してその強力な水軍力を提供し、海の武士団として合戦において重要な戦力となりました。

村上水軍の祖とされる村上義弘は、因島を根拠とした海賊の一人でしたが、建武の争乱で南朝方に属し、伊予の豪族や脇屋義介と結んで芸予の水軍を統一し、瀬戸内の制海権を握りました。

義弘の死後、一族は混乱しますが、孫の村上師清が能島に拠点を置き、河野氏や越智氏と結んで水軍を再編、中興の祖とされました。

この師清の子・村上義顕には三人の男子があり、長男の村上雅房が能島(のしま)、次男の村上吉豊が因島(いんのしま)を治め、三男の村上吉房が来島(くるしま)へ入りました。

これによって村上水軍は「能島村上氏」「因島村上氏」「来島村上氏」の三家に分立し、互いに協力しつつも独自に勢力を拡大しました。

この中で、長本寺は因島村上氏の菩提寺として深い関わりをもつことになります。

因島村上氏が拠点とした因島

因島村上氏が拠点とした因島は、備後国御調郡に位置した島嶼部で、現在の広島県尾道市因島にあたります。

この海域は、瀬戸内海のほぼ中央に位置し、安芸・備後・伊予を結ぶ主要航路が交差する交通の要衝でした。

東西に延びる内海航路に加え、外洋へと通じる出入口にも近く、古くから船の往来が極めて盛んな地域として知られていました。

因島周辺を行き交う船舶には、商船だけでなく、公的な渡海船や外交に関わる船舶、さらには武家勢力の軍船も含まれていました。

そのため、この海域を掌握することは、単なる交通管理にとどまらず、経済活動や軍事行動の主導権を握ることを意味していました。

因島村上氏は、この地理的条件を巧みに生かし、因島を本拠として周辺海域の航路を管理し、瀬戸内海における重要な海上勢力として台頭していきました。

激動の戦国を生きた因島村上氏当主・村上吉充

室町時代から戦国時代にかけては、瀬戸内海の航路支配を通じて、防長二国(周防国と長門国の二国)を本拠とした大内氏をはじめとする有力大名と関係を結び、水軍としての軍事力に加え、海上警護や水先案内などの役務を担いながら活動していました。

特に、五代当主・村上尚吉の代以降、因島村上氏は大内氏に変わって中国地方の覇権を握った毛利氏の有力な海上勢力として、その地位を確立していきます。

そして、この時代のうねりの中で因島村上氏を率いた当主こそが、第六代当主・村上吉充(よしみつ)でした。

天文二十四年(1555)、安芸国厳島において、後に「日本三大奇襲戦」の一つと称される厳島合戦が行われました。

この戦いに先立ち、毛利元就は瀬戸内海の制海権確保を最重要課題と位置づけ、能島村上氏の当主・村上武吉に協力を要請するとともに、因島村上氏の当主・村上吉充のもとにも出陣要請を送りました。

吉充はこの要請を受け、ただちに毛利氏への加勢を決断します。

因島村上水軍は、同じく毛利方に属した能島村上水軍と連携し、毛利軍の海上行動を支援しました。

船団の護衛、兵員・物資の輸送、周辺海域の警戒などを担い、毛利軍が少数兵力で厳島へ渡海し奇襲を成功させるための基盤を築いたのです。

この水軍の支援は、陸上での奇襲戦を陰から支える重要な役割を果たし、結果として陶晴賢軍を壊滅させる毛利方の大勝利につながりました。

厳島合戦に勝利した毛利氏は、続いて防長経略と呼ばれる一連の軍事行動を展開し、大内義長を討ち取って周防国・長門国を完全に支配下に置きます。

これにより毛利氏は、中国地方を代表する大大名へと急成長しました。

この過程における村上吉充の活躍は高く評価され、毛利氏はその恩賞として、備後国向島一帯の領有を因島村上氏に認めたと伝えられています。

これは、因島村上氏が単なる水軍衆ではなく、毛利氏の軍事体制を支える重要な海上勢力として位置づけられていたことを示すものです。

その後、毛利氏と九州の大勢力・大友氏との対立が本格化すると、因島村上氏も引き続き毛利方として戦いに参加します。

永禄四年(1561)の門司城攻防戦では、吉充は毛利方の武将・乃美宗勝に従って出陣し、海上からの支援を通じて大友軍の攻勢を撃退する戦果を挙げました。

この戦いにおいても、因島村上水軍の機動力と戦闘能力は高く評価され、毛利氏の対九州戦略に欠かせない存在となっていきます。

天正四年(1576)、織田信長と対立を深めていた毛利氏は、信長による兵糧攻めに苦しめられていた石山本願寺を支援するため、海上から兵糧米を搬入する作戦を決行しました。

この作戦において、毛利水軍は能島村上氏の村上元吉、そして乃美宗勝の指揮のもと、織田水軍と第一次木津川口海戦で激突します。

村上吉充もこの作戦に参加し、村上水軍が得意とした火矢や焙烙による火攻め戦法を駆使して織田水軍に壊滅的な打撃を与えました。

この勝利によって、毛利方は兵糧米を石山本願寺へ運び入れることに成功し、織田信長の包囲戦に大きな影響を与えることになります。

木津川口海戦は、因島村上氏を含む村上水軍の戦闘力が畿内にも広く知られる契機となり、その名声を全国に轟かせる結果となりました。

戦国末期における村上水軍の分岐

天正五年(1577)、織田信長は羽柴秀吉を中国方面軍の総大将に任じ、中国地方の覇者であった毛利氏に対して本格的な攻勢を開始しました。この動きは、西国一帯の勢力図を大きく揺るがす転換点となります。

当時、毛利元就はすでに没していましたが、家督を継いだ毛利輝元のもと、小早川隆景・吉川元春らが健在であり、毛利氏は依然として強大な勢力を保っていました。

伊予国では守護大名・河野氏が毛利氏と同盟し、四国では土佐の長宗我部元親と対峙していました。

しかし、織田方による中国侵攻が本格化すると、毛利氏は河野氏を十分に支援する余力を失い、伊予の河野氏は次第に孤立していきます。

こうした状況は、河野氏と運命を共にしてきた来島村上氏にとっても、重大な岐路となりました。

来島村上氏の当主・来島通総は、一族の存続を第一に考え、河野氏との関係を維持すべきか、それとも新たな覇権勢力である織田・羽柴方に与するべきか、苦渋の判断を迫られました。

父・通康の代における河野氏との確執や、家中に残る不満も、この決断に影響を与えたと考えられます。

天正九年(1581)、通総はついに河野氏との関係を断ち、羽柴秀吉に通じる道を選びました。これにより、村上水軍は決定的な分裂を迎えます。

すなわち、来島村上氏が織田・羽柴方に与したのに対し、能島村上氏と因島村上氏は、従来どおり毛利氏・河野氏の側に立つ道を選んだのです。

この選択は、単なる立場の違いではなく、村上水軍の性格を大きく分けるものでした。

来島村上氏が「時代の覇者に従うことで生き残りを図った」のに対し、能島・因島の両家は、瀬戸内海の秩序と旧来の主従関係を重んじ、毛利氏の海上戦力として行動し続けました。

天正十年(1582)、来島通総は河野氏に対して兵を挙げますが、これに激しく反発した毛利氏は、河野氏と連携して毛利水軍を派遣し、来島を攻撃します。

この戦いには、因島村上氏・能島村上氏も毛利方として参陣し、かつて同族であった来島村上氏と刃を交える事態となりました。

激しい攻防の末、来島村上氏は拠点を放棄して伊予を離脱し、通総は豊臣秀吉のもとへ身を寄せます。

一方で、因島村上氏は引き続き毛利氏の海上勢力として活動を続け、瀬戸内海における軍事・輸送・警護の任を担いました。

秀吉の四国攻めで失われた村上水軍の独立

天正十三年(1585)、羽柴秀吉は四国制圧を決断し、長宗我部元親を討つために大軍を四国へ派遣しました。これが、いわゆる「秀吉の四国攻め」です。

この四国攻めにおいて、来島村上氏は豊臣方の水軍として参戦し、秀吉軍の一翼を担って再び伊予の地に関わることとなりました。

この時点で、毛利氏はすでに秀吉と講和し、豊臣政権と同盟関係に入っていました。

毛利氏は信長亡き後の情勢を見極め、中国地方の支配を安堵される代わりに、秀吉に従う道を選んでいたのです。

四国攻めでは、毛利氏の重臣である小早川隆景が主要指揮官の一人として伊予方面を担当しました。

隆景は武力による徹底抗戦ではなく、調略と説得を重視し、伊予の守護大名・河野氏に降伏を勧告します。

これを受け、河野氏は湯築城を開城し、長きにわたる伊予統治の歴史に終止符が打たれました。

この戦いにおいて、因島村上氏は毛利氏の海上勢力として、その方針に従い、豊臣方の一員として参戦しました。

一方で、能島村上氏は伊予国征伐への従軍を拒否したため、小早川隆景の追討を受けることとなります。

その結果、能島村上氏は本拠地であった能島を追われ、安芸国竹原へと強制的に移住させられました。

そして鎮海山城の城主として配置され、瀬戸内海における独立した水軍勢力としての地位を、事実上失うこととなりました。

「海賊停止令」村上水軍が迎えた終焉の時代

豊臣政権が成立し、天正十六年(1588)に「海賊停止令」が発布されると、瀬戸内海の水軍勢力は大きな転換を迫られることとなりました。

この法令によって、私的な武力行使による海上支配は全面的に禁じられ、従来の水軍勢力は、独立した存在として活動を続けることが不可能となりました。

水軍はもはや「海を支配する武装集団」ではなく、中央権力の統制下に置かれる存在へと変質していったのです。

早くから秀吉方に与していた来島村上氏は、その軍功と従順な姿勢を高く評価され、例外的に水軍大名としての存続を許されました。

これにより来島村上氏は、豊臣政権公認の大名家として新たな道を歩むことになります。

一方で、因島村上氏と能島村上氏は、独立した水軍勢力としての立場を失い、海を拠点とした自立的な活動は終焉を迎えました。

両氏は毛利氏を主家として、以後は大名権力の統制下で生きることを余儀なくされていきます。

関ヶ原の戦いと因島村上氏の転機

慶長五年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発しました。

この戦いにおいて、中国地方の大名である毛利氏は西軍に与し、徳川家康率いる東軍と対峙することになります。

毛利氏に従っていた因島村上氏もまた、西軍の一員として行動することとなり、伊予国への出陣を命じられました。

因島村上氏は、能島村上氏の当主・村上元吉とともに、東軍方に属していた加藤嘉明の居城である伊予国松前城の攻略に参加します。

これが、後に「三津浜合戦」「三津刈屋口の戦い」「伊予の関ヶ原」などと呼ばれる戦いです。

しかし、この時期の因島村上氏は、軍事力以前に深刻な問題を抱えていました。

それは、当主家における後継者不足でした。

深刻化する後継者問題

当時、因島村上氏は引き続き第六代当主・村上吉充が一族を率いていました。

吉充は毛利氏の配下として水軍勢力の維持と統率に努めていましたが、実子に恵まれなかったことから、家督相続という深刻な問題を抱えることになります。

当初、吉充は実弟である村上亮康の長男・村上景隆を養子として迎え、一族の後継を担う存在として期待を寄せていました。
しかし景隆は、豊臣秀吉の九州攻めに従軍した際、陣中において病に倒れ、家督を継ぐことなく世を去ってしまいます。

続いて吉充は、同じく亮康の三男・村上吉亮を新たな後継者として迎えましたが、吉亮もまた若くして病没しました。

こうして因島村上氏は、短期間のうちに後継者を相次いで失うという、極めて厳しい状況に直面することとなります。

そのため、慶長五年の戦いに際しては、亮康の次男・村上吉忠が名代として軍勢を率いることとなりました。

三津浜合戦と因島村上氏の壊滅

当時、伊予国松前城(正木城)の城主・加藤嘉明は東軍として出陣しており、城の留守は弟の加藤忠明や家老・佃十成らが守っていました。

この機を捉え、西軍の総大将であった毛利輝元は、伊予国への影響力回復と河野氏再興を狙い、松前城攻略を企図します。

慶長五年九月十四日早朝、毛利方は安芸国竹原を出陣し、宍戸景世を中心に、河野氏の後継的存在である河野通軌、さらに能島村上氏・因島村上氏の水軍を加えた連合軍を編成しました。

この軍勢には、因島村上氏から村上吉忠、能島村上氏から当主・村上元吉が参加していました。

毛利方連合軍はまず興居島に上陸し、同月十六日、伊予国三津浜(現在の愛媛県松山市古三津)に進出します。

軍勢は周辺の民家に分宿して本陣とし、松前城へ使者を送り、豊臣秀頼の朱印状を示して開城を要求しました。

これに対し、松前城を守る佃十成は、正面からの迎撃ではなく策を用いることを選びます。佃は一時的に降伏するかのように装い、毛利方連合軍に油断を生じさせました。

そして九月十七日夜から十八日未明にかけて、佃十成は少数の兵を率い、三津浜一帯に布陣していた毛利方連合軍に対して夜襲を敢行します。

周囲に火を放ちながらの奇襲は大きな混乱を引き起こし、三津刈屋口、刈屋畑一帯で激戦が繰り広げられました。

この戦闘において、能島村上氏当主・村上元吉が討ち取られ、さらにあろうことか、因島村上氏を率いていた村上吉忠までも戦死しました。

村上水軍を代表する有力武将が相次いで命を落としたことで、毛利方連合軍は戦意を喪失し、大きな損害を被ることになります。

毛利方の撤退と因島村上氏の壊滅

敗走した宍戸景世ら残存兵は、荏原城や如来寺などに籠もって抵抗を試みましたが、戦局を覆すには至りませんでした。

一方、関ヶ原では天下の行方を決する本戦が行われていました。

慶長五年九月十五日、徳川家康率いる東軍と、毛利輝元を総大将とする西軍が激突し、西軍は壊滅的な敗北を喫します。

毛利氏は西軍の総大将に擁立されていましたが、関ヶ原本戦においては、実際には主力軍を動かすことはありませんでした。

毛利輝元は大坂城に留まり、名目上の総大将として西軍全体を統括する立場にありましたが、戦場となった関ヶ原には出陣していませんでした。

また、毛利氏の主力である吉川広家・小早川秀秋らの軍勢は関ヶ原周辺に布陣していたものの、戦闘開始後も積極的な攻撃行動を取らず、結果として西軍を支援する動きには至りませんでした。

特に毛利家重臣の吉川広家は、戦前から徳川家康と密かに内通していたとされ、毛利本隊が関ヶ原本戦に参戦しないよう軍を抑え込んでいたと考えられています。

このため、毛利勢は戦場に兵力を有しながらも実質的に動かず、西軍は孤立した状態で戦うことになりました。

この毛利勢の不参戦は、西軍敗北の大きな要因の一つとされています。

やがて関ヶ原本戦において西軍が敗北したとの報が届くと、毛利方は伊予国での作戦継続を断念し、九月二十四日、安芸国へと撤退します。

この三津浜合戦は、単なる局地戦にとどまらず、村上水軍の歴史にとって決定的な転換点となりました。

能島村上氏では当主・元吉を失い、因島村上氏でも名代として出陣していた吉忠が戦死したことで、指導的立場にあった人物が一挙に失われました。

すでに後継者不足に苦しんでいた因島村上氏にとって、この敗北は致命的でした。

関ヶ原の戦いの後

関ヶ原の戦いの敗北により、西軍の総大将に擁立されていた毛利氏は、徳川家康から厳しい処分を受けることになりました。

毛利輝元は関ヶ原本戦において積極的な戦闘行動を取らなかったものの、西軍の中核として名を連ねていたこと、また大軍を擁しながら戦局を左右する動きを見せなかったことが強く警戒されました。

その結果、毛利氏は安芸・石見・出雲などの広大な旧領を没収され、現在の山口県にあたる防長二国(周防国と長門国の二国)のみを与えられる大幅な減封処分を受けます。

石高はおよそ百二十万石から三十数万石へと激減し、居城も広島城から長門国萩へと移されました。

そしてこの出来事こそが、二百五十年後、長州藩として徳川幕府を根底から揺るがす力へと転じていく、その「始まりの始まり」であったのです。

因島村上氏の終焉と再生

関ヶ原の戦い後、因島村上氏と能島村上氏は毛利氏に従い、防長二国へと移りました。

両氏は萩藩の家臣団に組み込まれ、もはや中世以来の独立した水軍勢力ではなく、藩政の一部として再編されることになります。

以後、両村上氏は萩藩の「船手組」に編成され、藩主の御座船の警護、藩領沿岸の海上警備、朝鮮通信使の曳航、漂流船への対応など、藩の海事全般を担う役割を果たしました。

これは、水軍としての武装的自立を失う一方で、近世的な藩政組織の中に生き残るための選択でもありました。

しかし、因島村上氏にとってこの転身は決して容易なものではありませんでした。

当主・村上吉充(義光・吉光)は、与えられた所領が小さく、従ってきた多くの家臣を養うことができませんでした。

そのため、やむなく所領を返上し、家臣団は四散したと伝えられています。

吉充は一時、同じく毛利家配下で竹原にいた船手衆、能島村上宇治のもとに身を寄せました。

その後、長門国豊浦郡矢田間に二千八百石を与えられたものの、なお家中を立て直すには至らず、最終的には所領を返上して浪人の身となりました。

吉充は弓削島に一時居住したのち、大島の内亀田へ移り住み、流転の生活を送ります。

転機が訪れたのは、慶長十五年(1610)のことでした。

芸州竹原の珍海山法成寺和尚の仲介によって、吉充は松山藩主・加藤嘉明と和睦することに成功します。

この和睦により、吉充は田領無宗天城を望む地、伊予国野間郡佐方保に移り住むことになりました。

かつて瀬戸内海を制した水軍の当主は、こうして伊予の地に戻り、静かに余生を送ることとなりました。

一方で、因島村上氏の別系統は毛利氏のもとに残ります。

8代当主・村上元充は周防国三田尻において船手組番頭を務め、その後は吉忠の子である村上吉国がこれを継承しました。

この船手組番頭の職は明治維新に至るまで代々世襲され、因島村上氏は形を変えながらも、毛利藩の海上支配を支える存在として存続していくことになります。

村上吉充が佐方に遺した一族の祈りと記憶

こうして佐方の地に住み始めた村上吉充(義光)は、長本寺を篤く信仰し、寺田を寄進するなどして、その興隆に大きく尽力しました。

戦乱の世を生き抜いた水軍の当主は、この地で仏教信仰に身を寄せ、静かな晩年を送り、やがてその生涯を穏やかに閉じていきました。

元和九年(1623)二月二十九日、吉充は七十六歳で没し、照厳院殿泰如宗達大居士の法名が贈られています。

また長本寺には、因島村上氏歴代当主や三津浜合戦で戦死した家臣の位牌も祀られており、長本寺が因島村上氏と家臣団にとって、深い鎮魂の場であったことを今に伝えています。

さらに、長本寺背後の山には因島村上氏の墓所が広がっており、そこには村上水軍が用いた家紋として知られる「丸に上(のぼり)の字」が刻まれた石碑が並んでいます。

この家紋は、能島村上氏の村上武吉が用いたことで特に知られていますが、因島・来島を含む村上水軍全体の象徴ともいえる意匠であり、一族共通の誇りを示すものでした。

これらの墓標と位牌は、長本寺が単なる一寺院にとどまらず、因島村上氏一族にとって精神的な拠点であり、祖先の霊を弔い、家の歴史を受け継ぐ場であったことを静かに伝えています。

佐方の地には、長本寺だけでなく、村上吉充(義光)とその一族に関わる史跡が、今も各所に残されています。

郷の側山上には、義光公の墓石と伝えられる五輪塔が建てられており、その傍らには「村上備中守義光公」と刻まれた公碑が立っています。

これらの史跡は、戦乱の時代を生き抜いた因島村上氏の当主が、最終的にこの佐方の地に身を落ち着け、生涯を終えたことを示す重要な痕跡です。

恵比寿宮の近くには、村上吉充(義光)夫婦の供養塔と伝えられる石碑があり、その隣には村上吉国夫妻のものと考えられる供養塔も並んで建っています。

吉国は、周防国三田尻において毛利氏の船手組番頭を務めていたとされていますが、その後、村上吉充(義光)によって養子として迎えられたと伝えられています。

やがて武士としての立場を離れ、佐方の地で帰農し、当地で生涯を終えたと考えられます。

これらの墓碑や供養塔は、村上一族が佐方の地に根を下ろし、戦乱の時代を終えて武から祈りと生活へと軸足を移していった歴史を、今に静かに伝えています。

村上氏一族の屋敷跡は、現在の佐方町西部一帯に広がっていたと伝えられており、長本寺はその精神的中心として、今も地域の歴史を静かに伝えています。

長本寺には、村上一族がこの地に生き、戦乱の時代を経て静かに暮らした記憶が、寺の伽藍やその佇まいの中に、今も受け継がれています。

山門は、かつて佐方町にあった村上家庄屋屋敷の門を移築したものと伝えられています。老朽化により一度解体されましたが、昭和五十八年に原型を尊重した形で再建され、現在も往時の面影が残されています。

現在の本堂は昭和四十五年に建立されたもので、庫裡は平成元年の建立です。いずれも近代以降の建造物ではありますが、寺院としての機能を保ちながら、地域の歴史を守り伝える場として大切に整えられてきました。

こうした建造物の一つ一つが、村上一族と長本寺、そして佐方の地との深い結びつきを物語り、長本寺が単なる寺院にとどまらず、地域の記憶を受け継ぐ歴史の場であることを静かに示しています。

寺院名

長本寺(ちょうほんじ)

所在地

愛媛県今治市菊間町佐方2304

宗派

真言宗豊山派

山号

宝珠山

院号

地蔵院

本尊

地蔵菩薩

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