「長泉寺(ちょうせんじ)」の創建は、崇徳天皇の御代、平安時代後期にさかのぼります。
その創建年については諸説あり、保延六年(1140年)あるいは康治元年(1142年)とも伝えられていますが、いずれにせよ、今からおよそ九百年前の春…。
紀州(現在の和歌山県)・根来寺の僧であった瑞長(ずいちょう)が、故郷である伊予の国へと戻ってきたことに始まります。
如意輪観音と瑞長の出会い
波方浦に立ち寄った瑞長は、村人に波方浦に来て説法をして、さらにこう尋ねました。
「この郷にお寺はありますか?」
村人は首を横に振り、こう答えたといいます。
「いえ、お寺はありません。ですが――」
と、少し間を置いて、こう続けました。
「山深い谷あいに、行基作と伝えられる如意輪観音様が一体いらっしゃいます。寺ではありませんが、昔から私たちはそのお姿をいつも大切に拝んでまいりました」
行基作の像と長泉寺の創建
「行基(ぎょうき)」は、奈良時代の高僧で、東大寺の大仏建立にも尽力した人物です。民衆の中に入り、橋や道、寺院の建立など社会事業にも力を注ぎながら、人々の救いのために全国を歩いたことで知られています。
仏像や寺の「行基作」と伝えられるものは、今も各地に数多く残されており、この地に伝わる如意輪観音像も、そうした仏像のひとつであったと考えられます。
その話を聞いた瑞長は、早速その場所へと足を運びました。
そして…。
そこには、確かに尊さが宿る立派な霊像が、ひっそりと安置されていました。
そのお姿に深く心を打たれた瑞長は、地元の人々と相談し、康治元年(1142年)五月、この如意輪観音像を本尊として一寺を建立しました。
これが、後の長泉寺の起源です。
玉生八幡神社とのつながり
実はこの長泉寺、創建当初は「長福寺」という名前の寺院で、近隣に鎮座していた玉生八橋宮(現:玉生八幡神社)の別当寺(神社の祭祀を担う寺)であったと伝えられています。
玉生八幡神社は、波方の人々の信仰を古くから集めてきた由緒ある神社で、起源は舒明天皇の時代(7世紀)にさかのぼるとされ、海から現れた神秘の玉を神として祀った「玉生宮」がもとになっています。
さらに時代が下ると、宇佐八幡の分霊を受けて「八幡宮」が加わり、やがて「玉生八幡宮」として地域の守護神となっていきました。
このように、長泉寺は神と仏が共に祀られる神仏習合の時代背景の中で、地域の信仰を支える要として生まれた寺だったのです。
来島村上家の祈願所としての歴史
中世に入ると、長泉寺は村上水軍御三家の一つ「来島村上家」の祈祷所として、とりわけ篤く信仰を集めるようになったと伝えられています。
当時の長泉寺は、真言宗の密教寺院として知られ、護摩や加持祈祷など、戦勝や海上安全を願う儀式が行われていたと考えられています。
こうした歴史の名残は、今も境内に残され寺の一角には、鎌倉時代に築かれたとされる五重の石塔が静かに佇んでおり、当時の信仰と祈りの重みを今に伝えています。
もうひとつの遍路「半島四国八十八ヶ所」
時代は移り、戦後の復興が進んだ昭和30年代。
焦土と化した町並みが少しずつ立ち上がり、人々の暮らしが戻ってくる中で、それでもなお、心の中には癒されぬ傷や、静かな喪失感が残されていました。
そうした時代に、長泉寺は地域の信仰と文化を再び結び直す場として歩み始めます。
この新たな一歩を導いたのが、長泉寺の住職であり、元・波方町長でもあった故・川越秀世氏です。
川越氏は町内の有力者たちとともに「半島四国奉賛会」を組織し、約1年をかけて「巡礼の道」の整備を進めました。
もしかしたら、戦後の荒廃した時代だからこそ、地域の心のよりどころとなる巡礼の道を作りたい…そんな静かな思いがあったのかもしれません。
そして1955年(昭和30年)旧暦3月20日、長泉寺を「第八十八番札所」=結願所とした「半島四国八十八ヶ所」が創設・開所されました。
四国霊場八十八ヶ所にならい、波方半島をぐるりと巡るように設けられた石仏の巡礼路は、信仰とともに歩く静かな道として、多くの人々に受け入れられていきました。
なお、今治市の資料では1957年(昭和32年)を開場年とする記録もあり、整備から定着に至るまでには、段階的な歩みがあったこともうかがえます。
「信仰・観光・健康」を三本柱に据えたこの巡礼は、単なる宗教行事にとどまらず、地域振興や健康づくりの一環としても親しまれてきました。
春の訪れとともに、毎年4月第4金曜日から日曜日にかけて開催されるこの巡礼では、白装束に身を包んだお遍路さんたちが、瀬戸内の多島美や来島海峡の絶景を背景に歩く姿が見られ、今や波方の春を告げる風物詩となっています。