波方町にひっそりと佇む「長泉寺(ちょうせんじ)」は、長い歴史を刻んできた古刹です。豊かな自然に包まれたその境内には、訪れる人の心を和ませる落ち着いた空気が漂っています。
近年では、「半島四国八十八ヶ所霊場」の結願所としても知られ、巡礼者たちの祈りの終着点として静かな信仰を集めています。
長泉寺の起源と行基の仏像
長泉寺の歴史は、今からおよそ900年前。
平安時代後期、崇徳天皇(在位1123〜1141年)の御代にさかのぼります。
貴族政治がゆるやかに退潮し、武士や地方豪族が台頭し始めたこの時代、都の喧騒から離れた静かな村に、瑞長(ずいちょう)という瑞長という一人僧がふらりと現れました。
瑞長は紀伊国(現在の和歌山県)にある真言宗の大本山・根来寺に属して修行を積んでいた僧侶で、生まれ故郷である伊予の地へと帰郷した旅の途中でした。
村人たちが大切にしていた仏像
その中で、瑞長は瀬戸内海に臨む波方浦(当時、伊予国野間郡)に立ち寄り、村人たちを前に仏法を説きました。
そして、ふとこう問いかけました。
「この郷に、お寺はありますか?」
村人たちは、少し戸惑ったように顔を見合わせ、やがて首を横に振って答えました。
「いえ、お寺はございません。ですが…」
と、少し間を置いて、こう続けました。
「山深い谷あいに、行基作と伝えられる如意輪観音様が一体いらっしゃいます。寺ではありませんが、昔から私たちはそのお姿をいつも大切に拝んでまいりました」
それは寺院の本尊というよりも、村人たちが代々守り続けてきた“素朴な信仰のよりどころ”だったのです。
その話を聞いた瑞長は、いてもたってもいられず、すぐにその谷あいの地へと足を運びました。
静かな木々に囲まれた山あいの一角。
村人に教えられたとおり、そこには、確かに尊さが宿る立派な霊像が、ひっそりと安置されていました。
その姿に深く心を打たれた瑞長は、この地の村人と相談し、康治元年(1142年)五月、この如意輪観音像を本尊として一寺を建立しました。
これが、後に「長泉寺」と呼ばれる寺のはじまりです。
行基とは
如意輪観音を彫ったと伝えられる「行基(ぎょうき)」とは、奈良時代に活躍した僧で、仏教を庶民のあいだに広めた第一人者「行教律師(ぎょうきょうりっし)」上人のことです。
行基は、大和国(現在の奈良県)に生まれ、大安寺に身を置いて仏法を学んだ後、当時の僧としては異例のかたちで、寺の外に出て民衆の中へと入っていきました。
当時の国家仏教は、貴族や官僚を中心とした閉ざされたものが主流でしたが、行基は村々を巡って人々に仏の教えを説き、橋や道路、用水路、ため池などを築きながら、社会福祉の実践にも尽力したのです。
その活動は一時、国家から禁圧されるほどに異例でしたが、後に聖武天皇によりその功績が認められ、東大寺の大仏造立事業にも協力するなど、民間と朝廷をつなぐ存在として重きをなすようになりました。
現在でも「行基作」と伝わる仏像や地蔵尊は全国に数多く残されており、それらは彼が説いた“庶民のための仏教”の精神を今に伝えるものです。
この波方の山中に安置されていた如意輪観音像も、そうした信仰の流れをくむ尊像のひとつとして、地元の人々により代々大切に守られ続けていたと考えられます。
仏像や寺の「行基作」と伝えられるものは、今も各地に数多く残されており、この地に伝わる如意輪観音像も、そうした仏像のひとつであったと考えられます。
「長福寺」玉生八幡神社の別当寺
実はこの長泉寺、創建当初は「長福寺」という名前の寺院で、近隣に鎮座していた玉生八橋宮(現:玉生八幡神社)の別当寺(神社の祭祀を担う寺)であったと伝えられています。
玉生八幡神社は、波方の人々の信仰を古くから集めてきた由緒ある神社で、起源は舒明天皇の時代(7世紀)にさかのぼるとされ、海から現れた神秘の玉を神として祀った「玉生宮」がもとになっています。
さらに時代が下ると、宇佐八幡の分霊を受けて「八幡宮」が加わり、やがて「玉生八幡宮」として地域の守護神となっていきました。
このように、長泉寺は神と仏が共に祀られる神仏習合の時代背景の中で、地域の信仰を支える要として生まれた寺だったのです。
来島村上家の祈願所としての歴史
中世に入ると、長泉寺は村上水軍御三家の一つ「来島村上家」の祈祷所として、特に篤く信仰を集めるようになったと伝えられています。
当時の長泉寺は、真言宗の密教寺院として知られ、護摩や加持祈祷など、戦勝や海上安全を願う儀式が行われていたと考えられています。
こうした歴史の名残は、今も境内に残され寺の一角には、鎌倉時代に築かれたとされる五重の石塔が静かに佇んでおり、当時の信仰と祈りの重みを今に伝えています。
もうひとつの遍路「半島四国八十八ヶ所」
時代は移り、戦後の復興が進んだ昭和30年代。
焦土と化した町並みが少しずつ立ち上がり、人々の暮らしが戻ってくる中で、それでもなお、心の中には癒されぬ傷や、静かな喪失感が残されていました。
そうした時代に、長泉寺は地域の信仰と文化を再び結び直す場として歩み始めます。
この新たな一歩を導いたのが、長泉寺の住職であり、元・波方町長でもあった故・川越秀世氏です。
川越氏は町内の有力者たちとともに「半島四国奉賛会」を組織し、約1年をかけて「巡礼の道」の整備を進めました。
もしかしたら、戦後の荒廃した時代だからこそ、地域の心のよりどころとなる巡礼の道を作りたい…そんな静かな思いがあったのかもしれません。
そして1955年(昭和30年)旧暦3月20日、長泉寺を「第八十八番札所」=結願所とした「半島四国八十八ヶ所」が創設・開所されました。
四国霊場八十八ヶ所にならい、波方半島をぐるりと巡るように設けられた石仏の巡礼路は、信仰とともに歩く静かな道として、多くの人々に受け入れられていきました。
なお、今治市の資料では1957年(昭和32年)を開場年とする記録もあり、整備から定着に至るまでには、段階的な歩みがあったこともうかがえます。
「信仰・観光・健康」を三本柱に据えたこの巡礼は、単なる宗教行事にとどまらず、地域振興や健康づくりの一環としても親しまれてきました。
春の訪れとともに、毎年4月第4金曜日から日曜日にかけて開催されるこの巡礼では、白装束に身を包んだお遍路さんたちが、瀬戸内の多島美や来島海峡の絶景を背景に歩く姿が見られ、今や波方の春を告げる風物詩となっています。