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神社SHINTO

古くから信仰を集めてきた神社の由緒と、その土地に根付いた文化を紹介。

寺院BUDDHA

人々の心のよりどころとなった寺院を巡り、その背景を学ぶ。

史跡MONUMENT

時代ごとの歴史を刻む史跡を巡り、今治の魅力を再発見。

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大仙寺(今治市・今治中央地区)

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今治市の中心部に広がる「寺町」。

この地域には宗派を超えて数多くの寺院が集まり、江戸時代から現代に至るまで、今治の精神文化を支えてきました。

その寺町の一角に、静かに佇むのが「大仙寺(だいせんじ)」です。

【創建】広島の「松植山新興寺」

大仙寺は元々は現在の場所ではなく、安芸国豊田郡矢野村(現・広島市安芸区矢野)に創建された「松植山新興寺(しょうしょくざん しんこうじ)」という寺院を起源としています。

新興寺の創建時期は明確ではないものの、文明七年(1475年)にその生涯を閉じた満庵桂菊(まんなんけいぎく)大和尚が開いたと伝えられています。

「松植山大泉寺」今治への移転と改称

その後、天文初年(1532年)、新興寺の第五世住職である艱山業育(ようざん そういく・養山業育)大和尚の代に、寺は四国伊予国の今治へと移転されました。

新たな地は、現在の愛媛県今治市本町四丁目。

移転にともない寺号も「松植山大泉寺(しょうしょくざん だいせんじ)」へと改められ、以後この地に根を下ろすこととなります。これにより、旧地にあった新興寺は廃寺となりました。

中興の祖・以天圭穆と勝運寺との縁

その後、「松植山大泉寺」の第六世住職として迎えられたのが、曹洞宗の高僧である以天圭穆(いてん けいぼく)大和尚です。

以天圭穆は、大泉寺の寺勢が衰えつつあった時期に着任し、堂宇の整備や教義の再興に尽力しました。その功績は大きく、のちに「中興の祖」としてその名が語り継がれるようになります。

勝運寺の末寺

さらに彼は、天正9年(1581年)、現在の広島県竹原市忠海床浦に曹洞宗寺院「勝運寺(しょううんじ)」を創建し、その初代開山を務めたことでも知られています。

この寺は、安芸地方における曹洞宗の拠点として重要な役割を果たすことになりました。

以天圭穆のこうした宗教活動の広がりと徳望により、大泉寺と勝運寺との間には深い縁が結ばれ、大泉寺は正式に勝運寺の末寺として宗派的な位置づけを得ることになります。

以天圭穆は、勝運寺を開山した翌年の天正10年(1582年)3月にその生涯を閉じましたが、彼の残した教えと信仰の灯火は、両寺において今なお受け継がれています。

江戸時代の再建と本尊の改変

江戸時代中期の元禄4年(1691年)、長らく荒廃していた大泉寺は、住職・松本本秀(しょうがん ほんしゅう)の代に再興されました。

そして、この節目にあたってそれまで本尊として祀られていた観世音菩薩に代わり、篤信の檀徒・越智安道(おち やすみち)の手によって釈迦如来像が奉納されました。

本仏「釈迦如来」

釈迦如来は、仏教の開祖・釈迦牟尼仏を本地とする仏であり、曹洞宗においては禅の正法を説いた根本仏として、信仰と修行の中心に据えられています。

その教えは道元禅師によって「只管打坐(しかんたざ)」という坐禅の実践へと昇華され、以後の曹洞宗の教義を形づくる柱となりました。

この釈迦如来像の安置は、大泉寺の宗派的な帰属をより鮮明にするものであると同時に、教義に基づく信仰の再構築を象徴するものであり、寺の新たな歩みの起点となったのです。

現在の「蓮来山大仙寺」へ

江戸時代中期、第十世住職・瑞岩真竜(ずいがん しんりゅう)大和尚の時代に、現在の「蓮来山大仙寺(ほうらいざん だいせんじ)」へと改められました。

火災、戦災、そして復興の歩み

大正13年(1924年)、大仙寺は本堂を焼失するという大きな火災に見舞われました。

しかし、檀信徒たちの尽力により、昭和7年(1932年)には新たな本堂が再建され、寺は再びその荘厳な姿を取り戻します。

ところが、再建からわずか13年後の昭和20年(1945年)、寺は再び存亡の危機に直面します。

それは、再建された本堂どころか、今治という町全体が焼き尽くされかねない未曾有の事態でした。

それが、今治空襲です。

今治空襲

昭和20年(1945年)、太平洋戦争末期の日本各地では、米軍による無差別爆撃が激化していました。今治市も例外ではなく、3度にわたる空襲を受けることとなったのです。

中でも最大の被害をもたらしたのが、8月5日深夜から6日未明にかけての3度目の空襲でした。

この日、米軍のB-29爆撃機編隊が今治上空に飛来し、わずか数時間のあいだに260発を超える爆弾を投下。

街は瞬く間に真っ赤な炎に包まれ、猛烈な延焼によって、今治市街地の約75%が焼失。多くの市民が命を落としました。

大仙寺がある寺町も甚大な被害を受け、多くの寺院が伽藍や尊像、古文書といった貴重な文化財とともに焼失しました。
しかし、奇跡的に大仙寺の本堂をはじめとする主要建物は焼失を免れ、寺は戦火を生き延びることができました。

戦後復興の一端を担った大仙寺

瓦礫と焦土のなか、ただひとつ本堂を残した大仙寺の姿は、多くの市民にとって希望の象徴となりました。

焼け野原となった今治の町にあって、焼失を免れた大仙寺の空間は、やがて人と人とが再びつながる場所、立ち上がる拠点となっていきます。

3度目の空襲では、伊予銀行今治支店も店舗を焼失し、混乱のさなかにありながらも、地域経済の中核を担う立場として、一刻も早い営業再開が求められていました。

そんな中、同年8月20日より、大仙寺の本堂が伊予銀行今治支店の仮営業所として利用されることになります。

宗教施設である寺院が、銀行業務という日常の経済活動の場を担ったこの出来事から、戦災の爪痕の深さを物語るとともに、大仙寺が地域社会を支える根幹的な存在であったことがわかります。

その後、昭和21年(1946年)5月10日には仮営業所は宝来町のカトリック教会へと移転しましたが、大仙寺が果たした役割の大きさは、決して小さなものではありません。

本堂は、祈りの場でありながら、戦後の混乱の中で人々の生活と心を支える“拠り所”として息づいていたのです。

深見利兵衛と信仰の継承

現在も大仙寺は、今治の精神文化を支える存在として、静かにその姿をとどめています。

その境内には、伊予木綿の中興の祖とされ、伯方島・木浦の塩田開拓にも尽力した今治藩士・深見利兵衛(ふかみ りへえ)の墓がひっそりと佇んでいます。

深見利兵衛は、江戸時代の実業家的武士としても知られ、江戸廻船などの海運業の振興にも大きな功績を残しました。

なかでも、伯方町・木浦における塩田の開発で地域経済の礎を築き、開祖としては今なお地元の人々に語り継がれています。

「あごなし地蔵」深見利兵衛が伝えた“守り仏”

その深見利兵衛が、嘉永元年(1848年)、島根県・隠岐の島から大仙寺へ勧請したと伝わるのが、あごなしのお地蔵さんこと、「あごなし地蔵尊(無腮地蔵尊)」です。

この地蔵はその名のとおり、あご(腮)がなく、やわらかな面差しで微笑むような表情を湛えています。

地元では古くから「歯痛に効く地蔵さん」として知られ、口中の病、特に歯痛や喉の痛みにご利益がある仏として信仰を集めてきました。

あごなし地蔵の由来

その由来には、平安時代の博学の文人・小野篁(おののたかむら)にまつわる伝承が語り継がれています。

小野篁が隠岐に配流された際、ひどい歯痛に苦しんでいたところ、ある地蔵に一心に祈ったところ、その痛みが嘘のように和らいだといいます。

その霊験あらたかな地蔵を、後世になって深見利兵衛が当地へと勧請したとされているのです。

豆腐を供える風習

あごなし地蔵尊には、豆腐一丁をお供えして祈願するという、今も続く独特の風習があります。

やわらかい豆腐は、“あごのない地蔵”への思いやりの表現であり、同時に「どうか私の痛みを引き受けてください」と願う人々の切実な祈りが込められています。

この素朴であたたかな信仰は、大仙寺周辺の地域文化の中に今も息づいており、地蔵盆や個人の祈願の際には、豆腐を供える姿が静かに見られます。

地蔵尊と人々との深い結びつきは、現代においてもなお、心を和ませる風景として残されています。

二代目あごなし地蔵尊

実は、現在大仙寺に祀られているあごなし地蔵尊は、二代目にあたり、戦後に再建されたものです。

今治空襲の際、大仙寺の本堂など主要な建物は奇跡的に焼失を免れましたが、あごなし地蔵尊とその地蔵堂は戦火によって焼け落ちてしまったのです。

しかし、戦後になって地域住民の手によって新たな尊像が再建され、再び本堂の一角に丁重に祀られることとなりました。

現在のあごなし地蔵尊も、かつてと変わらぬやさしい面差しをたたえ、訪れる人々の心のよりどころとして、静かにその姿を保ち続けています。

大仙寺に息づく再建の祈り

境内には、この信仰の象徴を讃える長尾秀子による歌碑も建立されています。

国の為 身もすこやかに思ふこと
のぶべき口を守りたもふよ

この歌には、戦後の混乱のなかでも健康と平和を願い、地蔵に祈りを捧げた人々の素朴な想いが込められています。

そして今もなお、大仙寺は静かにその姿を保ちながら、人々の心に寄り添い続けています。

寺院名

大仙寺 (だいせんじ)

所在地

愛媛県今治市本町4−113

電話

0898-22-3493

宗派

曹洞宗

山号

蓬莱山

本尊

釈迦如来

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