今治市の中心部に広がる「寺町(てらまち)」。
この地域は、宗派を超えて数多くの寺院が集まり、江戸時代から今に至るまで、今治の精神文化を支えてきました。
この寺町の一角に、ひときわ重厚な佇まいを見せるのが「大雄寺(だいおうじ)」です。
戦国から近世、そして戦禍を経て現代へと受け継がれてきたその歩みは、単なる一寺の歴史にとどまらず、今治の歩みとともに、静かにその歴史を紡いできました。
大庵須益によって玉川地区に創建された寺院
大雄寺は、曹洞宗の高僧・大庵須益(だいあん・しゅえき)によって、文明5年(1473年)に創建された寺院です。
もともとは現在の場所ではなく、法界寺村(現在の今治市玉川町)に建立され、当時の村における信仰の中心として、地域の人々の心の拠り所となっていました。
須益は、1406年に薩摩国(現在の鹿児島県)で生まれ、福昌寺で出家しました。その後、山口県の大寧寺や龍文寺で住持を務め、さらに瑠璃光寺など、全国各地で数多くの寺院を開き、曹洞宗の教えを広めました。
1473年に亡くなるまでに、須益が創建した寺院は数十にものぼるとされており、大雄寺もそのひとつに数えられています。
藤堂高虎によって整備された地域「寺町」
時は流れ、慶長5年(1600年)、日本の歴史を大きく動かした「関ヶ原の戦い」が勃発します。
この戦いで東軍に属していた藤堂高虎(とうどう たかとら)は、徳川家康の下で軍功を挙げ、東軍の勝利に大きく貢献しました。
藤堂高虎は、もとは浅井長政や豊臣秀長に仕えていた近江出身の武将で、築城の名手としても知られ、数々の城の設計・普請に携わったことで名を高めました。
忠義と実務能力を兼ね備えた高虎は、時の権力者に重用され、次第に所領を広げていきます。
関ヶ原の戦後、その功績によって家康から伊予国今治17万石を与えられ、1602年には今治城の築城に着手します。同時に、城を中心とした城下町の整備も本格的に進められていきました。
この町づくりの過程で、今治の中でも特に由緒ある14の寺院が集められ、計画的に配置されました。
それが、多くの寺院が立ち並ぶ、「寺町」と呼ばれる区域です。
防衛拠点としての寺町
寺町は、戦国時代が終わり、平和な統治が始まった江戸時代初期に築かれた各地の城下町において、防衛上の要地として整備された区域です。
戦乱の世が終わったとはいえ、それまで命懸けで戦ってきた大名たちにとって、「いつ何が起こるかわからない」という警戒心は簡単には消えるものではありませんでした。
そのため、江戸初期に築かれた城下町には、有事を想定した軍事的機能が備えられました。
寺院は本来、広い敷地、厚い土塀、石垣、瓦葺の大屋根を備える堅牢な施設で、戦国期までは砦として戦の拠点として利用されることもありました。
城から見て防衛上の弱点となる方角に寺町を設けることで、城を包み込むように守る緩衝帯となったのです。
これは、大坂城下の「天王寺町」、金沢城の「小立野寺町」、名古屋の「中村寺町」など、他の城下町にも共通する都市構造であり、今治でも例外ではありませんでした。
今治では、今治城を中心に武家屋敷や町人の暮らす町場が整備され、その外縁部、特に海からの侵入が想定される東側から北東側にかけての外堀外に、複数の寺院が集められて「寺町」が形成されました。
この配置により、海城としての構造的な脆弱性が補完され、城の防衛体制はより強固なものとなったのです。
統制のための配置と宗教勢力の管理
寺町には、宗教勢力を一括して管理・監視するという意図もありました。
戦国期までの寺院や神社は、膨大な荘園や経済力を背景に独自の軍事力や政治的影響力を持つ存在でした。
比叡山延暦寺や高野山などに代表されるように、武装化した僧兵を抱える宗教組織も少なくありませんでした。
江戸幕府は、そうした潜在的な勢力を警戒し、寺社は寺社町に集める、町人地とは切り離す、幕府の許可制とするなどの政策で、その動きを掌握しようとしました。
今治でも藤堂高虎は、町人の居住・商業空間と宗教空間を分離し、都市の秩序維持と統治の安定を図ったと考えられます。
信仰と生活の場、そして門前町へ
寺町は、庶民にとっての信仰の中心地でもありました。
江戸時代に檀家制度が整備されると、各戸が特定の寺院に所属し、葬儀・年忌法要・施餓鬼などの儀礼を通じて、寺との関係を深めていくようになります。
寺院は単なる宗教施設ではなく、家族や地域の精神的支柱として人々の暮らしに寄り添う存在となっていきました。
やがて、寺町の門前には町屋が生まれ、そこに住む町人や職人たちによって様々な生業が営まれるようになります。
江戸中期以降になると、墓参を兼ねた行楽が盛んになり、寺町は信仰と娯楽が融合したにぎわいの場へと変貌していきました。
境内やその周辺には、和菓子屋、寿司屋、竹細工職人、写経屋などが軒を連ね、参詣客を迎える門前町の風情が生まれます。
人々は借家長屋に住み込み、職住一体のかたちで日々の暮らしと信仰を結びつけながら生活していました。
こうした生活様式の中で、いわゆる「下町的な生活文化」が息づくようになっていったのです。
今治の寺町においても、城の防衛線の一部でありながら、同時に民衆の信仰と暮らしが交差する独特の空間が成立していきます。
その町並みの原型は、この江戸中期から後期にかけて形成され、現代にまで連なる歴史の風景を形づくる礎となっているのです。
藤堂家の菩提寺として
1608年(慶長13年)頃に今治城は完成 城下町の整備も着々と進められ、町全体が計画的に形づくられていきました。。
そしてその翌年、1609年(慶長14年)には、高虎はその功績を評価されて伊勢・津藩へと加増転封され、今治を離れることとなります。
その後、今治には養子の藤堂高吉が入り、今治城の城代として政務を引き継ぐと、両親の菩提を弔うため、大雄寺を現在の寺町に移設しました。
以降、藤堂家の菩提寺として重んじられ、今治城下における曹洞宗の中核寺院として、重要な位置を占めるようになりました。
今治藩と大雄寺の新たな関係
しかし、寛永12年(1635年)、藤堂高吉が伊賀上野へ転封されたことで、大雄寺に対する藤堂家の庇護は終わりを迎えました。
藤堂家に代わって今治に入封したのが、久松松平家の松平定房(久松定房)です。
松平定房は、初代今治藩主として新たな藩政を担い、以後、今治は久松家による治世が続くことになります。
大雄寺もまた、この新たな藩主との関係の中で、今治藩と深いつながりを築きながら存続してくことになります。
とくに、松平定房の分家であり、筆頭家老を務めた松平長政(久松長政)の菩提寺となったことで、寺の地位は引き続き高く保たれました。
さらに寛政12年(1800年)には、七代当主・松平定剛(久松定剛)の発願により本堂が再建が行われました。
この時に再建された本堂は、壮麗な造りで、格式の高さが感じられる佇まいを見せており、藩主の信仰を象徴する寺院として、領民や家臣たちの深い信仰を集めました。
明治維新によって衰退
このように、江戸時代を通じて地域の信仰を集め続けていた大雄寺でしたが、明治維新後の宗教政策の転換により、大きな変化を迎えることになります。
明治元年(1868年)、新政府は王政復古と近代国家の形成を目指す中で、神道を国教的な柱と位置づける方針を打ち出し、同年、「神仏分離令(神仏判然令)」を発布しました。
これは、それまで長らく日本で自然に行われていた神仏習合のあり方を否定し、神道と仏教を制度的に分離することを求めるものでした。
その結果、全国各地で神社と寺院の関係が断ち切られ、多くの寺院が別当としての役割を失い、廃寺や仏像破壊といった事態に至る「廃仏毀釈」の動きが広がっていきます。
大雄寺もこの時代の激動の波に飲まれ、大きな打撃を受けました。やがて住職がいない無住の状態となり、徐々に衰退の道をたどることとなります。
そして、昭和に入ると、さらに存続を揺るがす未曾有の危機が大雄寺を襲います。
それが「今治空襲」です。
「今治空襲」大雄寺の焼失
昭和20年(1945年)、太平洋戦争の末期、今治市は3度にわたる空襲に見舞われました。
なかでも、8月5日から6日にかけての夜間空襲では、アメリカ軍のB-29爆撃機によって260発以上の爆弾が投下され、今治市街地の大半が炎に包まれました。
この空襲により、全市戸数の約75%が焼失するという壊滅的な被害が生じ、市民生活はもちろん、歴史的・文化的資産にも甚大な損害が及びました。
このとき、大雄寺もまた焼夷弾の猛火に巻き込まれ、本堂だけではなく全ての建物をが焼失してしまいました。
戦後復興と継承の軌跡
このような壊滅的な被害にもかかわらず、地域の人々の信仰と尽力によって、大雄寺は戦後に再建されました。
昭和22年(1947年)には庫裡(くり)が再建され、戦後の区画整理の中で、昭和23年(1948年)に墓地が整理されました。
その後も段階的に復興が進められ、昭和40年(1965年)には本堂が、さらに昭和46年(1971年)には山門が再建され、現在の大雄寺の景観に整えられました。
先人たちの記憶が残る境内
大雄寺は曹洞宗の教えとともに、地域の祈りの場として今も静かに息づいています。
境内には、再建以前から伝わる墓所も残されており、七代藩主・松平清儀(久松清儀)の墓をはじめ、上野家・深谷家など今治藩の重臣たちの墓所が点在しています。
境内には、戦前から受け継がれてきた墓所も残されており、松平清儀の墓をはじめ、上野家や深谷家など、今治藩の重臣たちの墓が静かに並んでいます。
今もなお、大雄寺は地域の人々に寄り添いながら、先人たちの記憶を伝え、心の拠り所としてこの地にあり続けています。