四国八十八ヶ所霊場の第57番札所「栄福寺(えいふくじ)」は、愛媛県今治市玉川町八幡(やわた)に位置する歴史ある寺院で、古くから多くの巡礼者が訪れる霊場です。
栄福寺創建は、平安時代初期の弘仁年間(810〜824年)。
嵯峨天皇(在位809年〜823年)は仏教の力を通じて国家の安泰や民衆の平穏を祈ることを願い、勅願寺(天皇の願いによって建立される寺)を各地に設立することを進めていました。
この勅願を受けたのが、空海(弘法大師)です。
空海と密教の伝来
延暦23年(804年)、空海は遣唐使として唐(現在の中国)に渡りました。
この時、彼は日本の仏教をさらに深め、密教の教えを学ぶことを目的としていました。
長い航海を経て唐の首都である長安にたどり着いた空海は、密教の高僧である恵果(けいか)に師事し、密教の奥義を伝授されます。
恵果は空海を高く評価し、密教のすべてを託したと言われています。
延暦24年(805年)、空海は密教の経典や法具、仏像などを持って帰国し、これらの貴重な教えをもとに日本での密教布教を始めました。
帰国後、空海はその才能と人徳から嵯峨天皇の厚い信頼を受け、仏教の教えを通じて民を救うことを期待されるようになります。
さらに空海は、嵯峨天皇からの勅命を受けて日本各地に寺院を建立し、密教の教えを広めていきました。
空海が刻んだ「阿弥陀如来」
弘仁年間(810〜824年)、この地(今治)に訪れた空海は、周辺海域で海難事故が相次いでいるということを耳にし、何とかして災難を鎮めようと考えました。
そこで空海は、府頭山(八幡山)に登り、山頂で「護摩供(ごまく)」という特別な修法を行うことを決意します。
この護摩供は、火を焚き、不浄を清めて災いを鎮め、地域に平穏をもたらすための祈りの儀式です。空海はその炎にすべての祈りを込め、日夜修行に励みました。
そして、護摩供を続けた末、ついに満願の日が訪れました。
満願の日とは、長い修行や祈りが一区切りを迎え、願いが成就することを期待する特別な日です。
この日、空海の心を込めた祈りが最高潮に達し、すべての想いを炎に託しました。
すると、山頂から見下ろす海は静寂に包まれ、まばゆい光が辺り一面を照らし、その光に包まれるようにして、海から阿弥陀如来が浮かび上がるように現れました。
それは、空海の祈りが成就した瞬間でした。
「栄福寺」の前身「府頭山長福寺」
この神秘的な光景に深く感銘を受けた空海は、阿弥陀如来の姿を心に刻み、その感動を形にするために自らの手で阿弥陀如来の尊像を彫り上げました。
そして、その尊像を安置するためにお堂を建て、本尊として祀りました。
このお堂は山号を府頭山として、「長福寺」という名が与えられました。
この長福寺が現在の「栄福寺」の起源とされています。
神仏合体の霊場「八幡宮」の誕生
時代は進み、八幡信仰が全国へと広がりを見せていた平安時代の貞観元年(859年)。
都であった平安京は、表向きこそ華やかな貴族文化に彩られていましたが、裏で深い闇を抱えていました。
地方の荘園では豪族が私兵を養い、都の内外では盗賊や乱暴者が夜ごとに現れ、財貨を奪い、人々の命までも容赦なく奪っていったのです。
治安は衰え、都の夜は恐怖に包まれていました。
この混乱の中で即位したのが、わずか9歳(満8歳)の若き帝、清和天皇(せいわてんのう)でした。
天皇とその周囲の人々は、乱れゆく世と都の安寧を願い、神の御加護を求め、それにふさわしい人物を探し求めました。
そこで白羽の矢が立ったのが、大和国(現在の奈良県)の大安寺に身を置く高僧、行教律師(ぎょうきょうりっし)上人でした。
行教上人が授かった御神託
行教上人は、前年の天安2年(858年)、真言密教の開祖として名高い弘法大師(空海)の推薦を受け、清和天皇の即位を祈願するという大役を任され、九州の宇佐八幡宮(現・宇佐神宮)へ派遣されていました。
その翌年、無事に清和天皇の即位が果たされたため、行教上人はさらに天皇の護持と国家鎮護を祈り、宇佐八幡宮において90日間の参籠修行 ·(さんろうしゅぎょう・断食修行)に入りました。
行教上人は、宇佐八幡宮の御神前に籠り、昼夜を問わずただひたすら祈りを捧げ続けたのです。
食事や休息を最小限にとどめ、雑念を払って身を清め、心を尽くして神の御心をお受けしようとしたその修行は、厳しく孤独なものでした。
するとある夜、その献身的な姿勢に感応した八幡神(八幡大菩薩)が夢の中に現れ、次のように神託を授けました。
「吾れ深く汝が修善に感応す。敢えて忍忘する可からず。須らく近都に移座し、国家を鎮護せん」
(私はあなたの誠実な修行に深く感じ入りました。その功績を決して忘れません。どうか私を都の近くにお迎えし、国を守らせてください)
「勝岡八幡宮」府頭山の山頂に創建
この神託を受けた行教上人は、「山城国(現在の京都府)」の男山に新たな社を創建しようと決意し、その創建のために瀬戸内海を何度も往復していました。
しかし、ある旅の途中で暴風雨に巻き込まれ、今治の沖で漂流してしまいます。命からがら今治の地にたどり着いた行教上人は、目の前にそびえる「府頭山」が、目指していた男山にあまりにも似ていることに驚き、特別な縁を感じました。
さらに、当時の府頭山の山頂には阿弥陀如来を本尊とする「長福寺」が建てられており、阿弥陀如来は八幡神の本来の姿とされる「本地仏(ほんじぶつ)」でもありました。
八幡神と仏教が深く結びついていることを感じ取った行教上人は、山頂に上り祈願を行いました。
するとその日の夜、不思議なことが起こります。
なんと夢の中で阿弥陀如来が行教上人の前に現れ、神秘的なお告げを残したのです。
この神託により、行教上人はこの地に八幡明神を勧請することを決意します。
翌年の貞観2年(860年)、行教上人の決意を受けた朝廷の支援によって、勝岡八幡宮(かたおかはちまんぐう)の社殿造営が急ピッチで進められ、ついに府頭山の山頂に壮麗な神社が完成しました。
この勝岡八幡宮の創建は、八幡神への信仰と仏教の教えが結びつく「神仏合体」の霊場の誕生を意味し、神道と仏教の融合が地域の信仰に深く根付く契機となりました。
やがて、勝岡八幡宮は、四国八十八箇所霊場の第57番札所として定められ、巡礼者にとって重要な拠点となりました。
当時、勝岡八幡宮の祭祀は、天慶年間(938〜947年)に創建された浄寂寺(今治市・清水地区)が担い、山麓に建てられた「弥陀堂」を宿泊の場として巡礼者(遍路)を迎え入れていました。
「勝岡八幡宮」→「伊予の石清水八幡宮」
永承年間(1046〜1053年)には、京都の本家「石清水八幡宮」にあやかり、勝岡八幡宮は「伊予の石清水八幡宮(現」石清水八幡神社)」と称されるようになりました。
その後も、浄寂寺が巡礼者(遍路)を迎え入れていましたが、宿舎でもあった弥陀堂が焼失してしまったことで、貞享(1684年〜1688)の頃に長福寺が別当寺となり、納経業務や仏教の宗教活動を担うようになりました。
栄福寺としての歩み
その後「長福寺」は、もともとの山号であった、石清水八幡宮(石清水八幡神社)が鎮座する「府頭山(ふとうざん)」の山号を残しながら、享保11年(1726年)に「府頭山 乗泉寺(乗泉寺)」へ。
さらに寛政4年(1792年)には、現在の寺院名「府頭山 栄福寺(栄福寺)」へと改称されました。
府頭山は、八幡宮が山頂に鎮座するようになってから、どこからか自然に「八幡山(はちまんさん)」と呼ばれるようになり、後の時代にはこの地域の住所も「八幡(やわた)」となりました。
それでも栄福寺は、山号を本来の「府頭山(ふとうざん)」と定め続け、第57番札所である石清水八幡宮(石清水八幡神社)の別当寺として、神社と密接に連携しながら活動を続けてきました。
神仏分離令によって寺院として独立
しかし、このように長年にわたり深いつながりを築いてきた石清水八幡宮(石清水八幡神社)と栄福寺も、1868年、明治政府によって施行された神仏分離令により引き裂かれることとなりました。
この政策は、長らく共存していた神道と仏教を分離し、神道を国教的地位に据えるための政策でした。
それまでは、神社には別当寺と呼ばれる寺院が併設され、神仏が一体となって地域の信仰を支えていましたが、この政策によって神社と寺院は強制的に分離されることになったのです。
この結果、栄福寺は山頂から中腹に移転し、物理的にも精神的にも石清水八幡宮(石清水八幡神社)と離れ、別当寺ではなく独立した寺院となりました。
それにともない、石清水八幡宮(石清水八幡神社)は四国八十八箇所霊場の第57番札所から外れ、「栄福寺」が正式にその役割を担うこととなりました。
石清水八幡宮との深い結びつき
石清水八幡宮(石清水八幡神社)との深い結びつきは、時を経ても変わらず、現在でもその名残を感じることができます。
栄福寺の入り口付近には鳥居が建っており、その先は石段が続き、石清水八幡宮(石清水八幡神社)へとつながる参道となっています。
この鳥居と参道は、かつて神仏習合の時代に両者が一体として信仰を集めていた名残を今に伝えています。
また、栄福寺が所蔵する江戸中期(寛政12年・1800年)の手書きの納経帳には「八幡宮別当栄福寺」と墨書きされており、江戸時代の版木で押された納経帳にも「伊豫一国一社 八幡宮広前 別当栄福寺」の名が記されています。
これらの記録から、栄福寺が明治維新による神仏分離以前から石清水八幡宮(石清水八幡神社)の別当寺として納経を行っていたことがわかり、古くからの信仰の歴史が受け継がれている様子が感じられます。
「金比羅堂」
境内にある「金比羅堂(こんぴらどう)」も、神仏習合の象徴として地域の人々に親しまれています。
金比羅堂では、航海安全や商売繁盛、家内安全を守る神として信仰される金毘羅大権現が祀られています。
この神は、仏教では薬師如来を守る12神将の一人とされ、神道と仏教が一体となった祈りの場として、長年信仰の対象となってきました。
ここでは、毎年「金毘羅さん」と呼ばれる地域の伝統行事が行われ、2名の地域住民が当番としてしめ縄を持参し、住職と共に地域の無事と繁栄を祈願します。
さらに、地元の人々が交代制で昆布や大根などのお供え物を持参し、家族や地域全体の安寧を祈る風習も続けられています。
このしめ縄の奉納とお供え物の儀式は、無病息災や五穀豊穣、家内安全を願う象徴的な行事であり、地域全体で行われる大切な伝統となっています。
他にも境内には本堂・大使堂、薬師堂、巡拝者会館、庫裡、納経所などがあり、訪れる人々にとって様々な祈りの場が用意されています。
歴史を重ねた栄福寺の「本堂」
本堂は、大正時代に大規模な増改築が施され、現在の荘厳な姿が整えられました。
この改築時には、建物の細部にまで趣向が凝らされ、一寸法師の彫刻が施されるなど、魅力的な装飾が加えられています。
秘仏・阿弥陀如来像
本堂には、本尊である阿弥陀如来(あみだにょらい)像が祀られています。この阿弥陀如来像は、平安時代末期に制作されたもので、当時の彫刻技術の粋を集めた貴重な仏像として知られています。
阿弥陀如来像は秘仏で、通常は7年に一度しか開帳されません。しかし、現住職が本堂で婚礼の「入寺式」を挙げた際には特別に開帳され、その荘厳な姿が公開されました。
「足腰守りのお寺」と「箱車」
栄福寺は「足腰守りのお寺」としても知られています。
1933年(昭和8年)、足が不自由だった15歳の少年は、木製の三輪の箱車に乗り、連れていた犬にひもで引っぱてもらいながら巡礼の旅をしていました。
しかし、栄福寺を参拝した際、少年は犬が箱車を引っ張った拍子に、誤って階段から転げ落ちてしまいました。
少年は怪我をしていないか、恐る恐る自分の身体を確認しようとしました。
すると、少年は驚くべき事実に気づきました。なんと、自分の足でしっかりと立っていたのです。
それまで不自由だったはずの足が、突然自由自在に動かせるようになった少年は、この奇跡に深く感動しました。
同時に、もう箱車も松葉杖もギプスも必要ではなくなったことを実感しました。
そこで少年は感謝の気持ちを込め、使っていた箱車や松葉杖にギブスなどを栄福寺に奉納し、その後は自らの足で歩きながら巡礼の旅を続けたと伝えられています。
この箱車がは本堂の横で大切に保管され、「足腰守りのお寺」として、訪れる人々にとって希望と信仰の象徴となっています。
「大師堂」
本堂から回廊で繋がっている大師堂は、もともとは八幡宮の別当寺として山頂にあった建物が移設されたものです。大正時代に本堂と同じく増改築が施され、現在の姿に整えられました。
大師堂の外周には十二支の彫刻が丁寧に施されています。
正面には玉をくわえた龍が睨みを効かせ、力強い姿を見せており、側面には虎など他の干支が彫られています。
この中で、未(ひつじ)だけが隠し彫りとして巧妙に彫られているとされています。
大師堂は、栄福寺だけではなく、石清水八幡神社の歴史を現在に伝える重要なお堂であり、訪れる人々に神仏習合の名残や信仰の深さを感じさせる貴重な建築物となっています。
「お願い地蔵尊」願いが叶う祈りの場
栄福寺には、「願いが叶う」として多くの人に親しまれている祈りの場所があります。
そのひとつが、参道入口にある「お願い地蔵尊」です。
このお地蔵様は赤い帽子をかぶったかわいらしい姿で、「願いを叶えてくれるお地蔵様」として信仰を集めています。
訪れる人々は、このお地蔵様に手を合わせ、心の中で願いを伝え、叶うように祈ります。
さらに、境内には「仏足跡(仏足石・ぶっそくせき)」と呼ばれる石碑もあります。
これは仏教の開祖・釈迦の足跡を模したもので、古くから信仰の対象となってきました。
参拝者は仏足跡に手を合わせ、その手で体の気になる部分を撫でることで、悪いものが浄められ、願いが叶うとされています。
「2012年度グッドデザイン賞」
栄福寺のトイレも注目のスポットのひとつで、その独自の設計と環境への配慮が評価され、「2012年度グッドデザイン賞」を受賞しています。
このトイレは2011年に設置されたもので、国産のヒノキなどの間伐材を使用した独自の工法で組み立てられ、自然素材の温もりが感じられるデザインが特徴です。
男子用、女子用、身体障害者用の3棟から成り、参拝者にとっても使いやすさに配慮された設計となっています。
このトイレの設計を担当したのは、現住職・白川密成(しらかわ みっせい)さんの兄で建築家の白川在(しらかわ あり)さんです。
白川在さんは、自然との調和と地域資源の活用を意識し、栄福寺の境内にふさわしいデザインを追求しする中で、機能性と自然素材の美しさが調和した素晴らしいトイレを作り上げました。
仏教を現在に伝える住職「白川密成」
栄福寺の現住職である白川密成さんは、栄福寺を拠点に、仏教の教えを現代の人々にわかりやすく伝える活動を行っています。
1977年生まれの白川さんは、高野山大学密教学科を卒業後、地元の書店で働いていましたが、先代住職の逝去をきっかけに、わずか24歳で栄福寺の住職となりました。
伝統的な僧侶像にとらわれず、新しい形で仏教を人々に伝える姿勢が多くの人に共感されています。
白川住職の活動が広く注目を集めたきっかけは、「ほぼ日刊イトイ新聞」での連載でした。
コピーライターの糸井重里さんとの出会いを通じて始まった連載「坊さん。57番札所24歳住職7転8起の日々。」は、日常の出来事や僧侶としての心境が率直に綴られ、多くの読者からの支持を受けました。
この連載がまとめられたエッセイ『ボクは坊さん。』は、2010年に出版され、仏教の教えを身近な言葉で伝えたことで特に若い世代からの共感を集めました。
その後、白川住職は『坊さん、父になる。』『坊さん、ぼーっとする。』といった著書を発表し、僧侶としてだけでなく、父親や人間としての学びや成長をテーマに新たな視点を提供し続けています。
2015年には『ボクは坊さん。』が映画化され、白川住職の生き方や仏教の教えがより多くの人に伝わる機会が生まれました。
また、白川住職はブログやSNSでも積極的に発信し、親しみやすい言葉で日常の出来事や仏教の考え方を紹介しています。
仏教を「日常に根づく教え」として、現代の生活や悩みに合わせてわかりやすく伝えることで、仏教を身近に感じてもらえるよう努めています。
伝統を大切にしながらも柔軟に対応し、仏教が現代社会の中で生きる力になることを目指す白川さんの姿勢は、多くの人にとって共感と励ましの源となっています。
新しい時代の中で、人々に寄り添いながら仏教の教えを伝える白川密成さんの活動は、今も変わらず続いています。
その温かく柔軟な視点は、今後も多くの人々にとって心の支えとなるでしょう。