今治市の中心部には、かつて城下町として栄えた面影を今に伝える「寺町」と呼ばれる地域があります。
この一帯には多くの寺院が立ち並び、それぞれが地域の歴史と文化を静かに語り継いでいます。
その中のひとつ、「円浄寺(圓浄寺・えんじょうじ)」もまた、長い歳月を静かに刻みながら、地域の信仰を支え続けてきた由緒ある寺院です。
土岐一族の菩提を守る寺
円浄寺の創建には、今治に移り住んだ土岐氏の一族が深く関わっています。
土岐氏は清和源氏の流れを汲み、美濃国土岐郡を本拠とする名門武家です。
室町時代には美濃・尾張・伊勢の守護を兼ねる大名として繁栄を極めましたが、戦国時代には斎藤道三の台頭によって本国を追われ、各地へと勢力を移すこととなりました。
父祖の菩提を弔うため、当時の新原村(現・今治市大西町)に円浄寺を建立しました。開山には称阿貞関和尚を迎え、阿弥陀如来を本尊とする浄土宗の寺として、その歩みが始まりました。
しかし、その地にとどまったのは、わずか数年のことでした。
「寺町」藤堂高虎による都市整備
1602年頃、藤堂高虎(とうどう たかとら)が今治城の築城を進めるとともに、城下町の整備も着々と進められていきました。
その過程で、今治の中でも特に影響力のあった14の寺院が集められ、計画的に寺院群が配置されました。
円浄寺はその14寺の一つとして、現在の地へと移されました。
これは、単なる寺院の再配置にとどまらず、江戸時代の城下町設計に見られる合理的な都市構想の一部でした。
それが、「寺町」と呼ばれる区域です。
防衛拠点としての寺町
寺町は、戦国時代が終わり、平和な統治が始まった江戸時代初期に築かれた各地の城下町において、防衛上の要地として整備された区域です。
戦乱の世が終わったとはいえ、それまで命懸けで戦ってきた大名たちにとって、「いつ何が起こるかわからない」という警戒心は簡単には消えるものではありませんでした。
そのため、江戸初期に築かれた城下町には、有事を想定した軍事的機能が備えられました。
寺院は本来、広い敷地、厚い土塀、石垣、瓦葺の大屋根を備える堅牢な施設で、戦国期までは砦として戦の拠点として利用されることもありました。
城から見て防衛上の弱点となる方角に寺町を設けることで、城を包み込むように守る緩衝帯となったのです。
これは、大坂城下の「天王寺町」、金沢城の「小立野寺町」、名古屋の「中村寺町」など、他の城下町にも共通する都市構造であり、今治でも例外ではありませんでした。
今治では、今治城を中心に武家屋敷や町人の暮らす町場が整備され、その外縁部、特に海からの侵入が想定される東側から北東側にかけての外堀外に、複数の寺院が集められて「寺町」が形成されました。
この配置により、海城としての構造的な脆弱性が補完され、城の防衛体制はより強固なものとなったのです。
統制のための配置と宗教勢力の管理
寺町には、宗教勢力を一括して管理・監視するという意図もありました。
戦国期までの寺院や神社は、膨大な荘園や経済力を背景に独自の軍事力や政治的影響力を持つ存在でした。
比叡山延暦寺や高野山などに代表されるように、武装化した僧兵を抱える宗教組織も少なくありませんでした。
江戸幕府は、そうした潜在的な勢力を警戒し、寺社は寺社町に集める、町人地とは切り離す、幕府の許可制とするなどの政策で、その動きを掌握しようとしました。
今治でも藤堂高虎は、町人の居住・商業空間と宗教空間を分離し、都市の秩序維持と統治の安定を図ったと考えられます。
信仰と生活の場、そして門前町へ
寺町は、庶民にとっての信仰の中心地でもありました。
江戸時代に檀家制度が整備されると、各戸が特定の寺院に所属し、葬儀・年忌法要・施餓鬼などの儀礼を通じて、寺との関係を深めていくようになります。
寺院は単なる宗教施設ではなく、家族や地域の精神的支柱として人々の暮らしに寄り添う存在となっていきました。
やがて、寺町の門前には町屋が生まれ、そこに住む町人や職人たちによって様々な生業が営まれるようになります。
江戸中期以降になると、墓参を兼ねた行楽が盛んになり、寺町は信仰と娯楽が融合したにぎわいの場へと変貌していきました。
境内やその周辺には、和菓子屋、寿司屋、竹細工職人、写経屋などが軒を連ね、参詣客を迎える門前町の風情が生まれます。
人々は借家長屋に住み込み、職住一体のかたちで日々の暮らしと信仰を結びつけながら生活していました。
こうした生活様式の中で、いわゆる「下町的な生活文化」が息づくようになっていったのです。
今治の寺町においても、城の防衛線の一部でありながら、同時に民衆の信仰と暮らしが交差する独特の空間が成立していきます。
その町並みの原型は、この江戸中期から後期にかけて形成され、現代にまで連なる歴史の風景を形づくる礎となっているのです。
今治藩士としての土岐氏と円浄寺の絆
土岐氏もまた、今治藩士として今治城下へ移り、藩政に携わるようになりました。
そして、円浄寺が現在の地へと移設された際には、土岐一族の墓所もあわせて移され、先祖の菩提を弔う場として、現在も大切に受け継がれています。
名僧・学信和尚ゆかりの寺
円浄寺は、名僧・学信和尚(がくしん おしょう)ゆかりの寺としても知られています。
享保7年(1722年)、鳥生地区にある明積寺(みょうしゃくじ)に生まれた学信和尚は、のちに江戸や松山、宮島などで浄土宗の教えを広め、『幻雲集』『要学集』などの著作を残し、浄土宗中興の祖の一人として高く評価されました。
その幼少期、学信和尚が最初に仏道修行を行ったのが、この円浄寺であったと伝えられています。
当時、円浄寺には名僧・真誉(しんよ)上人が在住しており、学信和尚はその薫陶を受けて、僧侶としての基礎を築いていきました。
このように、円浄寺は学信和尚にとっての信仰の原点ともいえる場所であり、現在もそのゆかりの地として静かに人々の訪れを受け入れています。
戦火を免れた寺院
円浄寺にとって最大の危機が訪れたのは、太平洋戦争末期の昭和20年(1945年)のことでした。
この年、今治市は米軍による激しい空襲に見舞われ、特に8月5日から6日にかけては、B-29爆撃機によって260発以上の爆弾が投下され、市街地の約75%が焼失しました。
住宅・商店・公共施設の多くが炎に包まれ、甚大な被害とともに多くの死傷者を出しました。
かつて城下町として栄えた今治の町並みは、この空襲によって壊滅的な打撃を受けたのです。
仏教寺院が密集する「寺町」も例外ではなく、数多くの伽藍が焼失し、尊像や古文書などの文化財も多くが失われました。
しかしその中にあって、円浄寺は奇跡的に戦火を免れ、本堂をはじめとする建物群は焼失を逃れることができました。
当時の人々にとって、それはまさに「仏の加護」とも感じられる出来事であり、寺町に残された数少ない歴史的建築として、円浄寺は貴重な存在となっていきました。
「火災からの復興」円浄寺の再生
ところが、それから70年余りを経た平成28年(2016年)11月25日の夜、円浄寺は火事により本堂が焼け落ちてしまいました。
かつて戦火をも免れた歴史あるお堂が、突然の火災で失われたことは、多くの人々に大きな衝撃と深い悲しみを与えました。
しかし、地域の人々の深い祈りと温かな支えによって、復興への歩みは静かに、そして着実に続けられています。
たとえその姿を変えようとも、円浄寺は今なお、信仰と地域の絆を育む場としてあり続けています。