今治市の中心部には、「寺町」と呼ばれる地域があり、その一帯にはさまざまな宗派の寺院が立ち並び、今治の宗教文化を今に伝えています。
「円光寺(えんこうじ・圓光寺)」もそのひとつであり、長い歳月を静かに刻みながら、地域の信仰を支え続けてきました。
源平合戦と中川一族
円光寺は、円久寺を創建した霊仙山城の城主・中川山城守親武(なかがわ やましろのかみ ちかたけ)をはじめとする中川一族の菩提寺として創建された寺であり、創建には源平合戦(げんぺいがっせん)の動乱が深く関わっています。
平家に味方をした中川太郎左衛門
源平合戦は、1180年から1185年にかけて、源氏と平家の二大武家勢力が日本の覇権を巡って繰り広げた内戦です。特に全国的に影響を及ぼし、日本の歴史に大きな変化をもたらした戦争として知られています。
当時、松山市道後公園にあった湯築城(ゆづきじょう)を拠点にしていた中川太郎左衛門(以下:中川一族)は、平家方の武士として源平合戦に参加していました。
中川一族は平家の側に立ち、激しい戦いに身を投じました。源平合戦の時期、全国的に源氏が勢力を拡大していく中で、平家側の支援者や同盟者たちは次々に討たれ、劣勢に立たされていきました。
そして、平家の弱体化は、中川太郎左衛門の一族にとっても厳しいものとなっていきました。
「壇ノ浦の戦い」この時代の最終決戦
源平合戦は全国規模で広が流中で、平家の敗北はもはや誰の目にも明らかになっていきました。
その決定的な局面が、(1185年)3月24日に起きた「壇ノ浦の戦い」です。
この戦いは、長門国赤間関(現在の山口県下関市)の海上で繰り広げられた、源氏と平家の最終決戦でした。
源氏方は、源義経を総大将とし、機動力に優れた水軍を駆使して平家軍に挑みました。
一方、平家方は、平知盛らが軍を率い、幼い安徳天皇や三種の神器とともに西海に追い詰められた中で、最後の抵抗を試みていました。
序盤は潮の流れに乗った平家が優勢でしたが、義経は「水夫(かこ)を射よ」という奇策によって、船の操縦手を集中的に狙わせます。
これによって平家船団は統率を失い、戦況は一気に源氏に傾きました。さらに午後には潮の流れが変わり、平家は完全に包囲されてしまいます。
敗北を悟った平家の人々は、次々と入水(身投げ)して果てていきます。
知盛は「見るべきほどの事は見つ」と言い残して海に沈み、二位尼(にいのあま)はわずか8歳の安徳天皇を抱いて海に身を投げました。
こうして、平家はこの戦でほぼ壊滅し、500年に及ぶ平安貴族政権の終焉が象徴的に刻まれたのです。
この戦いは、鎌倉幕府の成立を予感させる転換点であり、以後の日本史を大きく変えることになります。
敗北した中川一族の過酷な運命
この壇ノ浦の戦いを頂点とした源平合戦の終局において、平家方として参戦していた中川一族もまた、敗亡の運命を逃れることはできませんでした。
落人伝説と残党狩り
記録の中には中川一族の個々の戦死や討伐に関する詳細な史料は多く残されていませんが、戦後、源氏(鎌倉幕府)の支配が西国にまで及ぶ中で、「平家残党(へいけざんとう)」とみなされた武士たちは各地で厳しい処遇を受けました。
壇ノ浦で滅びたのはあくまで中央の平家本軍であり、その家臣やゆかりの一族、支援していた地方豪族たちは全国各地に点在していました。
鎌倉幕府はこれらの「平家残党」の存在を警戒し、特に西国では鎌倉方の武士を派遣して討伐や監視を強化していきます。
たとえば熊野の山中に逃れた者や、四国山間部に身を隠した者などもおり、一部は「落人伝説(おちうどでんせつ)」として民間伝承に語り継がれています。
中川一族の菩提寺として創建
伊予国においても例外ではなく、かつて平家方に与した在地武士は、所領の没収や身分の剥奪といった制裁を受けることが多く、中川太郎左衛門の一族も例外ではありませんでした。
中川太郎左衛門は、源氏方によって一族とともに滅ぼされ、その菩提を弔うために、別系統の中川氏によって1186年頃に寺院が建立されました。
これが、円光寺(えんこうじ)のはじまりとされています。
一方で、河野通信(こうの みちのぶ)ゆかりの若松寺がその前身であったという説も残されていますが、確かな史料は乏しく、創建の詳しい経緯はいまなお謎に包まれています。
中川氏の没落と円光寺の衰退
その後も円光寺は、中川氏の菩提寺として支えられていましたが、やがて戦国の混乱の中で衰退の運命をたどることになります。
河野氏滅亡と中川家の没落
天正10年(1582年)、中川親武は霊仙山城を拠点に河野氏に仕えていました。
しかしこの年、河野氏の海上防衛の要であった来島村上氏「来島城主・来島通総(くるしま みちふさ)」が、織田信長の家臣である羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の勧誘を受け、織田方に寝返ります。
この裏切りによって河野氏の海上防衛線は崩れ、陸の防衛にも大きな影響を及ぼしました。来島勢は河野方の支城を次々と攻略し、その勢力圏を削り取っていきます。
やがて標的は、戦略的にも重要な拠点である霊仙山城へと向けられました。
中川親武は城の堅牢な地形を最大限に活かして奮戦しましたが、繰り返される猛攻に抗しきれず、城はついに落城。親武も壮絶な戦いの末に討ち死にしたと伝えられています。
その後、弟の中川通任が霊仙山城を守りましたが、天正13年(1585年)の豊臣秀吉による四国攻めの中で落城。
一方、伊予の本拠である湯築城においても、主君・河野通直(こうの みちなお)は、天正13年(1585年)に迫る豊臣秀吉の大軍を前にして抗戦を断念し、ついに降伏しました。
この降伏をもって、戦国時代を通じて伊予を支配してきた河野氏は実質的に滅亡し、長年続いたその統治は終焉を迎えたのです。
これにより、長年にわたり河野氏に仕えていた中川一族も、伊予の有力武家としての地位を失い、没落の道をたどることとなりました。
支援を失った寺院
それまで円光寺は、中川氏の信仰と経済的支援によって維持されており、堂塔伽藍の整備や法会の営みも安定して行われていました。
しかし、中川一族の没落とともに寺はその支えを失い、戦後の混乱の中で経済的基盤を急速に喪失していきます。
修繕もままならぬまま、堂宇は風雨にさらされ、境内は徐々に荒廃の色を深めていきました。
かつて多くの参拝者で賑わった信仰の場も、時が経つにつれて人影が絶え、草に覆われた石段や倒れかけた山門が、静寂の中に往時の繁栄を語るのみとなったと考えられます。
「寺町」藤堂高虎による都市整備
1602年頃、藤堂高虎(とうどう たかとら)が今治城の築城を進めるとともに、城下町の整備も着々と進められていきました。
その中で、今治の中でも特に影響力のあった14の寺院が集められ、計画的に寺院群が配置されました。
このとき、荒廃していた円光寺もその一環として再興されることになります。
これは、単なる寺院の復旧にとどまらず、江戸時代の城下町設計に見られる合理的な都市構想の一部でした。
それが、「寺町」と呼ばれる区域です。
防衛拠点としての寺町
寺町は、戦国時代が終わり、平和な統治が始まった江戸時代初期に築かれた各地の城下町において、防衛上の要地として整備された区域です。
戦乱の世が終わったとはいえ、それまで命懸けで戦ってきた大名たちにとって、「いつ何が起こるかわからない」という警戒心は簡単には消えるものではありませんでした。
そのため、江戸初期に築かれた城下町には、有事を想定した軍事的機能が備えられました。
寺院は本来、広い敷地、厚い土塀、石垣、瓦葺の大屋根を備える堅牢な施設で、戦国期までは砦として戦の拠点として利用されることもありました。
城から見て防衛上の弱点となる方角に寺町を設けることで、城を包み込むように守る緩衝帯となったのです。
これは、大坂城下の「天王寺町」、金沢城の「小立野寺町」、名古屋の「中村寺町」など、他の城下町にも共通する都市構造であり、今治でも例外ではありませんでした。
今治では、今治城を中心に武家屋敷や町人の暮らす町場が整備され、その外縁部、特に海からの侵入が想定される東側から北東側にかけての外堀外に、複数の寺院が集められて「寺町」が形成されました。
この配置により、海城としての構造的な脆弱性が補完され、城の防衛体制はより強固なものとなったのです。
統制のための配置と宗教勢力の管理
寺町には、宗教勢力を一括して管理・監視するという意図もありました。
戦国期までの寺院や神社は、膨大な荘園や経済力を背景に独自の軍事力や政治的影響力を持つ存在でした。
比叡山延暦寺や高野山などに代表されるように、武装化した僧兵を抱える宗教組織も少なくありませんでした。
江戸幕府は、そうした潜在的な勢力を警戒し、寺社は寺社町に集める、町人地とは切り離す、幕府の許可制とするなどの政策で、その動きを掌握しようとしました。
今治でも藤堂高虎は、町人の居住・商業空間と宗教空間を分離し、都市の秩序維持と統治の安定を図ったと考えられます。
信仰と生活の場、そして門前町へ
寺町は、庶民にとっての信仰の中心地でもありました。
江戸時代に檀家制度が整備されると、各戸が特定の寺院に所属し、葬儀・年忌法要・施餓鬼などの儀礼を通じて、寺との関係を深めていくようになります。
寺院は単なる宗教施設ではなく、家族や地域の精神的支柱として人々の暮らしに寄り添う存在となっていきました。
やがて、寺町の門前には町屋が生まれ、そこに住む町人や職人たちによって様々な生業が営まれるようになります。
江戸中期以降になると、墓参を兼ねた行楽が盛んになり、寺町は信仰と娯楽が融合したにぎわいの場へと変貌していきました。
境内やその周辺には、和菓子屋、寿司屋、竹細工職人、写経屋などが軒を連ね、参詣客を迎える門前町の風情が生まれます。
人々は借家長屋に住み込み、職住一体のかたちで日々の暮らしと信仰を結びつけながら生活していました。
こうした生活様式の中で、いわゆる「下町的な生活文化」が息づくようになっていったのです。
今治の寺町においても、城の防衛線の一部でありながら、同時に民衆の信仰と暮らしが交差する独特の空間が成立していきます。
その町並みの原型は、この江戸中期から後期にかけて形成され、現代にまで連なる歴史の風景を形づくる礎となっているのです。
円光寺の再興とその意味
こうした都市構造の中で、藤堂高虎は、荒廃していた円光寺を再建の対象とし、現在の地に新たな伽藍を建立しました。
そして、奥州(現在:岩手県)の長源寺から六世・恩湖大和尚(おんこ だいおしょう)を招き、初代住職として迎え入れます。
こうして、円光寺は新たな時代にふさわしい姿で再興されたのです。
戦火を乗り越えた円光寺の再建
明治時代、円光寺は火災に見舞われ、多くの伽藍を焼失しましたが、地域の人々の支援により、少しずつ再建が進められました。
しかし、昭和20年(1945年)のある出来事によって甚大な被害を受けてしまうことになります。
それが今治空襲です。
今治空襲
昭和20年(1945年)末期、太平洋戦争末期の今治市は、3度にわたる空襲に見舞われました。
なかでも8月5日から6日にかけての空襲では、B-29爆撃機によって260発以上の爆弾が投下され、市街地の大半が焼失。
全市戸数の約75%が失われるという壊滅的な被害を受けました。
この戦災により、円光寺をはじめとする寺町の多くの寺院も焼失し、寺の存続すら危ぶまれる事態となったのです。
それでも、地域の人々は希望を捨てることなく、復興への歩みを進めていきました。
昭和23年(1948年)には復興活動が本格化し、住民たちの強い意志と支えによって、円光寺は見事に再建を果たしました。
そして現在も、再建された寺院はその姿を保ち続けています。
今治タオルの父が眠る場所
円光寺は、今治タオルの歴史と深い結びつきを持っており、境内には「今治タオルの父」と称される阿部平助(あべへいすけ)とその一族が静かに眠っています。
阿部平助は、明治時代に今治で初めてタオル製織を始め、その技術と情熱によって、今治は日本有数のタオル産地として発展を遂げました。
円光寺は、そうした先人の足跡を今に伝えるとともに、地域の信仰と産業の象徴として、今治タオル誕生の精神を未来へと語り継いでいます。