アシックス里山スタジアムから約1km。
静かな山あいにひっそりと佇む「円照寺(えんしょうじ・圓照寺)」。
現在では地域の人々に親しまれる穏やかな寺院ですが、実はその創建の背後には、かつて日本全土を震撼させた「藤原純友の乱」という、激動の歴史が深く関わっています。
平安時代の状況と武士のはじまり
平安時代中期、都・平安京が華やかに栄える一方で、地方では反乱や天変地異、そして海賊の横行などによって社会が不安定化していきました。
富士山の噴火や地震、洪水といった災害が続き、住民たちは生活の不安と常に向き合っていました。
こうした混乱の中、地方の有力者たちは自らの土地と民を守るために武装し、私的な軍事力を持つようになります。
中央政府の統制力が衰えるなか、自己防衛のために組織化されたこのような集団が、やがて「武士」として成立していくのです。
「海賊が現れる海」瀬戸内海の混乱
この頃の瀬戸内海は、地方から都へと年貢や物資を運ぶための重要な海上交通路として機能していました。
各地で集められた米や布、特産品などの貢納物は、国司によってとりまとめられ、船に積まれて京の朝廷へと届けられていたのです。
しかしその航路は、海賊たちにとって絶好の襲撃対象でもありました。
頻繁に出没する海賊たちは、単なる治安上の問題にとどまらず、国家の財政や物流の根幹を脅かす存在へと発展していきました。
遣唐使の廃止と職を失った官人たち
こうした海賊の出現には、国際情勢の変化も大きく関わっています。
894年、菅原道真の申し立てによって遣唐使が廃止され、日本と唐との公式な外交・貿易関係は途絶しました。
これにより、外交儀礼や船団の運営に携わっていた下級官人たち、とくに舎人(とねり)と呼ばれる人々は、次々と職を失っていくことになります。
当時、舎人には税の免除や米の支給といった一定の特権が与えられていましたが、遣唐使の廃止に伴って朝廷の儀式も減少し、その役割そのものが縮小していきました。
そしてついには支給米も打ち切られ、舎人たちは生活の糧と社会的地位の両方を失うことになったのです。
舎人たちが“海賊化”
やがて追い詰められた舎人たちの中には、生き延びるために武器を手に取り、海へと活路を求める者も現れました。
とくに伊予国では、年貢米や特産物が集積される交通の要衝であったことから、かつての特権を失った舎人たちが不満を募らせ、行動に出始めます。
彼らは、もともと認められていた米の支給権を根拠に、「自らの取り分は自らの手で確保する」との論理を掲げ、京へと運ばれる米や布、海産物などを積んだ輸送船を襲撃し、物資を奪い取るようになっていきました。
つまり、この時代における“海賊”とは、単なる無法者ではなく、朝廷に見捨てられた官人たちであり、失った“既得権”を武力によって回復しようとした存在だったのです。
そして、彼らにとっての海賊行為は、生活の手段であると同時に、朝廷に対する抗議でもありました。
また、地方行政を担っていた国司の中には、重税を課して私腹を肥やす者も少なくなく、そうした圧政に対する不満が、海賊行為をさらに助長する要因となっていました。
たとえば、かつての下級官人や漁民たちが税の未納を理由に国司から弾圧を受けた事例もあり、それがかえって海賊勢力の反発と拡大を招くという悪循環に陥っていたのです。
海賊行為の取り締まりの失敗
朝廷は、こうした海賊行為を抑えるため、何度も追捕使を派遣しました。
追捕使とは、反乱や海賊などの非常事態に対応するために朝廷が任命する臨時の武官的役職で、軍事指揮権が与えられていいましたが、海に不慣れな中央の官人は思うような成果を上げることができませんでした。
その結果、瀬戸内海の海上交通は混乱し、次第に停滞していきました。
国家財政の中枢を担っていたこの海域は、その機能を失いつつあったのです。
そんな時代の混乱の中に登場したのが、のちに「海賊王」とも呼ばれる藤原純友でした。
「“海賊狩り”から“海賊王”へ」不遇の貴族・藤原純友
藤原純友は、有力貴族である藤原北家の一門、藤原良範(ふじわらのよしのり)の三男として生まれました。
藤原北家は、平安時代に摂関政治を確立した藤原道長らを輩出した藤原氏の中でも最も栄えた家系であり、純友もその血筋を受け継いでいました。
しかし、そんな華麗な一族に属していながらも、父を早くに亡くし、出世争いにも敗れた純友は、京での昇進の望みを絶たれていました。
そこで純友は、中央を離れ、「大宰府(太宰府)」(現在の福岡県太宰府市に設置された西海道の行政・軍事の中枢機関)に勤務する下級貴族として地方官の道を歩むようになります。
伊予の海賊狩りとしてのキャリア
承平2年(932年)、親類である藤原元名(もとな)が、伊予の国司の中で第2位の役職「伊予介(いよのすけ)」に任命されました。
伊予では海賊行為が問題になっていたため
元名は、純友を伊予の国司の中で第3位の役職「伊予掾(いよのじょう)に任命し海賊討伐の任務を与えました。
当時の伊予国府は越智郡(現在の愛媛県今治市周辺)に置かれており、伊予は「上国(じょうこく)」と称されるほど、生産力と物流に恵まれた瀬戸内の要衝でした。
そして、この地に海賊狩りとして赴任した純友は、瀬戸内海の治安維持と海賊討伐という重責を担い、地方官としての務めに誠実に取り組んでいくことになります。
海賊との交流関係
純友は、海賊討伐の任務を果たす中で次第に名を上げ、一定の功績を残していきました。
しかし、やがてその心にひとつの変化が芽生え始めます。
“海賊狩り”として彼らと幾度となく対峙するうちに、純友はある事に気づき始めたのです。
彼らの多くは、かつて官人として仕えていたものの、失脚し、やむなく海へと流れざるを得なかった人々であることに。
「良き家柄に生まれながら、没落していった人々」
それは、まさに自らの境遇と重なる姿でした。
純友は、そうした海賊たちと言葉を交わし、不満や悩みをぶつけ合う中で、敵を超えた人間的な信頼関係を築いていったと考えられます。
そして、この交流こそが、のちに“乱”と呼ばれることになる一大行動への、運命の第一歩となっていくのです。
海賊狩りから海賊の指導者へ
承平5年(935年)の年末、任期を終えた純友は一度京へ戻り、その実績が認められて承平6年(936年)、朝廷から正式に海賊討伐の命令「海賊追捕宣旨(ついぶせんじ)」を授かり、同年3月、再び伊予へと戻りました。
しかし、このときすでに純友は単なる“海賊狩り”ではありませんでした。
瀬戸内海で信頼を集めつつあった純友は、むしろ海賊たちの指導者として仰がれる存在へと変貌していたのです。
海賊鎮圧の命を受け、紀淑人が伊予に赴任
承平6年(936年)5月、紀淑人(きの よしひと)が、藤原元名の後任として朝廷から伊予介(いよのすけ)に任命され、伊予国へと赴任してきました。
紀淑人は、同時に、紀伊半島・淡路島・四国全域およびその周辺諸島を管轄する「南海道」の追捕使(ついぶし)としての権限も与えられ、引き続き海賊の鎮圧の任務につきました。
そして、伊予に入った紀淑人が向かったのが、海賊が多く集まっていたと噂されていた、豊後水道の要衝・日振島(ひぶりじま)でした。
この日振島は、土佐の国府からも遠く西に離れ、西方には豊後水道が広がり、さらにその先には瀬戸内海へと通じる重要な海上ルートが延びています。
周囲は複雑な入江や断崖に囲まれ、隠れ潜むには格好の地形で、海賊たちにとってはまさに“理想的な海賊島”となっていました。
この地域の海上には千隻を超える賊船が現れ、官物の強奪や人命の殺傷が横行し、沿岸の村々も困窮。
物資の輸送も人々の往来もままならないという、完全な無法地帯と化していたのです。
朝廷が、紀淑人を伊予に派遣したのは、まさにこの日振島の存在を強く脅威と感じてのことでした。
海賊王となった藤原純友
ところが、いざ到着してみると、紀淑人が直面したのは想定外の事態でした。
海賊鎮圧の任に就いているはずの伊予掾・藤原純友が、日振島を拠点に、むしろ海賊の首領として君臨していたのです。
純友は、承平6年(936年)3月に当初は海賊追捕の宣旨を授かっており、伊予の海賊狩りとして海上治安の回復に当たっているはずでした。
しかし、海賊たちはそんな純友を「頼れる頭領」とみなし、、自ら進んで仕えるために次々と集まってきていたのです。
その規模は次第に膨れ上がり、純友のもとにはおよそ1,000〜1,500隻の軍船と、2,500人以上の海賊が集結。
日振島を根城に、純友は瀬戸内海一帯を実効支配する存在として、恐れられ、そして称えられるようになっていました。
その姿は、もはや“海賊狩り”ではなく、名実ともに海の無法者を束ねる、この時代最強の“海賊王”そのものでした。
海賊王の手を借りた平和
この想定外の事態に動揺した紀淑人でしたが、伊予掾でもあった藤原純友を信頼し、協力を求めました。
紀淑人が選んだのは、力でねじ伏せるのではなく、懐柔と説得による統制策です。
この穏便な方針に、すでに海賊たちと深い信頼関係を築いていた純友も同意し、その交渉役を引き受けました。
そして、自身の配下である海賊たちに対し「罪を認めて投降すれば、これまでの過ちは問わず、田畑を与える」と説得し、朝廷への帰順を促したのです。
この“密約”のもと、承平6年(936年)6月、ついに純友の配下を中心とする約2,500人の海賊たちが一斉に投降しました。
そして、海賊たちには衣食が与えられ、田畑を分け与えて帰農をしていきました。
投降した海賊たちには衣食が与えられ、田畑を分け与えられて帰農が進み、瀬戸内の海上秩序は一時的ながら大きく回復しました。
評価されなかった藤原純友
こうして、瀬戸内海には一時的ながらも平和が訪れたかのように見えました。
しかし、その平穏は長くは続きませんでした。
約2,500人にも及ぶ海賊たちを、一滴の血も流さずに投降させたという功績は、まさに前例のない大成果でした。
それは形式的には紀淑人への投降という形をとりましたが、その裏には、藤原純友による主導的な説得と調整があったことは明らかです。
ところが、朝廷がその功績を認めたのは、伊予介・紀淑人ただ一人。
紀淑人はこの働きによって従五位から従四位へと昇進し、堂々たる賞賛を受けることとなりました。
一方の純友には、何の沙汰も下されることはなく、その貢献は黙殺されたのです。
都から見放された純友の心に芽生えたのは、抑えきれぬ失望と憤りでした。
しかし純友には、なお自分を慕い、寄り添う者たちがいました。
そして、自身を必要とする人々がいるこの地に、とどまる決意を固めます。
そんな純友のもとには、旧知の海賊たちだけではなく、地方の豪族たちまでもが次々と集まってきました。
出自の良さ、伊予掾としての官位、そして何よりも、都に見放された者としての「同じ境遇」が、彼らの心を強く結びつけたのです。
こうして、海賊王となった藤原純友は、 中央の政治によって見捨てられた多くの人々と共に武器を取り、朝廷を相手取って戦いを挑むことになったのです。
「藤原純友の乱」
天慶2年(939年)12月。
朝廷に一本の報告が届きました。
「藤原純友が兵を率いて海に出ようとしており、伊予介・紀淑人がこれを制止しても聞き入れず、国内は騒然としている。純友を早急に京に召し上げてほしい」
この報せは、瀬戸内海を舞台とする大規模反乱「藤原純人の乱」の始まりを告げるものになりましたが、この段階では、朝廷も純友の行動を明確な「反乱」とは見ていませんでした。
当時、東国ではすでに「平将門の乱」が勃発しており、朝廷としては東西同時の内乱は何としても避けたいという思惑がありました。
そのため、朝廷はまず懐柔策を講じます。
紀淑人の任期が切れた後、純友はますます独自の動きを強め、海賊勢力を統率して瀬戸内海の各地に拠点を築きます。
淡路島を攻撃し兵器を強奪
天慶3年(940年)正月、純友に従五位下の官位を授け、名目的な昇進によって反乱の沈静化を図ろうとしたのです。
ようやくこの時になって、純友の実績が“形式的に”評価されたとも言えます。
しかし、すでに武力と勢力を拡大しつつあった純友にとって、何の意味も持ちませんでした。
純友軍は瀬戸内の制海権を掌握し、ついには淡路島を急襲。
武器や兵糧を強奪してしまいました。
その大胆な行動は、西国の国司たちに動揺を走らせ、朝廷にとってももはや看過できぬ「反乱の火種」として映るようになっていきました。
「平将門の乱」の鎮圧と戦力を向けられる純友
その頃、東国では「平将門の乱」が最終局面を迎えていました。
天慶3年(940年)2月14日、常陸国・石岡での戦闘により、将門は流れ矢を受けて戦死。
乱は鎮圧され、朝廷はようやく東国の混乱を収束させます。
将門の乱が鎮圧されたことで、朝廷はようやく西国情勢に本腰を入れられるようになります。
しかしその時にはすでに、純友の動きは一地方反乱の域を超えていました。
反乱の拡大と沿岸への襲撃
天慶3年(940年)夏頃から、純友は400艘におよぶ軍船を率いて伊予から出撃。
讃岐・阿波・備中など瀬戸内の沿岸地域に次々と侵攻し、官物(租税・兵糧)や兵器を強奪、国司の館を襲撃しました。
また、阿波・讃岐では朝廷側の追討軍との激しい衝突が繰り返され、地域は戦乱に巻き込まれていきます。
同年10月には、純友軍は周防国吉敷郡(現在の山口市南部)を襲撃・焼き討ちし、重要施設を破壊しました。
さらには12月、遠く土佐国幡多郡(現在の高知県西部)にまで兵を進め、反乱の波は四国全土に波及していきました。
もはや瀬戸内海は、純友が支配する“海の政権”のごとき様相を呈し、朝廷の影響力は海上からほぼ一掃されていました。
裏切りと日振島陥落
しかし天慶4年(941年)2月、事態は急転します。
配下の有力武将、藤原恒利(ふじわらのつねとし)が、突如として朝廷側に寝返り、本拠地・日振島に関する詳細な情報を密かに伝えたのです。
この密告を受けた朝廷軍は、東国で「平将門の乱」を鎮圧したばかりの小野好古(おのの よしふる)を主力に据え、即座に海路を経て日振島を急襲しました。
純友はこの急襲は予測していましたが、藤原恒利の手引きによって迎撃態勢が崩壊。
日振島を失ってしまいました。
「九州での戦い」大宰府焼き討ち
最重要拠点を失った藤原純友は、残存兵力を率いて西へと退却し、九州の地へとたどり着きました。
そして天慶四年(941年)の春ごろ、純友軍は博多湾に上陸し、九州支配の中枢である大宰府への攻撃を開始したのです。
最初の戦闘では、純友軍が得意とする海上戦が優勢に展開され、大宰府の政庁をはじめ、外交・貿易の要衝であった鴻臚館(こうろかん)を焼き討ちにしました。
鴻臚館は、古くは唐や新羅などと交流するための国家的施設であり、その焼失は実質的な損害以上に、朝廷にとって象徴的な屈辱を意味するものでした。
また、博多湾(博多津)周辺の海戦でも純友軍は朝廷側の水軍を巧みに翻弄し、一時は制海権を握ります。
陸上でも、純友の弟である藤原純乗が南方の筑後方面へと侵攻し、柳川の地を制圧。
筑後川流域の交通路と補給線を一時的に掌握し、陸海両面からの攻勢を展開しました。
しかし、その勢いも長くは続きませんでした。
大宰府の長官である大宰権帥(だざいのごんのそち)・橘公頼(たちばな の きみより)が率いる朝廷軍が、蒲池(現在の福岡県柳川市付近)において藤原純乗の軍勢を撃退し、陸上戦における純友軍の優位は大きく崩れます。
こうして地上戦での突破が困難となる中、純友勢力は着実に消耗し、その軍事的基盤は徐々に失われていきました。
大宰府の長官、大宰権帥(だざいのごんのそち)の橘公頼(たちばな の きみより)が指揮する朝廷軍が蒲池(現在の福岡県柳川市付近)において純乗の軍勢を撃退し、地上戦において純友の勢力は勢いを失いました。
こうした中で、朝廷の討伐軍の本体が九州へ目指して進軍していました。
最終決戦「博多津の戦い」
天慶4年(941年)5月、ついに朝廷の本格的な討伐軍が九州へと到着すると、藤原純友の乱は最終局面を迎えることとなります。
陸路からは、小野好古が率いる軍勢が進軍し、博多の西方から大宰府を目指して迫りました。
一方、海上からは藤原慶辛(ふじわら の よししげ)と筑前守・大蔵春実(おおくら の はるざね)がそれぞれ率いる水軍が、博多湾に進出。
純友軍を海陸両面から包囲・挟撃する態勢が整えられます。
こうして行われたのが、「博多津の戦い」です。
天慶4年(941年)5月30日、朝廷軍と純友軍との間で激烈な戦闘が開始されました。
海上では、純友軍がかつてのような機動力を発揮する余裕もなく、朝廷軍の組織だった攻勢に翻弄されました。
一方、陸上では小野好古の兵が一歩ずつ確実に前進し、挟撃する形で純友軍を包囲。逃げ場を失った純友軍は、次第に統制を失っていきました。
この戦いの末、純友側の船舶八百余艘が捕獲され、死傷者は数百人に達する大損害を被ります。
主力は壊滅し、生き残った兵たちも散り散りになって逃走し、軍としての形を保つことはできませんでした。
こうして「博多津の戦い」は朝廷側の決定的勝利に終わり、「藤原純友の乱」は終焉に向けて動き出します。
海賊王・藤原純友の最期
命からがら戦場を離脱した藤原純友は、わずかな手勢とともに小舟に乗り、伊予の地へと退却しました。
純友にとって伊予は、かつて伊予掾として赴任し、瀬戸内を掌握した「海賊王」としての栄光の地でした。
しかし今や、その地も安息の地ではなくなっていました。
朝敵とされた純友を支援する者はすでになく、討伐軍の追撃はなおも続き、抵抗する力も尽き果て、逃げ道すらも残されてはいなかったのです。
天慶4年(941年)6月20日。
純友の所在を突き止めた、伊予の警固使として西国の治安を担っていた橘遠保(たちばなのとおやす)の手によって、純友は息子の重太丸とともに討ち取られました。
その後、逃げ延びた残党も播磨・但馬など西国各地で掃討されました。
こうして、海賊王が国家を相手に全面戦争を挑んだ、日本史上類を見ない大反乱「藤原純友の乱」は、終結を迎えたのです。
一方で、純友の最期については諸説があり、その真相には謎が残されています。
たとえば「討ち死にではなく捕らえられて処刑された」とする記録や、「伊予の山中で自害した」と伝える地域伝承も存在し、はっきりとした詳細はわかっていません。
こうした謎を残したまま、藤原純友の名は反逆者としての汚名と同時に、時の権力に抗った者としての伝説性を帯び、後世に語り継がれていきました。
「海賊の海を鎮める鐘」円照寺の始まり
円照寺は、この藤原純友の乱と密接に関わる歴史の流れの中で創建されました。
混乱の時代の中で人々の心が荒れ、世の秩序が崩れていくなか、仏教の教えは人々に安らぎと指針を与える存在として、重要な意味を持っていたのです。
日振島に建立された仏堂
円照寺のはじまりは、藤原純友の乱が勃発する少し前、承平6年(936年)5月にまでさかのぼります。
当時、瀬戸内海では海賊の横行が深刻化し、沿岸地域は不安と混乱に包まれていました。
こうした情勢のなか、伊予介として赴任した紀淑人は、海賊を制圧するだけではなく、仏教の力によって人々の心を根本から鎮め、精神的な安定と平和をもたらすことが必要だと考えました。
そしてその想いのもと、紀淑人は豊後水道の要衝・日振島に一宇の仏堂を建立し、そこに大鐘(焚鐘)を据えました。
この仏堂こそが、「円照寺」の起源とされています。
海賊たちのお堂
鐘の音は仏の加護と平穏を告げ、人々に安心と信仰をもたらすはずでした。
しかし、その祈りも虚しく、天慶2年(939年)、藤原純友の乱が勃発。
日振島は海賊勢力の重要拠点として純友の本拠地となり、紀淑人が建立した仏堂は、皮肉にも海賊たちの祈りの場として用いられ、戦乱と混乱の渦に巻き込まれていったのです。
そして乱の終結後、この仏堂は現在の今治市高橋の地へと移されることになりました。
ではなぜ、誰が、どのような理由この場所に移したのでしょうか?
それをひもとく鍵は、藤原純友の乱における「地方の動き」にあります。
伊予の水軍勢力の参戦
実は藤原純友の乱の中で、朝廷側で戦ったのは中央の軍勢だけではありませんでした。
瀬戸内海に勢力をもつ各地の地方豪族や武士にとって、純友の台頭は単なる反乱ではなく、自身の領地や統治体制を脅かす深刻な脅威だったのです。
もしこのまま瀬戸内海で海賊の支配体制が確立すれば、既存の地方秩序は根本から揺らぎかねませんでした。
そうした危機感から、多くの地方の豪族や武士たが朝廷側について参戦しました。
その中でも重要な役割を担ったのが、伊予国越智郡(現・今治市)を本拠とする古代豪族・越智氏の一族、越智好方(おちのよしたか、河野好方)でした。
越智氏は、古くから瀬戸内の海上交通の要衝である大三島を中心に、伯方島・大崎上島・因島など芸予諸島一帯を掌握し、強力な水軍「越智三島水軍」を組織して海上の秩序維持にあたっていました。
そうした越智氏の中で、伊予国の治安維持を担う地方武官「伊予押領使(いよのおしりょうし)」の任を受けていたのが、越智好方でした。
朝廷から藤原純友討伐の命を受けた好方は、配下である新居大島の海事に長けた村上氏とともに水軍を率いて出陣。
数百艘におよぶ軍船を指揮し、純友を九州方面まで追撃してついにこれを討ち破ることに成功しました。
この功績によって、越智氏(のちの河野氏)は「伊予水軍(越智三島水軍)・河野水軍」の棟梁として、村上氏は後の「村上水軍(村上三島水軍)」へと、歴史にその名を刻んでいくことになります。
現在の場所へ移設
藤原純友の乱の終息後、好方は日振島に建立されていた仏堂を越智郡高橋郷(現:今治市高橋)の地へと移し、自身の弟の越智好純を出家させ、このお寺を守らせました。
出家後の越智好純は「直岳律師」と名乗り、寺の開基の始祖として律宗の教えを広めました。
これこそが、円照寺のはじまりです。
その後は、越智氏の流れをくむ河野氏の支えを受けながら、10の末寺を持つまでに隆盛を極め、長い歴史の中で衰退して、現在の姿へと移り変わっていきました。
これが、円照寺の歩んできた歴史になります。
しかし、ここで一つの大きな謎が浮かび上がります。
なぜ、敵である藤原純友の拠点・日振島に建立されていた仏堂を、越智好方はわざわざ自らの統治する地へと移したのでしょうか。
それだけではありません。
好方は、実の弟を出家させてまで、この寺を守らせたのです。
いったい、そこまでして守るべき理由とは何だったのでしょうか。
それには、藤原純友の「生誕」にまつわる謎が、深く関係しています。
「藤原純友の出自」ふたつの系譜、ひとつの謎
藤原純友の名は、瀬戸内海を揺るがした「海賊王」として歴史に刻まれていますが、その出自については、いまなお謎に包まれています。
一説によれば、純友は藤原北家の流れを汲む名門、筑前守・藤原良範の三男として生まれました。
この良範は、人臣初の摂政・藤原良房の甥にあたり、その血筋には、のちの藤原道長らを輩出する摂関家の栄光が流れていました。
この系譜に連なる者として、純友もまた将来を嘱望された存在だったと考えられます。
しかし一方で、もうひとつの有力な説があります。
それが、藤原純友は実は藤原氏の血を引いた人物ではなく、伊予国の在地豪族である高橋友久の子として、越智郡高橋郷(現:愛媛県今治市高橋)の地に生まれたという説です。
高橋友久は、伊予国を代表する古代氏族・越智氏から分かれた一族「高橋氏」の当主でした。
高橋氏は越智郡高橋郷を本拠とし、今治平野を治める有力な土着豪族として知られています。
その子として生まれたのが高橋純友です。
藤原良範の養子「高橋純友」
高橋友久は、自身の子・純友の将来を案じ、中央の有力貴族であった藤原良範に働きかけ、純友をその養子としました。
良範は藤原北家の名門に連なる人物で、曽祖父に藤原冬継、祖父に長良、叔父には人臣最初の摂政・良房、そしてその後継となる関白・基経を擁する家系に属していました。まさに摂関政治の源流ともいえる一族です。
当時の在地豪族にとって、中央の名門との関係を築くことは、家の威信を高め、将来の政界進出に繋がる重要な戦略の一つでした。
高橋氏のような地域の有力氏族が、藤原北家との縁を得ることは、地方支配の正当性と安定を担保する強い後ろ盾となったのです。
一方で、別の説では、純友は十三歳のころ、京の七条御殿にて手洗水石(ちょうずすいせき)を軽々と持ち上げるという並外れた怪力を披露し、それを偶然目にした伊予守・藤原良範の目に留まったことが、養子縁組のきっかけとなったとも伝えられています。
いずれにせよ、純友が藤原良範の養子となり、都へ上り、やがて「藤原純友」として中央官人の道を歩み始めたというのがこの説になります。
越智の一族としての純友
そして藤原純友は、越智好方にとって決して単なる「反逆者」ではありませんでした。
純友は、自らと同じ伊予の地にルーツをもつ血族の一人であり、朝廷から高い官職と信任を受けた人物でもありました。
また、地方から都へ上り、名誉ある地位を得て、やがて地元に戻り国司や郡司として実権を握る。
その歩みは、地方豪族にとって理想的な出世の道であり、越智好方にとっても同族として誇るべき存在だったに違いありません。
しかし、実際の純友は中央の出世の道から外れ、朝廷に冷遇される身となり、失意のうちに伊予へと戻っていました。
そして、同じく朝廷から見放されて海賊に落ちた役人たちに信頼され、ついには「海賊王」として瀬戸内に君臨する存在へと変貌していきました。
同じく瀬戸内を拠点とし、似たような出自と立場にあった者として、越智好方が純友に対し、特別な感情を抱いていたとしても、不思議ではありません。
純友の拠点であった日振島に建立されていた仏堂が、討伐後も破却されることなく丁重に守られただけではなく、生まれた場所へと移される。
円照寺の創建には、越智好方の中にあった静かな「鎮魂」の思いが込められていたのではないでしょうか。
律から浄土、そして臨済へ…移り変わる地域の信仰
このようにして、戦乱と鎮魂の記憶を内包しながら創建された円照寺は、その後も時代の変化とともに歩みを続け、幾度かの宗派変遷を経て発展していきました。
最初は律宗として始まった寺院でしたが、後に浄土宗へと改宗され、さらに寛永年間(1624〜1647年)頃には泰甫宗大和尚のもと、臨済宗東福寺派へと改められ、現在も地域の人々の信仰と共に歩み続けています。
「授乳地蔵」授かりし命を守るお地蔵様
そして円照寺には、今も多くの人々の信仰を集める特別なお地蔵さまが祀られています。
それが境内にある蓮華院(れんげいん)の本尊、「授乳地蔵(乳地蔵・乳出地蔵)」です。
授乳地蔵はその名の通り、母乳に悩む母親や、子供の健康を願う家族に特別な力をもたらしてくれる存在であると信じられています。
古くから母乳の出に悩む母親たちにとって、希望の象徴として信仰されており、母乳の出が悪いとき、母親たちはこのお地蔵様に「乳をお授け下さい」と祈りを捧げ、その祈願が叶うと信じられていました。
授乳は、特に昔の時代には重要な問題でした。現代のように哺乳瓶や人工乳が発達していない時代では、母乳が出ないことは子供の健康や命に大きく関わる問題であり、母親たちにとって非常に深刻な悩みでした。
母乳の出が悪い母親たちは、授乳地蔵にすがり、子供のために母乳を授かりたいという強い願いを持って祈りを捧げたのです。
こうした背景から、乳地蔵尊は母親たちにとって単なるお地蔵様以上の存在となりました。
母乳が出ないことで悩んでいた母親が、乳地蔵尊に祈ると不思議なことにその願いが叶い、母乳が出るようになったという話が広まり、このお地蔵様は特別な力を持つとされるようになりました。
願いが成就すると、母親たちは感謝の気持ちを込めて2つの乳房をかたどった模型を奉納するという風習が現代も続いており、地蔵堂には乳の模型がたくさん吊るされています。
しかし、現代では哺乳瓶で粉ミルクの授乳することも増え、母乳の出に悩む母親が減少したため、かつてほど乳地蔵尊に母乳を祈願する人は少なくなってきています。
それでも、乳地蔵尊は今も地域の人々に子供の健康や家族の幸福を願う場として、地域の人々に大切に信仰されています。
小さなお地蔵様と変わった風習
円照寺の地蔵堂には、もう一つ注目すべきお地蔵様があります。
それが、縁側に祀られている小さなお地蔵様です。
このお地蔵様にも独特な風習があり、今でも信者たちによって大切に守られています。その風習が「化粧を施す」というものです。
この風習は、もともとお地蔵様の胴体部分に刻まれたひび割れを隠すために始まりました。
信者たちは、お地蔵様のひび割れを隠し守るために、おしろいや土を用いてお化粧を施すようになったのです。
しかし、この行為は単なる修復にとどまらず、次第にお地蔵様をいたわり、いたわることで自身の健康を願うという信仰へと発展していきました。
特に下の病気に対して大きなご利益があると信じられており、今でも多くの参拝者がこの奇習を守り続けています。
乳地蔵のご縁日と行事
毎年8月23日は乳地蔵のご縁日として、多くの参拝者が圓照寺を訪れます。
この日には、境内で盆踊りなどが行われ、地域の人々が集まり賑わいを見せます。
母乳に悩む母親たちだけでなく、子供の健康や家庭の繁栄を願う家族がこの日を目指して参拝し、乳地蔵尊に祈りを捧げます。