今治市民にとって「吹揚(ふきあげ)」と聞けば、まず思い浮かぶのが今治城と「吹揚神社(ふきあげじんじゃ)」です。
吹揚神社は今治の中心部、今治城内に位置し、その立地だけでなく、市民の精神的な主柱ともいえる存在で、大晦日から初詣、七五三、春祭りなど、さまざまな行事において多くの今治市民が訪れています。
「幕末から明治へ」吹揚神社創建の歴史的背景
吹揚神社が創建された背景を知るには、幕末から明治にかけての日本の激動の歴史を理解することが必要です。
「幕藩体制」江戸時代の日本の統治
江戸時代後期、日本は約300の藩に分割され、それぞれが独自の政治体制と軍事力を持ち、小さな独立国のように存在していました。
各藩は江戸幕府に従いつつも、藩主のもとで領内を治め、城を中心とした城下町を発展させ、地域ごとの経済や文化を育んでいました。
このような体制は「幕藩体制」と呼ばれ、中央の幕府と地方の藩が共存する分権的な仕組みとして、長く維持されてきました。
こうした政治体制の安定を支えるため、幕府は外交面でも独自の方針を貫きました。
その一つが、長く続いた鎖国です。
「鎖国」海を閉ざした二百年
鎖国政策とは、17世紀初頭からおよそ200年以上にわたり、江戸幕府が日本と外国との接触を厳しく制限した対外政策を指します。
この政策の発端は、キリスト教の急速な布教と西洋諸国の影響力拡大に対する危機感にありました。
幕府は、国内の統治秩序と自身の権威を守るため、外国人の来航や日本人の海外渡航・帰国を禁じ、貿易を大幅に制限しました。
貿易は主にオランダと中国に限られ、その取引は長崎の出島を通じて厳重に管理されていました。
この政策により、日本は西欧列強による植民地化を免れ、国内では比較的安定した社会が維持され、儒学・仏教・国学などの思想や、浮世絵・和算といった独自の文化が発展していきました。
しかし19世紀に入ると、世界の情勢は大きく変化します。欧米列強は次々とアジア諸国に進出し、植民地化や不平等条約を進めるなか、日本にも開国を求める圧力が高まっていきました。
アヘン戦争がもたらした危機感
特に清(中国)がアヘン戦争でイギリスに敗れ、半植民地化されたことは、日本にとって大きな衝撃でした。
イギリスは清に対して麻薬であるアヘンを大量に売りつけ、民衆を麻薬漬けにして国を弱体化させたうえで、軍事力を背景に一方的な不平等条約を押しつけました。
当時の日本人にとって、大国であり、古くから文化の手本としてきた中国が、西洋列強の前に屈し、港を奪われ、主権を侵されていく様子は、決して他人事ではありませんでした。
鎖国を続ける日本も、いずれ同じ運命をたどるのではないか…そうした強い危機感が国内に広がっていったのです。
「黒船来航」幕府の権威が失墜
こうした危機感が高まる中で、ついにその懸念が現実のものとなります。
1853年、アメリカの東インド艦隊司令長官マシュー・ペリー提督が4隻の軍艦を率いて浦賀に来航し、日本に対して開国を強く迫ったのです。
蒸気船を含む黒塗りの巨大な軍艦は「黒船」と呼ばれ、その圧倒的な存在感は、日本中に大きな衝撃と動揺をもたらしました。
幕府は、軍事的衝突による国内の混乱を避けるため、まずは「回答猶予」を申し出て、1年後の再来航を約束しました。
そして翌1854年、ペリーが再び来航すると、幕府はやむなく日米和親条約を締結。
下田・函館の開港、アメリカ船への物資供給、最恵国待遇の付与など、これまでの鎖国体制を大きく転換する内容でした。
「尊王攘夷」と倒幕の機運
この条約締結により、外国勢力が本格的に日本に影響を及ぼすようになり、各藩や民衆の間では幕府の外交姿勢に対する疑念と不満が高まっていきました。
こうした中で台頭したのが、「尊王攘夷(そんのうじょうい)」という思想です。
「尊王」とは天皇を国家の正統な君主として敬うことであり、「攘夷」は外国勢力を打ち払おうとする考え方を指します。
天皇の権威を重んじ、外国からの干渉を拒絶しようとするこの思想は、特に若い武士や志士たちの間で急速に支持を集めました。
「薩摩藩と長州藩」倒幕へ突き進む二つの藩
この尊王攘夷を旗印に、特に活発に行動を起こしたのが薩摩藩と長州藩です。
両藩は当初、独自に攘夷運動を展開していましたが、1860年代に入ると幕府の対応の弱さが明らかになり、ついには体制そのものを打倒すべきだという認識が強まっていきます。
幕府は長州藩の動きを抑えようと、1864年の第一次長州征討、1866年の第二次長州征討を実行しますが、長州藩は洋式兵器を導入して近代的な軍備を整えており、これを撃退。
幕府の軍事力の限界が明らかになり、権威は大きく失墜しました。
このような状況の中、1866年に薩摩藩と長州藩は「薩長同盟」を結びます。
この同盟の成立により、幕府に対する軍事的・政治的圧力は一気に高まり、全国的にも「幕府の終焉」を予感させる空気が漂い始めました。
倒幕の機運は、もはや引き返せないところまで高まっていたのです。
「大政奉還」徳川慶喜の決断とその波紋
こうした中で、15代将軍「徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)」は次第に政治的な解決を図ろうと考え始め、1867年に慶喜は政権を朝廷に返上する「大政奉還(たいせいほうかん)」をおこないました。
大政奉還によって政権が朝廷に返上されたことで、武力による対立が収まり、平和的な政治移行が実現すると思われていました。
しかし、大政奉還後の朝廷内では、幕府を存続させるべきか、それとも新たな政府体制を作るべきかで意見が分かれ、政治的な混乱が続いていました。
その中で、薩摩藩や長州藩を中心とする倒幕派は、徳川家の影響を完全に排除し、新しい政府を樹立することを目指して動き出します。
「王政復古の大号令」明治の始まり
そして1868年1月3日(旧暦:慶応3年12月9日)、薩摩・長州ら倒幕派は軍事的主導権を握ったうえで、朝廷を通じて「王政復古の大号令」を発し、徳川幕府の廃止と天皇親政による新政府の樹立を宣言しました。
ここから明治時代が始まります。
しかし、この「王政復古の大号令」は、単なる体制移行ではなく、徳川家の政治的排除を宣言する一方的な政変でもありました。
徳川慶喜と大政奉還の落とし穴
当時、明治天皇はまだ満15歳の若年であったため、実際の政権運営は薩摩藩・長州藩を中心とした倒幕派が主導し、新政府は事実上の「薩長政権」として発足しました。
この新体制に対し、旧幕府の中心人物である徳川慶喜は激しく反発します。
慶喜は、自ら政権を朝廷に返上する「大政奉還」を行ったものの、それは徳川家が新体制の一員として引き続き政治に関与するという前提のもとでした。
徳川家が完全に政治の場から追放されることまでは想定していなかったのです。
ところが、新政府は「王政復古の大号令」の発布当夜に開かれた「小御所会議」において、慶喜に対して「辞官納地(じかんのうち)」(=官位の辞退と領地の返上)を命じる方針を決定します。
これは、徳川家の地位と経済的基盤を根本から否定するものであり、旧幕府勢力にとって受け入れがたい重大決定でした。
この処遇により、慶喜と旧幕府側は完全に窮地に追い込まれます。
さらに、もともと武力行使には慎重だった慶喜も、薩摩藩による挑発行為(江戸市中における庄内藩邸の焼き討ち、浪士による攪乱活動など)により、家臣たちの強硬論が高まるなかで、ついに軍事行動に踏み切る決断を下します。
「鳥羽・伏見の戦い」
そして慶応4年(1868年)1月27日、ついに旧幕府軍は京都奪還を目指して進軍を開始しました。
目指すは、かつて徳川政権の権威を象徴した御所のある都。
その途上、京都の南に位置する鳥羽・伏見の地で、新政府軍との間に激突が起こります。
これが、後に「鳥羽・伏見の戦い」と呼ばれる戦端です。
旧幕府軍は、幕臣や会津藩・桑名藩を主力とし、洋式の装備を整えて京都に迫りました。
しかし迎え撃つ新政府軍は、薩摩藩・長州藩を中心に構成され、さらに天皇の「錦の御旗(にしきのみはた)」を掲げていました。
この御旗は、彼らが「官軍(正統な朝廷の軍)」であることを示す象徴であり、戦の趨勢を大きく左右する精神的支柱でもありました。
こうした状況のもと、戦術面でも精神面でも優位に立った新政府軍は、旧幕府軍を圧倒。
わずか4日間で戦況は決し、旧幕府軍は総崩れとなって敗走。徳川慶喜は大阪城を脱出し、ひそかに江戸へと退却します。
この戦いこそが、以後1年以上にわたって全国を巻き込む「戊辰戦争(ぼしんせんそう)」の幕開けとなったのです。
「江戸無血開城」武士の時代、静かなる終焉
京都から退却した徳川慶喜は、江戸城に戻って籠城の構えを見せます。
しかし、戦火による民衆の犠牲を避けたいという双方の思いが一致し、慶応4年(1868年)3月14日、新政府軍の西郷隆盛と旧幕府の代表・勝海舟との会談が実現します。
この歴史的会談により、江戸城は戦わずして新政府に明け渡されました。
これが日本の歴史に残る奇跡「江戸無血開城」です。
この決断により、首都・江戸は大規模な戦闘を回避し、流血なきまま新政府の統治下に入ることができました。
しかしその一方で、旧幕府軍の一部は抗戦を続け、戦火は北陸や東北、さらには遥か北海道へと拡大していきます。
それでも新政府軍の軍事的優位は揺るがず、各地で旧幕府勢力を次々と打ち破っていきました。
そして明治2年(1869年)5月、旧幕府軍の最後の拠点であった函館・五稜郭がついに降伏。
これにより「戊辰戦争」は終結を迎え、約260年続いた徳川幕府は完全に幕を閉じることとなったのです。
それはまた、戦国の世から脈々と続いた“武士の時代”の終焉でもあり、日本が本格的に「明治」という新たな時代へと歩み始める、歴史の大きな転換点でもありました。
明治と近代国家へのあゆみ
戊辰戦争の終結とともに、日本は幕藩体制から近代国家への転換を本格的に進めていきました。
そして、その時代の流れの中で吹揚神社が創建されることになります。
富国強兵と殖産興業
明治新政府は、アジア諸国が欧米列強の植民地となっていく現状を目の当たりにし、日本もまたその脅威にさらされているという強い危機感を抱いていました。
そのため、欧米諸国に対抗しうる「独立した近代国家」を築くことが急務とされました。
その国家建設の柱として掲げられたのが、以下の二大スローガンです。
- 富国強兵(国を富ませ、軍を強くする)
- 殖産興業(産業を育て、経済を発展させる)
この理念に基づき、政府は軍制・教育・産業・税制・法制度など、あらゆる分野で西洋の制度や技術を積極的に導入し、急速な近代化を進めました。
天皇を頂点とする中央集権体制の確立
明治新政府はまた、分権的な旧幕藩体制を解体し、天皇を頂点とする中央集権国家の確立を目指しました。
この体制転換は、国の統一を保ちつつ、迅速な改革を進めるために不可欠だったのです。
その中でも特に大きな転換点となったのが、「版籍奉還」と「廃藩置県」による地方統治制度の再編です。
「版籍奉還」藩を政府の管理下に
1869年、政府は全国の藩主に対して、領地(版)と人民(籍)を朝廷に返上させる「版籍奉還」を断行しました。
これにより、各藩は形式上は政府の直轄地となり、旧藩主たちは「知藩事」として引き続きその地域を治めることになりましたが、あくまで中央の任命を受けた地方官という位置づけでした。
「廃藩置県」藩から県へ
しかしこの体制では、旧藩主が実質的な権力を持ち続けていたため、政府は1871年に「廃藩置県」を実施し、約300あった藩をすべて廃止。
代わって府・県制を導入しました。
各地の知藩事は罷免され、新たに中央政府から派遣された「府知事」「県令」が地方行政を担う体制が整えられました。
これにより、地方の支配権が完全に中央政府に集中することになり、日本は本格的な中央集権国家へと移行したのです。
「廃城令」時代にそぐわない城の撤去
こうした一連の明治維新改革において、藩の象徴ともいえる「城」もまた、大きな転機を迎えることになります。
明治政府は、戊辰戦争の終結と「廃藩置県」による藩制度の廃止を受けて、城郭という軍事・政治拠点の存在意義そのものが失われたと判断しました。
加えて、旧藩主や士族が城を拠点に反乱を起こす可能性を排除することも、重要な課題とされていました。
そこで明治6年(1873年)、政府は太政官布告「全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方」を発布します。
これが、いわゆる「廃城令」と呼ばれる施策です。
この布告は、すべての城を一律に取り壊す命令ではなく、城郭を軍事・行政上の必要性に応じて残すかどうかを精査するというものでした。
しかし実際には、多くの城が「不要」とされ、破却・民間への払い下げ・建材の転用などの措置が進められました。
この政策の背景には、単なる軍事施設の整理だけでなく、以下のような明治政府の方針がありました。
- 中央集権の徹底(地方の独自権力を排除)
- 士族層の政治的影響力の抑制
- 財政再建とコスト削減
結果として、廃藩によって政庁機能を失った多くの城は、維持にかかる莫大な費用に見合わない施設とみなされ、その敷地は民間に払い下げられるか、学校・公園・庁舎などの公共用途に転用されていきました。
今治城もまた、そうした時代のうねりのなかで役割を終え、新たなかたちでの利活用が模索されることとなったのです。
「今治藩と廃藩置県」武家政権から近代行政へ
今治藩は、江戸時代を通じて瀬戸内海交通の要衝として栄えた港町であり、今治城を政庁とする藩政が行われていました。
しかし、明治4年(1871年)の「廃藩置県」によって今治藩もまた廃止され、領地は一時「今治県」となります。
その後、松山県を経て、現在の愛媛県へと編入されることで、今治は中央集権的な近代国家体制の一部として再編されていきました。
この中で、藩の政庁機能を担っていた今治城は、政治的役割を終えることになりました。
「当今時勢不用之品」今治城の廃城
今治城は、廃藩置県(明治4年・1871年)や「廃城令」(明治6年・1873年)が出されるよりも早く、すでに明治2年(1869年)10月の時点で「当今時勢不用之品(時代に合わない不要なもの)」と見なされ、順次その解体が始まっていました。
この判断には、武家政権の象徴であった「城」が、もはや新しい時代の政治体制には適さないという明確な時代認識が反映されています。
実際、明治政府は中央集権的な行政機構の整備を急ぐなかで、旧藩主の権威や封建的な象徴である城郭を速やかに処分する方針を採っていました。
解体とともに消えた城の風景
今治城も例外ではなく、天守をはじめとする建造物の多くが撤去されました。
解体によって得られた資材は、一部が地元の公共施設や建築に再利用されており、たとえば山門は延命寺に、薬医門は観音寺に移されたと伝えられています。
また、外堀や中堀も次第に埋め立てられ、かつて海に浮かぶように築かれた「海城」は、徐々に市街地の一部へと姿を変えていきました。
残されたのは内堀と本丸を囲む石垣のみで、城跡の土地は旧藩主から旧家臣団に分与され、多くが更地となっていきました。
今治城はこうして、静かにその役目を終えたのです。
往時の栄華を知る人々にとっては、あまりにも寂しい風景が、そこに広がっていました。
「吹揚神社の誕生」本丸跡に新たな神社を
今治城が解体され、その広大な本丸跡が更地となるなかで、地域住民のあいだには、かつての城の記憶を何らかの形で残したいという想いが芽生え始めました。
近代国家の成立により武家支配が終焉を迎えた今、今治の人々は新たな時代の「心の拠り所」となる場を必要としていたのです。
そこで立ち上がったのが、本丸跡に新たな神社を建立する計画でした。
【吹揚の由来】城の記憶を受け継ぐ
この神社は、「吹揚神社(ふきあげじんじゃ)」と命名されました。
その名の由来は、かつての今治城が「吹揚城(ふきあげじょう)」とも称されたことにあります。
「吹揚」の名は、今治城の東南に広がっていた「吹揚の浜」という砂丘地帯に由来します。
ここは、海から吹き上げる風によって砂が舞い上がることからその名で呼ばれ、風光明媚な地として知られていました。
今治城もまたこの浜辺に築かれたことから、「吹揚城」と称されたとされます。
この地名と呼称を受け継ぐことで、新たに建てられる神社は、かつての城の記憶と歴史が受け継がれることになりました。
まさに、新しい時代の今治の象徴として位置づけられたのです。
四つの神社が一つに集結
吹揚神社の創建にあたっては、単なる新設ではなく、今治城下に深く根づいていた信仰の集約という大きな意義が込められていました。
当時、今治の町には古くから人々に親しまれてきた由緒ある神社が点在していましたが、城下の大きな再編の中で、これらを統一的に祀る構想が持ち上がります。
それは単に神社を「整理」するという発想ではなく、それぞれの神社が担っていた地域の記憶や信仰を、失われた城の中心に再結集させるという、精神的にも文化的にも重要な試みだったのです。
こうして、今治に点在していた次の四つの神社が合祀されることになりました。
- 神明宮(しんめいぐう):旧神明町(現在の共栄町)に鎮座し、町の守護神として長く庶民に信仰されてきた。五穀豊穣や家内安全を祈願する日々の暮らしに根ざした神社。
- 蔵敷八幡宮(くらしきはちまんぐう):もとは今治城内にあり、城の建設にともない移転。八幡神を祀る武運長久の守護神であり、武士階級を中心に厚く信仰され、高野山今治別院が別当を務めていた格式高い社。
- 「厳島神社(いつくしまじんじゃ)」:蒼社川のほとりに鎮座していたが、川の改修工事によって別の場所に移動。水の神様を祀り、川や海の守護として、漁業や水運に携わる人々から厚く信仰されていた。
- 「夷宮(夷子宮・えびすぐう):風草町に鎮座していた「蛭子神社(えびすじんじゃ)」とも呼ばれていた神社。商売繁盛や海上交通の安全を願う神社として、地元の商人や船乗りたちに篤く信仰されていた。
明治5年「吹揚神社」誕生
そして、明治5年(1872年)11月19日、四社に受け継がれてきた、町人・武士・漁業者・商人といった今治の暮らしを支えてきた人々の人々の暮らしと祈りがあつまった新たな神社「吹揚神社」が創建されました。
かつて今治城が人々の誇りであったように、この神社には地域の希望と誇りが託されたのです。
その想いは、すぐに具体的な行動として現れました。吹揚神社が旧本丸に建立されると、地域住民の間から「本丸跡地全体を神域としたい」という声が上がり、これに呼応するように多くの寄付金が集まりました。
その資金をもとに、旧家臣の一族が所有していた土地が少しずつ購入されていき、やがて神社の社有地は境外にも広がっていきました。
「郷社」の社格
さらに、吹揚神社は創建と同時に、神社制度における社格のひとつである「郷社」に列せられました。
郷社は、村社より上位、府県社より下位に位置する格式であり、吹揚神社は地域信仰の中心として重要な役割を担うこととなったのです。
境内社「松ノ本天満宮」
吹揚神社の創建に伴い、松ノ本天満宮(主祭神:菅原道真)が境内に遷座されました。
松ノ本天満宮は、もともと今治藩主・久松(松平)家の別荘であった*「松之本花園」に鎮座していた由緒ある神社で、藩の祈祷所である光林寺(玉川地区)が別当寺を務めていました。
御祭神の菅原道真は、久松(松平)の遠祖とされ、その御神徳に加え、学問の神・誠実の象徴として広く崇敬されてきました。
そして道真とともに、初代今治藩主・松平(久松)定房(さだふさ)も安霊神として祀られ、地域の守護神として信仰を集めるようになりました。
県社への昇格
こうした背景をもとに、吹揚神社は明治15年(1882年)、その社格を「県社」へと昇格されました。
県社とは、国幣社・官幣社には及ばないものの、郷社より上位に位置し、県からの奉幣を受けることが認められた格式ある神社です。
この昇格により、吹揚神社は今治地域を代表する信仰の拠点としての地位を確固たるものとしました。
その後も、地域の信仰と歴史を受け継ぐ場として、吹揚神社の発展は続きます。
蔵敷美保社・松ノ本天満宮の合祀
明治42年(1909年)2月には、蔵敷に鎮座していた「美保社」が吹揚神社に合祀されました。この美保社には、姫坂大神・貴布禰大神の二柱が祀られており、いずれも水と土地を守る神として、地域で長く信仰されてきた存在です。
また、大正14年(1925年)8月には、境内社として祀られていた松ノ本天満宮も、正式に吹揚神社に合祀され、本殿の祭神の一柱として位置づけられました。
これにより、久松(松平)の祖神としての道真公の神格も一層高まり、藩政期の記憶が神社に深く織り込まれていくこととなったのです。
今治を象徴する神社へ
さらに、今治城を築城した「藤堂高虎」も吹揚神社の配神として祀られるようになりました。
こうして、藤堂高虎、菅原道真、松平(久松)定房といったゆかりの深い人物が祀られた吹揚神社は、単なる神社にとどまらず、今治の歴史・文化・精神を体現する象徴的存在として、その地位を確立していきました。
桜の名所「吹揚公園」
大正3年(1914年)、今治城の二の丸跡が公園として整備されることとなり、「吹揚公園」として一般に開放されました。
園内には山里風の橋や石段が設けられ、散策を楽しめる空間が整えられました。
その際に植えられた桜は、春には美しい花を咲かせ、やがて吹揚公園は今治を代表する花見の名所として親しまれるようになりました。
台湾檜で生まれ変わった吹揚神社
昭和14年(1939年)、吹揚神社では新たに社殿が新築されました。
このときに用いられたのが、高級建材として名高い「台湾檜(たいわんひのき)」です。
台湾檜は、木目の通直さ、肌目の緻密さ、芳香、光沢、耐久性において非常に優れており、特に太い柱や梁(径材)として重厚な建築物に多く使用されてきました。
その品質の高さから、首里城正殿や東大寺大仏殿、さらには明治神宮の大鳥居など、歴史に名を残す建築物にも数多く用いられてきた、まさに神社仏閣建築の最高級材とされています。
この台湾檜を用いて新たに建てられた吹揚神社の社殿は、荘厳で美しく、地域の信仰の中心として多くの人々の崇敬を集める存在となりました。
しかし、その社殿は、完成からわずか数年後、ある出来事によって失われてしまいました。
それが、昭和20年の「今治空襲」です。
「今治空襲」吹揚神神社の焼失
昭和20年(1945年)夏、太平洋戦争末期の今治市は、三度にわたる空襲に見舞われました。
中でも、8月5日深夜から6日未明にかけての3度目の空襲では、アメリカ軍のB-29爆撃機が260発以上の爆弾を投下し、市街地の大半が焼失。
この空襲により、今治の町は全戸数の約75%を失うという壊滅的な被害を受けました。
市民の生活基盤は崩壊し、多くの尊い命とともに、町の記憶を刻んだ建物の数々も焼き尽くされたのです。
その中には、再建されたばかりの吹揚神社の社殿も含まれていました。
台湾檜で精緻に築かれた荘厳な社殿は、地域の信仰の拠り所として人々に親しまれていましたが、わずか6年で戦火により焼失してしまったのです。
「焼け跡からの再生」戦後今治の復興
昭和20年(1945年)8月15日、日本は連合国に無条件降伏を受け入れ、太平洋戦争はようやく終結しました。
戦後、日本列島は焼け野原と化し、都市機能は壊滅、食糧難と失業が全国を覆いました。
今治市もまた、空襲によって家と職を失った多くの住民が、過酷な生活を余儀なくされました。
それでも人々は、わずかな物資と希望を頼りに、生活と町の再建に力を注ぎました。
焼けた住宅は一軒ずつ立て直され、商店街もにぎわいを取り戻していきます。
行政や教育機関も再び機能を回復し、少しずつ、町に活気が戻り始めました。
吹揚神社の復興
戦後13年を経た昭和33年(1958年)、ついに吹揚神社の社殿が再建されました。
戦火によって失われた神社がよみがえったことは、地域の人々にとって計り知れない喜びであり、大きな希望となりました。
戦後の混乱と困難の中でも、人々の心の中には、かつての今治の姿と、そこに息づいていた信仰が、確かに息づいていたのです。
昭和47年(1972年)には、御鎮座百年を記念して、今治城の歴史を踏まえた城郭様式の神門や境内末社の整備が行われました。
それらは単なる建築物ではなく、空襲の被害から立ち上がった町の象徴であり、信仰と文化の再生と継承を示す存在となったのです。
再びこの地に!今治城再建プロジェクト
吹揚神社の復興と歩調を合わせるように、今治の人々は、もうひとつの心の拠り所であり、かつてこの地を守り、築いてきたご先祖様の姿を重ねるように、「今治城」の再建へと想いを寄せはじめました。
今治城跡が県の史跡に指定
昭和28年(1953年)10月9日、今治城跡は愛媛県の史跡に指定されました。
これは、かつて藤堂高虎によって築かれ、江戸時代には今治藩の政治・経済・文化の中心であった今治城が、単なる「遺構」ではなく、歴史的価値と地域の記憶を刻む貴重な文化財であると正式に認められた瞬間でした。
この指定は、空襲で城郭の建物を失い、石垣と堀だけが残る無言の風景を見つめていた市民たちの心に、新たな希望を灯しました。
城の復元を願う声は次第に高まり、やがて「今治城復元運動」として静かに、しかし確かな歩みを始めます。
「今治城復元期成同盟」
昭和37年(1962年)には、地元の有志の方々によって「今治城復元期成同盟」が結成されました。
この組織は、歴史の継承と郷土の誇りを取り戻すべく、署名活動や寄付の呼びかけ、専門家との協議など、精力的に活動を展開しました。
しかし、当時の日本は高度経済成長の初期段階にあり、公共事業は都市整備やインフラ整備が優先される時代。
復元には多額の費用と資料的裏付け、技術的検証が必要であり、運動は志半ばにして一時停滞を余儀なくされました。
それでも、市民の「いつか城をもう一度この地に」という思いは消えることなく、町の記憶とともに静かに息づき続けていきます。
「市制施行60周年」天守の再建へ
そして昭和54年(1979年)、今治市が市制施行60周年という大きな節目を迎えるにあたり、ついにこの長年の願いに再び光が当たります。
市は記念事業の一環として「今治城の天守再建」を正式に決定し、復元計画は現実のものとして動き出しました。
翌年の昭和55年(1980年)、多くの市民の支援と協力を受けて、ついに本丸の北隅に5層6階の層塔型天守が再建されました。
この天守は、築城の名手として知られる藤堂高虎の築いた原型を参考に設計され、外観は白壁と黒瓦によって威風堂々たる姿を現代に蘇らせました。
内部には今治城や藤堂家、地域の歴史に関する展示が設けられ、観光・教育・文化の拠点としても活用されています。
この天守の復元は、吹揚神社と同じく、単なる建築物の再建にとどまりませんでした。
戦災によって焦土と化した今治のまちが、失われた記憶と誇りをひとつひとつ取り戻し、未来へと希望をつなごうとする人々の強い意志の象徴だったのです。
昭和55年の吹揚神社放火事件
しかし、そんな人々の祈りにも似た想いを踏みにじる、絶対に許されない事件が発生しました。
昭和55年(1980年)9月、吹揚神社は何者かによる放火によって、本殿や拝殿を含む主要な社殿を全焼するという、あまりにも痛ましい被害を受けたのです。
それは、戦火で失われた神社を再建し、ようやく取り戻した“心の拠り所”が、再び灰となって消えた瞬間でした。人々の間には、深い喪失感と怒り、そして悲しみが広がりました。
再び再建へ…奉賛会の結成と市民の結束
しかし、神社を想う人々の心は折れることはありませんでした。
放火事件直後から「もう一度、立ち上がろう」という声が各地で自然と上がり、地域住民や氏子、今治を離れた人々も含めた広範な支援の輪が広がっていきました。
そして間もなく「奉賛会」が結成され、祈りと願いを込めた再建運動が始まったのです。
この奉賛会には、立場を超えた人々が多くの賛同し、再建のための寄付や協力が全国から寄せられるようになりました。
そして昭和58年(1983年)3月、、ついに新しい本殿が完成し、吹揚神社は再び地域の信仰を支える場として蘇りました。
現在の姿へ!甦った今治の歴史
幾多の困難を乗り越えて再建された吹揚神社と、復元の歩みを重ねてきた今治城。
それは単なる建築物の再生ではなく、かつての記憶と誇り、そして未来への希望を託した「今治の象徴」として、その後も着実にその姿を整えていきました。
昭和60年(1985年)には二の丸跡に今治城の御金櫓(おかねやぐら)が再建され、郷土美術館として内部が公開されました。
さらに平成2年(1990年)には、山里櫓が復元され、武具や古美術品が展示される場として活用されるようになりました。
平成19年(2007年)には、重要な出入口であった鉄御門(くろがねごもん)も再建され、枡形(ますがた)や多聞櫓(たもんやぐら)5棟の外観も復元され、城郭としての全体の姿が再現されました。
こうして天守や櫓、門が順次再建され、雄大な城郭の姿がよみがえり、今治城と吹揚神社は今治市のシンボルとして、現在も多くの観光客が訪れています。
吹揚神社の見所
ここからは、歴史と信仰が息づく吹揚神社の見どころをご紹介します。
吹揚神社の御社殿とご祭神
吹揚神社の正面には、堂々たる御社殿が構えられており、ここには日本神話の最高神・天照御大神(あまてらすおおみかみ)が祀られています。
地域に暮らす人々にとって、古くから精神的なよりどころであり、現在でも安産・厄除け・家内安全・商売繁盛など、さまざまな願いを込めた御祈祷や挙式が執り行われています。
魅力あふれる境内の神社群
吹揚神社の境内には、主祭神を祀る御社殿のほかにも、多くの神々が祀られており、それぞれに特色ある信仰が息づいています。
- 吹揚稲荷神社(ふきあげいなりじんじゃ)
正面左手奥、朱塗りの鳥居が連なる参道が印象的な神社です。鳥居のトンネルのような光景は、まるで異世界に誘われるかのようで、写真映えするスポットとしても人気を集めています。 - 麁香神社(あらかじんじゃ)
右手奥に鎮座するこの神社は、建設・土木の神様として信仰され、地元の建築関係者や企業から厚い崇敬を受けています。建築工事の安全祈願なども多く行われています。 - 土居神社(どいじんじゃ)
古くから「安産の神」として知られ、多くの参拝者が子宝や出産の無事を祈願して訪れます。地域の女性たちにとって大切な信仰の場となっています。 - 住吉神社(すみよしじんじゃ)
受験、就職、恋愛成就などの「人生の節目」における願いごとが込められた絵馬が多数奉納される神社です。若い参拝者の姿も多く見られます。
散策しながら楽しめる境内
境内を歩いていると、随所にさまざまな像や信仰の形が見えてきます。
- 狛犬(こまいぬ)
拝殿を守る狛犬は、実は吹揚神社が創建されたときに他の神社から移されたもので、社殿よりも古い歴史を持つと伝えられています。その表情や姿からも、時を越えた信仰の力を感じることができます。 - 白馬像・狐像
神の使いとして知られる白馬や狐の像も点在しており、参拝の合間にゆっくりと見て回るのも一興です。なかでも赤い鳥居の先にたたずむ狐の姿は、神秘的な雰囲気をまとっています。
四季の風景とともに
吹揚神社は、その歴史と信仰、そして自然の美しさが調和する、心を落ち着ける場所です。
春には桜、夏は深い緑、秋は紅葉、冬は澄んだ空気の中で、それぞれに異なる表情を見せてくれます。
この地を守り続けるその姿は、今治の「過去」と「未来」をつなぐ、かけがえのない存在です。
今治を訪れた際には、ぜひ吹揚神社を訪れ、歴史の息吹とともに静かに手を合わせてみてください