朝倉上に鎮座する「伏原八幡大神社(ふしわらはちまんだいじんじゃ)」は多くの伝承が残る神社で、古くから地域の人々の厚い信仰を集めてきた神社です。
伏原八幡大神社を支えた武将
伏原八幡大神社の創建は建久3年(1192年)。
この年、伊予国の守護職を務めていた河野通俊(こうのみちとし)が、京都の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)から誉田別命(ほんだわけのみこと・応神天皇)を勧請し、この地に神社を建立したのが始まりと伝えられています。
伏原八幡大神社を支えた田窪家の系譜
延元年間(1336年〜1340年)には、龍門山城主・田窪将監(たくぼしょうらん)が伏原八幡大神社を深く崇敬し、田窪家一族が後に神社の社職(神社の管理・祭祀を担う役目)を務めるようになりました。
これにより、田窪家は伏原八幡大神社の運営にも大きな影響を与える存在となっていきました。
武田近江守信勝の信仰
永禄5年(1562)に龍門山城に入城した武田近江守信勝(たけたおうみのかみのぶかつ)も、同じく伏原八幡大神社を篤く崇敬しました。
その信仰は後世にも受け継がれ、境内でその神霊が奉祀されるようになったと伝えられています。
境内の特徴と力石
境内には、御神木の大クスの木がそびえ立っています。この御神木は、神社の神聖な象徴として崇められています。さらに、その根元には多くの力石が置かれています。
これらの力石は、江戸時代から明治時代にかけて行われた力試しに使用されたものです。
農作業が重要視された時代、力試しは地域社会の結束を深める行事の一つであり、力を誇示する場でもありました。この伝統は地域の文化的な特徴を示しており、現在もその歴史を物語る重要な遺産となっています。
朝倉郷に残る皇室伝承と伏原八幡大神社
伏原八幡大神社は、「斉明天皇」と御子「天智天皇(中大兄皇子)のゆかりの地ともいわれています。
朝鮮半島の動乱と斉明天皇の足跡
7世紀半ば、日本列島では大きな国際情勢のうねりが押し寄せていました。
当時、朝鮮半島では、高句麗・百済・新羅の三国が覇権を争っていましたが、新羅が唐(中国王朝)の支援を受け、百済を滅ぼそうとしていました。
これに危機感を抱いた百済は、友好国であった日本(当時は倭国)に救援を求めました。
661年、斉明天皇はこの要請に応え、百済救援のため自ら軍を率いて西国への遠征(西征)を行いました。
その途中、斉明天皇は伊予国朝倉郷に立ち寄り、この場所に「朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや」と呼ばれる行宮を建てたとされています。
斉明天皇、九州での最期
こうして、軍勢の集結と兵站の整備を行い、遠征の準備を整えた斉明天皇は、この地を離れて九州へと向かい、筑紫(現在の福岡県)上座郡朝倉を拠点としてさらなる軍事行動を計画しました。
しかし、長旅の疲労と病により、九州に到着してからわずか2か月後に亡くなってしまいました。
「白村江の戦い」と中大兄皇子(天智天皇)の即位
この斉明天皇の死は、一大決戦を控えての当時の日本に大きな衝撃を与えましたが、息子の中大兄皇子(天智天皇)が母の役割を引き継ぎ、すぐに即位して国の指導者としての責務を担うことになりました。
662年には大規模な救援軍を派遣。
そして663年、朝鮮半島の白村江(現在の韓国・錦江河口部)で倭・百済連合軍と、唐・新羅連合軍との間で「白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)」が勃発しました。
この戦いは、日本にとって痛恨の大敗となります。倭国の軍船は唐・新羅連合軍の猛攻に晒され、百済も完全に滅亡。
これにより、日本は東アジアにおける影響力を一時的に失い、防衛体制の再構築を迫られることとなりました。
斉明天皇を偲ぶ木の丸殿伝承
斉明天皇が亡くなった際、中大兄皇子(後の天智天皇)は、斉喪(さいも:天皇の喪に服すること)に入るため、木皮を剥がしていない丸木を柱として用いた特別な建物を建設しました。
この建物は「木の丸殿(このまるどの)」、または「黒木の御所」と呼ばれ、天皇の死を悼むための忌み殿であったと伝えられています。
この木の丸殿は、斉明天皇が亡くなった九州の筑紫(現在の福岡県朝倉市周辺)に建てられたとされていますが、実は四国の伊予(現在の愛媛県今治市)にある伏原八幡大神社の場所に建てられたという伝承があります。
その伝承によると、斉明天皇が朝倉郷(現在の今治市)に滞在した際、校倉造り(あぜくらづくり)で行宮(あんぐう:仮の御所)が築かれ、その建物は「木の丸殿」と呼ばれていたとされています。
校倉造りは、材木を井桁に積み重ねて壁を作る伝統工法で、湿気に強く保存性に優れていたため、天皇の仮御所としても高い機能性を持つ建築だったと考えられます。
そして木の丸殿はその後、白鳳13年(684年)10月14日に発生した南海トラフ巨大地震「白鳳地震」や、洪水など幾度もの天変地異により、損壊・移動を繰り返していったと伝えられています。
この伝承を受け継ぐ形で、現在、愛媛県今治市朝倉下には、かつての「木の丸殿」を記念する小さな建物が建立されています。
九州朝倉と今治朝倉…なぜ伝説が重複するのか
九州・福岡県の朝倉と、四国・愛媛県今治市の朝倉。
この二つの地には、どちらにも斉明天皇にまつわるよく似た伝説が伝えられています。
なぜ、これほど離れた土地で、共通するような話が残ったのでしょうか?
その謎を考えるうえで、「朝倉」という地名の由来が、重要な手がかりとなります。
今治市の「朝倉」
まず、今治市にある「朝倉」という地名は、自然地形に由来すると考えられています。
「あ」は広い・大きい、「さ」は浅い・きれい、「く」は河・江、「ら」は原・原野を意味し、「広くて清流の河口にある平地」を表していると考えられます。
福岡県の「朝倉」
一方、福岡県の「朝倉」という地名については、斉明天皇がこの地に仮の都を設けた際、ある日の早朝に外を見て「朝(あさ)なお闇(くら)き」(朝になってもまだ暗い)と述べたことが、この地名の由来になったとされています。
複数の「朝倉郷」が存在していた?
このようにそれぞれ違う由来があるのですが、もう一つ興味深い説があります。
それは、斉明天皇が立ち寄られた場所の多くが、古くから「朝倉郷」と呼ばれていたというものです。
斉明天皇がご滞在された際、その地には御殿が建てられることが多かったと伝えられています。
そしてこの御殿は校倉造りで建てられていたため、「校倉(あぜくら)」という言葉が時代とともに変化して、「朝倉(あさくら)」という地名に変わったとされています。
校倉づくりは、斉明天皇の時代に特徴的な建築様式であり、その存在が地域の人々の記憶に強く刻まれ、後に地名として定着したと考えられているのです。
現在の朝倉に残る遺構
この説から、今治の朝倉にも斉明天皇が確かに滞在したと考えることができます。その裏付けとして、斉明天皇に関連する地名や遺構がいくつか残されています。
「才明(斉明)」
例えば、伏原八幡大神社の近くには「才明(斉明)」という地名が存在します。この地名は、後世に斉明天皇とのゆかりを示すものとして名付けられたと考えられています。
「伝斉明天皇陵」
さらに、同じ地域には「伝斉明天皇陵(でん・さいめいてんのうりょう)」と呼ばれる石塔があります。
塔は斉明天皇のお墓であると伝えられているこの石塔は、二基の宝篋印塔(ほうきょういんとう)の形式をしており、室町時代(一説には鎌倉時代)に建立されたものと考えられています。
そしてこの石塔には、661年に斉明天皇が今治の朝倉にある「行司原」の「朝倉橋広庭宮」で亡くなったという伝承が伝えられています。
二つの朝倉を結ぶ歴史の謎とロマン
しかし、この石塔の伝承が事実であるとするならば、斉明天皇は一度九州(現在の福岡県)へ渡ったものの、その地で没することなく、再びこの四国・朝倉の地へ戻り、最期を迎えたことになります。
これが歴史的事実かどうかは定かではありませんが、こうした伝承が生まれた背景には、斉明天皇の行幸がきわめて広範囲に及び、その足跡が各地に深く刻まれたことが、大きく影響していると考えられます。
九州と四国…。
二つの「朝倉」を結ぶかのように、斉明天皇にまつわる伝説は重なり合いながら強く語り継がれてきました。
これらの伝説や遺構にふれるとき、そこには、はるかな時を超えた歴史のロマンが広がっています。