立花地区にある「附属寺(ふぞくじ)」は、真言宗醍醐派に属する古刹で、地域の人々から長年親しまれてきました。
中でも「郷のお地蔵さん」の名で広く知られる本尊地蔵菩薩には、命を救う奇跡の物語が語り継がれています。
この物語は単なる信仰伝承にとどまらず、寺の創建そのものに深く関わる出来事として、今も地域の人々の心に刻まれています。
「郷のお地蔵さん」創建にまつわる不思議な伝承
ある日、来島城の城主が立花の里で、いつものように鷹狩りを行っていました。
鷹狩りは、当時の戦国武将にとって単なる娯楽ではなく、権力と威信を示す重要な行事でもありました。
自らの統治する土地で自然を掌握していることを象徴し、時には来賓を迎える外交的な儀式の場ともなったのです。
加えて、鷹そのものが高価で特別に調教された貴重な存在であったため、その飼育と訓練には多くの資金と人材が必要とされました。
行方不明になった鷹
その日、城主の自慢の鷹が、狩りの途中で突然空高く飛び去り、姿を消してしまいました。
城主と従者たちは必死にあちこちを探し回りますが、鷹はどこにも見つかりません。
必死に捜索を続ける中で、ようやく鷹が今治市郷村のある庄屋の庭に舞い降りていたことがわかりました。
鷹におこった不慮の事故
しかし、その庭では、誰も予想しなかった思いがけない出来事が起こっていました。
ちょうどその時、庄屋の庭では、若い女中(じょちゅう)が庭仕事に精を出していました。そこへ突然、羽を大きく広げた見事な鷹が舞い降りたのです。
女中はすぐに、目の前の鷹がただの鳥ではないことを直感しました。
当時、鷹狩りに使われる鷹を扱うことができるのは、武士や領主など限られた高い身分の者たちに限られるということは、広く知られていました。
当然、その女中もそれをよく知っていたため、「この鷹は逃げ出してきたものに違いない。すぐに捕まえなければ」と思い、とっさに手にしていた箒(ほうき)で捕らえようとしました。
しかし、あまりにも突然のことで気が動転していた彼女は、誤って鷹の首を強く押さえてしまい、そのまま命を奪ってしまったのです。
怒りの城主と女中の運命
「鷹は見つかりましたが、庄屋の庭に降りたところを女中が捕らえようとし、誤って殺してしまいました」
その事を知った従者たちは、急いで来島城へ戻り、城主に一部始終を報告しました。
武士の威信を象徴する存在であった鷹が、庶民の手によって死んだという事実は、城主にとってまさに武士としての面目を潰されたも同然の屈辱でした。
「すぐに庄屋に出向き、女中を連行して死罪に処せ!」
激怒した城主はそう命じると、従者たちはただちに動き出し、女中はあっという間に捕えられ、死を待つ身となったのでした。
女中には、事情を訴える機会も、許しを乞う余地すら与えられませんでした。
当時の封建社会において、領主の命令は絶対であり、逆らうことは決して許されなかったのです。
死刑執行の日
死罪を宣告され、いよいよ執行の時を迎えても、女中は落ち着いた様子で処刑の場に姿を現しました。
「これからまさに死を迎えようというその時に、なぜこれほどまでに動じぬのか」
そのあまりにも平然とした様子に、城主や役人たちは不思議に思い、女中に理由を尋ねました。
すると、女中は静かにこう答えました。
「私は、いつも肌身離さず守ってくださるお地蔵さまがいます。このお地蔵さまに、すべてをお任せしているのです」
そう言って、懐から小さな地蔵像を取り出し、地面にそっと置き、慎重に伏し拝みはじめたのでした。
女中の命を救ったお地蔵さま
そして、ついにその時は訪れました。
刑を執行するため、役人が刀を振り上げ、振り下ろそうとしたその瞬間。
突如、その役人の手がガタガタと震え出し、まるで力が抜けたように動かなくなったのです。
それでも命を受けた役人は、震える手を押さえつけるようにして、女中の首を討とうと強引に刀を振り下ろしました。
しかしその時、さらなる驚くべき出来事が起こります。
刀は女中の身体には触れることなく、彼女が抱いていた地蔵に当たり、そこでぴたりと止まったのです。
刃は尊像の肩をかすめるように傷つけただけで、女中は無傷でした。
この信じがたい光景に、城主はもちろん、役人やその場に居合わせた一同も、息をのむ思いで立ち尽くしました。
誰もが、これは単なる偶然などではなく、女中が肌身離さず持っていた地蔵の加護によるものだと感じたのです。
これには城主も心を打たれ、ただちに刑の執行を中止し、女中を無罪放免としました。
地蔵像の正体と由来
その後、このお地蔵さまについて詳しく調べたところ、飛鳥時代から奈良時代にかけて活躍した高僧・行基(ぎょうき)によって彫られたものであることが明らかになりました。
行基は、民の苦しみに寄り添いながら各地を巡り、橋や道路を築き、寺院や仏像を建立して仏教を広めた名僧として知られています。
特に行基の手によって彫られた仏像は、神聖な力が宿る守り仏として各地で深く信仰されてきました。
行基は日本各地で仏教を広め、寺院や仏像を多く造った僧侶で、行基が手がけた仏像は神秘的な力を持つとされ、多くの信仰を集めていました。
附嘱寺の創建
そして天文十七年(1548年)、このお地蔵さまの不思議な力に深く感銘を受けた来島信濃守(くるしま しなののかみ)は、 その御前に祈りを捧げるための本堂を建立しました。
そして、この堂には「来島山地蔵院附嘱寺(くるしまやまじぞういんふぞくじ)」という名が与えられました。
これが附嘱寺の始まりと伝えられています。
付属寺を襲った大火
昭和五年(1930年)、不幸にも附嘱寺は大規模な火災に見舞われました。
この火災により、本堂をはじめとする堂宇の多くが炎に包まれ、長年にわたり守られてきた歴史ある建造物は、ほとんどが灰となって失われてしまいました。
なかでも、地域の人々に親しまれてきた尊像(お地蔵さま)が損傷を受けたことは、多くの人々の心に深い痛みをもたらしました。
しかし、その焼け跡の中から、ひとつの奇跡が発見されます。
胎内仏の奇跡
崩れたお地蔵さまの内部に納められていた胎内仏(たいないぶつ)が、まったくの無傷で残されていたのです。
この胎内仏は、銅製の宝筒に丁重に納められていたため、猛火を免れ、奇跡的に難を逃れたのでした。
胎内仏とは、仏像の内部に納められる小仏や経巻などで、仏の魂が宿るとされる極めて神聖な存在です。
その神体が無事だったことは、寺院にとっても、地域の人々にとっても、まさに絶望の中に差し込んだ一筋の希望の光でした。
再建された「郷のお地蔵さん」
この奇跡に心を打たれた住民や信者たちは、ただちに再建に立ち上がります。
新たな本尊を造立するために資金を募り、労を惜しまず、著名な仏師を招いて復興に尽力しました。
やがて新しい石造りのお地蔵さまが完成し、焼失した堂宇の跡に、ふたたび丁重に安置されることとなったのです。
こうしてよみがえったお地蔵さまは、現在では「郷のお地蔵さん」として地域の人々の心に寄り添い、日々の祈りと感謝を静かに受け止め続けています。
「郷のお地蔵さん」の目のご利益
「郷のお地蔵さん」は「目のご利益」があるとして、広く信仰を集めています。
尊像の肩のあたりからは、今も清らかな水が細く流れ落ちる仕掛けが施されており、参拝者はこの水を手にすくい、そっと目に当てて祈ります。
古くから「この水を目に付けると視力が回復し、目の病が癒える」と言い伝えられており、目に悩みを抱える人々が、近隣のみならず遠方からも訪れています。
そのため、人々はこの地蔵尊を「清水のお地蔵さん」「目のお地蔵さん」と親しみを込めて呼び、
目にまつわる祈願所としての信仰を今も深め続けています。
年中行事と信仰の継承
「郷のお地蔵さん」への信仰を今日まで支えてきたのは、日々の祈りだけではありません。
地域に根ざした年中行事の営みもまた、世代を越えて信仰をつないできた大切な柱となっています。
地蔵会
毎年1月23日に執り行われるのが「地蔵会(じぞうえ)」です。
この法要では、新たな年を迎えるにあたり、無病息災や家内安全を願って、参拝者が祈りを捧げます。
境内には線香の香りが立ちこめ、読経の声が静かに響きわたるなか、地域の人々がそっと手を合わせる姿が見られます。
お施餓鬼法要
また、夏の8月23日には「お施餓鬼(おせがき)法要」が行われます。
この法要は、先祖の霊や、飢えと渇きに苦しむ亡者(餓鬼)たちに対して供物と読経を捧げるもので、施しと供養の心を育む機縁として、長く大切に守られてきました。
お地蔵さまとともに
これらの年中行事は、地域に住まう人々が自然と集まり、仏と人とのつながりを確かめ合う時間でもあります。
世代を超えて受け継がれる祈りの場がここにあり、静かなお地蔵さまの眼差しのもと、地域共同体の絆や信仰の温もりが今もなお大切に育まれているのです。