古代伊予を動かした越智玉澄の墓所を守る、千年の伝承を宿すクスノキ
古代伊予の歴史を語るとき、必ずその名が挙がる人物がいます。
それが、大山祇神社の建立や三島信仰の拡大に尽力し、地域を支えた「越智玉澄(おちのたまずみ・おちのたますみ)」です。
巨大なクスノキがそびえる別名(べっちょう)・本郷の地は、そんな玉澄が最期を迎えたと伝わる場所にあたり、長い年月のあいだ、この地の歴史を静かに見守ってきました。
巨大なクスノキと越智玉澄の墓標
このクスノキは、根回りが約10メートル、高さがおよそ22メートルに達する堂々たる巨木です。
周囲の田畑や集落を見下ろすその姿は、まるで大地に根ざした守り手のように、悠々と枝葉を広げています。
現在、専門家による推定樹齢は300年以上とされていますが、地域にはさらに深い歴史を伝える古い伝承が残されています。
「天平19年(747年)、越智玉澄(おちのたまずみ)は八十四歳でこの地に没し、その亡骸は嘯月院から徒歩十分ほどの今治市別名・本郷の田園に埋葬された。そして、その墓標として一株のクスが植えられた」
この伝承に従えば、クスノキの樹齢は1200年をゆうに超え、まさに古代から現代まで生き続けてきた“歴史そのもの”といえる存在になります。
かつては木の根元に玉澄の墓石がはっきりと見えていたといわれています。
しかし、長い年月が経つうちにクスが成長し、その力強い幹に墓石を包み込むように取り込み、今ではその姿を見ることができなくなったと伝えられています。
まさしく「木そのものが墓所となった」と語られるゆえんであり、非常に特異で象徴的な歴史をもつ理由でもあります。
こうした由縁から、この木は古くより地元の人々に「玉澄さんの大楠(たまずみさんのおおくすのき・たますみさんのおおくすのき)」と親しまれ、その御霊は「樹下大明神(じゅげだいみょうじん)」として、地域の守護神として世代を超えて大切に守り継がれてきました。
大樹のそばには、越智玉澄の功績を後世に伝えるため、江戸後期から明治にかけて活躍した文学博士・三島毅(みしま つよし)が、その由来をまとめて文章を書き上げた石碑も建てられており、今なお歴史の重みを静かに語り続けています。
また、徒歩十分ほどの距離にある嘯月院には玉澄の位牌が丁重に安置され、今日まで変わらず大切に守られています。
さらに、天満神社・小泉には神霊を祀る「玉澄神社(たまずみじんじゃ)」が鎮座しており、地域に根づく玉澄信仰が今も息づいています。
大楠にまつわる藤原広嗣の首塚伝承
玉澄さんの大楠には、越智玉澄に関する伝承のほかに、奈良時代に政界で波乱を巻き起こした藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)の首塚であるとする説も残されています。
藤原広嗣は、藤原式家の祖とされる藤原宇合の長男として生まれ、奈良時代前半に活躍した貴族です。
天平9年(737年)に従五位下に叙され、式部少輔や大養徳守を務めましたが、天平10年(738年)には大宰少弐へ転任し、左遷に近い形で大宰府へ赴きました。
その背景には、玄昉や吉備真備の台頭に対する反発や、一族内で起こった不祥事による政治的混乱など、複雑に入り組んだ政情があったと考えられています。
天平12年(740年)、広嗣は大宰府から朝廷に上表文を送り、地震や天変地異が相次ぐ原因は玄昉・吉備真備の専権にあると主張し、両名の追放を求めました。
しかし、朝廷はこれを反乱の兆しと判断し、広嗣の召喚を命じました。広嗣はこれに従わず挙兵し、「藤原広嗣の乱」が勃発します。
朝廷は大野東人を大将軍とし、東国・西国から総勢1万7千もの大軍を動員して討伐に乗り出しました。
官軍は迅速に関門海峡を渡り、筑前国板櫃川で広嗣軍と対峙します。
ここで広嗣軍は崩れ始め、広嗣は肥前国松浦郡長野へ逃走しますが、ついに捕らえられ、天平12年11月1日、弟の綱手とともに処刑されました。
この戦いに越智玉澄は、大野東人(おおののあずまびと)、佐伯常人(さえきのつねひと)、阿倍虫麻呂(あべのむしまろ)らと共に官軍として従軍し、板櫃川から肥前国松浦郡長野郷まで藤原広嗣を追い詰め、ついにはその首級を挙げる功績を立てたと伝えられています。
玉澄はこの戦功をもって伊予へ帰郷し、その際、広嗣の首を埋めた場所のしるしとして一本のクスノキを植えたといわれています。
これこそが、後に「玉澄大楠」と呼ばれるようになる大樹であるという説が伝わっています。
玉澄大楠を守り継いだ人々の歴史
この首塚伝承に由来してか、玉澄大楠には古くから数々の霊異が語られてきました。
かつて大蛇が棲んでいたとも、木を伐ろうとすると切り口から血がにじんだとも伝えられ、この地の人々は大楠を畏れ敬い、代々大切に守り伝えてきました。
伐採の危機と神主の命がけの抵抗
明治三年(1870年)、新政府の施策によって農村の生産性向上が重視される中、「大楠が田畑の日照を遮る」という理由で役人から伐採命令が出たと伝えられています。
当時の農村では、田の収量を確保することは生活の根幹に関わる重大事であり、巨木が農地に影響を与えると判断されれば伐採が命じられることは珍しくありませんでした。
しかし、玉澄大楠には他の木にはない深い歴史と信仰が宿っていたため、地域の人々にとって簡単に伐ることのできる存在ではありませんでした。
その中でもとりわけ強く反対したのが、当時この地で神主を務めていた西原正教でした。
伐採作業が実際に始まり、大楠の幹に斧が入れられた瞬間、正教は木に抱きつくように身を投げ出して作業を止めさせたと伝えられています。
その命がけの行動は村人たちにも大きな衝撃を与え、ついに役所は伐採を断念しました。
このときの西原正教の姿は村の記憶に深く刻まれ、肖像画は現在も別名公民館に残され、子孫が宮窪町に暮らしているとも伝えられています。
農地とのせめぎ合いと境内拡張の決断
昭和に入ると、今度は農地と大楠の位置関係が新たな課題となりました。
大楠の枝が境内の外へ伸びるたび、周囲の農家は日照を確保するために「陰切り」と呼ばれる作業を行い、枝を払い落としました。
そのため、大楠は長い間十分に枝を伸ばすことができず、力強く成長する機会を制限されていました。
しかし昭和五十年代、周囲の水田所有者八名が話し合い、境内の拡張に協力して土地を提供したことで、大楠はようやく理想的な成育環境を得ることができ、再び勢いを取り戻しました。
これは村ぐるみで大楠を守ろうとする意識が高まった象徴的な出来事でした。
害虫災害と住民・行政の協力
大楠にはさらに重大な危機が訪れています。昭和五十七年(1982年)、樟蚕(しょうさん)と呼ばれるクスノキの害虫が異常発生し、葉を食い荒らして大楠は急速に衰弱しました。
このままでは枯死しかねない状況でしたが、愛媛県、今治市、地元住民が資金を持ち寄り、専門業者による徹底的な消毒が実施されました。
この処置によって大楠は命をつなぐことができ、その後も毎年の消毒作業が欠かさず行われ、現在の姿へとつながっていきます。
天然記念物指定と現代に続く保護の取り組み
こうした歴史を経て、昭和三十四年(1959年)三月三十一日には、玉澄大楠は今治市で初めて愛媛県の天然記念物に指定され、公式にその価値が認められました。
しかし、天然記念物指定後も保護は終わりではありません。近年では周辺の宅地化や道路整備など開発が進み、環境の変化によって大楠が受ける影響が懸念されています。
根の広がりを圧迫する工事や地下水位の変化などは巨木にとって致命的となることもあるため、地域では今もなお注意深い管理が続けられています。
越智玉澄とは?伊予を形づくった越智氏の伝説と系譜
では、後世の人々にこれほど大切に祀られてきた越智玉澄とは、いったいどのような人物だったのでしょうか。
その姿を理解するためには、玉澄という個人だけに注目するのではなく、古代伊予のなかで長く受け継がれてきた越智氏の歩み、そして大山祇神を中心に展開した伊予の信仰と政治の歴史を、ひとつの大きな流れとして見つめる必要があります。
古代文献に見える越智氏と様々な表記
古代の史料をひもとくと、越智氏の名は必ずしも「越智」という一つの漢字に固定されていません。
「乎致」「小千」「子致」など、いくつかの表記が混在しており、いずれも読みは「おち」です。
これらの表記の違いは、単に書き手の好みや誤記によるものではなく、古代における文書記録の多様性そのものを反映しています。
律令国家の整った戸籍制度とは異なり、当時の記録は、朝廷の官文書、地方役人が残した記録、神社や寺院の縁起、地域の伝承をまとめた私的文書など、性格の異なる複数の文献が積み重なって成立していました。
記録の目的や視点が違えば、同じ人物を指していても、用いられる漢字が変わるのは自然なことでした。
実際、越智玉澄も史料によっては「小千玉澄(おちのたまずみ)」と記され、越智氏が古代から続く「小千(おち)」という豪族名の延長線上にあることを示しています。
また、玉澄は史料によっては「玉純」とも書かれることもあります。
玉澄の父として伝わる越智守興(おちのもりおき)についても同様で、「乎致宿祢守興」「小千守興」「乎致守興」など、複数の書き分けが残されています。
玉澄の名は史料によって「玉純」とも記されていますが、表記が異なっていても同一人物を指すと考えられており、むしろこうした名の揺れこそが、越智氏が多方面に登場した有力氏族であったことを示すものといえます。
また、「宿祢(すくね)」という称号も重要です。これは古代の有力豪族に与えられた尊称であり、中央政権の中でも一定の地位と格式を認められた氏族のみが称することができました。
「乎致宿祢守興」「乎致宿祢玉興」「乎致宿祢玉澄」といった表記は、越智氏が伊予の地方豪族にとどまらず、ヤマト王権との結びつきを持ち、その政治的・宗教的体系の中で確かな位置を占めていたことを示しています。
こうした古代史料の表記や称号を読み解くことで、越智氏がどのように伊予の支配と信仰の中心を担い、玉澄が活躍する舞台がどのように形づくられていったのかが見えてきます。
「伊予国造」伊予の政治・軍事・祭祀を担った越智氏
越智氏の歴史を語るとき、必ずといってよいほど登場するのが「伊予国造(いよのくにのみやつこ・いよこくぞう)」という称号です。
国造は、ヤマト王権が全国へ支配を広げていく過程で、各地方の有力氏族を「その土地を治める者」として公式に認定した役職です。
伊予を治める国造「伊予国造」に任じられた越智氏は、伊予国内の行政、軍事、祭祀を統括する「地方長官」であると同時に、「中央政権の代理人」でもありました。
特に伊予は、瀬戸内海交通の要衝として、大陸や朝鮮半島への窓口であり、日本列島の防衛線の一部でもありました。
こうした地理的・軍事的条件を踏まえると、伊予国造という役職は、他国の国造とは比較にならないほど国家戦略上の重みを持っていたことが分かります。
そして、その伊予国を預けられた氏族、それが越智氏だったのです。
「越智氏と大山祇神」祖神を祀る聖地・大三島
越智氏の基盤になっていたのが、大山祇神への信仰です。
大山祇神は山の神であると同時に、海と武の神でもあり、瀬戸内海一帯では航海安全と武運長久の守護神として篤く信仰されてきました。
古い伝承によれば、越智氏の祖先とされる乎致命(おちのみこと)は、大山祇神の血を引く存在であり、神武東征に先立って伊予二名島に渡り、御島(大三島)を神地として大山祇神を祀ったとされます。
これが現在の大山祇神社の起源であると伝えられており、越智氏にとって大山祇神社は、単なる一宮や鎮守という以上に、「祖神を祀る聖地」であり、「氏族の始まりの場所」でもありました。
こうした神話的な起源を背景に、歴史の表舞台に登場するのが玉澄の父・越智守興です。
白村江の戦いに参加した伊予水軍と越智守興
七世紀半ばの朝鮮半島では、百済、新羅、高句麗の三国が激しく争っていました。とくに新羅は中国の大国である唐と手を結び、強力な連合軍を組織して百済を滅ぼそうとしていました。
百済は古くから日本と深い関係を結んでいた国であり、仏教をはじめ先進的な文化や技術を日本にもたらしていました。そのため日本は百済を重要な友邦とみなし、危機に際して継続的に支援を行っていました。
やがて百済は日本に本格的な援軍を求め、日本は国家の威信をかけて大規模な救援軍を派遣することを決定しました。
この遠征が天智二年(六六三年)の白村江の戦(はくすえきのたたかい)です。
この戦いは海戦であり、大規模な水軍戦力が必要不可欠でした。
そこで白羽の矢が立ったのが、瀬戸内海を拠点として高い水軍力を誇った伊予水軍であり、その指揮を執っていたのが越智守興です。
出陣に先立ち、斉明天皇は戦勝を祈願して大山祇神に「禽獣葡萄鏡」を奉納したと伝えられています。この鏡は現在も大山祇神社に所蔵されており、国宝として知られています。
白村江河口付近で、日本・百済連合軍と、唐・新羅連合軍は激突します。
守興の率いた水軍も先陣として奮戦しましたが、数と装備に勝る唐・新羅連合軍の前に、日本側は大敗を喫し、多くの船が焼き沈められる結果となりました。
この敗北によって百済は完全に滅亡し、日本は半島における政治的影響力を失うことになります。
伝承では、守興はこの戦いの中で新羅あるいは唐の捕虜となり、遠く大陸の地へ連行されたとされます。
その後の物語は、歴史というよりは伝説に近い色合いを帯びていきますが、ここからが越智氏の後世の物語に大きく関わる部分です。
守興は南方の地に送られ、そこで「越」という国の王女と出会います。越は現在の中国浙江省周辺にあった国とされ、日本にとっては敵側陣営の一角です。
本来であれば交わることのなかった二人が、戦争捕虜と王女という形で出会い、ともに暮らし、やがて二人の子どもが生まれます。
異国の地で築かれたささやかな家庭は、しかし長く続きません。やがて情勢が落ち着き、王女は本国に戻ることになり、別れの刻が訪れます。
そのとき王女は、一寸八分ほどの小さな黄金の観音像を守興に手渡し、「どうかこれを私だと思ってお祀りください」と言い残して去ったとされます。
守興はその観音像を深く敬い、異郷の地から故郷へ帰還する日を願って祈り続けます。
ある夜、夢に観音が現れて「仲間と力を合わせて船を造り、私を船首に祀りなさい。そうすれば無事に日本へ帰ることができるでしょう」と告げます。
守興はそのお告げの通りに仲間七人と船を作り、観音像を船首に祀って密かに出航し、数々の嵐を乗り越えて日本の海岸に辿り着きました。
このとき、子どもたちは現地に残されたままでした。命懸けの航海に連れ出すことをためらったのか、あるいはすでに越の国の人々として育っていた子どもたちの未来を思ってのことだったのか、その理由は伝えられていません。
ただ、守興の胸にどれほどの葛藤があったかを想像させる話です。
帰国した守興は、都に上ってこの一連の出来事を朝廷に報告しました。
帝はこれを深く感じ入り、守興の故郷である伊予の地に観音堂を建て、その観音像を航海の守り神として祀ることを許しました。
この観音は後に「船玉さま」と呼ばれ、東禅寺や高龍寺に伝わることになります。
その後、守興は越智氏の大領として伊予を治めたとされています。
さらに時代が下り、守興の子である玉興が家督を継いでこの地を治めていました。
そんなある日のことです。
玉興が乗る船が備中国水島沖を航行していたところ、一隻の見慣れない船と出会いました。
その船には若い兄弟と見られる二人の若者が乗っており、玉興の船に近づくと、一通の書付を差し出して自らの出自を語り、越の国で生まれ育った守興の子であることを告げました。
玉興は書付を手に取り、その筆跡と内容が父・越智守興のものであることに間違いないと確信しました。
そして二人が父を同じくする腹違いの弟であると悟り、大いに喜んで迎え入れると、兄に「玉守」、弟に「玉澄」という名を与えました。
さらに、二人が越の国から海を渡って来たことにちなみ、それまで用いられていた「小千」「乎致」といった表記を改め、「越知」(のちの越智)の姓を授けました。
その後、弟の玉澄は伊予国風早郡の河野郷へと移り住み、地名にちなみ「河野玉澄(こうの たまずみ)」と名乗りました。
河野玉澄(越智玉澄)は、宇摩・越智二郡の大領として地域の行政や開拓に尽力し、さらに氏族の祖神を祀る大山祇神社の再整備・遷座事業にも深く携わっていきました。
和銅元年(708年)3月3日には、嫡男・越智益男(河野益男)に河野家の家督を譲り、次男の越智安元(河野安元)を三島大社(大山祇神社)の大祝に任じました。
こうして、越智玉澄(河野玉澄)を始祖とする河野氏、大山祇神社の社家「大祝氏」の歴史が幕を開けたと考えられています。
大山祇神社を再興した越智玉澄の偉業
越智玉澄(河野玉澄)は、宇摩・越智二郡の大領として地域の行政と開拓を進める一方、氏族の祖神を祀る大山祇神社の再整備にも深く尽力しました。
当時、大山祇神を祀る社殿として、大三島の東海岸に「遠土宮(おんどのみや)」が創建されていました。
創建時期は推古天皇二年(594年)とされ、以来ここは航海安全を願う多くの人々が訪れる大山祇信仰の拠点でした。
しかし遠土宮の周辺は海に近く海抜も低いため、潮の干満や津波の影響をたびたび受け、社殿や鳥居は幾度も損壊し、次第に荒廃していきました。
この状況を目にして胸を痛めたのが、当時伊予国司として政務を担い、祖神への信仰心が篤かった越智玉澄でした。
玉澄は遠土宮の地があまりにも危険であり、大山祇神を奉斎するには新たな地が必要だと判断しました。
そして社地の遷座を朝廷に奏上し、願いは文武天皇の勅許を受けて正式に認められました。
しかし、新しい社地を決めることは容易ではありませんでした。玉澄は神意を求め、「三本の矢」による神託を行ったと伝えられています。
一本目の矢は大三島中腹の大原に落ち、二本目の矢は霊峰・鷲ヶ頭山(わしがとうざん)の頂へ突き刺さりました。
そして玉澄が山頂から放った三本目の矢は、現在の大山祇神社境内にある宇迦神社の神池に落ちました。
玉澄はこの結果こそが神意であると確信し、遷座地を現在の宮浦に定めました。
やがて玉澄が神池へ向かうと、そこには巨大な大蛇(龍)が棲みついていたと語られています。
玉澄は神威を受けてこれに挑み、ついに三つに切り裂いて討ち果たしました。大蛇の尾が空へ舞い、備後国へ落ちたことが「尾道」という地名の由来になったとする伝説も残されています。
また、玉澄が腰を下ろして造営を考えたとされる石は「越智玉澄腰懸石」と呼ばれ、今も霊石として大切にされています。
さらに遷座の際には、安神山に棲む霊威ある大蛇が御神体の遷座を妨げたと伝えられています。
玉澄は安神山の山頂に「五龍王」を祀り、その神威をもって大蛇の霊力を鎮め、遷座を成功へ導いたといわれています。
安神山は鷲ヶ頭山・小見山とともに、大山祇神社の神体山(三体山)の一つとして崇拝されています。
霊亀二年(716年)には御神体が新しい正殿へ遷され、養老三年(719年)には社殿の体制が整えられたと伝えられています。
さらに天平神護二年(766年)には神階が授けられ、平安時代に編纂された『延喜式』(927年)では名神大社として記録され、大山祇神社は国家的祭祀に欠かせない重要な存在となりました。
伊予に玉澄が残した足跡
越智玉澄は、大山祇神社の再興にとどまらず、伊予各地へ三島信仰を広め、地域文化の礎ともいえる事績を数多く残しました。
今治市別宮の地に別宮大山祇神社を創建し、宇摩郡には三島神社を建立して、大山祇神を祀る「三島信仰」を伊予全域へ広めました。
文化面でも、玉澄にまつわる伝承は多く残されています。
道後温泉の入口にある御影石の湯釜は、奈良時代の高僧・行基が造営したとされますが、その際、資金や人夫を出して支援したのが玉澄であったと伝えられています。
そして、そんな玉澄がその生涯の最期を迎えたと伝えられる場所こそが、今治市別名・本郷の田の中に静かに立つ一本の巨大なクスノキ「玉澄さんの大楠」なのです。



