武神から守護神へ、伊予国の歴史を映す社
「八幡神社・新谷(はちまんじんじゃ)」は、武家の守護神として古くから篤く信仰されてきた八幡大神(はちまんおおかみ)を祀る、由緒ある神社です。
同じ新谷地域の三島神社の飛地境内神社として位置づけられており、地域の歴史と深く関わりながら信仰を受け継いできました。
創建の由来
創建は、崇徳天皇の御代・保延元年(1135年)8月15日。
この年、伊予国守を務めていた河野親清(こうの ちかきよ・河野伊予守親清)が、山城国(現:京都府南部)の石清水八幡宮から八幡大神を勧請し、伊予国内に二十六社を奉斎しました。
新谷の八幡神社は、その二十六社のうちの一社として創建されたと伝えられています。
以来、河野氏の一族や家臣団にとっての守護神であるとともに、地域の人々にとっても生活の安泰と繁栄を祈る場として崇敬を集めてきました。
八幡大神とは
八幡神社の主祭神である「八幡大神(はちまんおおかみ)」とは、古代日本において実在したとされる第15代・応神天皇(おうじんてんのう)の神格化されたお姿です。
『古事記』や『日本書紀』などの古典において、応神天皇は「品陀和気命(ほんだわけのみこと)」という名で記されており、この神名がそのまま八幡大神の本来の呼び名ともなっています。
応神天皇の御代には、朝鮮半島との交流が活発となり、百済などからの渡来人を通じて、農業技術や建築技術、織物・鉄器などの先進的な知識や文化が日本にもたらされました。
これらの文化的影響は、当時の日本の社会基盤を支えるだけでなく、後の仏教受容や国家体制の整備にもつながる重要な契機となったと考えられています。
このような素晴らしい業績が後の時代に高く評価され、「八幡大神」として神格化されました。
武士の神として崇められた八幡大神
絶え間ない争いが続いた戦国時代、八幡大神(はちまんおおかみ)は「武神」として武士の心に深く根づき、戦場での勝利や安寧を願う祈りの対象となっていました。
下剋上が横行し、戦乱が全国に広がる中で、武士たちは自らの命運や一族の繁栄を八幡大神に託し、各地でその御加護を願い求めるようになります。
八幡大神は、単なる神道上の存在ではなく、生きるか死ぬかをかけた戦の中で、現実に力を及ぼすと信じられる「加護の神」として受け止められていたのです。
また、八幡大神は軍事的儀礼とも深く関わっていきました。
出陣に際しては勝利を祈願し、凱旋後には戦勝を報告して感謝を捧げるなど、戦いの始まりから終わりまで神前での祈りが欠かされることはありませんでした。
こうして八幡信仰は、武士にとっての精神的支柱となり、信仰の中心として不可欠な存在となっていきます。
こうした状況の中で、八幡大神は「武神」としての地位を不動のものとし、その信仰は全国に広がっていきました。
戦勝祈願の場としての神社の需要が高まるにつれ、各地に八幡神社が次々と建立されるようになり、その数は最終的には全国で約4万社に達するといわれています。
「源氏と八幡大神」氏神としての深い結びつき
八幡信仰が全国に広がる契機となったのは、名門武家・源氏が八幡大神を一族の氏神として篤く崇敬し、特別な守護神として仰いだことに始まります。
その信仰の拠点となったのが、京都府八幡市の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)です。
石清水八幡宮の創建
平安時代初め、貞観元年(859年)、南都・大安寺の僧であった行教(ぎょうきょう)和尚は、豊前国(現在の大分県)宇佐八幡宮にこもり、日夜熱心に祈りを捧げていました。
その折、八幡大神より次のような神託を受けたと伝えられています。
「吾れ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん(私は都に近い男山の峰に移って、国家を守ろう)」
このお告げを行教が朝廷に奏上したところ、清和天皇の勅許が下り、八幡大神の分霊が宇佐神宮から山城国の男山(現在の京都府八幡市)に勧請されました。
こうして創建されたのが石清水八幡宮です。
神仏習合の宮寺としての姿
石清水八幡宮は、当時すでに存在していた石清水寺の境内に建立されたことから、神社と寺が一体となった「宮寺(ぐうじ・みやでら)」という形式をとるようになりました。
これは、日本古来の神道と、後に伝来した仏教とが融合した「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」という信仰のかたちを反映したものでした。
神仏習合の中でも、とくに重要とされたのが「本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)」という考え方です。
これは、神は本来、仏が人々を救うために仮の姿で現れたもの(=垂迹)であるとする教義で、平安時代以降の日本で広く受け入れられました。
この思想のもと、八幡大神は釈迦如来の化身とされ、やがて「八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)」という仏教上の尊号をもって崇拝されるようになります。
つまり、八幡大神は神道の神でありながら、仏教の守護神としても信仰される存在となったのです。
この信仰の形はやがて全国の八幡宮に広まり、武士にとっては戦勝祈願の「武神」、民衆にとっては災厄除けの守り神として、幅広い人々の信仰を集めるようになりました。
そして、その信仰の拠点となったのが石清水八幡宮でした。
清和源氏が広めた八幡信仰
その後、石清水八幡宮は清和天皇の子孫であり、臣籍降下(=皇族から離れて臣下となること)して武士となった「清和源氏」にとっての氏神(うじがみ)として、特別な崇敬を集めるようになりました。
1046年(永承元年)には、「源義家(みなもと の よしいえ)」が石清水八幡宮で元服し「八幡太郎義家」と名乗り、「前九年の役」「後三年の役」で大きな軍功をあげ、「天下一の武勇の士」と讃えられました。
源義家は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の先祖にあたる人物で、その名声と功績は後の武士たちにも大きな影響を与えました。
そして、石清水八幡宮は武神として信仰されるようになったのです。
さらに、源頼朝も八幡信仰を重視し、鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市)に八幡大神を迎えて「鶴岡八幡宮」を建立しました。
この神社は、源氏の守護神としての象徴的存在となり、鎌倉幕府の精神的として、頼朝の家臣である御家人たちの参拝も盛んに行われるようになりました。
こうして、八幡大神は武士の「守護神=武神」としての信仰を全国に広げ、日本の武家文化における精神的支柱となっていったのです。
河野氏と越智氏、そして源氏の繋がり
実は、「八幡神社・新谷」の創建に関わった河野親清は、源氏と深い関わりを持つ人物であったという説があります。
それによれば、親清は清和源氏の流れを汲む河内源氏の出身であり、源頼信の孫にあたる源頼義の四男とされ、源氏の正統な系譜に名を連ねていたと伝えられています。
その後、親清は伊予の有力豪族である越智氏に養子として迎えられ、「越智親清」と名乗って伊予国の政治基盤に加わりました。
やがて伊予国風早郡(現在の愛媛県松山市北条)の河野郷を本拠とするようになり、この地名にちなみ「河野」の姓を称したとされています。
こうして誕生した河野氏は、源氏の血統を引き継ぐとともに、中央政権との結びつきを背景に伊予国で大きな勢力を誇る一族へと成長していきました。
河野親清もまた、その一員として地域の発展に尽力し、源氏とのつながりを活かして石清水八幡宮より八幡大神を勧請し、「八幡神社・新谷」を創建したと考えられます。
時代とともに変わる八幡信仰
このように、かつては武士たちにとって「武神」として崇められていた八幡大神ですが、時代が進むにつれてその信仰のあり方にも変化が生じました。
第二次世界大戦中には、兵器を携えた兵士たちが出征を前に八幡神社を訪れ、自身の無事と戦勝を祈願しました。
八幡大神、なかでもその本地である応神天皇は「武神」として深く信仰され、戦いに赴く者たちにとって精神的な支柱となっていました。
多くの神社では、兵士の安全を願う「出征奉告祭」や「凱旋感謝祭」が営まれ、家族や地域の人々と一緒に手を合わせました。
また、兵士たちに配られる「御守」には、八幡大神の御神徳を象徴するものも少なくなく、これを肌身離さず携える者も多かったといいます。
兵士たちにとって、八幡大神、特に応神天皇は精神的な支えとなり、神社での祈りは心の安定を与える場ともなっていたのです。
戦いのない時代の八幡信仰
しかし、終戦後の日本社会は戦争の惨禍を深く反省し、国家として「平和」を最も重んじる価値観へと大きく舵を切りました。
軍事力を賛美する風潮は急速に後退し、戦前の「武神」としての八幡信仰も、そのままの形では受け継がれなくなっていきます。
こうした社会的な価値観の転換に伴い、八幡大神(応神天皇)のイメージも、「戦いの守護神」から「人々の暮らしを見守る守護神」へと変化を遂げました。
そして、現在では、八幡神社は教育や縁結び、家庭の安全を祈る場としても広く親しまれています。
学生たちは学業成就を願って参拝し、恋愛成就や良縁を願う若者、家庭円満や健康を願う地域住民など、多くの人々が日常の中で八幡大神に祈りを捧げています。
「八幡神社・新谷」も、そうした信仰のかたちを今に伝える神社のひとつです。河野氏との歴史的なつながりにとどまらず、伊予国の歴史や文化を象徴する存在として、今日も地域に根ざした大切な役割を果たし続けています。