「八王子神社(はちおうじじんじゃ)」は、千年以上前から高部村の氏神として崇められてきた古社です。村人たちは、五穀豊穣・家内安全・災厄除けを願い、日々の暮らしの中で祈りを捧げてきました。高部地域
境内の東光庵は、単なる付属施設ではなく、戦国期にこの地を治めた近見山城主・重見氏と深い関わりを持つ寺院で、重見家の位牌が安置され、領主一族の菩提を弔い続ける場として地域の人々に親しまれていました。
重見氏とは
重見氏は、中世伊予国の有力国人で、河野氏の家中にあって重きをなした一族です。
代々、伊予北部の要地・近見山城(現・今治市近見町)を居城とし、海陸交通の要衝を押さえていました。
特に戦国期の当主・重見通種(しげみ みちたね)は、武勇に優れた武将として知られ、河野氏の北方防衛を担う重臣として活躍しました。
重見氏とてきた
しかし、享禄三年(1530年)、通種は惣領・河野通直との対立からついに反旗を翻し、近見山城に籠城して挙兵します。
これは単なる一国衆の反乱ではなく、当時の河野家中にくすぶっていた国人層の不満が一気に噴出した象徴的事件とされます。
河野通直はただちに村上水軍御三家の一つ・来島村上氏(当主・村上通康)をはじめとする有力家臣団を動員し、近見山城に拠る通種討伐のため大軍を編成しました。
戦いは伊予国内各地に波及し、一進一退の攻防が続いたものの、圧倒的兵力を誇る河野方が優勢となり、ついに近見山城は落城しました。
弟・重見通遠は果敢に戦った末に討死、通種はわずかな家臣とともに城を捨て、周防国(現・山口県東南部)の大内義隆を頼って落ち延びることとなります。
義隆は通種の武勇と忠節を高く評価し、安芸国西条の木原に領地を与え、さらに重臣の陶晴賢(すえ はるかた)に通種の身柄を預け、手厚く庇護しました。
厳島の戦いと通種の最期
しかし、天文二十年(1551年)、陶晴賢は主君・大内義隆に反旗を翻し、義隆は長門国大寧寺で自刃に追い込まれます。
これにより大内家の実権を握った晴賢は、西国一の大勢力を率いる存在となり、通種もその家臣として仕え続けました。
一方、安芸国の毛利元就は、義隆からの庇護を受けて勢力を拡大し、義隆の養女・尾崎局を嫡男・隆元の正室に迎えることで大内家との縁戚関係を築いていました。義隆の死後、当初は晴賢と行動を共にしましたが、やがて両者の関係は決裂し、瀬戸内の覇権をめぐって激しく対立することになります。
そして弘治元年(1555年)、周防国で中国地方全域の支配権をかけた決戦が始まります。これこそが後世に名高い「厳島の戦い」です。
戦場となった厳島(現・広島県廿日市市宮島町)は、海と山に囲まれた天然の要害で、瀬戸内海の制海権を握るためには避けて通れない場所でした。
毛利元就はこの決戦に先立ち、能島・因島・来島の三島村上水軍に助勢を要請。海上封鎖と奇襲作戦を計画しました。
重見通種は陶軍の一翼を担い参戦します。こうして再び、来島村上氏(村上通康)と通種は敵として対峙することになりました。
元就は厳島の地形を巧みに利用して陶軍を島へ誘い込み、夜陰と霧雨を利用して奇襲を敢行。村上通康は毛利水軍を率いて海上作戦の指揮を執り、陶軍の退路を完全に封鎖しました。
翌朝、毛利軍は海陸から一斉に攻めかかり、陶軍は総崩れとなり敗走。ついに陶晴賢は宮尾城に追い詰められ、無念の自刃を遂げます。
この戦いは毛利軍の圧倒的勝利に終わり、毛利氏は中国地方の覇者としての地位を確立しました。
戦後、毛利元就は降伏した陶家の家臣を広く受け入れ、自軍の勢力拡大に活用しましたが、重見通種はその誘いをきっぱりと拒絶。
「旧恩をすて新恩をになうは武士の恥」
この辞世を残して自刃し、その生涯を閉じました。
河野氏宿老としての重見氏
通種の死後、家督は弟・重見通次が継ぎ、河野氏と和解して再び家中に復帰しました。
この和解は、重見氏にとって名誉回復の意味を持つと同時に、分裂していた家臣団を再び一つにまとめ、領国統治を安定させるための河野氏にとっても重要な政治的決断だったと考えられます。
復帰後の重見氏は、河野家の宿老として重用され、来島氏・正岡氏と並ぶ三大重臣として、国政や軍事において中枢的な役割を担いました。
とりわけ近見山城は来島海峡を一望する要害であり、瀬戸内航路の掌握や海上防衛の拠点として極めて重要でした。
重見氏はこの城から瀬戸内海を行き交う船舶を監視し、河野水軍や村上水軍と緊密に連携して海上交通の安全確保や制海権の維持に貢献しました。
河野通直は「毎時、重見・来島・正岡に相談候て」と記しており、重見氏の意見が政務・軍務の双方で重要視されていたことがわかります。
豊臣秀吉の四国征伐と河野氏の滅亡
しかし、戦国の世にあって伊予国を取り巻く情勢は次第に緊迫の度を増していきます。
天正5年(1577年)、織田信長は羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)を中国地方遠征軍の総大将に任命し、中国地方の覇者・毛利氏への圧力を強めました。
この頃、河野氏は毛利氏と同盟を結び、毛利水軍や小早川隆景の援軍を得て、四国統一を狙う土佐の長宗我部元親と必死に戦っていました。河野氏は毛利氏の支援を受けることで、かろうじて伊予国での勢力を維持していたのです。
しかし、信長の中国攻めが本格化すると毛利氏は河野支援の余力を失い、伊予への援軍が困難となります。河野氏は次第に孤立し、国人層の中にも不満や離反が生じるようになりました。
天正11年・狭間の原の戦い
天正11年(1583年)、長宗我部元親はついに伊予への本格的な侵攻を開始します。元親の大軍は伊予南部から北上し、やがて近見山の麓・狭間の原に布陣しました。
これに対し、近見山城主・重見氏は一族郎党を率いて迎え撃ちます。
戦いは激烈を極め、近見山城は奮戦したものの、兵力で勝る長宗我部軍の攻勢に押され、やむなく石井村へ撤退。最後には力尽き、ほとんどの兵が討死したと伝わります。
この敗北は近見山城の防衛体制を大きく揺るがし、来島海峡一帯の防衛網にも深刻な穴を開けました。
重見氏の損耗は河野家中にとって大きな痛手であり、これ以降、河野氏の軍事力は著しく低下。
長宗我部勢は伊予国内での勢力を拡大し、河野氏の衰退は決定的なものとなっていきました。
来島村上氏の離反
この苦境に追い打ちをかけたのが、来島村上氏の離反でした。
当主・来島通総は、もはや河野氏とともに戦うことは一族を滅亡の危機と判断し、天正9年(1581年)に織田信長の家臣・羽柴秀吉との同盟に踏み切ります。
以後、来島村上氏は織田方として行動し、毛利氏・河野氏と対立する立場となりました。
天正10年(1582年)にはついに兵を挙げ、旧主河野氏を攻撃。
毛利・河野連合軍の包囲を受け、来島村上氏は滅亡寸前に追い込まれますが、通総は命からがら脱出し、瀬戸内海を南下して秀吉のもとへと走りました。
この離反により、河野氏は海上防衛力の要である来島水軍を失い、いっそう孤立を深めることとなります。
豊臣秀吉の四国征め
天正13年(1585年)、本能寺の変(1582年)で倒れた織田信長の遺志を継いだ羽柴(豊臣)秀吉は、再び四国征伐を開始しました。
かつて河野氏に援軍を送っていた毛利氏も、この頃にはすでに秀吉に臣従しており、今度は豊臣方の一員として伊予攻めに参加します。
総大将には小早川隆景が任じられ、宇喜多秀家・黒田官兵衛ら名将がこれに従い、水陸合わせて十万ともいわれる大軍が四国に押し寄せました。
伊予では、河野氏が本拠・湯築城に籠城して最後の抵抗を試みます。
しかし、圧倒的な兵力差と海陸からの包囲の前に抗しきれず、最終的に開城し降伏。
ここに約三百年にわたる伊予国守護・河野氏の歴史は終焉を迎えました。
重見氏も同じく降伏し、本拠であった近見山城は廃城となりました。
瀬戸内海の制海権を支え、河野氏とともに伊予の防衛を担ってきた重見氏は、こうして一つの時代を終えることとなりました。
「木原姓」重見氏の新たな生き方
しかし、重見一族は完全に途絶えることはありませんでした。
本拠の近見山城を失ったのち、一族は近見山を離れ、木原姓を名乗って高部村に居を構えます。
そこでは、かつてのように武士として戦場に立つのではなく、農業や地域の営みを通じて新たな生活を築き上げていきました。
戦乱の世で武名を馳せた一族が、平和な時代の到来とともに地域に根を下ろし、新しい形で存続していったのです。
戦国の終焉と祖先の思い
その後、伊予国は豊臣政権の統治下に組み込まれ、秀吉による全国的な検地や城割などの政策によって、戦国期の国人領主や土豪たちの力は抑え込まれ、中央集権的な支配体制が確立していきました。
天正18年(1590年)には小田原征伐で後北条氏が滅亡し、秀吉は天下統一をほぼ成し遂げます。
これにより、長く続いた戦乱の世は一時的に収まり、日本全体が豊臣政権のもとで安定に向かいました。
しかし、秀吉が没すると再び政局は不安定になります。豊臣家の後継をめぐり、徳川家康と石田三成らが対立。
慶長5年(1600年)に天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発します。
徳川家康率いる東軍が勝利し、家康は全国支配の基盤を確立しました。慶長8年(1603年)には征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府を開きます。
ここに本格的な「江戸時代」が始まり、日本はおよそ260年にわたる泰平の世を迎えることとなりました。
家康は戦後、全国の大名に対して大規模な領地再編(論功行賞)を行い、東軍についた大名には加増や移封、西軍についた大名には改易や減封を行いました。
これにより、日本各地の統治体制が再編成されます。
伊予国も例外ではなく、領地再編が行われ、今治には藤堂高虎が入り城下町を整備しました。
のちに藤堂家が移封されると、松平(久松)氏が入封し、今治藩と松山藩が並立する藩政体制が確立します。
この中で、高部地域は松山藩領として、城下と瀬戸内航路を結ぶ港町として発展していきました。
厳島大明神の創建
木原氏も、かつてこの地域を治めていた祖先・重見氏と同じく、農業や海運に携わりながら、地域社会の要として暮らしを営んでいったと考えられます。
そして、江戸時代初期の慶長13年(1608年)、木原仁右衛門が安芸国宮島から厳島大神を勧請し、厳島大明神・高部厳島神社(いつくしまだいみょうじん)を創建しました。
これは、かつて武士として名を馳せた重見氏の誇りを受け継ぎ、戦乱で疲弊した地域社会を再生し、住民の心に安定をもたらすための信仰の拠点を築くものでもあったと考えられます。
重見家の記憶を伝える東光庵と位牌
実は、厳島大明神が創建されるよりも前から、かつてこの地を治めた重見家の記憶は地域から失われることはありませんでした。
その象徴が、八王子神社の境内にひっそりと建てられていた東光庵です。
東光庵には、近見山城主・重見家の位牌が安置されており、領主一族の菩提を弔う場として長く守られてきました。
この位牌は、重見家がこの地で生きた証そのものであり、戦国の世を生き抜いた一族の記憶を後世へと伝える貴重な存在だったのです。
明治維新と神仏分離令
慶応4年(1868年)、明治新政府は王政復古を宣言し、約260年続いた江戸幕府は滅亡しました。
これにより、松山藩や今治藩といった藩政体制も解体へと向かい、翌年には「版籍奉還」が実施され、藩主たちは領地と領民を朝廷に返上しました。
さらに明治4年(1871年)の「廃藩置県」によって藩は完全に廃止され、中央集権的な府県制度が導入されます。
こうした大きな時代の転換期に、宗教政策も大きく変わります。
新政府は近代国家建設の理念のもと、神道を国家的儀礼として整備する「国家神道」政策を推進しました。
その第一歩として出されたのが、明治元年(1868年)の「神仏分離令」です。
八王子神社と東光庵への影響
神仏分離令は神道を国家の根幹に据える政策の一環であり、神社に付属する仏教的施設や仏像・仏具を取り払い、僧侶と神職の兼任を禁じるという厳しい命令でした。
この布告によって、全国各地で長年共存してきた神社と寺院の結びつきが断ち切られ、寺の管理下にあった神社は無理にでも独立を余儀なくされました。
その過程で仏像や位牌が移動させられたり、ときには破却される例も少なくありませんでした。
高部の八王子神社とその境内の東光庵も、こうした大きな時代の変化の波を免れることはできませんでした。
八王子神社の社殿は、同じ地域にあった厳島神社へと移されることになり、東光庵だけがこの地に取り残されました。
しかし、神社から切り離された東光庵は次第に人の手が入らなくなり、少しずつ荒廃の道を歩むこととなったのです。
時代の荒波と戦争
明治から大正、昭和へと時代が移るなかで、日本は日清戦争・日露戦争、そして第一次世界大戦を経験し、近代国家としての地位を固めていきました。
しかし昭和に入ると、満州事変、日中戦争、そして太平洋戦争と、再び戦乱の時代に突入します。
昭和20年(1945年)、太平洋戦争末期には日本本土への空襲が激化し、今治も米軍のB-29による大規模空襲で壊滅的被害を受けました。
市街地の約8割が焼失、575人以上が犠牲となり、神社仏閣や文化財も多くが焼失しました。
しかし、幸いにも八王子神社の社殿が移されていた厳島大明神は戦火を免れ、境内の東光庵も無事でした。
焦土と化した町の中で、これらの存在は人々にとって信仰のよりどころであり、希望の象徴となったのです。
戦後復興と八王子神社・東光庵の再生
昭和27年(1952年)、戦後の混乱が少しずつ収まり、人々が生活の再建に取り組み始めたころ、高部の阿部半次郎さんが立ち上がります。
阿部さんは厳島大明神の氏子総代と話し合い、正式な許可を得て、長く移されていた八王子神社の神殿を再び元の地へと戻しました。
これは単なる建物の移設ではなく、地域にとって長く失われていた「氏神の帰還」を意味する出来事であり、多くの人々に深い感動を与えました。
その後も阿部さんとその家族は復興に尽力し、昭和47年(1972年)5月には兄妹弟五人が協力して新しい鳥居を建立。
境内の景観はかつての姿を取り戻し、氏子たちの信仰心も再びこの地に結集しました。
さらに昭和59年(1984年)には、阿部さんの発起によって高部の信者たちが力を合わせ、東光庵が再建されました。
こうして、かつての姿がを取り戻した八王子神社と東光庵は、再び高部の人々の信仰を集め、今もなお地域の精神的支柱として人々の暮らしに寄り添い続けています。