男山八幡大神社のそばに、小さな社がひっそりと身を寄せるように建っています。
それが、「萩森神社(はぎもりじんじゃ)」です。
「萩の森さん」として地元の人々に親しまれてきたこの社は、南北朝時代に活躍した武将・細川頼春(ほそかわ よりはる)を祀る、今治でも珍しい歴史を持っています。
細川頼春と南北朝時代の背景
南北朝時代(1336年~1392年)は、日本が南朝と北朝に分裂し、全国的な内乱が続いた時代でした。
南朝は後醍醐天皇を中心に一時的に京都を奪還するものの、足利尊氏が再び京都を取り戻し、北朝を擁立して室町幕府を開くなど、戦乱が絶えない時期でした。
この内乱の中、多くの武将が各地で勢力を競い合い、激しい戦闘が繰り広げられました。
この乱世で勇猛な武将としてその名を広めたのが、細川頼春です。
頼春は北朝方の足利尊氏(あしかが たかうじ)に仕え、四国地方の讃岐国(現在の香川県)の豪族たちとの同盟を結び、その勢力を拡大し、足利氏の四国統治の基盤を築いた立役者の一人として知られています。
戦場では、その弓の技術を駆使して敵を討ち取り、戦局を有利に進めることで、足利軍の勝利に貢献しました。
その勇猛さと戦術的な洞察力は、尊氏の側近としての地位を確固たるものにしました。
しかし、やがて幕府内部における対立が、細川頼春の運命を大きく狂わせていきます。
兄弟の対立から始まる動乱
室町幕府の草創期、将軍・足利尊氏とその弟・足利直義(あしかが ただよし)は、兄弟で役割を分担しながら政権を運営していました。
尊氏は軍事を担当し、その側近の高師直(こうの もろなお)が、実務面で軍事や政治の現場を支えていました。
一方、弟の直義は行政・司法を統括し、法制度の整備を主導します。こうして兄弟が協力する形で成立した体制は、「二頭政治」と呼ばれ、幕府の中でうまく機能していました。
しかし、この体制には徐々に亀裂が生じ始めます。
尊氏は武力による統治を重視し、強硬な姿勢で政権を主導しようとする一方、直義は法と秩序を基盤とする穏健な政治運営を目指していました。
決定打だったのが、直義と高師直の激しい確執でした。
室町幕府を裂いた権力闘争
1349年(貞和5年)、直義は師直の専横を咎め、尊氏にその罷免を要求。これがいったんは受け入れられ、高師直は執事の職を解かれ、所領も没収されます。
しかし、師直はこれに黙っておらず、戦地から弟・高師泰の軍勢を呼び戻すと、京都の直義を包囲。
直義は尊氏邸に避難し、最終的に出家して政務を退くことになります。
こうして、幕政の実権は再び尊氏・師直体制へと戻りましたが、直義はこのままでは終わりませんでした。
翌1350年(観応元年)、直義は自身の正当性を訴えて挙兵します。
これに呼応したのが、かつての尊氏の庶子であり、直義の養子となっていた足利直冬(あしかが ただふゆ)、さらには各地の守護・国人たちでした。
こうして、兄・尊氏と弟・直義による武力衝突が始まりました。
この政変は、室町幕府の権力構造を根底から揺るがす大規模な内乱となり、後に「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」として、日本史にその名を刻むことになるのです。
「観応の擾乱」三つ巴の抗争
観応の擾乱は、単なる兄弟間の争いにとどまらず、やがて幕府内の有力武士団や、南朝までもを巻き込んだ三つ巴の抗争へと発展していきます。
1351年(観応2年)、直義方の軍勢は摂津の打出浜(うちではま)で足利尊氏軍を破ると、尊氏は直義との講和を受け入れます。
その条件として、尊氏側の重臣である高師直・高師泰兄弟が配流されることになりました。
しかし、同年2月、師直兄弟は摂津・武庫川で護送中に直義派の武将・上杉能憲らにより暗殺されます。
この事件は、長年幕府内に蓄積されていた対立を一気に爆発させる導火線となりました。
直義は政権に復帰するものの、すでに幕政の実権を握っていた足利義詮(尊氏の嫡子)との対立が深まり、幕府内部は再び分裂。
さらに同年秋には、赤松則祐や佐々木道誉などが南朝方と結び、一気に近畿地方を不安定化させました。
こうした事態を受け、尊氏は再び直義追討を決断。
「正平一統」北朝が南朝へ自ら返還
この時、尊氏は大胆な策に打って出ます。
なんと、正統性をめぐって長年対立してきた南朝に政権を返還し、自らはその命に従うかたちで、弟・足利直義の討伐に動き出したのです。
この政変により、形式上は南朝が日本全土の正統政権として認められ、北朝の天皇と皇太子は廃され、年号も「観応」から南朝の「正平」へと統一されました。
これが、歴史上「正平一統(しょうへいいっとう)」と呼ばれる一時的な南北朝の名目的統一です。
足利直義の最期
尊氏は、正統な朝廷から発された綸旨(りんじ)という強力な大義名分を掲げ、自らの直義討伐軍を「正当なる征伐」として位置づけ、諸国にその正統性を示しました。
直義は、京都を離れて北陸へ落ち延び、やがて鎌倉へと逃れて最後の抵抗を試みました。
しかし、情勢はすでに尊氏優位に傾いており、味方の多くは離反し、直義は次第に孤立していきます。
そして、1352年(正平7年;文和元年)の初頭、直義は鎌倉・延福寺に幽閉され、同年2月、その地で急死しました。
その死には毒殺の噂もささやかれ、観応の擾乱は、兄弟の骨肉の争いの果てに訪れた、あまりにも悲劇的な終幕を迎えることとなったのです。
争いは一時急戦状態
こうして、北朝と南朝が一つに戻ることになりましたが、これはあくまで形式上のことであり、根本的な和解や統一が実現したわけではありませんでした。
南朝側には、尊氏の政権返還が本心からの服従ではなく、あくまで直義討伐という自身の政略のための一時的な方便であるという疑念が根強く残っていました。
一方で尊氏も、南朝と真に協調する意思があったわけではなく、朝廷の権威を自軍の正当化に利用するために、政権を一時的に「返還」したにすぎません。
つまり、「正平一統」は、敵味方の真意がすれ違ったまま成立したきわめて不安定な政治的休戦状態だったのです。
その不安定さは、直義の死後、わずか数ヶ月で露呈することになります。
南朝の寝具…。破られた均衡
1352年(正平7年/文和元年)の春、足利尊氏が関東へ下向し、直義派の残党掃討に当たっていた隙を突いて、南朝は突如として和議を破り、京都への進軍を開始しました。
この南朝軍の主力には、楠木正儀(まさのり)や北畠顕能(あきよし)といった有力武将たちが名を連ねており、周到に準備された大規模な攻勢でした。
このとき京には、尊氏の嫡子である足利義詮(よしあきら)が留まっており、南朝軍の急襲によって、幕府の中枢は一気に危機に晒されることになります。
その義詮を守るべく、最前線に立ち奮戦したのが、尊氏の側近として知られる忠臣・細川頼春(ほそかわ よりはる)でした。
忠義を尽くした細川頼春の最期
細川頼春は、足利尊氏の草創期からの忠臣として知られ、建武の新政崩壊後の戦乱期にあって、尊氏と共に各地を転戦してきた歴戦の武将です。
尊氏が一時敗れて九州へ落ち延びた際には、兄・細川和氏らと共に四国を平定し、尊氏軍再起の基盤を築きました。
1336年の湊川の戦いでは、尊氏軍の主力として参戦し、新田義貞・楠木正成ら南朝勢を破る大勝に貢献。
その武勇と忠義により、1330年に産まれた尊氏の嫡子・千寿王(義詮)の後見人に任じらていました。
そして迎えた1352年、南朝軍が京都を急襲した際、頼春は幼い義詮を守るため命懸けで戦いました。
自ら最前線に立ち激戦を繰り広げ、義詮をなんとか近江の地へと脱出させることに成功しますが、自身は京都・七条大宮付近で壮烈な戦死を遂げました。
この時、頼春の年齢は49歳、あるいは54歳と伝えられています。
徳島県に埋葬された細川頼之
この頼春の戦死は、足利軍にとっても甚大な損失であり、また、長年苦楽をともにした忠臣を失った将軍・足利尊氏にとっても、深い痛手となりました。
一方で、頼春は武士としての生き方を貫き、戦場で務めを果たして散ったその姿は、まさに武士の鑑でもありました。
その姿を誰よりも誇りに思い、父の功績を後世に伝えようと尽力したのが、息子の細川頼之でした。
父の死後、頼之はその跡を継いで阿波守護に任じられ、四国における細川家の影響力をさらに強めていきます。
若くして政治・軍事の実務を担うこととなった頼之ですが、まず何よりも優先したのは、父の弔いと顕彰でした。
頼之は、父・頼春の遺骸を阿波国板東郡(現在の徳島県鳴門市周辺)にある「萩原之森(はぎわらのもり)」に丁重に埋葬しました。
なぜ今治?萩森神社の謎
しかし、埋葬された場所が徳島であるにもかかわらず、愛媛県今治市に細川頼春を祀る神社が存在するのはなぜでしょうか?
これは、細川家が四国全域において強大な影響力を持ち、その力が今治にも及んでいたことが考えられます。
実際に、暦応2年(1339年)には今治の武将である鳥生貞実(とりう さだざね)から、支援を求められ廣紹寺(広紹寺)の創建の協力しています。
これは細川家の影響力が今治にも強く及んでいたことを示す一例で、戦死した頼春の功績を偲ぶために、四国各地で頼春を祀る動きが起こっていたことは容易に想像できます。
さらに、父頼春の死後、息子の細川頼之がその跡を継ぎ、四国全域における細川家の影響力をさらに強めました。
頼之は、四国の豪族たちとの連携を深め、やがて四国全土を細川氏の勢力下に置くことに成功し、その統治体制のもとで四国地方は安定、細川氏の権威は一層高まりました。
このなかで、今治市の「萩森神社」はその一環として、細川頼春を偲ぶ場所として現在の地に作られたと考えられます。
その後、道路の拡張工事が行われた際、この歴史を後の時代に伝えるために、萩森神社の境内が整備されました。
この整備によって、細川頼春の功績や遺徳が地域社会により深く根付くこととなり、神社は今もなお、頼春を偲び尊敬する人々にとって重要な場所となっています。