今治市玉川町に位置する「白山神社(はくさんじんじゃ)」は、古刹・光林寺の奥にひっそりと鎮座しています。
参拝者はまず光林寺の駐車場を利用し、そこから徒歩で神社へ向かいます。
森の中に佇む境内には、荘厳な御神木がそびえ立ち、その神々しい姿は訪れる人々の心を深く打ちます。
「御祭神」伊雅岐神と菊理姫神
白山神社の御祭神は、伊雅岐神(いざなぎのかみ)と菊理姫神(くくりひめのかみ)です。
いずれも古代神話に登場し、日本のはじまりを彩る重要な神々です。
伊雅岐神
伊雅岐神(いざなぎのかみ)は、天地開闢に現れた神世七代の最後の神であり、伊邪那美神(いざなみのかみ)とともに最初の夫婦神とされています。
二神は国生み・神生みを行い、日本列島や多くの神々を誕生させました。
とりわけ、天照大神・月読命・須佐之男命の三貴神の父神として、信仰上きわめて重要な存在です。
日本神話では、伊邪那美命の死を悼み、黄泉の国へ彼女を迎えに行った神としても知られています。
最終的に黄泉比良坂で彼女と決別し、現世に戻った伊雅岐神は、禊を行い穢れを祓い、新たな神々を生み出します。
この逸話から、浄化・再生・厄除けの神として篤く信仰されています。
菊理姫神
菊理姫神(くくりひめのかみ)は、日本書紀の異伝に一度だけ登場する謎多き女神です。黄泉の国で言い争う伊雅岐神と伊邪那美神の間に現れ、両者を諫め、仲を取り持ったと伝えられています。
そのため、菊理姫神は調和と和合、縁結びの神として信仰されており、中世以降は白山比咩神(しらやまひめのかみ)と習合され、全国の白山神社の御祭神として祀られるようになりました。
特に女性の守護神、水の神、霊界との橋渡しを担う神としても崇敬を集めています。
白山神社の創建と歴史
白山神社の創建は、701年(大宝元年)。
この年、天武天皇の勅命を受けた高僧・徳蔵上人がこの地に白山権現(現:白山神社)と光林寺を開いたのが始まりとされています。こ
の創建は単なる神社の建立にとどまらず、仏教と神道、山岳信仰と国家鎮護の祈りが融合する神仏習合の聖地の誕生を意味していました。
「時代背景」律令国家と宗教政策
701年は、大宝律令が施行された年であり、日本における本格的な中央集権国家体制が始動した重要な節目でした。
天武天皇(在位:673〜686)の政策を受け継いだ持統・文武両天皇は、律令制度の整備と並行して、仏教を国家の安定と繁栄を支える精神基盤として重視しました。
その中で、地方にも国家鎮護のための仏教寺院や神社が整備され、僧や修験者が山に入り、霊山を修行と祈祷の拠点とする例が増えていきました。
白山神社の創建も、まさにこのような律令国家の宗教政策の流れの中で位置づけられるものです。
創建者・徳蔵上人と渡来文化の血脈
白山神社と光林寺の創建を担ったとされる徳蔵上人は、古代の渡来系氏族である弓月君(ゆづきのきみ)の末裔と伝えられています。
弓月君は、4世紀末ごろに百済を経て日本へ渡り、山城国太秦(現・京都市右京区)に定住しました。
その子孫である秦氏は、日本に機織・土木・造仏・養蚕・仏教技術などをもたらし、宗教・経済・文化の分野で国家形成に大きく貢献しました。
徳蔵上人もその系譜に連なる僧として、仏教の教学と修験道的実践を統合した学徳兼備の修行者であったと考えられます。
白山権現
後に白山神社と称される白山権現(はくさんごんげん)は、もともと加賀国(現在の石川県)にそびえる霊峰・白山を御神体とする山岳信仰に基づいた神仏習合の神格です。
主祭神は、古代神話に一度だけ名を現す神秘的な女神・菊理姫神(くくりひめのかみ)。
その名は『日本書紀』の伊弉諾尊と伊弉冉尊の黄泉比良坂での場面にわずか一度登場するのみですが、やがて「和合」「調停」「霊界との橋渡し」の神として、全国的な信仰を集めるようになります。
この白山権現を生んだ「白山信仰」とは、日本三霊山(富士山・立山・白山)の一つである白山を神体山と仰ぐ信仰です。
その背景には、日本人の暮らしにとって欠かせない「水」への信仰が深く関わっています。
白山は日本海側に豊かな水をもたらす源であり、雪解け水が川となって山麓に流れ下り、大地を潤し、農作物を育む恵みとなりました。
こうした自然の恵みに対する感謝と畏敬が、白山を「水の神」として神格化させ、五穀豊穣や生活の安定を願う信仰として広がっていきます。
奈良時代には修験道の祖・泰澄(たいちょう)が白山を開山したと伝えられ、以後、白山は霊山として多くの修験者たちが修行に訪れる場となります。
彼らは厳しい山岳修行によって得た霊験をもって各地を巡り歩き、白山信仰を説いて、数多くの白山神社を各地に創建しました。
こうして白山信仰は、北陸を中心に東海、関西、中国、四国地方へと波紋のように広がり、やがて全国に深く根付いていったのです。
「光林寺と奈良原神社」 神仏習合の実践
白山権現とともに創建された光林寺は、単なる寺院ではなく、奈良原山全体の信仰体系を支える修験道の霊場として機能しました。
山頂には、修験道の開祖である役小角(えんのおづぬ)が招かれたという伝承をもつ奈良原神社が鎮座し、国家鎮護・豊穣祈願の対象として朝廷にも重んじられました。
この奈良原神社の別当寺(神社の管理と祈祷を担う寺院)として光林寺が位置づけられ、さらにその末寺として、山麓にはもう一つの別当寺「神護別当 蓮華寺 清浄院」も建立されました。
こうして、古くから霊山として知られてきた楢原山の周辺地域は、以下のように多様な信仰が重なり合いながら形成されていきました。
- 神道的な修験信仰(奈良原神社)
- 仏教的な祈祷と教学(光林寺・蓮華寺)
- 山岳霊場としての白山権現信仰(白山神社)
それぞれが独自の役割と精神性を担いながらも、互いに緩やかに結びつき、三層構造が調和する神仏習合の霊域が形づくられていったのです。
空海が認めた霊験
時は流れ、平安時代初頭(794年~900年頃)。
唐から密教を学び大同元年(806年)に帰国した空海(弘法大師)は、諸国を巡る中で伊予の地に立ち寄りました。
その際、空海は楢原山に登り、この霊山で密教の奥義を弟子たちに授けたと伝えられています。
楢原山の自然霊性に満ちた風土は、空海にとって修法の場としてふさわしいものだったのでしょう。
この中で、空海は奈良原神社の別当寺であった光林寺にも訪れました。
当時の光林寺は、法相宗や三論宗といった、仏教の教理を理論的に体系化する宗派の教えを学ぶ寺院でした。
しかし、空海(弘法大師)の訪問を契機として、光林寺には実践を重んじる真言密教の教えが取り入れられます。
以後、光林寺は歴代天皇や貴族の信仰を集めるようになり、国家安泰や雨乞い祈祷、病気平癒などの願いが託される祈願所としての役割を担い、やがて勅願寺としての格式も次第に高まっていきました。
天長の勅命と白山権現再興
また、空海は光林寺の奥に鎮座する白山権現(現・白山神社)にも訪れ、その霊験の深さに心を打たれ、深い敬意と尊崇の念を込めて、その神威を朝廷に奏上しました。
やがてその霊験は朝廷に認められ、天長2年(825年)に淳和天皇の勅命により社殿が再興され、国家鎮護の社としての格式があらためて整えられました。
「承平天慶の乱」祈りの場と社殿
10世紀前半、平安王朝はかつてない国難に直面していました。
東国では関東一円を制圧した武士・平将門が「新皇(しんのう)」を名乗って独立政権を樹立しようとし、中央政権に正面から反旗を翻しました。
一方、西国では伊予国で海賊討伐の任にあった元貴族・藤原純友が、逆に海賊王となって日振島を拠点として激しい反乱を起こします。
このふたつの乱は、それぞれ承平の乱(平将門)・天慶の乱(藤原純友)と呼ばれ、のちに「承平天慶の乱」として並び称されるようになります。
東西両端で同時に起きた未曽有の反乱により、朝廷は国家の存続を揺るがす重大な危機に直面し、緊迫した対応を迫られました。
「鎮護国家」
朝廷は、討伐軍を派遣する一方で、神仏の加護によって乱を鎮め、国家の安泰を祈るため、各地の社寺に祈願を命じました。
このように、国家的な災厄の際に社寺に祈祷を命じることは、平安王朝における伝統的な危機管理の一環で、特に仏教の修法を重んじる寺院や、山岳信仰に根ざした神社仏閣は、「鎮護国家」の要として重要な役割を担ってきました。
伊予国でも、朱雀天皇 (すざくてんのう)の勅により、光林寺の僧侶たちが白山権現(白山神社)で祈祷を行いました。
そして、その霊験が広く知られるようになり、940年(天慶3年)に社殿の修造が進められました。
白山権現→白山神社
明治時代に入ると、日本は天皇を中心とした近代国家体制の構築をめざし、宗教の在り方にも大きな改革を加えていきました。
明治元年(1868年)、新政府は「神仏分離令(神仏判然令)」を発布し、長く民衆に根づいてきた神仏習合の信仰形態を否定し、神道と仏教の明確な分離を推し進めました。
この政策は、全国の寺社に大きな影響を与えました。とりわけ、「○○権現」と呼ばれていた社は、仏教的要素を色濃く持つと見なされ、神道の純化政策の対象となりました。
「権現」とは、仏が人々を救うために神の姿でこの世に現れたという考え方「本地垂迹(ほんじすいじゃく)という仏教思想」 にもとづく信仰を色濃く反映しています。
これが、明治政府の国家神道の構築に相容れないものとされた、多くの「権現社」が「神社」へと改称を余儀なくされていきます。
こうしたなか、白山権現もまた例外ではなく、神仏習合の霊場としての長い歴史を経て、明治初年に現在の「白山神社」へと改称されました。
以後、白山神社は神道の形式に則った独立した神社として、祭祀を継承していくことになります。
現在の白山神社
そして現在の白山神社は、風格ある檜皮葺(ひわだぶき)の本殿を中心に、拝殿・幣殿は重厚な瓦葺の伝統建築で構成されています。
昭和52年(1977年)10月には社殿の全面改修が行われ、荘厳な趣をたたえたその姿は今もなお、多くの参拝者の心を静かに打ちます。
山中に満ちる清浄な空気と相まって、社殿の佇まいは、神仏習合の時代から受け継がれる信仰の歴史と、変わらぬ霊威を今日に伝えています。