今治市菊間町にある「遍照院(へんじょういん)」は、「やくよけ大師(厄除大師)」として広く知られ、地元のみならず県内外からも多くの参拝者が訪れる歴史ある寺院です。
四国八十八箇所の番外札所であると同時に、神仏習合の霊場である新四国曼荼羅霊場の第42番札所としても知られ、信仰の対象となっています。
遍照院の創建史
遍照院の創建は、平安時代初期・弘仁6年(815年)にさかのぼります。
平安京遷都から二十年ほどを経たこの頃、日本はまだ律令制度の揺らぎを内に抱えながらも、都では嵯峨天皇による政治改革と文化の振興が進んでいました。
一方で、地方では飢饉や疫病、地震、戦乱などの災厄が相次ぎ、人々は日々の暮らしに不安を抱えていました。
こうした不安な時代、人々の心のよりどころとなったのが仏教でした。
特にこの時期には、密教という新たな仏教思想が日本にもたらされ、「国家鎮護」や「現世利益」をもたらす力として注目を集めていたのです。
空海、厄年にして伊予国菊間の地へ
この時代、仏教界の中心に立っていたのが、真言宗の開祖・弘法大師(空海)です。
延暦23年(804年)、空海は遣唐使の一員として唐に渡り、長安の青龍寺で密教の高僧・恵果阿闍梨(けいかあじゃり)に師事しました。
密教の奥義を授かるには本来10年以上の歳月が必要とされていましたが、空海はわずか約2年でそのすべてを伝授され、正式な後継者として帰国を許されます。
帰国後は密教の教えを広めるべく、各地を巡って修法・布教に尽力し、やがて弘仁年間(810年〜)、空海は四国巡錫(しこくじゅんしゃく)と呼ばれる霊地巡礼の旅に出ます。
そして弘仁6年(815年)、四国を巡る旅の途上、空海は伊予国越智郡菊間(現在の愛媛県今治市菊間町)を訪れました。
このとき、空海は42歳。
仏教においても世俗においても、男性にとって最も大きな厄災が訪れるとされる「大厄」の年齢にあたっていました。
「法仏山日輪寺」厄除弘法大師の信仰
弘仁6年(815年)、四国巡錫の旅の途上、弘法大師空海は伊予国菊間の地を訪れました。
お供馬の伝承で知られる、賀茂神社の本殿裏にひっそりとたたずむ宮本池(加茂池)の奥深く、空海は霊気ただよう山中に足を踏み入れ、そこで深い霊感を得ました。
そこで、空海は聖観音像を自ら刻み、池の奥に一宇の堂を建立すると「法仏山日輪寺」と名付けました。
さらに空海は、自らの厄年(当時42歳、大厄)にあたっていたことから、自らの厄を祓うとともに、「厄除け」の祈願を込めて、自身の姿を刻んだ像「厄除弘法大師像」を彫り上げ、聖観音とともに堂内に安置しました。
そこには、自身だけでなく「末代緒人」、すなわち未来永劫すべての人々の災厄をも除かんとする深い願いが込められていたのです。
あわせて空海は、密教の秘法に基づく「厄除けの修法」をこの地に伝授しました。
この秘法は、厄年を迎えた人々が災厄から身を守るための祈りや儀式として代々受け継がれ、本尊は「厄除弘法大師」として篤く信仰されるようになっていきました。
やがて日輪寺は、「厄除けの霊場」として広く知られるようになり、海を越え、山を越えて多くの参詣者が訪れるようになり、
その教えと祈りの灯は、名僧たちの手によって大切に守られ、日輪寺は地域の精神的支柱として大いに栄えることとなりました。
そして、この法仏山日輪寺こそが、後の「やくよけ大師(厄除大師)」として広く知られる霊場・遍照院の前身にあたります。
現在の遍照院も、その歴史と信仰の系譜を受け継ぎ、正式には 「法佛山 遍照院 日輪寺(ほうぶつざん へんじょういん にちりんじ)」 と号しています。
以降日輪寺は「遍照院」として記載していきます。
応永から永享へ、遍照院復興の歩み
元亨年中(1321~1323年)には一時退廃し、聖観音像だけがひっそりと残される状況となってしまいました。
しかし人々の信仰の灯は消えておらず、応永六年(1399年)には、寺の鎮守として加茂神社が勧請され、かつての霊地の再興を願う機運が高まり始めます。
そして、永享年間(1429~1440年)。
讃岐国(現:香川県)・萩原寺から来訪した高僧・真恵によって、ついに遍照院は本格的に再興されました。
その後、越智・野間・風早の三郡にわたる120もの寺院を統べる本山格の大寺院へと急速に発展し、かつての霊験あらたかな霊場としての威容を取り戻していきます。
室町時代末期の火災
室町時代末期の明応年間(1492年~1501年)、この地を治めていた高仙山城主・得居通敦は、隣接する加茂八幡宮(加茂神社・浜)に武運長久を祈願し、別当寺としての役割を担っていた遍照院に田畑を寄進しました。
これにより寺は大いに栄え、地域の祈りの拠り所として広く尊崇を集めましたが、後年、火災によって諸堂はすべてを失い、信仰の場は一時その姿を消すこととなります。
その後、なんとか再建はされたものの、やがて戦国の世に突入すると、遍照院は再び厳しい試練に見舞われることになります。
特に天正年間(1573年~1592年)には、2度にわたる兵火に巻き込まれたと伝えられており、そのうちの一度は、戦国時代末期、長宗我部元親による伊予侵攻の際の戦乱によるものであったとされています。
「戦国時代末期」の混乱
16世紀後半、日本列島は戦国時代末期の激動の只中にありました。
本能寺の変(1582年)で織田信長が討たれたのち、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が後継者として台頭し、天下統一を目前に迫っていました。
一方、四国では土佐の雄・長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)が急速に勢力を拡大。
阿波・讃岐を平定し、ついに伊予へとその矛先を向けたのです。
当時の伊予では、名家・河野氏が中心となって統治していましたが、長引く戦乱や周辺勢力との抗争、さらには後継争いなどの内紛によって、次第にその力を失っていきました。
こうした混乱のさなか、天正16年(1588年)、長宗我部元親は伊予への本格的な侵攻を開始。
もはや河野氏にこれを押し返すだけの力はなく、各地の城郭や集落、寺院が次々と兵火に巻き込まれ、伊予の地は焦土と化していきます。
遍照院もまた、この戦火により焼き払われ、堂宇のすべてが失われ、ついにはこれまで本尊としてきた正観音像までもが焼失してしまいました。
奇跡の厄除弘法大師像
しかし、ただ一つ、弘法大師自刻と伝わる「厄除弘法大師像」だけが奇跡的に無傷で残されていたのです。
この神秘の出来事は、人々の心に強く刻まれました。
「これは空海の加護に違いない」
そう信じた地域の人々は、いっそうの敬意と信仰をもって遍照院を再興していきます。
焼け跡に残されたその一像が、まさに信仰の火種となり、人々の祈りの力によって、寺はふたたび立ち上がったのです。
失われた栄華
一方で、この兵火の影響はあまりにも大きく、住持は乗禅寺(今治市・乃万地区)に身を寄せ、その管理下に入らざるを得ませんでした。
やがて時を経て、寛文元年(1661年)には平地に小堂が再建され、延宝五年(1677年)には乗禅寺の管理を離れ、独立を回復します。
さらに延宝八年(1680年)または貞享四年(1687年)には、浜村字西新開の地へと堂宇を移転し、本格的な復興を遂げました。
しかしながら、かつては120もの末寺を擁していた寺勢は著しく衰え、わずか23か寺を残すのみとなり、全盛期の栄華を完全に取り戻すには至りませんでした。
松山藩の庇護と地域の信仰
それでも、天下泰平の江戸時代に入ると、遍照院への信仰はふたたび広がりを見せ、地域社会の精神的支柱としての役割を果たしていきます。
この時代、遍照院が位置する菊間町は松山藩(伊予松山藩)に属し、松山城下と今治方面を結ぶ交通の要衝として宿場町としても発展しました。
多くの旅人や商人が行き交うこの地で、遍照院は「厄除けの寺」として広く知られ、道中の無事や家内安全を願う人々の信仰を集めました。
特に松山藩主の信仰は篤く、遍照院は藩の「特別祈願所」として、藩政上も重要な地位を与えられていました。
住職(山主)は年に三度松山城に出向き、藩主に御守護符を献納。藩の安泰と領民の繁栄を祈願する儀式が厳粛に執り行われていたと伝えられています。
海と陸をつなぐ信仰と風習
さらに遍照院は、海上交通の守護神としても広く信仰されるようになりました。
海を行き交う船は、寺の前を通る際には帆を下ろして礼拝し、航海の安全を祈る風習があったとされます。ます。
その信仰は海を越えて広がり、多くの船乗りたちにとって遍照院は「海の守り神」のような存在となっていたのです。
また、陸路でこの地を通る人々も、寺の門前では自然と被り物を外して礼拝する風習が根づいていました。
こうした海と陸の信仰の交錯、そして日々の暮らしの中での祈りの積み重ねによって、遍照院は単なる寺院の枠を超え、「暮らしの中の心の拠り所」として、地域社会に深く根を下ろしていったのです。
江戸後期の移転と再興
江戸後期の天保3年(1832年)、第28世・瑞映和尚(ずいえいおしょう)によって、遍照院の現在地への移転が計画されました。
翌天保4年(1833年)には本堂の移築が完了し、寺院の整備が本格的に進められていきます。こうして遍照院は、新たな地においても再び地域信仰の拠点としての姿を取り戻していきました。
天保四年(一八三三)現地に再興 され翌天保5年(1834年)には本堂の移築が完了。新たな場所での寺院整備が進められ、再び信仰の拠点としての姿を取り戻していきました。
現在の姿へ
その後、明治16年(1883年)には、現在の本堂が新たに建築され、寺の整備はさらに進められていきました。
一方で、地域社会も大きな転換期を迎えます。
明治22年(1889年)の町村制施行により、歌仙(かせん)村・亀岡(かめおか)村・菊間村の三村が成立。
明治29年(1896年)には、これらの村々が越智郡に編入されました。
さらに、明治41年(1908年)には菊間村が町制を施行して「菊間町」となり、大正14年(1925年)には歌仙村を、昭和30年(1955年)には亀岡村を合併。
こうして現在の「菊間町」の姿が形づくられていきます。
そして平成17年(2005年)1月、今治市と菊間町を含む越智郡12町村が新設合併を行い、菊間町は今治市の一部となりました。
こうした地域の姿が時代とともに移り変わる中にあっても、遍照院は「厄除けの寺」としての信仰を受け継ぎ、変わらぬ祈りの場として、今も人々の心に深く根ざし続けています。
かつて弘法大師・空海が、自らの大厄に際して刻んだと伝わる「厄除弘法大師像」は、現在も21年に一度のみ開帳される「秘仏」として、遍照院の奥深くに静かに守られています。
「鬼瓦と遍照院」鬼も福を招く菊間町
遍照院の境内には、さまざまな見どころがありますが、特に特徴的なのが北側の国道に面した仁王門です。
本来、仁王門とは寺院の正門にあたり、左右には阿形(あぎょう)と吽形(うんぎょう)の二体の仁王像(金剛力士像)が安置されるのが通例です。
これらの像は仏法を守る守護神として、境内に邪悪なものが入るのを防ぐ役割を担っています。
しかし、遍照院では仁王像に代わって、巨大な鬼の顔を象った瓦「鬼瓦」が据えられています。
菊間瓦と鬼瓦文化
菊間町は全国的にも知られる「菊間瓦」の産地であり、特に「鬼瓦」の製造では高い評価を受けています。
その歴史は古く、鎌倉時代の弘安年間(1278〜1288年)までさかのぼるともいわれます。
江戸時代に入ると、松山藩の保護を受けて瓦の生産が本格化。
浜村の瓦業者たちは、安永6年(1777年)に26軒で株仲間を結成し、組織的な製造・流通体制が整えられていきました。
菊間の瓦製造は、海岸に面した地理的条件を活かし、原料の粘土を船で陸揚げするなどして発展しました。
明治時代には皇居の瓦にも採用されるなど、全国的な知名度を得るようになります。
なかでも鬼瓦は、単なる屋根装飾にとどまらず、厄除け・魔除けの象徴としてこの地域の人々に親しまれてきました。
その表情には、外敵を退け、災厄を遠ざける力が込められていると信じられ、やがては鬼そのものが「家を守る守護者」として信仰されるようになりました。
遍照院と鬼瓦の結びつき
こうした鬼瓦文化と遍照院の厄除け信仰が融合した象徴が、仁王門に据えられた大鬼瓦です。
本来、山門には仏法を守るための仁王像(金剛力士像)が置かれるのが通例ですが、遍照院ではこの仁王像の代わりに、地元・菊間製の鬼瓦を堂々と掲げています。
これは「鬼そのものを仏法の守り手として受け入れる」という、地域独特の魔除け観の現れでもあり、菊間の信仰文化を象徴する景観といえるでしょう。
鬼瓦は、厄を払い、福を招くという遍照院の信仰と完全に一致するものであり、鬼瓦が単なる装飾物ではなく「祈りの道具」であることを感じさせてくれます。
「鬼も内」節分会厄除大祭とのつながり
遍照院では、毎年1月から2月にかけて「厄除け護摩祈祷」が執り行われ、新年の無病息災と開運を願う多くの参拝者が訪れます。特に厄年を迎えた人々にとって、この時期は特別な意味を持ちます。
参拝者はまず、鐘楼門の前でわら草履に履き替えて境内へと進みます。この草履には、自らの「厄」を託すという意味があり、護摩祈願を終えた後には「お焚き上げ処」で火にくべ、焼却します。
この儀式は「厄を履いてきて、脱ぎ捨て、焼いて天に還す」ことで新たな福を呼び込むという、古くからの厄払いの風習です。
そして、これらの祈願の締めくくりとして毎年2月3日に行われるのが、「節分会厄除大祭(せつぶんえ やくよけたいさい)」です。
「福は内、鬼も内」もまた招く福の存在
この日、61歳の厄年(還暦厄)を迎える男女が、「餅まき」や「豆まき」の儀式を執り行います。
節分といえば「鬼は外、福は内」の掛け声が一般的ですが、鬼瓦文化が息づく遍照院では、「福は内、鬼も内」と唱えるのが習わしです。
「鬼も内」という呼びかけとともに撒かれる豆や餅には、厄を払い、福を分け合い、鬼すらも福の仲間として迎え入れるという、遍照院ならではのあたたかい祈りが込められています。
このような節分のあり方は全国でも極めて珍しく、菊間の鬼瓦信仰と深く結びついた地域独自の精神文化として、人々の心に深く根づいて
「鬼瓦みこし」厄を払う鬼
祭りの最大の見どころが、41歳の厄年男性たちによる「大鬼瓦御輿(おおおにがわらみこし)」です。
ふだんは仁王門に据えられている巨大な鬼瓦が、年に一度この節分祭のときだけ御輿(みこし)に載せられ、威風堂々と境内を練り歩きます。
御輿にはしめ縄や御幣があしらわれ、厄除けと福招きの願いが込められています。
この鬼瓦御輿を担ぐのは、41歳の厄年にあたる男性たち。
大きな掛け声とともに堂々と練り歩くその姿は、まさに「鬼瓦の町・菊間」の精神文化を象徴しています。
厄除けの祈り、年を越えて
節分会が終わった後も、遍照院では3月以降の毎週日曜日正午に「厄除け祈祷」が行われており、年間を通じて多くの参拝者が訪れています。
こうした継続的な祈りの場の存在こそが、遍照院を「厄除けの霊場」として長く信仰されてきた理由であり、地域の人々にとっても、人生の節目における心の拠り所として、今なお深く根ざし続けているのです。