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古くから信仰を集めてきた神社の由緒と、その土地に根付いた文化を紹介。

寺院BUDDHA

人々の心のよりどころとなった寺院を巡り、その背景を学ぶ。

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時代ごとの歴史を刻む史跡を巡り、今治の魅力を再発見。

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遍照院(今治市・菊間地区)

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今治市菊間町にある「遍照院(へんじょういん)」は、「厄除大師」として広く知られ、地元のみならず県内外からも多くの参拝者が訪れる歴史ある寺院です。遍照院は、四国八十八箇所の番外札所であると同時に、神仏習合の霊場である新四国曼荼羅霊場の第42番札所としても知られ、信仰の対象となっています。

菊間町は、伝統的な「菊間瓦」の産地として広く知られており、特に「鬼瓦」の製造で有名です。地元では「菊間といえば鬼瓦」と言われるほど地域に浸透しています。鬼瓦は、家や寺院の屋根に設置され、災厄を避け、家を守る魔除けとしての役割を果たしています。この菊間瓦の鬼瓦と遍照院の厄除け信仰は強く結びついており、地域の信仰と文化が融合した独特な風習を生み出しています。

厄年(42歳)を迎えた空海が創建

平安時代初期の弘仁6年(815年)に、真言宗の開祖である弘法大師(空海)が四国を巡って教えを広めていた際、この地を訪れました。

当時、空海は厄年の42歳。自身の厄を除くだけでなく、多くの人々の厄除けを願い、自らの姿を刻んだ像を本尊として安置し、厄除けの秘法もこの地に伝えました。

この秘法は、厄年の人々が厄災から身を守るための祈りや儀式として代々受け継がれ、本尊は「厄除弘法大師」として信仰されるようになりました。

やがて多くの人々がこの地を訪れるようになり、遍照院は厄除けの霊場として広く信仰を集めました。遍照院は多くの名僧によって受け継がれ、寺門は信仰の場所として栄えていきました。

以降、遍照院は多くの名僧によって受け継がれ、寺門は信仰の場所として栄えていきました。

火災と復興の歴史

しかし、歴史の中で二度の火災に見舞われ衰退することになります。

明応年間(1492年~1501年)には、高仙山城主・得居通敦が田畑を寄進し、寺運が一時的に隆盛を極めましたが、その後の火災で焼失しました。再建されたものの、天正16年(1588年)には、伊予に攻めてきた土佐の「長宗我部元親」の兵火によって再び焼失し、全ての堂宇が失われてしまいました。

この時、奇跡的に厄除大師像だけが残ったため、この神秘の出来事を目の当たりにした人々によって信仰はさらに深まることになり、その力で寺院は再興されていきます。

天保3年(1832年)、瑞暎という僧侶によって現在の場所に寺が移され、堂宇の整備が行われました。この移転と再建を経て、寺は再び信仰の中心として発展しました。その後、明治16年(1883年)には本堂と山門が新たに建築され、寺院は今に至るまで多くの人々に愛され続けています。

地域社会全体の心の拠り所

遍照院への信仰は、江戸時代には特に高まり、松山藩主の特別祈願所として重要な役割を果たしていました。藩主の信仰の厚さを象徴するかのように、遍照院の住職は年に3度、城に赴いて御守護符を献納する儀式を行い、藩の安泰と繁栄を祈願していました。

この行為は、遍照院が藩主にとっても信仰の対象として深い敬意を払われていた証であり、藩全体にとっても精神的な支えとなっていたことがわかります。

さらに、遍照院は海上交通の安全を祈る寺院としても広く信仰されていました。海を通過する船は、寺の前を通る際に帆を下ろし、礼拝を行うのが習わしとなっており、航海の無事を願う船乗りたちから厚く信頼されていました。このように、遍照院は海の安全を守る象徴でもあり、信仰は海を越えて広がっていきました。

寺の門前を通る人々も、深い敬意を表して被り物を外し、礼拝を行う習慣が根付いていました。これらの習慣は、寺院が地域社会全体の心の拠り所として機能していたことを物語っています。

「節分会厄除大祭」

「節分会厄除大祭(せつぶんかいやくよけたいさい)」は、毎年2月3日の節分の日に行われる厄除けの大祭で、多くの参拝者が厄除け祈願や諸願成就を求めて訪れます。

この日、厄年を迎える男女は山門の入り口でわら草履に履き替え、厄を脱ぐ「わらじ祈祷」が行われ、祈願を終えると草履を脱ぎ、護摩で焚いて厄を払い、福を授かるという伝統的な慣習が続けられています。

また、午前10時と午後2時には、61歳の男女による餅まきや豆まきが行われ、「福は内、鬼も内」という独特の掛け声で賑わいます。鬼瓦で知られる菊間町では、鬼も福の一部として迎え入れる風習が根付いており、この掛け声が今も受け継がれています。

さらに、41歳の厄年の男性たちが大鬼瓦の御輿を担ぎ、境内を練り歩く行事も行われ、厄払いと福を招く儀式として盛大に執り行われます。この大鬼瓦は、普段は海側の門に据えられていますが、節分の日には特別に御輿に載せられ、祈願の象徴として用いられます。

この日は、県内外から多くの厄年の人々が訪れ、厄除けの祈祷を受ける姿が見られますが、節分の日だけでなく、1月から2月にかけても多くの厄年を迎えた男女や家族連れが訪れ、集中的な祈祷が行われます。

さらに、3月以降も毎週日曜日の正午に厄除け祈祷が行われ、年間を通じて多くの参拝者が厄払いを目的に訪れる重要な行事として続いています。

寺院名

やくよけ大師 遍照院 (へんじゅういん)

所在地

愛媛県今治市菊間町浜89

電話

0898-54-3128

宗派

真言宗豊山派

山号

法佛山

院号

遍照院

寺号

日輪寺

本尊

聖観音

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