笠松山の麓に鎮座する「姫宮神社(ひめみやじんじゃ)」は、南北朝時代の河野氏に関する深い歴史と悲劇的な物語を伝える場所として知られています。
姫宮神社の創建と南北朝の動乱
姫宮神社の創建は、南北朝時代(1336年~1392年)にまでさかのぼります。
この時代、日本は南朝と北朝に分かれて激しい内戦が繰り広げられていました。
伊予国(現在の愛媛県)を拠点とする河野氏は、中世期に栄えた有力な豪族で、特に河野通盛(こうの みちもり)は足利尊氏率いる北朝方に加担し、その功績により伊予の守護職を任されるまでの勢力を誇っていました。
しかし、河野氏はやがて四国の覇権を巡る争いに巻き込まれることになります。
世田山合戦と伊予国の動乱
貞治3年(1364年)、南北朝時代の動乱のさなか、北朝方の有力武将であった細川頼之(ほそかわ よりゆき)は、伊予国への大規模な侵攻を開始しました。
細川頼之は、室町幕府に仕える管領家の重臣であり、阿波・讃岐・土佐の三国をすでに掌握していました。四国統一を目指して次に狙いを定めたのが、伊予国を統治していた河野氏でした。
きっかけとなったのは、同じ北朝方に属していた河野通盛(こうの みちもり)が、白峰合戦(しらみねかっせん)の際、細川軍に兵を出さず協力を怠ったことです。
この件を大義名分として、頼之は幕府から正式な討伐命令を取り付け、正々堂々と伊予国への進軍を開始。
細川軍と河野軍は、伊予国の世田山(現在の愛媛県今治市付近)で激突することになりました。
この戦いは「世田山合戦」として知られ、伊予平野を見下ろす要所である世田山と隣接する笠松山も戦場となりました。
世田山城の攻防と河野氏の陥落
この戦いの際、河野通盛は病に伏しており、息子の河野通朝(こうの みちとも)が世田山城の指揮を執りました。
通朝は、河野家を守るために必死の防戦を行い、細川軍の大軍を前に2か月間籠城を続けましたが、ついに城は陥落しました。
通朝は戦場で討死し、河野家は大きな打撃を受けることとなりました。その後、病床にあった通盛も、最愛の息子を失った悲しみの中で病状が悪化し、間もなく亡くなります。
こうして、河野家は一時的にその勢力を大きく失うことになりました。
しかし、希望の灯は消えていませんでした。
通朝の遺児である徳王丸(後の河野通堯)が、家臣や僧侶たちの手によって密かに戦場から脱出させられ、竹林寺(ちくりんじ)へとかくまわれたのです。
竹林寺の僧たちは、命からがら逃れてきた若き後継者を温かく迎え入れ、深い庇護のもとに育成しました。
この徳王丸が後に成長し、河野氏の再興を果たしていくことになります。
「カブラ谷の悲劇」
この戦いのさなか、山麓のカブラ谷でひとつの悲劇が起こりました。そしてそれは、のちに姫宮神社が創建される大きなきっかけとなったのです。
河野通朝の夫人は、戦火から逃れるため、山麓のカブラ谷へと身を隠していました。
この谷は戦場から離れた静かな場所で、夫人にとって一時的な避難所となるはずでした。しかし、細川軍の兵士たちに見つかってしまい無惨にも惨殺されてしまったのです。
この夫人の悲惨な最期は、戦乱の非情さを象徴する出来事として、地域の人々の心に深く刻まれました。
河野通朝夫人を弔うため……姫宮神社のはじまり
そして、河野通朝夫人の霊を弔うため、地元の有力な家柄である山越の庄屋・渡辺氏の一族と、山麓に暮らしていた越智氏の一族が協力して社を建立しました。
この社は「姫宮」と名付けられ、やがて人々から親しみを込めて「姫坂さん」と呼ばれるようになりました。
以後、地元の人々は毎年欠かすことなく供養を供養を行い、戦乱の犠牲者の霊を慰め続けています。