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古くから信仰を集めてきた神社の由緒と、その土地に根付いた文化を紹介。

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人々の心のよりどころとなった寺院を巡り、その背景を学ぶ。

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比留女地蔵(今治市・菊間地区)

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戦国の姫「タカ姫」の祈りが導いた癒し、菊間に伝わる病気平癒の伝説

愛媛県今治市菊間町高田の静かな田園の中に、古くから「下の病」に霊験あらたかなお地蔵さんが祀られている小さなお堂があります。

それが「比留女地蔵(ひるめじぞう)」です。

地元では「ひるめ地蔵さん」と呼ばれ、性病や婦人病、腰気(こしけ)、夜尿症などの病気平癒を願う人々の信仰を集めてきました。

病が癒えた人々は、感謝の気持ちを込めて奉納を行い、男性は木や陶器で作られた男根を、女性は腰巻を納めるという独特の風習が伝えられています。

お堂の中には、こうした奉納品が数多く並び、訪れる人々の祈りと感謝の心が今も静かに息づいています。

「比留女地蔵の由来」黒岩城とタカ姫の伝説

比留女地蔵(ひるめじぞう)の起源は、戦国時代末期の天正十三年(1585年)、豊臣秀吉による「四国攻め」の戦乱にさかのぼります。

このころ伊予国(現在の愛媛県)は、守護大名・河野氏が長く統治していました。

河野氏は中世以来、瀬戸内海を支配する水軍国家として知られ、能島・因島・来島の村上三家と同盟を結び、海上交通を掌握していました。

しかし、16世紀後半に入ると、土佐の長宗我部元親が四国全域への進出を開始し、伊予にもその勢力を伸ばします。

一方で河野氏の内部では、家臣団の結束が次第に乱れ、国政は不安定となっていました。

その渦中に起きたのが、同盟関係にあった村上水軍の分裂です。

来島村上氏が河野氏のもとを離れ、豊臣秀吉方へと転じたことで、伊予の防衛体制は大きく揺らぎました。

こうして、長宗我部の脅威と秀吉の圧力、さらに味方の離反が重なり、河野氏の勢力は急速に衰退していきます。

天正十年(1582年)には「本能寺の変」が起こり、織田信長が討たれますが、その後に台頭したのが羽柴秀吉でした。

秀吉は毛利氏と講和を結び、四国平定に乗り出します。

天正十三年(1585年)、小早川隆景を総大将とする大軍が伊予に上陸し、河野方の諸城を次々と攻め落としていきました。

黒岩城の落城と渡部内蔵進の最期

黒岩城は標高約二百五十メートルの山頂に築かれ、菊間の海岸線と斎灘を一望することができる堅固な山城でした。

山裾からの登路は険しく、周囲は切り立った崖に囲まれており、まさに「天然の要害」と称される防衛拠点でした。

この地は、伊予国の東西交通や海上警備の要としても重視され、河野氏にとって戦略上きわめて重要な城の一つでした。

豊臣方の総大将・小早川隆景率いる大軍が伊予に侵攻すると、黒岩城もその進軍路にあたります。

渡部内蔵進は数百の兵を率いて奮戦し、山頂から弓矢や石をもって防戦しましたが、三万ともいわれる豊臣軍の圧倒的な兵力の前に抗うことはできませんでした。

ついに黒岩城は炎に包まれ、内蔵進は一族や家臣とともに城に殉じたと伝えられています。

この悲劇ののち、地元の人々は渡部内蔵進の忠義と勇戦を偲び、その霊を慰めるために社を建てました。

それが、現在の渡部神社です。

渡部神社には内蔵進をはじめ、黒岩城で戦死した将兵、さらには渡部家の祖霊が祀られています。

タカ姫の伝説と比留女地蔵の誕生

黒岩城の落城の中で、一つの伝承が受け継がれています。

それが「比留女地蔵(ひるめじぞう)」の誕生へとつながるタカ姫の伝説です。

タカ姫は、黒岩城主・渡部内蔵進(わたなべ くらのしん)の姉で、品格高く、容姿端麗で知られた女性でした。

教養にもすぐれ、慈悲深く、城下の人々からも深く慕われる存在だったと伝えられています。

しかし、天正十三年(1585年)、豊臣秀吉の「四国攻め」により伊予国にも戦火が及びます。

小早川隆景を総大将とする大軍が黒岩城を包囲し、渡部内蔵進はわずかな兵で奮戦しましたが、多勢に押され、ついに落城の運命を迎えました。

燃え盛る炎の中、内蔵進は一族とともに討ち死にし、黒岩城は悲劇の地となったのです。

その混乱の中で、タカ姫は数名の侍女とともに命からがら城を脱出し、険しい山道を越えて現在の今治市菊間町高田の地へと逃れました。

ここは戦火の届かぬ静かな里で、村人たちは姫をかくまい、手厚く介抱したといいます。

タカ姫の病と祈り

高貴な家柄に生まれ、気品ある容姿と慎み深い人柄を兼ね備えていた姫は、村人たちの尊敬と親愛を集める存在となっていきました。

しかし、戦乱と家族の死を目の当たりにした深い心労がたたり、姫はやがて「腰気(こしけ)」と呼ばれる重い病に倒れ、起き上がることもままならぬ日々を送るようになります。

かつての気高い姿は見る影もなくやつれ、回復の兆しも見えませんでした。

姫は、人目を避けて田中の地にひっそりと祀られていた小さな地蔵尊に静かに手を合わせ、心の底から平癒を願い続けました。

すると、不思議なことに病状は少しずつ和らぎ、やがて回復の兆しを見せ、ついには完全に癒えたのです。

病から救われた感謝の気持ちを形にするため、タカ姫は自らの手で般若心経などの経典を写経しました。

その数は百巻にも及び、一具の石棺に納められて供養と祈念を込めて地中に埋められたと伝えられています。

この出来事が、のちに「比留女地蔵(ひるめじぞう)」として知られる信仰の源となります。

姫地蔵から比留女地蔵へ

この奇跡を目の当たりにした村人たちは、「これは地蔵尊の霊験に違いない」と驚き、タカ姫のひたむきな信心と、誰をも思いやる慈しみの心に深く感動しました。

姫の祈りに応えたとされるその地蔵尊には、村人たちの手によって小さなお堂が建てられました。

地蔵は「姫地蔵(ひめじぞう)」と呼ばれ、タカ姫の高貴な心と優しさを映す存在として、人々の敬愛を集めていきました。

やがて時が流れ、この地蔵は「比留女地蔵(ひるめじぞう)」と呼ばれるようになり、タカ姫が祈りを捧げた場所の地名も「ひるめの田」と呼ばれるようになりました。

江戸時代には、比留女地蔵は「下の病に霊験あらたかなお地蔵さん」として広く知られるようになり、その名は里を越えて遠方にまで伝わりました。

婦人病や性病、腰気(こしけ)、夜尿症などの病に悩む人々が病気平癒を願って訪れ、また子授けや安産を祈る女性たちも数多く参詣したといわれています。

「祈願後まもなく症状が軽くなり、医者も驚いた」「子どもが授かり、家に笑いが戻った」といった話が語り継がれ、近郷はもとより遠方からも多くの人々が参拝に訪れるようになりました。

縁日には、村の道が人々で埋まるほどの賑わいを見せたといわれています。

「比留女さんの祟り」罰が当たった代官

この地蔵には、もうひとつ忘れられない逸話があります。

それが「代官の祟り」として語り継がれる恐ろしい伝説です。

江戸時代のある年、菊間の地を巡っていた代官が比留女地蔵を訪れました。

地蔵堂の中には、古くからの風習として金の鳥居や、男女の象徴をかたどった奉納物が供えられていました。

それを見た代官は顔をしかめ、こう言い放ったといいます。

「なんと下品なものを飾っておる。即刻、始末せい!」

村人たちは驚き、恐れながらも言葉を返しました。

「代官さま、これは昔からの慣わしで、比留女さんへの願かけの印でございます。そんなことをいたしたら罰が当たります」

しかし代官は聞く耳を持たず、こう命じました。

「お上の命令じゃ。かまわん、早う壊せ!」

村人たちは、やむなく奉納物を片づけ、いくつかは焼いてしまったといいます。

そのとき村の古老が、「せめて少しだけでも土に埋めて隠しておこう」と、小さな奉納物を地中にそっと埋めたとも伝えられています。

比留女さんを粗末にした代官の病

それからしばらく経ったある日。

代官の身に異変が起こりました。

体が急に熱を持ち、下腹に鋭い痛みが走り、歩くことさえままならなくなったのです。

やがて激しい高熱と痛みにうなされ、夜も眠れぬほど苦しむようになりました。

顔色を変えた代官は、ある朝、村へ駆け込み、こう叫びました。

「川菖蒲(かわしょうぶ)のあるところを知らんか!」

村人たちは驚きながらも案内すると、代官は夢中になって川辺に生える川菖蒲を刈り取りました。

それからというもの、代官は何度も村に姿を見せては、川辺で菖蒲を刈り続けました。

ある日、村人のひとりがたまりかねて声をかけました。

「そんなにたくさんの菖蒲をどうするんですか?」

すると代官は顔をしかめながら答えました。

「あれからちとないして、チンチが痛なってどもならん。菖蒲を風呂に入れたらアクで癒るゆうこと聞いたんで、それで菖蒲がいるんじゃ」

川菖蒲の薬効と信仰

当時、菖蒲は人々にとって身近な薬草でした。

江戸時代の人々は、菖蒲の根や葉を煎じ薬として胃痛や熱病に用い、また菖蒲湯として入浴に使うことで腰痛や神経痛、婦人病を和らげると信じていました。

さらにその香りには邪気を祓う力があるとされ、魔除けや厄除けの植物としても尊ばれていたのです。

特に端午の節句には、菖蒲を束ねて湯に浮かべる「菖蒲湯(しょうぶゆ)」の風習が行われました。

「菖蒲(しょうぶ)」の音が「勝負」や「尚武(しょうぶ)」に通じることから、武士の家では武運長久と健康を願う行事として広まり、のちに庶民にも定着していきました。

このように、菖蒲は古来より「身を清め、災いを祓う植物」として、日本人の暮らしと信仰に深く根づいていたのです。

代官もまた、その薬効と信仰を頼みとして、刈り取った川菖蒲を煎じて湯に入れ、幾度も体を浸しました。

しかし、どれほど試しても痛みは引かず、日ごとに症状は悪化していきました。

苦しみの果てに見た比留女さんの慈悲

それからも、代官は何度も村に姿を見せては、川辺で菖蒲を刈り続けました。

その様子を見て、村人たちは陰でひそひそと囁きました。

「罰があたったんじゃ。ええ気味じゃあ。ほっとけほっとけ」

比留女さんを粗末に扱った代官が苦しむ姿を見て、最初は誰も同情しませんでした。

しかし、日に日にやつれておろおろと歩くその姿を見とるうちに、「気の毒な…」と、胸の奥が痛む者も出てきたのです。

ある日、年寄りのひとりがつぶやきました。

「そんなに菖蒲を刈りに来るよりも、比留女さんを拝んだ方が早よ癒ります」

それを聞いた代官は、こう言いました。

「……ほたらそうしょうか。試してみよか」

その日から、代官は奥方と二人で地蔵堂へ通い、これまでの非礼をわび、真心をこめて祈りを捧げました。
やがて不思議なことに、長く苦しんだ病が次第に癒えていったといいます。

それから数日後、代官は再び奥方を伴ってお堂を訪れ、「比留女さんのお陰で二ぁ人共ようなった」と供え物を捧げ、「こりたこりた」と言いながら立ち去ったと伝えられています。

この逸話は「信仰への敬意を忘れてはならない」という教訓として、今も語り継がれています。

現代に受け継がれる祈り

長い歳月を経て、タカ姫と比留女地蔵にまつわる伝承と信仰は、今も人々の心の中に息づいています。

平成十六年(2004年)には、「ひるめ地蔵由来」と題された石碑が建立され、夕力(たか)姫と比留女地蔵の伝説は、文字として後世に伝えられることとなりました。

毎年8月21日には、「ひるめ地蔵」の縁日が盛大に執り行われており、地元の人々が夕力姫の遺徳を偲び、餅まきや踊りを奉納しながら賑やかに祈りを捧げ続けています。

今治市内外からの参拝者も多く訪れ、地域の信仰と伝統が今に息づいていることを実感させる一日となっています。

「姫を偲ぶ祈りの場」献珠院の継承

また、タカ姫はその生涯を閉じたのち、「献珠院殿円覚妙善禅尼」という法名を贈られました。

この法名は、病を乗り越えた姫の信仰と慈悲の心、そして人々への深い思いやりをたたえたものです。

現在もそのお位牌は、近くの献珠院に大切にお祀りされています。

献珠院は、比留女地蔵とともに、病気平癒の霊験あらたかな寺として知られ、姫の祈りと徳を偲び、多くの参拝者が訪れています。

寺院名

比留女地蔵(ひるめじぞう)

所在地

愛媛県今治市菊間町高田1784

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