暴れ川とともに生きる祈りの寺
「宝寿寺(ほうじゅじ)」は、元禄八年(1695年)、今治市内を流れる蒼社川のほとりに創建された浄土真宗の寺院です。
開墾されたばかりの田畑に囲まれたその地に、ひときわ静かに佇む堂宇が建てられ、以来、人々の心の拠り所として親しまれてきました。
しかし、宝寿寺が建てられたこの場所は、度重なる災害に見舞われる地でもありました。
蒼社川の氾濫と災害の頻発
今治市の中心部を流れる蒼社川(そうじゃがわ)。
かつては「総社川(そうじゃがわ)」とも呼ばれ、平安時代からこの地の生活と農耕を支えてきた重要な水源でした。
しかし、この川は何度も氾濫を繰り返す“暴れ川”として、昭和の中頃まで地域の人々に恐れられていました。
当時の蒼社川は、現在のように整備された直線的な流れではなく、玉川町から日高、片山、馬越を経て浅川方面へと大きく蛇行しながら海に注いでいました。
この蛇行した地形こそが、氾濫を招く最大の要因でした。
曲がりくねる流れと洪水のしくみ
蛇行の多い川では、水が何度も曲がり角を通過するため、直線の川に比べて流れが遅くなりやすくなります。
その結果、大雨で上流から大量の水が流れ込むと、流れがさばききれず水位が急激に上昇し、やがて堤防を越えて氾濫を引き起こしました。
さらに、川が大きく曲がるたびに、水流はカーブの外側の岸に強くぶつかり、長い年月をかけてその岸を削っていきます。
削り取られた土砂は流れの緩やかな内側へと運ばれて堆積し、次第に川底の一部が浅くなりました。
こうして水の通り道が狭まり、大雨の際には水が行き場を失ってあふれ出し、氾濫が繰り返されるようになったのです。
さらに、水の勢いが何度も同じ場所に集中することで、堤防そのものが少しずつ削り取られていきました。
見た目には大きな変化がなくても、内部からじわじわと弱っていき、気づかぬうちに堤防の強度は失われていたのです。
そして、大雨や増水のたびに圧力がかかり続け、ついには決壊。川の水は一気にあふれ出し、周囲の集落や田畑に甚大な被害をもたらしました。
恐怖の「人取川」
とくに梅雨や台風の季節になると、蛇行した川筋はあっという間に濁流と化し、たびたび堤防を越えて氾濫しました。
そのたびに、田畑は押し流され、家々は水に沈み、ときには人命さえも奪われる惨状が繰り返されたのです。
こうした被害の記憶は、地域に深い悲しみと恐怖を残し、やがて人々はこの川を「人を取る川」、「人取川(ひととりがわ)」と呼ぶようになりました。
濁流に失われるも、蘇った宝寿寺
蒼社川の氾濫は、地域の暮らしを脅かしただけでなく、信仰の場にも深刻な影響を与えました。
その一つが、宝寿寺です。
もともと宝寿寺は、現在の場所ではなく、蒼社川にほど近い場所に建立されており、たび重なる氾濫の被害を受けてきました。
なかでも、ある年の大水害は特に甚大な被害をもたらしました。
激しい雨の中で蒼社川が氾濫し、激しい濁流が宝寿寺の境内を襲い、堂宇はまたたく間に水に呑まれ、建物の多くが押し流されて壊滅状態となったのです。
信仰の拠り所を失った地域の人々、そして長く寺を守ってきた僧侶たちにとって、これは深い悲しみと喪失の記憶として刻まれる出来事となりました。
しかし、それでも人々はあきらめませんでした。
「長年この地で守られてきた信仰を絶やすわけにはいかない」
そうした想いが、再建への力となっていったのです。
そして、明和六年(1769年)。
宝寿寺は現在の清水地区へと移され、諸堂や山門が新たに建立されました。
失われた祈りの場は再びよみがえり、宝寿寺はかつてと同じく、地域の信仰の中心としての役割を取り戻していったのです。
教育と信仰を支え、地域とともに歩む
その後、宝寿寺は単なる祈りの場にとどまらず、人びとの学びと心の拠り所としての機能も果たすようになっていきます。
明治時代には、境内で「日曜学校」が開かれ、地域の子どもたちに読み書きや道徳を教える場となりました。
お堂には日曜学校で使用された着類が大切に保存されており、窓には子どもたちが書いた習字が飾られていました。
時を経た今も、宝寿寺は静かにこの地に佇みながら、地域とともに歩み、信仰と生活を結ぶ場としての役割を守り続けています。
境内には、浄土真宗の開祖・親鸞聖人の像が安置されており、毎年1月16日の御命日法要、5月21日の誕生法要をはじめ、年に8回の法要が厳かに執り行われています。
こうした行事は、ただ仏教行事として営まれるだけでなく、地域の人々にとっては先祖を偲び、日々の営みに感謝する大切な時間でもあります。
宝寿寺の本堂には今も人々の祈りが静かに流れ、過去から受け継がれてきた信仰の灯が、ゆるやかに今を照らしているのです。