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神社SHINTO

古くから信仰を集めてきた神社の由緒と、その土地に根付いた文化を紹介。

寺院TEMPLE

人々の心のよりどころとなった寺院を巡り、その背景を学ぶ。

史跡MONUMENT

時代ごとの歴史を刻む史跡を巡り、今治の魅力を再発見。

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TEMPLE寺院の歴史を知る

法隆寺(今治市・大西地区)

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大井八幡大神社(おおいはちまんだいじんじゃ)に隣接する「法隆寺(ほうりゅうじ)」は、正式には「生命山寿福院法隆寺」と号し、新義真言宗豊山派に属する寺院です。

本山は奈良の長谷寺で、真言宗の中でも覚鑁(興教大師)の教えを基盤として発展した宗派にあたります。

密教の深い教えを重んじ、現世利益と来世の救済を重視する信仰を特色としており、法隆寺もまたその流れの中で地域の信仰を支えてきました。

本尊は弘法大師(空海)と延命地蔵菩薩で、脇仏として薬師如来と毘沙門天が祀られています。

薬師如来は作者不詳ですが、毘沙門天は行基上人の作と伝えられ、古くから人々の信仰を集めてきました。

法隆寺の歴史と信仰の歩み

平安時代初期、弘法大師(空海)は四国を巡錫する中で、各地に寺院を開き、また荒廃していた古寺を再興するなど、人々の信仰と暮らしを支える拠点を築いていきました。

今治周辺においても、延命寺・泰山寺・南光坊・栄福寺・仙遊寺・国分寺と、四国八十八霊場に数えられる六つの寺院が大師ゆかりの寺として知られています。

さらに四国八十八霊場以外にも、別宮大山祇神社、竹林寺、満願寺、遍照院など、多くの霊地を訪れ、祈りや修法を行ったと伝えられています。

弘仁6年(815年)、弘法大師(空海)は四国を巡錫する中で、この大井郷にも足を運びました。大師は庶民の安穏と五穀豊穣を祈願し、自ら地蔵菩薩の尊像を彫刻して安置するために一宇の小堂を建立しました。

これが「法隆寺(ほうりゅうじ)」の始まりになります。

以来、その尊像は本尊として大切に祀られ、千年以上にわたり人々の信仰を集め続け、今日まで受け継がれています。

大井郷に八幡宮が創建

時代は進み、八幡信仰が全国へと広がりを見せていた平安時代の貞観元年(859年)。

都であった平安京は、表向きこそ華やかな貴族文化に彩られていましたが、裏で深い闇を抱えていました。

地方の荘園では豪族が私兵を養い、都の内外では盗賊や乱暴者が夜ごとに現れ、財貨を奪い、人々の命までも容赦なく奪っていったのです。

治安は衰え、都の夜は恐怖に包まれていました。

この混乱の中で即位したのが、わずか9歳(満8歳)の若き帝、清和天皇(せいわてんのう)でした。

天皇とその周囲の人々は、乱れゆく世と都の安寧を願い、神の御加護を求め、それにふさわしい人物を探し求めました。

そこで白羽の矢が立ったのが、大和国(現在の奈良県)の大安寺に身を置く高僧、行教律師(ぎょうきょうりっし)上人でした。

行教上人が授かった御神託

行教上人は、前年の天安2年(858年)、真言密教の開祖として名高い弘法大師(空海)の推薦を受け、清和天皇の即位を祈願するという大役を任され、九州の宇佐八幡宮(現・宇佐神宮)へ派遣されていました。

その翌年、無事に清和天皇の即位が果たされたため、行教上人はさらに天皇の護持と国家鎮護を祈り、宇佐八幡宮において90日間の参籠修行 ·(さんろうしゅぎょう・断食修行)に入りました。

行教上人は、宇佐八幡宮の御神前に籠り、昼夜を問わずただひたすら祈りを捧げ続けたのです。

食事や休息を最小限にとどめ、雑念を払って身を清め、心を尽くして神の御心をお受けしようとしたその修行は、厳しく孤独なものでした。

するとある夜、その献身的な姿勢に感応した八幡神(八幡大菩薩)が夢の中に現れ、次のように神託を授けました。

「吾れ深く汝が修善に感応す。敢えて忍忘する可からず。須らく近都に移座し、国家を鎮護せん」

 (私はあなたの誠実な修行に深く感じ入りました。その功績を決して忘れません。どうか私を都の近くにお迎えし、国を守らせてください)

大井浜に八幡宮を創建

観元年(859年)、この神託を受けた行教上人は、「山城国(現在の京都府)」の男山に新たな社を創建しようと決意し、その創建のために瀬戸内海を何度も往復していました。

そんなある日、九王地域の西約600メートル沖合に浮かぶ弓杖島(ゆづえしま、古名:弓津恵島)に船を停泊させます。するとその夜、不思議にも八幡神の御神託が下されました。

この神託を受け、伊予国司であった越智深躬(おち たんきゅう・河野深躬)が、大井浜に仮神殿を建立し、八幡宮を奉祀しました。

法隆寺の開山

さらに行教(ぎょうきょう)上人は、法隆寺の本堂や塔をはじめとする主要伽藍を整え、寺院としての姿を整備しました。

これにより、弘法大師(空海)が建立した小さなお堂は、本格的な寺院へと発展し、「法隆寺(ほうりゅうじ)」は正式に開山されました。

大井八幡宮(神社)の別当寺

翌寛平2年(890年)、伊予国司であった越智息方(興方)(おちやすかた/おきかた・河野息方)が、大宝2年(702年)に創建された大井宮に八幡宮を合祀しました。

これにより社号は「大井八幡宮(現:大井八幡大神社)」と改められ、伊予国における八幡信仰の中心的な存在となりました。

このとき、朝廷からは神領が寄進され、法隆寺と大井寺が別当寺(神社の祭祀や運営を担う寺)として関わることになりました。

以後、法隆寺は大井八幡宮(大井八幡大神社)の祭祀を司り、その発展を支えるとともに、神仏習合の色彩をいっそう濃くしていきました。

「南北朝時代」尊真親王との繋がり

それから約450年後、時代は南北朝時代へと入ります。

鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇は、古代の律令制を理想とした中央集権政治「建武の新政」を始めました。

しかし、恩賞の配分に不満を抱いた武士たちの支持を失い、やがて有力武将・足利尊氏が後醍醐天皇と対立。

1336年には尊氏が京都に光明天皇を擁立して北朝を開き、後醍醐天皇は奈良の吉野に逃れて南朝を立てました。

こうして、京都の北朝と吉野の南朝が対立する「南北朝時代」が始まります。

南朝は皇統の正統を主張しましたが、軍事力では北朝・足利幕府に劣り、天皇や皇族は各地を転々としながら抵抗を続けることとなりました。

伊予国への波及と河野氏の分裂

南北朝の争乱は遠く四国・伊予国にも及びました。

伊予国の有力豪族である河野氏一族は、鎌倉幕府の滅亡前後からすでに対立の兆しを見せており、やがて南北朝の抗争においても二派に分かれて争うことになります。

河野通盛は幕府方として六波羅探題軍に属し、京都での戦いにおいて武功を挙げましたが、一方で土居通増や得能通綱といった支族は後醍醐天皇を奉じて南朝方に属し、元弘の乱(1331〜1333年)や湊川の戦いにおいて果敢に奮戦しました。

このように、伊予国では同じ河野氏の一族が南朝・北朝に分かれて対立し、国全体が南北朝動乱の渦中に巻き込まれていくこととなったのです。

伊予に派遣された三親王

このような情勢の中で、後醍醐天皇は足利尊氏の勢力を各地で食い止めるため、自らの皇子たちを地方へ派遣し、それぞれの地で南朝方の拠点を築かせました。

皇子の存在は単なる軍事的な意味にとどまらず、天皇の血統を象徴することで在地武士の結集を促し、南朝の正統性を広める重要な役割を果たしました。

その一環として、延元元年(1336年)11月、伊予国へも以下の三親王が派遣されました。

  • 尊真親王(たかざねしんのう)
    後醍醐天皇の第六皇子。出家して「蓮明親王」とも称されます。母は藤原氏の出身と伝えられますが、詳細は明らかではありません。
  • 満良親王(みつよししんのう・みつながしんのう)
    後醍醐天皇の第十一皇子。母は藤原忠子(中院流藤原氏の出身)と伝えられます。
  • 懐良親王(かねながしんのう・かねよししんのう)
    後醍醐天皇の第十六皇子。母は阿野廉子(新待賢門院、後醍醐天皇の寵妃)で、正嫡の血筋に属する皇子です。
征西将軍と精鋭武士

三親王は、後醍醐天皇から征西将軍(せいせいしょうぐん)に任命され、精鋭の家臣団を従えて伊予へと渡りました。

これらの武士たちは、単に親王の身辺を守るだけでなく、伊予における南朝方の拠点形成や軍事行動の中核を担う使命を負っていました。

その中でも筆頭とされたのが、篠塚重広(しのづか しげひろ/篠塚伊賀守広重)です。

重広は篠塚に生まれ、新田義貞の鎌倉攻めで勇名を轟かせ、新田四天王の筆頭に数えられるほどの武将でした。

超武辺者として当代随一の武勇を誇り、その豪勇は敵味方を震え上がらせたと伝えられます。

伊予においても三親王の軍を支える柱石として、南朝方の拠点形成と軍事行動を主導しました。

これに並ぶのが、大館氏明(おおだち うじあき)です。

氏明も新田義貞に従い鎌倉攻めに参戦した歴戦の将であり、伊予においては軍略の中枢を担いました。

篠塚の猛勇と大館の冷静な指揮と戦略眼が合わさり、南朝方の軍勢は大きな力を発揮しました。

さらに尊真親王には、岡部忠重(のちの重茂山城主)、神野頼綱(のちの怪島城主)、神野十郎通頼(のちの弓杖島城主)といった側近も随行し、瀬戸内の島嶼部に拠点を築き、南朝勢力の基盤を固めていきました。

伊予へと到着

延元元年(1336年)11月、長い船旅を経て三親王一行の船団は伊予へと到着し、野間郡大井浦にある弓杖島(ゆづえしま、古名:弓津恵島)や景島(かげしま、別名:怪島)に船をつけ、その後、大井の浜に上陸しました。

この上陸を迎えたのは、かつて元弘の乱で朝廷方として奮戦した伊予国司・河野通政でした。

通政は法隆寺、大井寺、清林寺、を仮宮として整え、南朝方の伊予国司として三親王を丁重に迎え入れました

北朝方の急襲と三親王の危機

三親王が伊予の地に滞在したことは、南朝方の軍勢にとって大きな精神的支えとなり、伊予勤王(伊予の南朝方の軍勢)の士気は大いに高まりました。

しかし、北朝方にとっては重大な脅威となりました。

延元元年(1336年)12月19日の夜、増援を募るため各地に散っていた家臣が留守の間を狙い、北朝方の兵三十余名が急襲を仮宮に仕掛けました。

清林寺の成戒法印・成道、大井寺の義泰法印(よしやす ほういん)らが僧兵さながらに奮戦しましたが、力及ばず多くが討死。

残っていた将兵たちも命を落とし、三親王の陣営は壊滅的な打撃を受けることとなったのです。

幸いにも三親王の命は守られたものの、尊真親王は深手を負い、これ以上この地に留まり続けることは、あまりにも危険な状況となりました。

仮宮はすでに北朝方の目標となっており、再び襲撃があれば三親王の命運は尽きかねないと家臣団は強く危惧したのです。

そこで、三親王はそれぞれの将来と南朝再興の大義を考え、やむなくこの地を離れる決断を下しました。

満良親王の退避先「浮穴郡」

まず、満良親王は浮穴郡(うけなぐん)へと移り、その地の豪族や在地武士の庇護を受けながら身を隠しました。

浮穴郡は、かつて伊予国を構成していた郡の一つで、現在の松山市南部、伊予市、東温市、上浮穴郡久万高原町、伊予郡砥部町、喜多郡内子町の一部にまたがっていました。

山岳地帯から平野部、さらに海に面する地域までを含んでおり、また松山や伊予の平野部にも通じる戦略的な土地であったため、北朝方から身を避けるには格好の場所とされていました。

懐良親王、瀬戸内を経て九州へ

次に、懐良親王は瀬戸内海を拠点とする有力な海賊衆の庇護を受けることになります。

村上水軍の大将・村上義弘は、新居浜の新居大島に居館を構え、そこに懐良親王を迎え入れ、一年間にわたり厳重に警護しました。

その後は忽那水軍(くつなすいぐん)の大将・忽那義範が松山沖の忍那島に迎え、三年間にわたり匿いました。

この両水軍は瀬戸内を統治する強大な勢力であり、親王を守り抜くことは南朝方にとっても大きな意味を持っていました。

やがて興国3年(1342年)、14歳に成長した懐良親王は、豊後水道を経て九州へと送り届けられ、無事に鹿児島へ到達しました。この決断は後の南朝再興に大きな道を拓くことになります。

尊真親王の最期

一方で、尊真親王は伊予に残り、大井寺を拠点とすることを選びました。

四条少将らの忠実な守護を受けながら、阿波・讃岐両国に勢力を張る北朝方を討ち払おうと軍を整えました。

しかし、負った傷は癒えることなく次第に病のように体を蝕み、思うように戦を指揮することも困難となりました。

それでも親王は南朝方の旗頭として最後まで奮起し続けましたが、延元3年(1338年)3月8日、ついに力尽きて崩御されました。

法隆寺での供養

尊真親王の亡骸は、法隆寺の法印が大井八幡宮(大井八幡大神社)の神主と協力し、藤山の脇宮に丁重に埋葬しました。

さらに弥陀(阿弥陀如来)・普賢(普賢菩薩)・文殊(文殊菩薩)の三尊を造立し、親王の冥福を祈って供養が行われました。

法隆寺では現在も毎年3月8日に法会が営まれ、尊真親王への御供養が続けられています。

この法会は、親王の遺徳を偲び、その志を後世に伝える大切な伝統行事として今日まで受け継がれています。

大西地区に伝わる尊真親王の遺跡

この地で生涯を閉じた尊真親王の足跡は大西地区に深く刻まれ、御陵や社寺を通じて、そして地域の信仰の中に今なお生き続けています。

  • 「尊真親王御陵墓」
    尊真親王の亡骸が葬られた藤山(現・藤山健康文化公園)は「御陵の山」と呼ばれ、古来より地域の人々に尊崇され続けてきた聖域です。
    御陵は現在「尊真親王御陵墓」として宮内庁によって厳重に管理されており、静寂の中に往時の歴史を伝える場となっています。
  • 「大井八幡社」
    尊真親王の御霊は大井八幡宮(大井八幡大神社)に合祀され、今なお崇敬を集めています。
    大井八幡宮(大井八幡大神社)は古くから地域の鎮守として人々の信仰を受けてきましたが、尊真親王の御霊が祀られたことによって、単なる氏神の社にとどまらず、南北朝の動乱を偲ぶ歴史的な聖地としての性格を帯びるようになりました。
  • 「大井寺」
    大井寺はこの戦いで焼失しましたが、天正年間(1573~1592)に河野一族の重茂山城主・岡部忠重が、尊真親王の御霊を慰めるため明堂の地に聖観音菩薩像を安置し、七堂伽藍を備えた壮麗な寺院として再建しました。
    その後、再び兵火によって焼失したものの、岡部忠重は城の鬼門除けとするため、現在の地に改めて大井寺を建立したと伝えられています。
  • 「明堂さん」
    かつて大井寺の旧跡は「明堂」と呼ばれ、後にその地には小堂が建てられました。
    地域の人々からは「明堂さん」と親しまれ、この小堂には聖観世音菩薩が安置されました。
    尊真親王の菩提を弔うために祀られたこの尊像は「明堂本尊」あるいは「明堂菩薩」とも呼ばれ、今なお人々の信仰を集め続けています。

「阿弥陀堂・普賢堂」

法隆寺の境内には「阿弥陀堂・普賢堂」と呼ばれる一宇(お堂)があります。

もとは阿弥陀堂が宮脇・興江に、普賢堂が諏訪谷にそれぞれ祀られていましたが、いつの頃からか現在の地に合祀され、ひとつの堂として安置されるようになりました。

3体の仏像

堂内には三体の仏像が祀られています。

左側には智慧と慈悲を象徴する普賢菩薩、中央には極楽浄土へ導く阿弥陀如来の座像、右側には同じく阿弥陀如来の立像が安置されています。

これらの仏像は江戸時代の享保年間(1716年〜1736年)に造られたもので、かつては大井八幡宮(大井八幡大神社)の境内に奉納されていました。

長い時を経てなお端正な姿をとどめており、当時の信仰の厚さを伝えています。

一方、これらの仏像が法隆寺境内に移された正確な時期は明らかではありませんが、その後の時代からいくつかの可能性が考えられます。

江戸後期に移された可能性

江戸時代の後半期には、藩政のもとで寺社の祭祀や堂宇の在り方が整理される傾向が見られました。

村落共同体にとっては祭礼や維持の費用が大きな負担となるため、複数の小堂や祠を統合したり、神社境内に安置されていた仏像を近隣の寺院へと移して管理を簡素化したりする動きが各地で進められていたのです。

こうした状況を背景に、大井八幡宮(大井八幡大神社)の境内に奉納されていた三体の仏像も、祭祀や維持の合理化の一環として法隆寺へ移された可能性があります。

また、は学問や宗教活動の活発化により、地域の信仰空間が整理されることも少なくありませんでした。

仏像を寺院に移すことによって、より体系的な仏教的儀礼の中で祀ることができ、地域社会における信仰の場が安定する利点もありました。

さらに、幕末に近づくにつれ寺社統制が厳密になり、神社と寺院の役割を明確化しようとする傾向も強まったため、この流れの中で仏像の移動が行われた可能性も否定できません。

明治初頭に移された可能性

明治時代に入ると、国家による大規模な宗教政策の改革が進められました。

その中心となったのが神仏分離政策です。

長く続いてきた神仏習合のあり方は急速に解体され、全国の神社と寺院はそれぞれ独立した宗教施設として再編されていきました。

この動きによって、多くの神社に付属していた 別当寺 は廃止され、祭祀や管理の役割も大きく変化することとなりました。

法隆寺も例外ではなく、大井八幡宮(大井八幡大神社)社の別当寺としての立場を失い、以後は独立した寺院として歩み始めました。

さらに、神社において仏教的儀式を行うことや仏像を安置することは禁じられ、信仰のかたちが大きく変わっていきました。

こうした転換の中で、かつて大井八幡宮(大井八幡大神社)の境内に奉納されていた阿弥陀如来や普賢菩薩の仏像が、法隆寺へと移され、阿弥陀堂・普賢堂にまとめて祀られるようになったと考えられます。

実際に近隣でも同様の事例が見られます。

例えば、別宮大山祇神社では、祀られていた大山積神の本地仏「大通智勝如来(だいつうちしょうにょらい)」をはじめ、その両脇に配された二脇士や十六王子の仏像が、別当寺であった南光坊の薬師堂に移されました。

これらの仏像は南光坊の本尊として新たに祀られることとなり、別宮大山祇神社から独立した寺院として歩みを進めました。

さらに、別宮大山祇神社が有していた四国八十八箇所霊場第55番札所の地位も南光坊に受け継がれ、現在までその信仰が続いています。

宗教政策の変化を伝える仏像

このような流れを踏まえると、大井八幡宮(大井八幡大神社)に奉納されていた仏像が、神仏分離の過程で法隆寺へ移された可能性は十分に考えられます。

どの説にせよ、阿弥陀堂・普賢堂に安置される仏像は、大きく揺れ動いた宗教政策の変化を今に伝える貴重な存在であり、地域の歴史と信仰のあり方を考える上で重要な意味をもつものといえるでしょう。

「指切り九郎兵衛」

そして、法隆寺にはこうした宗教政策の痕跡を伝える仏像だけでなく、地域の人々の暮らしや精神を今に伝えるもうひとつの物語が息づいています。

それが、この地の英雄「山本九郎兵衛(やまもとくろべえ)」の伝承です。

重税と救済策

九郎兵衛は慶長9年(1604)、宮脇村(今の今治市大西町宮脇)の庄屋・山本家に生まれました。

江戸時代初期の伊予は、松山藩の統治下に置かれており、農民たちは「六公四民」といわれる重税に苦しめられていました。

名目上は収穫の六割を年貢として差し出すことになっていましたが、実際にはさまざまな附加税や臨時の課役が重なり、実質的には七割近くを取り上げられる過酷な状況でした。

宮脇のように田畑の少ない地域では、農民たちの生活はますます困窮していったのです。

庄屋で村人を守る立場にあった九郎兵衛は、人々を救うため、租税の対象外であった綿花の栽培を奨励しました。

温暖な気候と土地の条件に恵まれた宮脇では綿がよく実り、農民たちの暮らしを支える大きな助けとなっていきました。

綿への課税と指切りの逸話

延宝年間(1673〜1680)のある年、松山藩から派遣された役人が収穫量を査定する「検見(けみ)」にやってきました。

田畑の様子を確認するうち、見事に育った綿畑に目を留めた役人は、「これほど収穫があるのなら、綿にも税を課すべきだ」と言い出しました。

これに、九郎兵衛は即座に反対します。

「これまで綿花には税がかけられたことは一度もございません。どうか村人たちをお救いください。」

しかし役人は取り合わず、「無税である証拠があるのか」と突きつけました。

当時、租税の免除を証明するような書類は存在せず、九郎兵衛は追い詰められました。

「村人たちの生活を守らねばならない…」

そう覚悟を決めた郎兵衛は一旦奥の部屋に下がり、ほどなくして白布に包んだものを持って戻ってきました。

そう言って差し出された布包みを開いた役人は、思わず息を呑みました。

中には、鮮血に染まった九郎兵衛自身の指が収められていたのです。

自らの身体を賭してまで村人を守ろうとするその覚悟に、役人は圧倒され、ついには綿への課税を断念しました。

この出来事に村人たちは深く感謝し、九郎兵衛を「指切り九郎兵衛」「指切さん」と呼び、その勇気と責任感を末永く讃え続けました。

九郎兵衛の最期と顕彰

延宝8年(1680)、九郎兵衛は77歳で生涯を閉じましたが、生前の正義感あふれる行いから「義の庄屋」と慕われ、死後も地域の人々に讃えられました。

大西町宮脇の丸山墓地入口に墓が作られ、正面には「南無遍照金剛」、側面には「山本氏先祖九郎兵衛墓」と刻まれています。この墓は里人から「指切地蔵」と呼ばれ、今もなお人々の信仰を集めています。

また、九郎兵衛は隣接する法隆寺(真言宗豊山派)においても供養され、寺の祀りを通じて地域精神を支える存在として顕彰され続けています。

その義勇と責任感は、単なる美談ではなく、宗教的・文化的な記憶として今に息づいているのです。

山本家の系譜と後裔

山本九郎兵衛は、伊予の豪族・河野家の一族である重茂山城主・左兵衛尉通定の子孫であったと伝えられています。

さらに、その血脈は江戸時代後期の絵師・山本雲渓(やまもとうんけい、1780~1861)へと受け継がれました。

雲渓は九郎兵衛から五代あとの子孫にあたり、医師として人々を癒やす一方で、森派の画法を修めた画人としても活躍しました。

大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)や大井八幡大神社をはじめ、今治地方のみならず伊予国内外の寺社に多数の絵馬を奉納し、その作品群は現在も各地に伝わっています。

雲渓は文久元年(1861)に82歳で没し、観音寺(かんのんじ)に葬られました。

その墓碑は今も静かに佇み、九郎兵衛から続く山本家の系譜と、地域社会に根ざした歴史と文化の継承を象徴する存在となっています。

寺院名

法隆寺 (ほうりゅうじ)

所在地

愛媛県今治市大西町宮脇甲1419

電話

0898-53-2530

宗派

真言宗豊山派

山号

生命山寿福院法隆寺

本尊

延命地蔵菩薩

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