今治市富田地区に鎮座する「堀部神社(ほりべじんじゃ)」は、加藤嘉明の家臣であり、拝志城(はいしじょう)の城代を務めた「堀部主膳(ほりべ しゅぜん)」を祀る神社です。
「拝志城」今治を分かつ境目の城
堀部主膳が城主を務めた「拝志城(はいしじょう)」は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけて、現在の愛媛県今治市に築かれていた城であり、伊予国の中でも重要な防衛拠点のひとつとされていました。
地域の軍事・政治の中核として機能し、東の今治城と対を成すような位置にありました。
このように、同じ今治の地に二つの拠点が並び立った背景には、関ヶ原の戦い後に実施された領地再編の影響が色濃く反映されています。
「関ヶ原以後の伊予」分断された国と緊張の地
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いにおいて、徳川家康率いる東軍が勝利を収めると、日本全国で領地の再編が進められました。
伊予国も例外ではなく、功績を挙げた武将たちに分割されていきます。
このとき、伊予の半国を拝領したのが、東軍の先鋒として活躍した藤堂高虎であり、もう半国を任されたのが、豊臣家中出身ながら東軍に与した加藤嘉明でした。
こうして、伊予国は藤堂家と加藤家という二大勢力によって東西に分断されることとなり、今治の府中平野でも両家の所領が入り組むかたちとなったことで、両者の間には常に緊張が高まっていきました。
藤堂高虎は、来島海峡を望む要衝に今治城を築き、城代には養子の藤堂高吉を置いて統治体制を固めました。一方、加藤嘉明は、それに対抗するかのように西方の拝志郷に拝志城を築き、弟の加藤忠明を城代に据えました。
「拝志騒動」ひとつの国でぶつかる二つの城
こうして築かれた拝志城ですが、そのわずか数キロ先には藤堂高虎が築いた今治城がありました。
まるで互いに睨み合うかのように、二つの城は近接し、両家の勢力は地理的にもぶつかり合う形となっていたのです。
こうした不安定な状況の中、表向きの平穏とは裏腹に、見えざる火種がくすぶり続けていました。
そしてその緊張は、やがて今治を二分する大きな争い「拝志騒動」へと発展していくことになります。
拝志騒動の発端
1604年(慶長9年)、藤堂高虎は、徳川家康に伺候するため、駿府(現在の静岡市)へと赴いており、今治城の政務は、養子の藤堂高吉が任されていました。
一方、拝志城は加藤嘉明の実弟・加藤内記(ないき)が城代を務めていました。
同年7月、藤堂高吉は家臣・星合忠兵衛(ほしあい ちゅうべえ)に中元の贈り物を託し、主君・藤堂高虎のもとへ使者として駿府行きを命じました。
この話を耳にしたのが、同じ藤堂家に仕えていた小者・太郎兵衛(たろべえ)でした。
太郎兵衛は、かねてより忠兵衛に対して強い私怨を抱いており、復讐の機会を虎視眈々と狙っていたのです。
「今しかない…」
忠兵衛は翌朝の出発に備え、荷をまとめて城下の自宅へと急いでいました。
物陰に潜み待ち構えていた太郎兵衛は、忠兵衛が油断した瞬間を狙って一気に襲いかかりました。
あまりにも突然の出来事に、忠兵衛は抵抗する暇もなく斬り伏せられ、そのまま命を落としました。
太郎兵衛の逃走…拝志への潜伏
忠兵衛を斬り、長年の恨みを晴らした太郎兵衛でしたが、主君の家臣を手にかけたその罪は、武士の世ではあまりにも重く、藤堂家の領内にとどまることはもはや死を意味していました。
太郎兵衛はすぐさま逃亡を決意し、旧知の鷹匠・彦太夫(以下:彦太夫)の助けを借りて、今治城の東方に広がる拝志郷(はいしごう)へと姿をくらまします。
加藤家の勢力下にあるこの地は、藤堂家から逃れるには格好の隠れ場所だったのです。
殺害犯を追う藤堂家
この事を知った藤堂高吉は激怒し、すぐに家臣である淵本権右衛門と弟の淵本馬左衛門に、拝志郷へ逃亡した太郎兵衛の探索を命じました。
二人は加藤家の領地である拝志に入るにあたって、一人の案内役を頼むことにしました。しかし、このとき彼らが選んだのは皮肉にも、太郎兵衛の逃亡を手引きした彦太夫だったのです。
ここから、事件は思わぬ方向へと転じます。
混乱の拝志郷
彦太夫は案内人を装って二人を先導していましたが、内心では隙を見て二人を切り捨てようと企んでいました。
そして、隙を突いて淵本権右衛門に斬りかかりました。
不意を突かれた権右衛門は応戦する間もなく負傷。しかし、弟の馬左衛門が即座に反応し、逆に彦太夫を斬り捨ててしまいました。
彦太夫は案内人を装って二人を先導していましたが、内心では隙を見て二人を切り捨てようと企んでいました。
そして、隙を突いて淵本権右衛門に斬りかかりました。
不意を突かれた権右衛門は応戦する間もなく負傷。しかし、弟の馬左衛門が即座に反応し、逆に彦太夫を斬り捨ててしまいました。
しかし、この一連の出来事を目撃していた拝志の町人たちは、「今治の侍が拝志の者を襲った」と口々に叫び、大きな騒ぎとなりました。
この混乱の中、もはや捜索どころではないと判断した淵本兄弟は、事態の悪化を避けるために拝志郷を離れ、慎重に回り道を取りながら今治城へと帰還しました。
そして帰城するやいなや、二人はこの出来事の一部始終を藤堂高吉に報告します。
ここから、事態はさらに大きな波紋を呼び、騒動は加速度的に拡大していくことになります。
藤堂高吉の使者・渡辺庄左衛門と拝志での惨劇
この報告を受けた藤堂高吉は、怒りをさらに募らせました。
忠臣・星合忠兵衛を殺され、さらに探索に向かった家臣までもが襲撃を受けたことは、もはや一領主の面子に関わる問題でした。
そんな中でも高吉は、冷静に事態を収めようと努めました。
家臣の渡辺庄左衛門を使者として拝志郷に派遣し、事件の経緯と藤堂家の立場を説明し、和解を図ろうとしたのです。
ところが、拝志の役人(町与力)・五右衛門(苗字不詳)は、渡辺の申し出を一切受け入れようとはしませんでした。
それどころか、憤激した五右衛門は、なんと使者である渡辺を馬上のまま槍で突き殺すという暴挙に出たのです。
緊迫、絹乾山の対峙
使者・渡辺庄左衛門までもが殺されたことで、藤堂高吉の怒りは頂点に達しました。
そしてついに、直属の親衛隊である馬廻衆(うままわりしゅう)を率いて拝志郷へ向けて進軍を開始。
そのまま一気に、藤堂家と加藤家の領地を分ける境界線である「絹乾山(きぬほしやま/現在の今治市衣干町付近とされる)」へと到達。
このまま一歩でも踏み込めば、両家の間で戦が勃発する…そんな一触即発の危機的状況にまで緊張が高まっていました。
しかし、まさにその時、藤堂家の重臣・友田左近右衛門が駆けつけました。
「このような時に私闘を起こせば、幕府(公儀)を軽んじる行為と見なされましょう」
その必死の説得に、高吉はようやく冷静さを取り戻し退却を命じました。
名誉をかけた裁判
一連の報告を受けた主君・藤堂高虎は、この事件を極めて重大なものと受け止めました。
そして駿府(現在の静岡市)で、徳川家康に伺候中であったにもかかわらず、すぐさま家臣を通じて幕府に正式な訴えを起こします。
領内での家臣殺害、敵対勢力への逃亡、進軍直前の緊張。
すべてが藤堂家の名誉と立場に関わるものであり、加藤家との対立がさらに激化しかねない状況でした。
高虎は、公儀(幕府)の裁断を仰ぐことこそ最善と判断したのです。
一方、加藤嘉明もまた黙ってはいませんでした。
自身の領地で起きた一連の騒動に対し、藤堂家の主張を一方的に通すわけにはいかないと判断した嘉明は、加藤家としても正式に幕府へ訴えを提出します。
こうして、両家の争いは武力ではなく、幕府を舞台にした法的対決へと発展していきました。
幕府の裁定と処分
双方の訴えを受けた幕府は、詳細な調査と検討を経て、最終的に藤堂家の主張を支持する裁定を下しました。
これにより、加藤家の拝志城代であった加藤内記には厳しい処分が下されます。
事件の責任を問われた加藤内記は、剃髪のうえ、京都嵯峨の東福寺へ蟄居(ちっきょ)を命じられました。
これは事実上の失脚をで、政務の場から退くことになりました。
さらに、藤堂家の家臣・渡辺庄左衛門を槍で殺害した五右衛門に対しても、切腹という厳罰が言い渡されました。
幕府の判断は、事件の火種となった加藤家側に大きな非があると結論づけた形でした。
若き藤堂高吉への影
一方で、幕府は藤堂家側にも過失があったと認定しました。。
特に、養子である藤堂高吉が、幕府の裁定を待たずに軍を動かした点は問題視されました。
これは「私闘」とみなされかねない行動であり、幕府の統治秩序を脅かすものとして重く受け止められました。
その結果、藤堂高虎は自らの責任において、高吉に対して大洲の野村(現・愛媛県西予市野村町)での3年間の蟄居を命じました。
当時26歳という若さでありながら、家を背負う立場にあった高吉にとっては、大きな処分になりましたが、蟄居を終えた高吉は大洲藩に仕官し、武将として再起を果たしました。
幕府直轄地となった拝志の苦難
加藤忠明が追放された後、拝志郷は急速に経済的困窮に陥り、かつての賑わいを次第に失っていきました。
さらに追い打ちをかけたのが、徳川二代将軍・秀忠の治世(1615~1620年)に越智郡一帯が幕府の天領(直轄地)とされたことでした。
これにより、それまでの領主による保護や支援は断たれ、地域の人々は幕府の一方的な支持と課税にさらされることとなったのです。
この状況は、地域の農民たちを深刻な状況へと追い込みました。
農民の困窮
幕府の天領(直轄地)とされたことで、田畑は召し上げられ、生活の糧を絶たれた農民たちは、深刻な貧困に苦しむことになりました。
中には、絶望のあまり自ら命を絶つ者も現れ、地域社会全体が危機に瀕していました。
日々の暮らしに不安を抱える住民たちは、毎晩の様に集まり、今後の生活をどう立て直すかを話し合いましたが、決定的な解決策は見つかりませんでした。
天領における重税と地域の疲弊
この最悪の状況の中で、天領政策による重税がさらに農民たちを苦しめました。
幕府が直接税を徴収する体制では、領地の発展や農民の生活改善に充てられることはほとんどなく、結果として地域社会全体が経済的に疲弊し、次第に町の活力も失われていったのです。
拝志郷の救世主「堀部主膳」
こうした中、拝志城の新たな城主として任命されたのが堀部主膳(ほりべ しゅぜん)でした。
主膳は、衰退しつつあった拝志の町を立て直すため、次々と復興政策を打ち出しました。
地子(じし)の免除で住民を支援
まず最初に行ったのが、住民への地子(じし)=宅地税・土地使用料の免除です。
この税金は庶民にとって大きな負担であり、主膳は藩主に対して免除を願い出ました。その結果、見事に承認を得ることに成功しました。
地子の免除によって、住民たちは生活費の負担から解放され、徐々に経済的余裕を取り戻しました。
地場産業「ケンド」製造の奨励
次に主膳が注力したのは、地域産業の振興でした。
拝志の土地は農業に適していなかったため、堀部主膳は地域の特産品として「ケンド」の製造を奨励しました。
「ケンド」とは、穀物をふるい分けるための農具で、拝志で作られたものは安価でありながら非常に丈夫だったことから、その高い品質が評判を呼びました。
堀部主膳はこの点に着目し、住民たちにケンドの製造を奨励しました。そして、それを地元だけに留めることなく、商売として広く外部へ販売するよう働きかけました。
住民たちはケンドを船に積み、今治の城下や周辺の村々へと出かけ、行商によって販路を広げていきました。こうして、拝志の経済は次第に活気を取り戻していったのです。
ケンドから広がる生活用品づくり
ケンドの成功を受けて、堀部主膳はさらに住民たちに蓑(みの)・笠・箕(み)といった生活用品の製造も奨励しました。
これらは当時の農村生活に欠かせない実用品でした。
- 蓑(みの)は、藁や麻などで編んだ雨具で、体に羽織ることで雨風をしのぐことができました。特に農作業中や行商の移動時には重宝されました。
- 笠は、日よけや雨よけとして使われた藁製の帽子で、農民や旅人の必需品でした。
- 箕(み)は、脱穀した穀物や藁くずなどを選別するために使われた大きなふるいのような農具で、農作業には欠かせない道具でした。
拝志で生産されたこれらの品々は、手頃な価格と丁寧なつくりで評判を呼び、今治周辺だけでなく、広い地域へと流通していきました。
やがて、拝志の住民たちはケンドとともにこれらの製品を背負い、村から村へと歩いて売り歩く行商人として生計を立てるようになります。
このような行商活動は、生活の糧であると同時に、町の経済を再び活気づける原動力となりました。
「堀部神社」人々の心に残る面影
このように、堀部主膳の地道な施策と民への深い信頼によって、荒廃の危機にあった拝志の町は再び活気を取り戻していきました。
日々の暮らしに寄り添い、重税を軽減し、新たな生業を興す手助けを惜しまなかった主膳は、やがて「町の救世主」として住民たちに深く敬愛される存在となりました。
誰もが口を揃えて「主膳さまのおかげ」と語り、拝志の復興はその名と共に語り継がれるようになりました。
しかし、この穏やかな時代も、やがて終わりを迎えることとなります。
一国一城令と拝志城の廃止
元和元年(1615年)、徳川幕府は戦乱の時代に終止符を打つため、「一国一城令」を全国に布告しました。
これにより、各藩は本城を一つに絞るよう命じられ、拝志城も廃城が決定されてしまいます。
城の維持体制は解体され、町の防衛と行政の要であった拝志城は、戦略的役割を失い、町奉行の管理下に置かれることになりました。
さらに、寛永12年(1635年)には拝志は今治藩の所領とされ、5年後には港湾整備のため、拝志城の石垣が今治城の補修用として転用され、城そのものも取り壊されてしまいました。
人々の記憶に残る堀部主膳の姿
拝志の町の風景が次々と変わり、かつての城下町としての面影が薄れていく中、地域の人々の心に深く残っていたのは、かつてこの地を治め、住民に寄り添い、町の再建に尽くした堀部主膳の存在でした。
混乱の中でも水利を整え、民の声に耳を傾け、生活の安定に尽力した主膳の治世を懐かしむ声は絶えることなく、やがて人々は地域の守護神として祀るようになりました。
こうして、堀部主膳を神格化して祀る「堀部神社」が創建されました。
現代に残る拝志城の面影
かつて拝志の地に築かれた拝志城の遺構は、現代にもいくつかの形で残されています。
城跡一帯には、かつて田窪工業所の工場がありましたが、現在ではショッピングセンター「ワールドプラザ」が建設され、地域の商業の中心となっています。
この敷地内には、拝志城の一部が含まれており、特に海側には城の防御施設であった堀を転用したと見られる水路が今も残されており、当時の面影をとどめています。
この敷地内には、拝志城の一部が含まれており、特に海側には、城の防御施設であった堀を転用したと思われる水路が現存し、当時の面影をとどめています。
また、「「西方寺(さいほうじ)」の境内にもその名残が見られ、最後の城主・堀部主膳の供養塔が建てられており、拝志の歴史と主膳の足跡を静かに今に伝えています。