静かな山里に残る寺院群の面影
玉川町鍋に所在する「宝林寺(ほうりんじ)」は、静かな山間に佇む曹洞宗の寺院です。
釈迦如来を本尊とする釈迦堂を中心に、地域の人々の信仰を受け継ぎながら、長い歳月を経て今日まで守り継がれてきました。
「創建と歴史」七宝寺の流れを汲む寺院
宝林寺の起源は、「七宝寺」と総称された寺院群にさかのぼります。
七宝寺とは、今治市の一帯に点在していた七つの寺院の総称で、釈迦堂を中心に中世には大いに栄えたと伝えられています。
しかし鎌倉時代初期、戦乱や火災によってそのうち四寺が焼失し、現存するのは宝林寺のほか、桂地区の宝蔵寺、法界寺地区の宝積寺の三寺のみとなりました。
藤堂高虎による再興と近世の整備
現在の宝林寺が曹洞宗の寺院として再興されたのは、江戸時代初頭の慶長年間(1596〜1615年)のことです。
特に慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いにおける功績により、武将・藤堂高虎が伊予国12万石を拝領し、当地を治めるようになったことが、大きな転機となりました。
当初、高虎は国府が置かれていた桜井地区の国分山城(別名:国府城・唐子山城)を本拠としていました。
しかし、このころの時代は、戦乱から「天下泰平」へと移り変わりつつありました。
関ヶ原の戦いの後も豊臣家は大坂城に健在で、徳川と豊臣の間には依然として緊張が残っていましたが、全国的な大規模戦は次第に姿を消し、世の中は戦国の混乱期から安定の時代へと移行していったのです。
高虎は、この新しい時代において、もはや戦国期のような山城は時代遅れであると考えました。
一方、当時の今治の領地は二分されており、近隣には加藤嘉明が拠点とする拝志城がありました。
このような状況の中で、高虎は防御機能に加え、港湾機能を備え、経済的にも利便性の高い新たな城の建設を決意します。
「こうして、慶長7年(1602年)に今治城の築城が始まりました。
そして、これにあわせて城下町の整備や寺社の再編も進められていきました。
宝林寺もこの時期に再興されたと考えられており、近世的な都市構造の中で位置づけられた寺院のひとつとみなされます。
失われた由緒と残された痕跡
ただし、それ以前の詳細な歴史については不明な点が多く、再興の際に旧来の寺歴が整理・抹消され、過去の由緒が失われた可能性も指摘されています。
それでもなお、宝林寺が七宝寺の流れをくむ実在の宗教的拠点であったことは、現存する三寺の静かな佇まいが物語っています。
昭和の本堂と延命地蔵
現在の本堂は、昭和54年(1979年)2月に建立されました。
この際には、地域の発展と住民の長寿を祈願して延命地蔵が造られ、現在も大切に祀られています。
本堂は、伝統的な様式を取り入れつつ近代技術を活用した建物で、参拝者に落ち着いた雰囲気を与えています。
受け継がれる祈りと花まつり
宝林寺は現在、無住の寺院であり、今治市米屋町の円光寺の住職が兼任しています。
毎年4月8日には「花まつり」が開催され、釈迦堂に安置されている釈迦如来像がご開帳されます。
この日は地元の人々によるお接待も行われ、多くの参拝者で賑わい、地域の人々の信仰と結びつきながら、今も変わらぬ温かさを伝えています。



