「星神社(ほしじんじゃ)」は、星という地名がつく、大西町の星浦(星の浦)に鎮座する神社で、その名の通り隕石を祀っており、南北朝時代の延元2年(1339年)に、この地に隕石が落下したことがその起源とされています。
創建と歴史
伝承によれば、初めの頃の隕石は子どもたちが転がしたり、川に投げ込んだりする遊び道具として扱われていました。
しかし、ある日を境に村に異変が訪れます。原因不明の疫病が突然発生し、多くの村人が病に倒れる事態となりました。この予期せぬ出来事に、村人たちは不安に駆られました。そして、「あの石を軽々しく扱ったせいではないか」という噂が広まり始めました。
村人たちは話し合いを重ね、この不思議な石を神聖な存在であると考え、「星神」、つまり神聖な存在である「五百筒磐石(いおついわむら)」として祀ることを決意しました。
こうして星神社が建立され、隕石が落下した地は「星浦」と呼ばれるようになり、やがて村全体の信仰の中心地となりました。
再興と修復の歴史
星神社の歴史は、度重なる再興と修復によって受け継がれています。
弘化3年(1846年)には、「野間郡星浦村星大明神拝殿社」として再興されました。この際の棟札には、神主・小池備前正藤原篤忠をはじめ、庄屋・越智為之助、組頭・五右衛門、七左衛門の名が記されています。
また、建築を担当した宮脇村の大工・栄治の名も刻まれており、地域の人々が力を合わせて神社を守り続けてきた様子がうかがえます。
昭和9年(1934年)には社殿の再建が行われ、当時の神主・小池通忠氏の名が棟札に記されています。また、世話人として檜垣重考、井手正雄、井手亀太郎、山本忠則、越智頼一、井手弥市、越智和吉、越智繁信の名も記されており、地域住民が一体となって神社を支えてきたことがわかります。
保存される棟札と当時の記録
星神社には、100年以上前の棟札が保存されており、そこには「産子村中繁栄を祷る」という願いが記されています。この記録は、神社が地域の繁栄を祈る場として重要な役割を果たしてきたことを示しています。
地域の中心としての星神社
昭和12年(1937年)には、星神社の創立600年祭が盛大に執り行われました。この祭りは、神社の長い歴史を祝うとともに、地域の発展を願う人々の想いが共有された重要な機会でした。
この「創立600年」という節目からも、星神社の創建が南北朝時代にまでさかのぼると考えられています。この時代の混乱の中で、地域の守護神として創建された神社が、600年を経てもなお信仰と地域の中心として機能していることは、歴史的にも大変意義深いものです。
五百筒磐石(いおついわむら)
星神社の御祭神である「五百筒磐石(いおついわむら)」は、星群や流星を象徴する神として信仰されています。この御神体は、直径約20センチ、高さ約40センチの円筒形をしており、長い年月にわたり崇拝の対象となってきました。
『日本書紀』には、五百箇磐石(いおついわむら)の神話的な起源が記されています。伊奘諾尊(いざなぎのみこと)が火の神・軻遇突智(かぐつち)を十握剣(とつかのつるぎ)で斬った際、その剣から滴り落ちた血が天の安河原(あまやすのかわら)に固まり、多くの岩群となったとされています。この岩群が「五百箇磐石」と呼ばれ、そこから刀剣の神格化である経津主神(ふつぬしのかみ)が誕生したとされます。
この神話では、五百箇磐石が天上界と地上界を結ぶ重要な存在であることが描かれており、それが星神社の五百筒磐石に通じる信仰の原点ともなっています。
星の浦海浜公園
この星の神の伝説から、近くの美しい砂浜には「星の浦海浜公園(ほしのうらかいひんこうえん)」が整備されました。
星の浦海浜公園には、夏になると多くの人々が訪れ、海水浴やウィンドサーフィン、ジェットスキーといったマリンスポーツを楽しむ姿が見られます。星の浦海浜公園には上空から見ると星型に見えるピラミッド状のモニュメント「環界」があります。
このモニュメントは、芸術家・橋本清隆氏が1993~94年に制作したもので、星の浦に伝わる隕石伝説にインスパイアされてデザインされました。航空写真では六芒星(ダビデの星)に見える形状をしており、地上ではピラミッドパワーが集まる神秘的な場所として訪れる人々を魅了しています。
また、タイルアートなどの個性的な装飾も公園内に点在しており、視覚的な楽しみを提供しています。さらに、公園内には庭園や散策路が整備されており、潮風を浴びながらのんびりと散歩を楽しむことができます。遊歩道を歩きながら瀬戸内海を行き交う船を眺めるひとときは、心を落ち着かせるとともに、この地の歴史と自然の魅力を深く感じさせます。