大西地区の宮脇、京の森に、宝性地蔵菩薩を本尊として祀る「宝性地蔵堂・いぼ地蔵(ほうしょうじぞうどう)」という、古くから多くの信仰を集め、今も参拝者が訪れる小さなお堂があります。
周囲は木々に囲まれ、静かな雰囲気に包まれた場所で、地域の人々によって大切に守られてきました。
この地蔵堂の創建には、海と深く結びついた不思議な伝承が残されています。
帷子磯と釣り場としての現在
鴨池海岸の沖にある弓杖島(ゆずえじま)の裏手、帷子磯(かたびらいそ)と呼ばれる細長い岩礁は、古くから漁の場であり、今日では釣り人に人気の磯場として知られています。
特に冬場には「寒チヌ(クロダイ)」を狙う釣り人で賑わい、地元だけでなく遠方からも多くの人が訪れます。
磯から10メートル沖までは水深約10メートル、その先は急に20メートル近い深みに落ち込み、魚影が濃い一方で仕掛けの扱いが難しい場所でもあります。
潮の流れは東西で異なり、東側では北東へ、西側では南西へと流れるため、釣り人は工夫を凝らして竿を出します。
こうした厳しい海での漁の最中に、不思議なお地蔵さまとの出会いがありました。これが後に、宝性地蔵堂の創建へとつながっていくことになります。
海から来た地蔵の伝承
江戸時代中期の宝暦年間(1751〜1764)。
帷子磯の沖で漁をしていた漁師が、網を引き上げると石のようなものが繰り返し掛かりました。
最初は「邪魔な石だ」と思い海に戻しましたが、不思議なことに何度も網にかかるのです。
よく見てみると、それはただの石ではなく、お地蔵さま(宝性地蔵)でした。漁師は途方に暮れましたが、この話を聞いたある宮脇村の人が「粗末にしてはならない」と申し出ました。
そして米十石(こめじっこく・およそ1,500キログラム)と酒一石(さけいっこく・およそ180リットル)で譲り受け、里へ持ち帰って丁重に祀りました。
すると、不思議なことに、その家は次第に栄えはじめ、子孫にまで福徳が及んだと伝えられています。
村人たちはこれを地蔵の加護によるものと考え、信仰は次第に広まっていきました。
すると不思議なことに、その家は次第に栄え、子孫にまで福徳が及んだと語り継がれています。
村人たちはこれを宝性地蔵のご加護と考え、信仰は広がっていきました。
これが、今に残る京の森の宝性地蔵堂の由来とされています。
不思議な霊験
宝性地蔵には、いくつもの不思議な霊験が伝えられています。
- 東向きに安置すると、罪を犯した人が前を通った際に落馬した。
- 南向きに安置すると、お地蔵さまが汗をかいた。
こうした出来事が続いたため、現在は北、海に向けて安置されています。
海から現れたお地蔵さまが再び海を見つめる姿は、地域の人々にとって象徴的であり、畏敬の念を抱かせるものとなっています。
いぼ地蔵としての信仰
また、この地蔵は「いぼ地蔵」とも呼ばれ、皮膚にできる「いぼ」を治す仏として広く信仰されています。
参拝して願をかけると、いぼが取れたと語り継がれ、病気平癒の仏として多くの人々に親しまれてきました。
今日でも「いぼが治りますように」と祈る参拝者が訪れ、その信仰は続いています。
全国には「いぼとり地蔵」や「いぼ神様」と呼ばれる信仰が、古くから各地に息づいています。
石仏に自分のいぼをなでつけて平癒を願ったり、里で採れた供え物を捧げたりといった習俗は、日本のさまざまな地域に残されています。
もちろん科学的な根拠があるわけではありません。
しかし「どうしても治したい」「苦しみから解放されたい」という人々の切実な祈りが、この信仰を支え続けてきました。
人々の願いが積み重なり、やがてそれは地域の文化や生活習慣の一部となっていったのです。
堂宇と地域文化
このように、宮脇の京の森に建つ宝性地蔵堂は、「海から来たお地蔵さま」として、また「いぼ地蔵」として、小さなお堂ながら端正な姿を保ち、地域の人々によって代々大切に守られてきました。
そして、静かな森の中で、今もなおその姿をとどめ、人々の暮らしと祈りを静かに見守り続けています。
また、帷子磯には弘法大師(空海)が不動尊を安置したという伝承や、大井寺の創建にまつわる歴史も残されており、この地の信仰が古くから海と深く結びついてきたことを今に伝えています。