江戸時代が終わりを迎えようとしていた幕末の動乱期。
今治市町谷の一角に、世間の喧騒から離れて静かに佇む一つの草庵がありました。
そこには、釈迦如来像（座像）がひっそりと祀られ、近隣の人々が静かに足を運び、日々の安寧と心の平穏を願って手を合わせていたのです。
この素朴な草庵こそが、やがて「法徳寺（ほうとくじ）」として地域に深く根を張り、人々の信仰を支える存在へと発展していくことになります。
廃仏毀釈のなかで…麻生直治と法華経信仰
明治時代初期、日本は江戸時代の幕藩体制から脱却し、西洋化と近代化を急速に進める時代へと移行していきました。
その過程で進められたのが、神道を国教とする国家政策の一環として始まった「廃仏毀釈（はいぶつきしゃく）」です。
この政策によって、全国各地で仏教寺院の破却や僧侶の還俗が行われ、多くの宗教施設が衰退の危機に直面しました。
その中でも懸命に仏の教えを信じ、守ろうとする人々がいました。
その一人が、今治市町谷に住んでいた麻生直治です。
『法華経』を信じた一人の檀家
麻生直治は、今治市内の寺町にある日蓮宗の寺院（法華寺・寺町）の熱心な檀家で、日蓮大聖人の教えである『法華経』の教えを深く信仰していました。
『法華経』は、日蓮宗において最も重要とされる経典であり、「すべての人々が仏になれる」という教えを説いています。
どんな境遇の人でも仏道を歩めるというその教えは、平等で希望に満ちた救いの道として、多くの人々の心を支えてきました。
麻生直治もまた、この『法華経』の教えに深く感銘を受け、生涯をかけて地域に広めようと尽力したのです。
「妙法教会」荒廃した草庵に、信仰の光を
そして、廃仏毀釈によって荒廃した草庵に目を向け、この草庵を日蓮宗の中心的な教えである『法華経』拠点として再興することを決意しました。
そして明治10年（1877年）頃に、蓮宗の教義に基づく信仰道場「妙法教会（みょうほうきょうかい）」として再興され、地域に再び信仰の光を取り戻したのです。
麻生直治による教線の拡大と信仰の広まり
麻生直治は「妙法教会」を拠点に、法華経の教えを広める活動を精力的に進めました。
活動の目的は、すべての人々が永遠に成仏の道を歩めるよう導くことであり、「広宣流布（こうせんるふ」という理想の実現を目指すものでした。
「広宣流布」とは、日蓮大聖人が説いた法華経の教えを広く世に伝え、個々の心の平和と、社会全体の調和と幸福を実現しようとする運動です。
この理想は、日蓮聖人を信奉する一門が代々掲げてきた大きな目標であり、麻生直治の布教活動もまた、この理想を地元の町谷の地に根づかせるものでした。
この活動は次第に地域に広まり、「妙法教会」は地域の信仰の拠点として多くの人々にとって重要な場所となりました。
悪疫の中で祈りを捧げた麻生直治
明治12年（1879年）と13年（1880年）、伊予（現在の愛媛県）では、コレラや天然痘といった悪疫が広く流行し、多くの人々の命と暮らしが脅かされました。
麻生直治は、こうした非常事態に際して、信仰の力をもって地域に貢献しようと立ち上がります。
自ら病に苦しむ家々を一軒一軒訪ね歩き、真摯な祈祷を行いながら、患者とその家族の心の支えとなりました。
その姿勢は、単なる宗教者の枠を超え、人々の痛みに寄り添い、命と向き合う者として、深い敬意を集めていったのです。
干ばつと祈雨「高座」に立った麻生直治
さらに、地域が深刻な干ばつに見舞われたある年、麻生直治は頓田川の川原に「高座（たかざ）」を設け、断食をしながら雨をもたらす水の神「八大龍王」に向けて雨乞いの祈祷を行いました。
やがて、祈りが天に通じたのか、恵みの雨が大地を潤し、干ばつの危機は回避されたと伝えられています。
この出来事は地域に「奇跡」として語り継がれ、麻生直治の信仰の深さと行動力は、さらに多くの人々に強い感銘を与えました。
この頃になると、法華経の教えは富田地区を越えて広まり、多くの人々が遠方から麻生直治を訪ねて足を運ぶようになっていました。
「平等教会」信仰の拠点としての確立
明治17年（1884年）3月、麻生直治の活動に感銘を受けた森海浄や越智儀平太らの尽力によって、「平等教会」が正式に設立されました。
この教会は、日蓮宗の教えに基づき、『法華経』を広めるための拠点として機能する道場であり、後の法徳寺へとつながる重要な節目となります。
日蓮宗では、宗教施設の形態に応じて「寺院」「教会」「結社」といった名称が用いられており、教会はその中でも地域に密着した布教・信仰活動の拠点とされてきました。
平等教会の由来
「平等教会」という名称は、「一切衆生悉有仏性」（すべての生命が仏になる可能性を持つ）という法華経の平等思想の教えを体現する形で付けられました。
信仰の広がりと麻生直治の最盛期
平等教会の設立以降、法華経の教えは町谷の地域社会にさらに深く根付き、後の法徳寺へとつながる信仰の基盤が着実に築かれていきました。
そして明治22年には、明治憲法の発布を記念して国運隆昌、四海帰妙の誓願の下「一沸堂」が建立されました。
戦時下に守られた信仰の灯
麻生直治が亡くなり、大正から昭和へと移り変わる中でも、その教えと信仰の実践は法徳寺の中で脈々と受け継がれていきました。
しかし、昭和に入ると、日本は次第に戦時色を強めていきました。
昭和6年（1931年）の満州事変を皮切りに日中戦争が勃発し、やがて昭和16年（1941年）には太平洋戦争へと突入。
日本全体が戦争体制へと移行し、物資の統制、徴兵、空襲といった過酷な現実が人々の暮らしを覆い始めました。
戦時化の仏教界
こうした中、仏教界もまた国家の戦争政策に巻き込まれていきました。
宗派を問わず、多くの寺院が戦勝祈願や献金、物資供出といった形で戦争協力を求められ、宗教が国家の道具として動員されていったのです。
日蓮宗も例外ではなく、各地の寺院では戦勝祈願会が開催され、檀信徒に対しても戦意高揚を促す布教活動が行われました。
また、軍用機の献納を奨励するなど、信仰の場が戦争を支える装置として機能させられる状況も生まれていました。
一方で、一部の僧侶たちは軍部の圧政や宗教的自由の制限に抗い、日蓮宗の教義に立脚した抵抗を試みるなど、信仰の尊厳を守ろうとする動きも見られました。
戦時下に再建された法徳寺本堂
こうした不安と緊張が渦巻く時代の只中においても、法徳寺では信仰の灯が決して消えることはありませんでした。昭和16年、太平洋戦争が始まろうとしていた緊迫の年に、檀家たちは心を一つにし、本堂の再建に立ち上がります。
戦時下という困難な状況の中で、資材の確保もままならぬ中、多くの檀家が労を惜しまず協力し合い、ついに本堂を築き上げました。
それは、単なる建物の復興ではなく、戦火に揺れる社会の中で仏の教えを守り抜こうとする、信仰の力そのものであったといえるでしょう。
「榮厚山法徳寺」寺格の正式な昇格
終戦を迎えた昭和20年（1945年）以降、日本は社会のあらゆる面で大きな転換期を迎えました。
戦後復興が急がれる中、宗教界もまた大きな変化にさらされ、多くの仏教寺院が新たな時代にふさわしい姿を模索していました。
そのような中、法徳寺でも寺格の正式な昇格が強く意識されるようになっていきます。
昭和29年（1954年）4月28日、日蓮宗の「立教開宗の日」に合わせ、二世住職である中谷妙法尼（なかたに みょうほうに）は、泰宜院日秀上人（たいぎいん にっしゅうしょうにん）の名を借り、「榮厚山 法徳寺（えいこうざん ほうとくじ）」という現在に続く正式な寺号を公称しました。
この出来事は、単なる名称の変更にとどまらず、それまで信仰道場として歩んできた法徳寺が、日蓮宗における正式な寺院として確固たる地位を築いた瞬間でもありました。
「新本堂建立」への願いと実現
寺号の公称を果たした中谷妙法尼は、さらに寺院の発展を願い、「いつか本格的な本堂を建立したい」という夢を胸に秘めていました。
その夢が本格的に動き出したのは、日蓮大聖人の第七百遠忌を迎える昭和57年（1982年）を前にした前年、昭和56年のことでした。
本堂建立のための浄財を募る活動は、単なる資金集めではなく、信徒一人ひとりの信仰と想いを結集する尊い営みとなりました。
法華経の教えに基づく信仰の絆が、地域全体に広がり、多くの家庭や個人が力を尽くして協力しました。
現代へ…。変わらぬ祈りの場
そして平成2年（1990年）12月9日、多くの人々の願いと努力が結実し、新しい本堂の落慶法要が盛大に執り行われました。
この法要は、中谷妙法尼が長年にわたって温めてきた夢の実現であり、法徳寺の新たな時代の幕開けを告げる記念すべき節目となりました。
そして現在も法徳寺は、地域における信仰の拠点として、今治市町谷の地に日蓮宗の教えと祈りの場を守り続けています。
