「ーノ宮神社(いちのみやじんじゃ)」は、徳重村の村社で、村を災害から守る神様をお祀りしている神社です。この神社は、古くから地域の人々によって信仰され、災害や厄災から村を守る守護神として崇められてきました。
【創建】宗像大社から今治へ
一宮神社の創建は養老5年(751年)頃、九州の筑紫国(現在の福岡県)に鎮座する宗像大社(むなかたたいしゃ)より、宗像三女神を徳重村の氏神として勧請したことに始まります。
宗像大社は、日本最古の神社の一つであり、『日本書紀』や『古事記』にもその名が登場する非常に格式高い神社です。宗像大社は玄界灘を望む三つの宮から構成され、以下の三柱の女神が祀られています。
- 沖津宮(おきつみや)
(沖ノ島):田心姫神(たごりひめのかみ) - 中津宮(なかつみや)
(筑前大島):湍津姫神(たぎつひめのかみ) - 辺津宮(へつみや)
(九州本土):市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)
宗像三女神(むなかたさんじょしん)は、『古事記』や『日本書紀』の中で、天照大神(あまてらすおおみかみ)と素戔嗚尊(すさのおのみこと)の誓約(うけい)によって生まれた神々と伝えられています。
これらの女神たちは、航海安全や海上交通、また陸上交通の守護神として古代より篤く信仰されてきました。
古くから瀬戸内海の海上交通が重要だった今治地域では、航海の安全や交易の成功を願って、多くの人々が「ーノ宮神社」を訪れていたと考えられます。
一の宮号を継ぐ社名
神社の名前「一宮(いちのみや)」は、筑紫国において宗像神社が最も重要な神社、すなわち「第一のお宮」として崇敬されていたことに由来すると伝えられています。
古代の国ごとには、朝廷が定めた「一宮・二宮・三宮」といった神社の序列があり、特に一宮はその国の中で最も格式の高い神社として、国司の参拝や祭祀が行われる中心的な存在でした。
筑紫国では宗像大社がその一宮にあたるとされており、その御祭神を勧請した徳重の神社も、由緒を踏まえて「一宮」の名を冠したと考えられています。
“式内七社参り”を支えてきた今治の古社
一宮神社は、今治地方に伝わる伝統的な信仰行事「式内七社参り(しきないしちしゃまいり)」の一社として、古くから地域の人々の信仰を集めてきました。
「七社参り」とは
「七社参り」とは、平安時代にまとめられた国家の法令集『延喜式(えんぎしき)』に名を連ねる、格式ある「式内社(しきないしゃ)」のうち、今治周辺に鎮座する七つの神社を一日で巡拝し、無病息災や長寿、中風(脳卒中)除けを願うという風習です。
式内社とは、平安朝廷がその由緒を公式に認めた神社を指し、いずれも古くから地域に深く根ざした守護神として崇敬されてきました。
三つの願い
この参拝行事には次のような願いが込められていました。
- 中風(脳卒中)を患わず、健康に長生きすること
- 長患いを避け、安らかな最期を迎えること
- 家族の無病息災と日々の平穏
参拝者は早朝から出発し、七つの神社を順に巡ってそれぞれに丁寧な祈りを捧げるというもので、特に高齢者にとっては切実な願いを込めた巡拝であり、家族の健康を願う年中行事としても大切にされていました。
中でも「一宮神社」は、宗像三女神を祀ることから航海安全・交通安全の神としても知られ、神威の強い社として特に篤く信仰されていました。
そのため、七社巡りの中でも起点あるいは締めくくりとして訪れる人も多く、精神的な支柱となる存在だったと考えられます。
七社参りの記憶を伝えて
この風習は昭和30年頃まで地域で盛んに行われていましたが、現在では次第にその姿を消しつつあります。
しかし、「七社参り」の記憶は、一宮神社に息づく信仰の歴史として今も地域に語り継がれています。
平成五年「一宮神社放火事件」
このように、一宮神社は「七社参り」の要として、また地域の精神的な拠り所として、長年にわたり深く信仰されてきました。
しかし、平成に入り、地域の人々の心を引き裂くよう 絶対に許されない事件が発生します。
放火の業火が呑みこんだ神域
平成5年(1993年)2月25日の深夜、突如として火の手があがり、神社はまたたく間に炎に包まれました。
決死の消防活動が行われたものの、本殿・中殿・参拝殿が全焼するという甚大な被害を受け、長年にわたり守られてきた神聖な社殿は、一夜で無残に焼き尽くされてしまいました。
古くから大切に受け継がれてきた文化財や貴重な建築物が、激しい炎にのまれていく様子は、地域住民の心を深く締めつけ、計り知れない衝撃と悲しみをもたらしました。
その後の警察・消防の調査により、火災は自然発火や事故ではなく、放火によって引き起こされたものであることが明らかになります。
何者かが意図的に火を放ったという事実は、信仰の場を標的とした許しがたい冒涜として、地域に深い憤りと絶望をもたらしました。
御神体を包んだ奇跡
しかし、すべてが焼き尽くされたかに思えたその時、ひとつの静かな奇跡が起こりました。
境内の建物が次々と炎に飲まれていく中、御本殿の内陣だけが奇跡的に焼け残り、御神体も無傷のまま守られていたのです。
御神体はすぐに仮宮へと丁重に移され、静かにお祀りされました。
氏子たちの結束と努力が生んだ再建
すべてが焼失したかのような火災の中で、御本殿の内陣と御神体が奇跡的に守られたことは、神様の御加護によるものに違いない……。
その思いは、焼け跡に立ち尽くす氏子たちの胸に、「もう一度この場所を立て直さねばならない」という強い決意を呼び起こしました。
氏子たちはすぐに再建を目指して再建賛成会を結成し、幾度となく会合を重ねて慎重に協議を重ねた末、神社の再建が正式に決定されました。
しかし、氏子の数はおよそ100戸と少なく、さらに当時の社会経済状況も非常に厳しいものでした。
それでも、氏子の方々や奉賛会の役員たちはひたむきに努力を重ね、やがて多くの寄付が寄せられました。
また、設計工事を担当した施工者の方々からも心強い援助が寄せられ、地域全体の協力のもと、再建は着実に進められていきました。
そしてついに、一宮神社は無事にその姿を取り戻すことができたのです。
再建の感謝と記念碑
再建が無事に成し遂げられたのち、地域の人々はその感謝と誇りを後世に伝えるため、境内に一基の記念碑を建立しました。
この碑には、命がけで消火にあたった消防団や関係者、再建に向けて支援を惜しまなかった氏子・奉賛会、そして設計・施工に尽力した方々への深い感謝の思いが丁寧に刻まれています。
火災という試練を乗り越え、地域全体が心を一つにして神社を再建させたその歴史を、今もこの碑は静かに伝え続けています。
神社と地域を見守る一本のクスノキ
そして、神社の再建とともに、地域の心を支え続けてきたもうひとつの存在があります。
それが、境内にそびえる一本のクスノキです。
このクスノキは、樹齢約400年を誇り、幹周り約10メートル、高さは約20メートルに達します。その枝葉は東西18メートル、南北12メートルにわたる広がりを見せ、まるで神社全体を包み込むかのように伸びています。
この木は、地域住民の信仰心を象徴し、神社の守護者として、また地域の絆を強める存在として親しまれてきました。
特に平成5年の火災を乗り越えた神社の復興を見守ってきたクスノキは、地域の人々にとって、困難を乗り越えた象徴でもあります。
火災によって神社が焼失してしまってからも、このクスノキは静かに立ち続け、その強い生命力で地域の人々に希望と勇気を与えました。
現在、このクスノキは今治市の指定天然記念物として保護されており、神社を訪れる人々にその壮大な姿を見せ続けています。