「碇掛天満宮(いかりかけてんまんぐう)」は天神信仰の中心である菅原道真公を祀り、学問成就や航海安全を願う人々の信仰を集めています。
「学問の神様」菅原道真
菅原道真(845〜903年)は、平安時代を代表する学者であり政治家です。幼い頃からその才能を示し、わずか11歳で漢詩を詠むなど、早熟の天才として注目されました。20代で文章生(もんじょうしょう)として朝廷に仕え、30代には学者の最高位である文(もんじょうはかせ)章博士に就任しました。道真公の政治的才能は、律令制の強化や農民保護政策に現れ、特に唐との国交を廃止することで国内の安定を図った政策が有名です。
学問と政治の両分野で活躍した道真公は、同時代の人々からも尊敬を集めました。彼が詠んだ多くの詩は、自然への愛や人間の感情を繊細に表現しており、今日まで文学的価値が高いとされています。
伊予を視察
道真公は、讃岐国の国司として任じられていた際、隣国伊予を視察し、888年に今治地方を訪れました。その帰途、三津の港を船出し、北条の沖合に来た時、急に暗雲がたれこめ、嵐となり、大西町星浦あたりまで船が押し流され、航行不能となりました。
そこで致し方なく、菅公一行は星浦の砂浜に碇を下して船をつけ、近くの朽ち果てた苫屋でしばらくの間休息しました。
この際、道真公は浜辺のカゴノキ大木の傍らに祀られていた「津の神(船着場の守護神)」に幣を捧げ、航海の安全を祈りました。
太宰府への流刑
901年、道真公は藤原時平の陰謀により失脚し、九州の大宰府に左遷されることになりました。この左遷の背景には、道真公が宇多天皇の信任を得て右大臣に昇進したことに藤原家が危機感を抱き、道真公を政界から排除しようとした意図がありました。時平は、道真公が宇多天皇の孫である醍醐天皇の皇位継承に干渉しようとしているとの虚偽の訴えを行い、これが道真公左遷の直接的な理由となりました。
太宰府への過酷な旅
この左遷は事実上の流刑であり、道真公は家族や多くの地位を失い、深い絶望の中で旅を続けることを余儀なくされました。当時の平安貴族にとって、中央政界からの追放は名誉の喪失だけでなく、生活基盤を奪われることを意味しました。道真公は、自らの無力さと孤独感に苛まれながらも、旅を続けざるを得ませんでした。
また、平安時代の船旅は現代と比べてはるかに危険で過酷なものでした。船の技術は未発達であり、天候や海の状況に大きく左右されました。嵐や高波は命に関わる重大な脅威であり、船が航行不能に陥ることも珍しくありませんでした。さらに、航路の安全が十分に確保されておらず、海賊や盗賊の襲撃も旅人にとって大きなリスクでした。
道真公が901年に大宰府へ左遷される際の旅路も、こうした厳しい状況下で行われました。『伊予温故録』によれば、道真公一行は安芸国御手洗沖で強風と高波に遭遇し、避難のため再びこの地に滞在したとされています。
桜井地区にある綱敷天満神社にも、道真公が避難したとの伝承が残されており、航海が極めて過酷なものだったことがわかります。
大宰府での苦難と無念の最期
なんとか大宰府に到着することができた道真公でしたが、そこでは極めて過酷な日々が待ち受けていました。かつて右大臣として宮廷で華々しく活躍した道真公は、狭く粗末な住居に押し込められ、都からの孤立感に苛まれながら余生を送ることを余儀なくされました。
大宰府での生活は、寒さや暑さに耐えなければならず、食事も粗末で、彼の健康を大きく蝕みました。道真公はその状況を悲嘆し、何度も詩にその心情を表現しています。
道真公が詠んだ「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花、主なしとて春を忘るな」という有名な和歌は、京に残した梅の木への郷愁を表現したものとされています。梅は道真公にとって故郷や都での栄光の日々を象徴する存在であり、その喪失感が詩を通して感じ取れます。
延喜3年(903年)、道真は無念の思いを抱いたまま大宰府で亡くなりました。その死の背景には、左遷による精神的苦痛と体調の悪化があったと考えられます。
菅原道真公の怨霊と天満宮信仰
道真公の死後、京では数々の天災や疫病が相次ぎ発生しました。醍醐天皇の治世で起こったこれらの災厄は、道真公の怨霊によるものだと恐れられました。
特に、清涼殿に落雷が直撃して多くの宮廷人が命を落とした事件は、道真公の怒りがもたらしたものと信じられました。この出来事を受けて、朝廷は道真公の霊を鎮めるために道真公を天神として祀ることを決定、全国各地に天満宮が創建されました。
特に、清涼殿に落雷が直撃して多くの宮廷人が命を落とした事件は、道真公の怒りがもたらしたものと信じられました。
この出来事を受けて、朝廷は道真公の霊を鎮めるために彼を天神として祀ることを決定しました。天満宮の建立は、怨霊を鎮めると同時に、道真公の名誉を回復し、彼を神格化する意味を持っていました。これが天満宮信仰の始まりであり、やがて道真公は学問の神様として全国で信仰されるようになりました。
天満宮の創設
道真公を祀る天満宮は、生涯に訪れた土地や縁のある場所を中心に建立されました。これにより、道真公の怨霊は慰められ、災厄も収まったとされています。天満宮の中でも、京都の北野天満宮や福岡の太宰府天満宮が特に有名で、これらは道真公信仰の中心的存在となっています。
今治でも綱敷天満神社をはじめ、菅原道真公にゆかりのある場所に多くの天満神社が創建されました。その中で、天慶5年(942年)9月、道真公が滞在したと伝えられるこの地に、道真公を深く崇敬していた伊予の国司、河野安家(越智宿祢安家)が、大宰府より道真公の霊を勧請し、天満宮を創設したとされています。
一方で、創建の年については、大宰府への途上で道真公がこの地に立ち寄った延喜元年(901年)2月がその始まりとも言われています。
「碇掛」
「碇掛(いかりかけ)」という名前は、888年に菅原道真公が災難を避ける際、この地に残された「碇石」に由来しています。この碇石は、讃岐で採取される希少なサヌカイトでできており、現在も天満宮の境内に祀られています。碇石は、道真公がこの地で難を逃れた象徴とされ、以後、地域の人々にとって神聖な信仰の対象となりました。
「菅金助君碑」
碇掛天満宮の入り口付近には、「菅金助君碑(かきんすけくんひ)」と呼ばれる石碑が建立されています。この石碑には、「不撓不屈(ふとうふくつ)」という言葉が刻まれています。
菅金助君は、地域の発展に尽力した人物として広く知られています。特に昭和21年、前年の台風によって壊滅的な被害を受けた平田池(新池)の復興に尽力しました。この池の復興は、地域住民の生活や農業に大きく貢献し、その重要性は計り知れません。
この功績をたたえ、昭和25年には記念碑が建立されました。この記念碑は、菅金助君の努力と地域への貢献を永く後世に伝える象徴として、今なお多くの人々に感謝と敬意をもって語り継がれています。
碇掛天満宮の象徴と魅力
碇掛天満宮の境内には、菅原道真公を祀る象徴的な要素が数多く見られます。天満宮といえば、道真公の使いとされる「牛」がその象徴的存在ですが、碇掛天満宮にも牛が祀られており、多くの参拝者がその姿に触れながら、道真公の御利益を祈念しています。
また、この神社の名前にある「碇」にちなみ、実際に碇が奉納されている点も特徴的です。この碇は、道真公が災難を免れた象徴とされ、地域の人々にとって信仰の対象であるとともに、神社の歴史と深く結びついた重要な存在となっています。
さらに、碇掛天満宮の境内には、多くの境内社があり、それぞれに異なる神々が祀られています。荒神社、志崎神社、御先神社、若宮神社、大山祇神社といった神社があり、地域住民や訪れる人々の多様な祈りを受け止める場となっています。