瀬戸内海を一望できる、美しい砂浜が広がる星の浦海浜公園。
この地には、かつて天から「星の神」が降り立ったという神秘的な伝説が語り継がれており、その逸話にちなみ、「星浦(ほしのうら)」という地名が生まれたといわれています。
この伝承の地にほど近い丘に鎮座するのが、「碇掛天満宮(いかりかけてんまんぐう)」です。
伊予を訪れた学問の神様「菅原道真」
「碇掛天満宮」は、他の天満宮(天満神社)と同じく、学問の神として名高い「菅原道真(すがわらのみちざね)公」を御祭神としています。
菅原道真公(845-903年)は、平安時代を代表する学者であり、詩人、政治家としても卓越した人物でした。
貴族としてはさほど高い家柄の出身ではありませんでしたが、並外れた学才と教養によって朝廷からの注目を集め、「学問の神様」として後世にまで崇敬されています。
学問と文化を導いた右大臣
道真公は幼少期から優れた記憶力を発揮し、漢詩や中国の古典に親しみました。
わずか11歳で詩を詠んでその文才が注目され、20代には当時の最難関試験である「文章得業生試」に合格し、その知識と才能が世に知られるようになりました。
宇多天皇が道真公の才能を高く評価し、道真公を学問と文化の発展に寄与させるとともに、側近として重用したことが大きな転機となりました。
道真公はその博識と誠実さによって宮廷での信頼を深め、最終的には右大臣に昇進しました。
この昇進は当時の社会では非常に稀なことであり、学才と人格がいかに尊ばれたかを物語っています。
詩人としても多くの優れた作品を残し、「菅家文草」などの著作を通じて漢詩の名作が伝わっています。
道真公の詩は自然への賛美や人間の感情を見事に表現しており、後世の人々に深い感銘を与え、日本文学の傑作とされています。
菅原道真公が讃岐に赴任
仁和2年(西暦886年)、中央(京・京都)にて学者・政治家として名声を博していた菅原道真公は、讃岐国(現・香川県)の国司(長官)「讃岐守」に任命され、同国の国府へと赴任しました。
以後、延喜2年(西暦890年)までの4年間、讃岐国の政治を担い、租税制度の整備や地方行政の刷新に尽力しました。
公正で誠実な統治を行い、民衆にも信頼される国司として知られるようになったとされます。
また、学識豊かな人物として教育や文化の振興にも努めたと伝えられています。
「伊予国を視察」津の神に奉幣の儀
その在任中、仁和4年(西暦888年)3月。
讃岐守として政務にあたっていた菅原道真公は、地方行政の状況を把握するため、隣国・伊予国(現・愛媛県)を巡視(視察)に訪れました。
これは、当時の国司に課された重要な職務のひとつであり、隣接する国の治安や税務の状況、寺社のあり方を確認し、朝廷に報告する責任がありました。
伊予国での視察を終えた道真公は、三津の港(現・松山市三津浜)より讃岐への帰途につきました。
ところが、北条沖に差しかかった折、突如として天候が急変し、荒れ狂う風と高波に襲われます。
船は操船困難となり、やがて今治市大西町の星浦(ほしのうら)まで流されてしまいました。
嵐の中、無理に航行を続けることは危険と判断した一行は、やむなく砂浜に碇(いかり)を掛けて停泊し、近くの朽ちた古屋(苫屋)に一時避難しました。
その際、道真公は浜辺に立つカゴノキの大木の根元に祀られていた「津の神(船着場の守護神)」に向かい、」に奉幣(ほうへい)を捧げ、航海の安全を祈りました。
奉幣とは、神々に対して供え物を奉り、感謝や祈願の心を伝える神事であり、古くから朝廷や国司によって執り行われてきた伝統ある儀式です。
この儀式で用いられる「御幣(ごへい)」は、神を招くための依り代(よりしろ)とされ、細長い木や竹に「紙垂(しで)」と呼ばれる独特な形に切った紙や布が飾り付けられます。
御幣は神の降臨を象徴する神聖な捧げ物であり、神事には欠かせないものとされてきました。
道真公がこの地で奉幣の儀を行ったのは、讃岐から伊予への旅の無事を祈るとともに、当地の平和と五穀豊穣を願ってのことだったと考えられます。
道真公が詠じた梅の歌
その後、菅公はこの地のある長者の邸に迎えられ、しばらくの間滞在されました。
ちょうどその頃、庭先では梅の花が満開を迎えており、道真公はその美しい光景に心を寄せ、次の和歌を詠んだと伝えられています。
「古里を思ひわびなん梅の花 木毎に咲きて如何に匂はん」
(ふるさとを慕いわびるこの身に、木々ごとに咲き誇る梅の花は、どれほど香しく感じられることであろうか)
菅原道真公にとって、梅の花は特別な意味を持つものでした。
道真公は幼少の頃より梅をこよなく愛し、自邸の庭にも多くの梅を植え、四季のうつろいを楽しむなかで、深い愛着を抱いていたと伝えられています。
なかでも有名なのが、道真公が太宰府に左遷される際、京の自邸に咲いていた梅の木に別れを告げて詠んだとされる次の歌です。
東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ
(春風が吹いたなら、香りをここへ運んでおくれ、梅の花よ。主がいなくなったからといって、春を忘れてはならない)
星浦の地で満開の梅を前に詠んだとされる歌もまた、こうした道真公の梅への深い愛情がにじみ出た一首であり、この地で過ごしたひとときが、どれほど情緒に満ちていたかを物語っています。
碇掛天満宮の創建へと繋がる出来事
このように、当時すでに学問と政治の両面で名声を博していた菅原道真公が、この地に滞在し、神に祈りを捧げ、梅の花を詠じたという出来事は、地元の人々にとって深く心に刻まれる特別なできごとでした。
そして、道真公が星浦の浜辺で行った奉幣の儀と、その地に残された足跡は、やがて碇掛天満宮創建へとつながっていくことになります。
道真公を襲った不遇の運命
讃岐での任を終え、京へ戻った後も、菅原道真公は朝廷において高く評価され、学問の才のみならず政治手腕にも優れた人物として重用されました。
宇多天皇・醍醐天皇の信任を受け、右大臣にまで昇進するなど、政界の中枢で重要な役職を歴任しました。
しかしその栄光の陰で、道真公には不遇な運命が待ち受けていました。
昌泰4年(901年)、藤原時平の陰謀により無実の罪を着せられ、九州の太宰府に左遷されることとなってしまったのです。
この左遷は、道真公にとって事実上の流刑と同じであり、都から隔離され、過酷な生活を余儀なくされました。
太宰府での過酷な生活
太宰府への道中は、すべての費用が自費で賄われ、到着しても俸給や従者は与えられず、政務を行うことも禁じられていました。
用意された住まいは雨漏りのする粗末な小屋で、衣食住の心配がつきまとう厳しい暮らしが続きました。
それでも、道真公は「いつか再び都に戻りたい」という強い願いを抱きながら、孤独と苦難の生活に耐え続けました。
しかし、次第に身体は衰え、心身の疲労が積み重なり、ついに延喜3年(903年)2月25日、道真公は太宰府で病に倒れ、無念の中でその生涯を閉じました。
道真公の死と人々の祈り
道真公の無念の死は、朝廷のみならず全国の人々に深い衝撃を与えました。
特に、かつての教え子や官人たち、そして道真公のを敬愛していた民衆のあいだでは、「この死は不当であり、道真公は冤罪であった」という思いが強く広がっていきます。
このような世論の動きは、やがて道真公の霊を慰めるための信仰へと発展していきました。
まず延喜3年(903年)、道真公の没後まもなく、太宰府の墓所の上に小さな社が建てられ、霊を慰める祀りが始まりました。
さらに延喜5年(905年)には、道真公の門弟であり、忠実な学僧であった味酒安行(うまさけのやすゆき)が、その墓所の上に廟(みたまや)を建立しました。
この廟はのちに「安楽寺」と称され、道真公を祀る寺院としての歴史を刻み始めます。
そして、この出来事は全国に広がる天神信仰のはじまりでもありました。
菅原道真公の怨霊伝説と都の災厄
この頃、平安京では不吉な出来事が相次ぎ、これらが道真公の怨霊の祟りではないかと恐れられるようになりました。
まず、道真公の弟子でありながら失脚に加担した藤原菅根が、延喜9年(908年)に雷に打たれて急死。
続いて、政敵であった藤原時平も翌年、39歳の若さで病没します。
さらに延喜13年(913年)には、道真公の後任として右大臣に就いていた源光が、狩猟中に落馬によって亡くなりました。
これらの突然の死に加え、都では洪水、長雨、疫病などの天災が次々と発生。
人々はこれらの災厄を、道真公の怨霊による「祟り」と恐れ始めたのです。
太宰府天満宮の創建と鎮魂の始まり
このような状況を重く見た醍醐天皇は、延喜19年(919年)、道真公の霊を鎮めるため、太宰府の安楽寺境内に社殿を建立するよう勅命を下しました。
これが、後の太宰府天満宮の前身となります。
太宰府天満宮は、道真公の霊を慰め、都の安寧を取り戻すための国家的な鎮魂の場として整備されていきました。
しかし、それでも災厄は止まることなく続いていきます。
さらなる災厄と天皇の死
延喜23年(923年)、醍醐天皇の皇子である保明親王が病没しました。
保明親王は、道真公を失脚させた藤原時平の甥にあたる人物であり、その死はただの偶然とは思えないとする声がすでに広がっていました。
さらにその2年後、延長3年(925年)には、保明親王の子であり、皇太孫に任じられていた慶頼王までもが病死します。
これにより、皇統に連なる若き皇族の命が相次いで絶たれたことが、都の人々に不安と不吉の影を落としました。
そして極めつけとなったのが、延長8年(930年)の出来事です。
この年の7月、平安京・清涼殿に落雷が直撃し、朝議の最中であった大納言・藤原清貫をはじめ、かつて道真公の左遷に関与した高官たちに死傷者が続出しました。
雷は天神の怒りの象徴とされており、やがてこの事件が「雷神となった道真公の怨霊の怒り」と信じられるに至ります。
都は騒然とし、恐怖と動揺が広がる中、醍醐天皇もこの事件を深く案じ、心を病んで病床に伏すようになります。
やがて天皇は、皇太子寛明親王(のちの朱雀天皇)に譲位。
しかしそのわずか1週間後の10月23日、亡くなりました。
雷の一撃からわずか数か月、天皇の死という国家の根幹を揺るがす出来事が起こったのです。
菅原道真の名誉回復と怨霊鎮魂
「これはまさしく、無実の罪で死した菅原道真公の祟りである」
醍醐天皇の死は、朝廷にとって極めて深刻な出来事でした。
皇族の崩御が続き、災厄や不吉な出来事が相次ぐ中で、ついには天皇さえも亡くなったことで、「道真公の怨霊を鎮めなければ、さらなる災厄が朝廷や都に降りかかるのではないか」という危機感を持つようになったのです。
そこで朝廷は、道真公の怨霊を鎮め、都の平安を取り戻すために、道真公の名誉を回復するための措置に踏み切ります。
まず、道真公にかけられたすべての罪を赦免し、生前の職位であった右大臣の地位を回復させました。
さらに正二位の位を追贈し、道真公が再び都の中枢において重要な存在であると正式に認められました。
また、道真公の子どもたちは京に呼び戻され、住居と役職を与えられ、家系が再び平安京で栄えるよう配慮されました。
こうして、道真公の一族は平安京においてその存在が認められ、社会的な地位を取り戻すことになりました。
「北野天満宮」の誕生
それでもなお都では災厄が続き、異変が収まることはありませんでした。
朝廷は、さらなる対策として道真公を神格化し、正式に都の守護神として祀ることを決意します。
天暦元年(947年)、御神託に従い、道真公の霊を鎮めるために平安京の北西、鬼門にあたる北野の地に小祠を建てました。
ここに「雷天神(からいてんじん)」として道真公を祀り、怨霊が都を守護する神に変わることを願い、都の平穏と安寧が戻ることを祈りました。
火雷天神は火や雷の強力な力を象徴する神として、都を守護する存在とされました。
こうして怨霊として恐れられていた道真公の霊は逆に都を守る神格として敬われ、祀られることで次第に災厄も収まり、都に安定がもたらされていきました。
この小祠は後に「北野天満宮」として大きな神社へと発展し、道真公を祀る天満宮の総本社とされるようになりました。
さらに北野天満宮は、九州の太宰府天満宮とともに全国にある天満宮・天神社の総本社とされ、道真公への信仰の中心的存在となっていきました。
「天満大自在天神」怨霊から神様へ
こうして、神格化された道真公は、「天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)」という神号を授けられました。
「天満」とは
「天満」とは、「天空に満ちる」という意味を持ち、菅原道真公の霊力が空の果てまで及ぶほど強大であることを象徴しています。
これは、雷神として畏れられていた道真公の怨霊を、逆に都を守護する天の加護の神として再定義し、天に満ちる力強い存在として祀り上げたものです。
この名は、やがて「天満宮」「天満神社」などの社名の由来となり、全国に広がる天神信仰の礎となりました。
今日、私たちが親しみを込めて「天神さま」と呼ぶのも、この「天満大自在天神」の略称にあたります。
「大自在天」
「大自在天(だいじざいてん)」とは、仏教における最高位の天部の神であり、全宇宙(=三千大千世界)を自在に支配する神とされています。
元来は古代インドにおけるシヴァ神(マハーデーヴァ)の仏教的受容によって成立した神格で、ヒンドゥー教では破壊と再生を司る神、仏教においては色界の最上位に住する絶対的な存在として位置づけられました。
この「大自在」とは、“何ものにも縛られず、あらゆることを思いのままに成す力”を意味し、仏教における他の諸天(帝釈天や梵天など)をも凌駕する存在とされています。
そしてこの「大自在天」の名を、日本の朝廷が菅原道真公に与えたことは、神仏習合の思想を体現するものでもありました。
当時の日本では、神と仏の区別は明確でなく、神道の神も仏教の諸尊として読み替えられる(本地垂迹)思想が一般的でした。
怨霊信仰と仏教的加持祈祷が融合した環境の中で、道真公の怒りを静めるには、単なる神格化では足りず、仏教的にも最高位の神に昇格させる必要があったのです。
菅原道真公=学問の神
こうして神様として祀られた道真公は、その高い学識と誠実な人柄、そして清廉な生涯から、やがて「学問の神様」としても信仰されるようになります。
江戸時代に入ると、全国各地に寺子屋や藩校が整備され、学問は武士階級のみならず町人や農民の子どもたちにとっても身近なものとなっていきました。
このような教育の普及とともに、「菅原道真公=学問の神様」という信仰は庶民のあいだにも急速に広がっていったのです。
当時の人々は、「努力すれば出世できる」「学問によって人生を切り拓ける」という思いを抱き、まさに学問のシンボルである道真公に祈りと希望を託すようになったのです。
やがて、天満宮や天神社では「筆始め」「学業祈願」「進学祈願」などの祭事が行われるようになり、受験や就学を控えた子どもたちを連れて参拝する風習が各地で定着していきました。
碇掛天満宮の創建
こうした道真公の霊を鎮めるための取り組みは、都だけにとどまらず、朝廷は同時に諸国にも道真公の御霊を祀るよう命じました。
この命により、各地の神社や寺院で道真公が祀られるようになり、都における北野天満宮と同様に、天神信仰は全国へと広がっていきました。
伊予国でも、道真公ゆかりの地に天満宮が建立されるようになり、今治市域では「綱敷天満神社」をはじめ、数多くの天満神社(天満宮)が誕生していきました。
今治でも綱敷天満神社をはじめ、菅原道真公にゆかりのある場所に多くの天満神社が創建されました。
その中で、天慶5年(942年)9月、道真公を深く崇敬していた伊予の国司・河野安家(越智宿祢安家)が、道真公が滞在したと伝えられる当地において、大宰府天満宮より御霊を勧請し、一社を創設しました。
これが「碇掛(いかりかけ)」と称される天満宮「碇掛天満宮(いかりかけてんまんぐう」の創建になります。
「碇掛」とは
「碇掛(いかりかけ)」という社名は、仁和4年(888年)、菅原道真公が帰路の途中で嵐に見舞われ、星浦の浜辺に碇(いかり)を掛けて船を停泊させたという伝承に由来します。
このとき船をつなぎとめたとされる「碇石」は、讃岐で採取される希少なサヌカイト(讃岐石)でできており、現在も碇掛天満宮の境内に祀られています。
もう一つの創建伝承
創建の時期については、後年の天慶5年(942年)ではなく、それよりも早い時期に創建を伝える説も存在します。
それによれば、延喜元年(901年)1月25日、菅原道真公が左遷の命を受けて京を発ち、太宰府へ向かう途中、大崎下島(現在の広島県呉市・御手洗)沖で嵐に遭遇したと伝えられています。
このとき、無理な航行は危険と判断した道真公一行は、やむなく今治沿岸に碇を掛け、砂浜に一時停泊しました。
その後、嵐が収まり再び道真公が太宰府へと出航した後、この出来事を神聖なものと受け止めた地元の人々は、同年2月中に道真公を祀る社を建立したとされています。
そして天慶5年(942年)9月に、道真公を深く崇敬していた伊予の国司・河野安家(越智宿祢安家)が、道真公がかつて滞在されたと伝えられるこの地に、大宰府天満宮より御霊を勧請したとされています。
このように、碇掛天満宮の起源には延喜元年説と天慶5年説の二系統が伝わっていますが、いずれも菅原道真公と当地との深いゆかり、そして地域の人々の信仰心を物語るものとして、今日まで語り継がれています。
碇掛天満宮の象徴と魅力
境内には、菅原道真公を祀る象徴的な要素が数多く見られます。
天満宮といえば、道真公の使いとされる「牛」がその象徴的存在ですが、碇掛天満宮にも牛が祀られており、多くの参拝者がその姿に触れながら、道真公の御利益を祈念しています。
また、この神社の名前にある「碇」にちなみ、実際に碇が奉納されている点も特徴的です。
この碇は、道真公が災難を免れた象徴とされ、地域の人々にとって信仰の対象であるとともに、神社の歴史と深く結びついた重要な存在となっています。
さらに、碇掛天満宮の境内には、多くの境内社があり、それぞれに異なる神々が祀られています。
荒神社、志崎神社、御先神社、若宮神社、大山祇神社といった神社があり、地域住民や訪れる人々の多様な祈りを受け止める場となっています。
不撓不屈の碑「菅金助君碑」
参道入口には、力強い四文字「不撓不屈(ふとうふくつ)」を刻んだ記念碑があります。
この碑は、地元・小西村星之浦(現今治市)の出身の偉人で、後に日本有数の総合プラント建設企業「スガテック株式会社」の礎を築いた菅金助(すが きんすけ)氏の生涯と功績を讃えるために建てられたものです。
「不撓不屈」とは、どれほどの困難や逆境に直面しても、心がくじけることなく、決して諦めずにやり抜く強い意志と精神力を意味します。
これはまさに、菅氏の人生と信念を象徴する言葉といえるでしょう。
「”菅組の創業”」貧困家庭から創業者へ
明治29年(1896年)6月1日、小西村星之浦に生まれた菅金助氏は、少年時代を貧困の中で育ち、家計を支えるため早くから働きに出ました。
16歳で因島の三庄造船所に徒弟として入門すると、後に播磨・鳥羽の造船所で実績を重ね、若くして多数の職工を統率する立場を任されるまでになりました。
しかし「誰かの下で仕事をするままでは終わらぬ」と、25歳で独立を決意。
大正9年(1920年)に三重県鳥羽町にて「菅組(すがぐみ)」を創業します。
これがスガテック株式会社の起源となりました。
名声を高めた夫婦岩修復
創業間もない「菅組」が全国にその名を知られる契機となったのが、伊勢志摩の名勝「二見浦夫婦岩」の修復工事でした。
大正7年(1918年)9月の台風により、夫婦岩のうち女岩(総重量約40トン)が根元から折れるという甚大な被害を受けました。
しかもこの岩は非常に脆く、触れるだけで崩れそうな状態にあり、難易度の高さから大手の土木会社ですら修復を辞退するほどの難工事と見なされていました。
この事業に、創業からわずか1年後の大正10年(1921年)8月、若き技術者・菅金助氏が果敢に挑みます。
菅氏は、鉄製のバンドと綿で女岩を包み込み、慎重に引き起こすという独自の工法を提案。
さらに模型実験や重量テストを自ら行い、科学的な裏付けをもってこの施工に臨んだのです。
その結果、わずか2か月という短期間で、女岩は原型通りに美しく復元されました。
この修復成功の報は全国に報じられ、菅金助の名と「菅組」の高い技術力と誠実な仕事ぶりは、瞬く間に全国の注目を集めることとなりました。
枕崎台風と星之浦復興
昭和20年(1945年)9月17日から18日にかけて日本を襲った「枕崎台風」は、死者・行方不明者合わせて約3,800人を出す未曾有の大災害となり、後に「昭和の三大台風」の一つに数えられました。
この台風により、菅金助氏の故郷・愛媛県小西村星之浦(星浦)でも、農業用水の要であった「星浦新池(平田池)」が決壊。
水田は干上がり、村の生活基盤と農業は壊滅的な打撃を受けました。
この知らせを受けた金助氏は、ただちに帰郷。
「星浦復興団長」として自ら先頭に立ち、地域の人々を励ましながら復旧工事に取り組みました。
東京で培った人脈を活かして資材を調達し、青年男女を指導・動員。
昼夜を問わず現場に立ち続け、設計と施工の両面に全力を注ぎました。
その結果、翌昭和21年(1946年)5月には池の復旧が完了。
再び村に“生命の水”が戻ったのです。
実は金助氏はそれ以前から毎年数頭の牛を貧しい農家に寄贈するなど、ふるさとの生活向上に尽力していました。
故郷を深く愛し、常に人々の暮らしを気にかけるその姿は、地元の人々の間で尊敬と親しみを込めて語り継がれていました。
しかし、復旧工事の激務と過労がたたり、昭和22年(1947年)12月1日、金助氏は病のため52歳でこの世を去ります。
その早すぎる死は、地元住民のみならず、土木・建設業界全体に大きな衝撃と深い悲しみを与えました。
顕彰碑と継承される精神
そして昭和25年(1950年)4月、金助氏の遺徳を後世に伝えるため、「菅金助君碑」が碇掛天満宮に建立されました。
撰文は従三位・勲二等の政治家、池田敬八。
書は書家・埜本白雲によるものです。
碑には、こう刻まれています。
「君は一介の徒弟より身を起こし、刻苦研鑽、卓越した技能と深き徳性を養い、公共に尽瘁した。
当代稀に見る偉人なり。」
技術者としての腕前にとどまらず、人々を思いやる徳を併せ持った菅金助氏。
その志と行動力は、いまも郷土の記憶に息づいているのです。
スガテックの前身と現在
昭和29年(1954年)、菅氏の精神を受け継ぎ「菅組工事株式会社」が設立されました。
昭和61年(1986年)には「株式会社スガテック(SUGATEC Corporation)」と社名を改め、全国的な総合エンジニアリング企業として発展。
現在では東京都港区に本社を置き、鉄鋼・金属・石油・化学・電力など、各種産業におけるプラント建設、設備設計、保全メンテナンス事業を幅広く展開しています。
その後、本社は東京都港区に置かれ、鉄鋼・金属・石油・化学・電力などの各種産業向けに、プラント建設・設備設計・保全メンテナンスを手がける総合エンジニアリング企業として発展を遂げました。
道真公と菅家の繋がり
実は、菅金助氏の一族には、菅原道真公と深い縁をもつ伝承が受け継がれています。
道真公が船で大宰府へ向かう途中、暴風雨に見舞われ、星浦に一時避難されたことがあったといいます。
その際、船は破損しており、修復が必要でした。
このとき、菅金助氏の祖先にあたる人物が、船の修理をし、道真公は、その尽力により無事に再び大宰府へと出航することができたとされています。
そして、その功績をたたえ、道真公より「菅」の姓を直々に賜ったと語り継がれています。
この由緒にちなみ、1920年の創業以降の、スガテック(旧・菅組)の社章には、創業者の姓「菅」と、道真公ゆかりの「梅の花」が意匠として組み込まれてきました。
そしてその伝統は今日まで受け継がれ、代々、梅鉢紋をあしらったロゴが使用され、家系の誇りと由緒ある精神を今に伝えています。