『今治藩主の墓(いまばりはんしゅのはか)』は、かつてこの地を治めた久松松平家の藩主たちが眠る場所です。
初代今治藩主・松平定房(さだふさ)、第3代藩主・松平定陳(さだのぶ)、第4代藩主・松平定基(さだもと)の三基の墓が並び、江戸時代前期の大名墓所として格式高く整えられたこの場所は、今も県指定史跡として大切に守られています。
墓所は愛媛県今治市桜井地区の唐子山(古国分山)の中腹にあります。
国分山城跡の登山口近くにある駐車場から歩みを進め、鳥越池の分岐を過ぎて城跡とは反対側の丘へ向かうと、緩やかな坂道の先に木々の間から瓦葺きの塀と石垣が少しずつ姿を現します。
やがて静寂に包まれた空間が広がり、その奥に三人の藩主が静かに眠っています。
墓所の構造と特徴
墓所は、およそ1.8アール(180平方メートル)の広さを持ち、周囲は瓦葺きの土塀で囲まれています。内部は正面から参道が延び、その奥に三基の墓塔が整然と並びます。
中央に初代藩主・松平定房、左に第3代藩主・松平定陳、右に第4代藩主・松平定基が配置され、左右対称の美しい構成となっています。
土塀の存在は、墓所が藩主という高位の人物を葬る特別な場であったことを示しています。
宝篋印塔の形式と特徴
三基の墓はいずれも高さ約3.6メートルの宝篋印塔(ほうきょういんとう)です。
宝篋印塔は中世以降、墓塔や供養塔として用いられた仏塔の一種で、主に高位の人物のために建立されました。
構造は、頂上の宝珠、相輪、笠、塔身、基礎から成り、四隅には隅飾(耳)が付けられています。
今治藩主の墓塔は、江戸時代に見られる隅飾の大きく反り返った様式を備え、威厳と格式を感じさせます。
石肌には長年の風雨が刻んだ風合いがあり、建立当時からの歴史を今に伝えています。
参道と石灯籠
墓前へと続く参道はまっすぐに伸び、その両側には石灯籠が60基以上並びます。
これらは今治藩の家臣たちが歴代藩主を弔うために奉納したもので、灯籠には奉納者名や家紋が刻まれています。
奉納灯籠の存在は、藩主と家臣団の深い絆を物語るとともに、藩主の人望の厚さを示す貴重な史料でもあります。
長年の風雨により表面は苔むし、刻銘は一部が摩耗していますが、その姿からは時代の重みと信仰の厚さが感じられます。
江戸時代前期の大名墓所としての格式と整然とした構造は、県指定史跡にふさわしい品格を備え、現在も地域や関係者によって大切に管理され、藩政時代からの歴史を静かに伝え続けています。
【初代藩主】「松平定房」
『今治藩主の墓』の正面に眠る初代藩主「松平定房(まつだいら さだふさ)」は、今治藩の礎を築いた人物であり、松平(久松)定勝の五男として生まれました。
兄は松山藩初代藩主の松平定行、父の定勝は徳川家康の同母弟であり、松平家は幕府の親藩として強い影響力を持つ家系でした。定房の妹は老中井伊直行の正室となるなど、幕府内での繋がりも深い家柄でした。
寛永12年(1635年)、伊勢長島藩7千石から3万石に加増され、今治藩の初代藩主となった松平定房は、藩の統治を担うとともに、領民の生活を安定させるための産業振興に力を注ぎました。
特に、塩田の開発と綿花の栽培の推進は、今治藩の経済基盤を築く大きな功績となりました。
今治は瀬戸内海の温暖な気候と穏やかな海に恵まれ、塩田の開発に適した土地でした。定房の奨励により大規模な塩田が整備され、生産された塩は瀬戸内海沿岸を中心に流通し、今治藩の重要な財源となりました。
また、綿花の栽培を積極的に推奨し、これが織物産業の発展につながりました。
この流れが後の今治タオルの礎となり、現代にも受け継がれています。
さらに、これらの産業の発展に伴い海運業も成長し、商業の活性化を促進しました。
今治藩が築いた海運の基盤は、現在の海事都市「今治市」の発展にもつながる重要な要素となっています。
定房は藩政の整備に尽力するとともに、幕府からの厚い信頼を受け、江戸城の城代という要職を任されました。その功績が評価され、さらに1万石の加増を受け、最終的には4万石の大名へと昇りました。
そして延宝4年(1676年)、73歳でその生涯を閉じ、今治藩の礎を築いた名君として歴史に名を刻みました。
【3代藩主】「松平定陳」
『今治藩主の墓』の正面から左側に眠る「松平定陳(さだのぶ)」は、藩政改革に力を注ぎ、今治藩の発展に大きく貢献した名君とされています。
その治世はわずか26年でしたが、その間に軍事体制の強化、農業政策の改革、新田開発、商業の安定化など多方面で実績を残しました。
特に、江島為信(えじま ためのぶ)という兵学者を重用し、藩の軍事体制を整備しました。
江戸時代の平和な時代においても、藩の軍備を強化することは、領内の治安維持や幕府との信頼関係を築くうえで重要な要素でした。
また、定陳は農業政策にも力を入れ、甘藷(さつまいも)の栽培を奨励し、新田開発を推進しました。
甘藷は痩せた土地でも育ちやすく、飢饉対策としても有効な作物でした。
さらに、大島での塩田開発を行い、今治藩の特産品である塩の生産を拡大。
これにより藩の経済力を向上させるとともに、商業の発展を促しました。
定陳は、商業の安定化を目的として元禄8年(1685年)に「町法度(はっと)」を発布し、商人による買い占めや売り惜しみを禁止しました。
この政策は城下町の経済活動を活性化させ、庶民の生活を安定させる役割を果たしました。
また、元禄11年(1698年)には、幕府の命により関東にあった5,000石の飛び地を返還し、その代わりに伊予国宇摩郡の18村を領地として受領しました。
宇摩郡の土地は急斜面が多く、灌漑が難しいため農業生産には不向きでしたが、定陳は有能な代官を派遣し、ため池の建設や井関(いせき)の修築を進め、農業生産の向上を図りました。
その結果、年貢の収公率を大幅に向上させ、藩の財政基盤を強化しました。
このように、松平定陳は今治藩の発展に大きく貢献しましたが、元禄15年(1702年)、わずか36歳という若さでこの世を去りました。
しかし、政策や改革は今治藩の基盤を築き、その後の発展へとつながっていきました
【4代藩主】「松平定基」
『今治藩主の墓』の正面から右側に眠る4代藩主・松平定基(まつだいら さだもと)は、31年間にわたる治世の中で、多くの自然災害に見舞われました。
宝永4年(1707年)10月28日に発生した宝永地震は、南海トラフ巨大地震の一つとされる大規模な地震で、愛媛県今治市(大三島町)を含む瀬戸内地域にも大きな被害をもたらしました。
この地震により、今治でも強い揺れと津波が発生し、沿岸部の村々に甚大な影響を及ぼしました。城下町の建物や橋が倒壊し、農地にも被害が出たと記録されています。
その後も、宝永7年(1710年)と享保7年(1722年)には蒼社川(そうじゃがわ)の氾濫による大洪水が発生し、城下町や周辺の農村に甚大な被害をもたらしました。
また、享保5年(1720年)には今治の室屋町で大火が起こり、城下町の多くが焼失しました。これらの災害により、藩は復興に追われることとなりました。
定基は、これらの災害復興に尽力し、特に度重なる水害の被害を抑えるため、蒼社川の改修事業を進め、治水対策を強化しました。
当時の蒼社川は、現在とは異なり、大きく蛇行しながら流れていたため、洪水の発生リスクが高い状態でした。この改修事業では、川の流れを直線化し、堤防を強化することで氾濫のリスクを軽減し、今治藩の水害対策を大きく改善しました。
また、川の付け替えだけでは豪雨時に水が溢れる可能性があったため、堤防の強化や植林による地盤の安定化も進められました。
さらに、定期的に川の浚渫(しゅんせつ)を行うために宗門掘りという制度を導入し、河川の維持管理を徹底しました。
このような復興と治水の取り組みにより、藩内の安全が確保され、住民の暮らしが安定しました。定基は宝暦9年(1759年)、74歳でこの世を去りました。
今治藩の所領と分家の影響
今治藩の所領は、2代藩主・松平定時(まつだいら さだとき)の時代に3万5千石に変更されました。
定時は弟の松平造道(つくりみち)に5千石を分与し、新たな分家を成立させました。これにより今治藩の所領は3万5千石となり、その後の藩政にも影響を与えました。
久松松平家はその後も今治藩主として統治を続けましたが、幕末の動乱を経て、明治維新を迎えました。
明治元年(1868年)、新政府の太政官布告により、今治藩は版籍奉還に応じ、藩を返上しました。
これに伴い、松平家は旧姓である「菅原姓久松氏」に復姓し、幕府の親藩として名乗っていた「松平」姓を廃棄しました。
翌明治2年(1869年)、版籍奉還により、10代藩主・松平(久松)定法(まつだいら さだのり)は今治藩の藩知事に任命され、引き続き行政を担うことになりました。
しかし、新政府の統治機構の変化により、藩制度そのものが存続することはありませんでした。
明治4年(1871年)、政府の廃藩置県の実施により、今治藩は正式に廃止されました。
これにより、久松松平家が今治藩を統治していた時代も終わることになりました。
今治藩の居城であった今治城も廃城の道をたどり、明治5年(1872年)までの間に城内の建物は取り壊され、石垣と堀を残すのみとなり、江戸時代を象徴する城郭は姿を消しました。
その後、今治藩の領地は「今治県」として一時存続しましたが、わずか2年後の明治6年(1873年)には松山県と合併し、さらに統合が進み、愛媛県が発足しました。
こうした時代の流れの中で、居城であった今治城が廃城となったこともあり、10代藩主・松平(久松)定法の代に久松松平家は東京へと移住しました。
これにより、約236年にわたり今治を治めた久松松平家の歴史は幕を閉じることになったのです。
その後の久松松平家は、明治政府の新たな体制のもと、旧大名家は華族として存続し、明治17年(1884年)の華族令施行により、久松松平家は「子爵」に列せられました。
その子孫は明治以降も軍や政治の分野で活躍し、特に久松定秋(さだあき)子爵は貴族院議員として活動するなど、足跡を残しました。
かつて藩政を支え、城下町の発展に尽力した藩主たちの足跡は、今もこの地に刻まれています。
江戸時代を通じて築かれた町並みや、城下に残る史跡は、往時の繁栄を静かに物語っています。
松平家藩主の墓所と霊巌寺
さて、このように長きにわたり今治藩主を務めてきた久松松平家ですが、今治の古国分山には初代藩主松平定房、3代藩主松平定陳、4代藩主松平定基の墓があるものの、2代藩主松平定時をはじめとするその後の歴代藩主の墓は存在しません。
では、いったいどこにあるのでしょうか?
そのヒントは、江戸時代の制度である「参勤交代(さんきんこうたい)」にあります。
参勤交代
参勤交代とは、江戸幕府が全国の大名に課した制度で、各藩の藩主は1年おきに江戸と領地を往復し、江戸に屋敷を構えて暮らすことが義務付けられていました。
これは単なる儀礼ではなく、幕府が大名を統制し、反乱を防ぐための重要な政策でした。
大名に頻繁な移動と江戸での生活を強いることで、藩の財政を圧迫させ、反乱を起こす余裕を奪うという狙いがありました。
また、大名が江戸に定期的に滞在することで幕府はその動向を監視しやすくなり、謀反を未然に防ぐことができました。
さらに、大名の正室や世継ぎとなる子供は江戸に常住することが義務付けられており、万が一大名が幕府に反抗すれば、江戸にいる家族が人質となるため、謀反を防ぐ強力な抑止力となりました。
この制度の影響で、多くの大名は江戸で生まれ、江戸で育ち、そして江戸で亡くなることが一般的になりました。藩主が領地で亡くなるとは限らず、江戸で最期を迎えることも少なくなかったのです。
当時の埋葬は土葬が一般的でしたが、亡くなった遺体を遠く離れた領地まで運ぶことは容易ではありませんでした。
特に夏場に亡くなった場合、長距離の移動は腐敗の問題もあり、非常に困難でした。
そのため、江戸で亡くなった藩主たちは、江戸に菩提寺を持ち、そこで葬られることが一般的でした。
この制度の影響で、多くの大名は江戸で生まれ、育ち、そして最期も江戸で迎えることが少なくありませんでした。
当時は土葬が主流でしたが、遺体を遠く離れた領地まで運ぶのは困難でした。特に夏場は腐敗が進みやすく、長距離の移送は現実的ではありませんでした。
これらの理由のため、江戸で亡くなった藩主は、江戸に設けられた菩提寺に埋葬されるのが一般的になりました。
今治藩の松平家も例外ではなく、江戸の霊巌寺(れいがんじ)を菩提寺としました。
「霊巌寺」
霊巌寺は、東京都江東区白河一丁目にある浄土宗の寺院で、山号は道本山、院号は東海院、本尊は阿弥陀如来です。
江戸時代には関東十八檀林の一つに数えられ、多くの学僧が修行に励む学問寺として知られると同時に、数多くの大名家の菩提寺としても格式を誇りました。
開山は、浄土宗総本山・知恩院第32世住職を務めた雄誉霊巌(おうよれいがん)上人で、寛永元年(1624)に日本橋付近の埋立地である霊巌島(現在の東京都中央区新川)に創建されました。
寺号は上人の法号に由来します。
霊巌上人は天文23年(1554)駿河国沼津に生まれ、幼くして出家。下総国生実の大巌寺三世を経て、徳川家康の招きで関東に戻り、江戸で教線を広げました。
寛永6年には京都知恩院の住職に就任し、寛永18年に江戸で88歳の生涯を閉じています。
明暦3年(1657)、江戸を襲った明暦の大火により霊巌島の霊巌寺は全焼。
周辺では約1万人もの避難民が犠牲になったと伝わります。
翌万治元年(1658)、幕府の都市改造計画の一環として深川の現在地に移転しました。
新たな寺地は広大で、檀林としての学寮や塔頭寺院が立ち並び、多くの大名家が菩提寺としました。
その中には、今治藩松平家や膳所藩本多家といった名家も含まれています。
かつての今治藩松平家の墓所は、歴代藩主をはじめ、正室や幼くして亡くなった子どもたちの墓が並び、かつては数十基もの墓石が整然と立ち並ぶ壮麗な景観を誇りました。
しかし、大正12年(1923)の関東大震災によって霊巌寺と墓所は壊滅的な被害を受け、多くの墓石が倒壊・破損しました。
その後の復興過程で東京市の要請により墓域は整理・縮小され、現存していた2代藩主松平定時の墓石を基に歴代藩主や家族を合葬することが決定。
昭和初期の整理時には、保存状態が良く形の整った石造五輪塔が選ばれ、松平家墓所の象徴として現在まで残されています。
現在、この五輪塔のもとには、2代藩主松平定時をはじめ、5代定郷、6代定休、7代定剛、8代定芝、9代勝道、10代定法といった歴代藩主の遺骨が納められています。
正室や子どもたちも同じく合祀され、往時の面影を静かに伝えています。
境内には江戸六地蔵の第五番が安置されており、これは享保5年(1720)に江戸市中の街道付近に安置された六体の大地蔵の一つで、旅人や庶民の信仰を集めた歴史を持ちます。
震災や戦災を経た現在の本堂は昭和56年(1981)に再建されたもので、地域の信仰と歴史を今に伝える場として機能しています。
東京に眠る今治藩主を訪ねて
霊巌寺へは、都営大江戸線・東京メトロ半蔵門線「清澄白河駅」A3出口から徒歩約3分とアクセスも良好です。
東京を訪れた際には、ぜひ足を運び、静かな境内で今治藩主ゆかりの五輪塔に手を合わせてみてください。
藤堂高虎のお墓はどこに?
ここまでが今治藩主の話ですが、もう一人、今治の歴史の中で重要な人物がいます。
それが藤堂高虎(とうどう たかとら・1556~1630)です。
誤解されることも多いのですが、藤堂高虎は厳密には今治藩主ではなく、「今治藩主の墓」にも眠っていません。
藤堂高虎と今治の関係
藤堂高虎は、近江国犬上郡藤堂村(現・滋賀県)に生まれた戦国武将です。
若くして幾度も主君を替えながらも、その築城の才と忠義心で頭角を現し、やがて天下人・徳川家康から厚い信頼を得る人物となりました。
もともとは豊臣秀長の家臣として仕え、各地での戦功と城普請の腕前を評価されます。
秀長没後は一時出家しますが、豊臣政権に復帰し、伊予板島(現在の宇和島市)で7万石を領していました。
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いで高虎は徳川家康方に与します。本戦では東軍先鋒の一翼を担い、西軍と激戦を繰り広げたほか、開戦前には西軍諸将の寝返り工作にも尽力したとされます。
この調略は戦況を大きく傾け、東軍勝利の一因となりました。
同年、こうした武功と政治的手腕が高く評価され、伊予今治20万石を与えられ、桜井地区の国分山城(古国分山)を居城とし、この地の領主に着任しました。
当時の戦国大名にとって、新領地を得た際に最も重要な仕事は、政治・軍事・経済の拠点となる城を整備することでした。
城は単なる防御施設ではなく、城下町の形成や領国経営の中枢となる存在だったのです。
しかし、国分山城は中世以来の山城で、急峻な地形を利用した防御力には優れていたものの、物資の集散や港町の形成には不向きでした。
そこで高虎は、瀬戸内海交通の要衝である今張浦(いまはりうら)沿岸部に着目します。ここは海運の拠点として理想的な立地であり、交易や城下町の発展に直結すると考えたのです。
慶長7年(1602年)から築城工事を開始し、慶長9年(1604年)には今治城と城下町が完成しました。
今治城は堀に海水を引き込む海城(うみじろ)として設計され、防御性の高さと海運活用の両立を実現しました。
この構造は後世まで高く評価され、現代の今治港にもつながる発展の原点となります。
今治藩の成立と藤堂家の転封
しかし、高虎の今治統治は長く続きませんでした。
慶長13年(1608年)、幕府の命により伊勢・伊賀へ32万石で転封されます。この人事は、徳川家康が信頼厚い高虎を江戸と京都の中間に置き、西国大名への備えとした戦略的配置といわれています。
高虎の転封後は、家臣で養子の藤堂高吉(とうどう たかよし)が今治城代として統治を継続しましたが、寛永12年(1635年)に藤堂家は伊賀国名張に領地替えとなり、藤堂家による今治統治はわずか35年間で終わります。
藤堂家の退去後、今治に入ったのが久松松平家です。
江戸時代の「藩」は、幕府が諸大名に与えた領地を基盤とし、その大名が行政・軍事・司法を一元的に担う体制で、制度として形が整うのは17世紀前半です。
藤堂高虎が今治を治めた1600年から1608年は、江戸幕府が成立して間もない時期で、この藩制度がまだ固まっていませんでした。
したがって、歴史的には高虎は今治城主(領主)ではあっても、「今治藩主」ではなかったのです。
今治の基盤を築いた藤堂高虎の功績
それでも高虎は、短い統治の中で今治城と城下町を築き、港と町を一体化させる都市構造を整えました。
これが後の今治藩の基盤となり、近世から現代まで続く今治の街づくりの骨格を形づくったのです。
高虎が設計した城の内港は、後に今治港として受け継がれ、大正11年(1922年)には四国で初めて外国貿易港に指定されました。
港湾の発展は市の経済や文化を支え、今治は瀬戸内の要衝として成長を続けます。
こうした功績から、高虎は「今治市の基盤を築いた偉人」として市民に広く親しまれています。
平成16年(2004年)には、市内中心部の吹揚公園に高虎像が建立され、その姿は今も港町を見守り続けています。
そして令和4年(2022年)、開港100周年を迎える節目の年には「高虎サミット」が開催され、高虎の城づくりと港づくりが改めて評価されました。
藤堂高虎が残した遺産は、400年以上の時を超えて、今も今治の風景と人々の記憶の中に息づいているのです。
藤堂高虎の墓所はどこに?
藤堂高虎は、東京都台東区の上野恩賜公園内、現在の上野動物園敷地の一角に残る藤堂家墓所に眠っています。
ここは江戸時代、伊勢国津藩主・藤堂家の江戸での菩提寺である「寒松院(かんしょういん)」の境内でした。
寒松院は寛永2年(1625年)に建立された藤堂家の菩提寺で、その寺名は初代津藩主・藤堂高虎の戒名「寒松院殿道賢高山権大僧都」に由来します。
建立当初から上野東照宮の別当寺としても機能し、江戸における藤堂家の信仰と格式を象徴する存在でした。
しかし、明治期の廃仏毀釈や都市整備の影響で寺そのものは失われ、墓所だけが残さました。
藤堂家墓所には、初代藩主・藤堂高虎から第10代藩主までの歴代津藩主の墓が整然と並びます。
いずれも宝篋印塔(ほうきょういんとう)型の墓塔で、高さは3.5メートルを超え、堂々たる風格を誇ります。
高虎の正室をはじめ、藩主家の女性や親族の墓も含まれ、南北二列に規則正しく配置され、周囲には大小60基以上の石灯籠が立ち並び、荘厳な雰囲気を醸し出しています。
現在、この墓所は東京都指定史跡として保存され、石垣や配置は江戸時代当時の様式を良好に保っています。
特に高虎の墓塔は敷地の中央奥に据えられ、参道から真っ直ぐ見通せるよう設計されており、その存在感は今も訪れる人に強い印象を与えます。
ただし、墓所は上野動物園の園内にある非公開エリアに位置しており、一般来園者が内部に立ち入ることはできず、写真撮影も禁止されています。
一方で、園外に残る旧寒松院の門から外観を望むことは可能で、門越しに見える石垣や木立は、静かな時の流れを感じさせます。
東京で今治の歴史を感じる
東京を訪れた際には、霊巌寺だけでなく、藤堂高虎が眠るこの歴史ある藤堂家墓所にもぜひ思いを馳せてみてください。
たとえ内部に立ち入ることはできなくとも、上野恩賜公園の静かな一角に残る旧寒松院の門越しに、その存在を感じることができるでしょう。
今治の基盤を築いた偉人が、遠く離れた東京で今も静かに時を刻み続けている。
それは、歴史や遺産が時と距離を超えて受け継がれていくことの証であり、今治の歩んできた道のりの深さを私たちに伝えているのです。