『今治藩主の墓』は、今治市桜井地区の古国分山(ふるこくぶやま)の中腹に位置し、国分山城跡の登山口近くにある駐車場から向かうことができます。
そこから鳥越池の分岐点を過ぎ、国分山城跡とは反対側の丘を登ると、ひっそりと佇む史跡が見えてきます。ここには、今治藩の初代藩主・久松松平家の「松平定房(さだふさ)」、3代藩主「松平定陳(さだのぶ)」、4代藩主「松平定基(さだもと)」の墓が安置されています。
この墓所は、江戸時代前期の大名墓所として格式の高いものであり、厳かな雰囲気に包まれており、県指定史跡として今も大切に守られています。
墓所の構造と特徴
墓所は約1.8アール(180メートル)の広さがあり、それぞれの墓は瓦葺土塀に囲まれています。墓碑の高さは3.6メートルにもおよび、すべて宝篋印塔(ほうきょういんとう)の形式となっています。墓の前には参道が整備され、中央には初代松平定房の墓があり、その左側に3代定陳、右側に4代定基の墓が並んでいます。
墓所の前には、藩主たちを弔うための参道が整備されており、その周囲には今治藩の家臣たちが奉納したとされる60基以上の石灯籠が厳かに並んでいます。これらの灯籠は、歴代藩主への敬意と感謝の証として捧げられたものであり、時を超えて今もなお墓所を静かに守り続けています。
藤堂高虎は今治藩主ではない?
誤解されることもありますが、今治を統治していた大名として、まず名前が挙がる「藤堂高虎(とうどうたかとら)」は今治藩主ではなく、お墓は東京都台東区の上野動物園内にあります。
藤堂高虎はもともと豊臣秀長の家臣として仕えており、伊予板島(現在の宇和島市)で7万石を領有していました。しかし、関ヶ原の戦いで徳川家康側についたことで、戦後に大きく加増され、慶長5年(1600年)に伊予今治20万石の大名となりました。
戦国時代の大名たちは、新しい領地を得ると、その地域の統治拠点を築くことが重要でした。当初、高虎は桜井地区の「国分山城(古国分山)」を拠点としていましたが、この城は中世の山城であり、戦国時代の拠点としては不十分でした。山城は防御には適していましたが、城下町の形成や海運を活かすには適していませんでした。
そこで高虎は、現在の今治市街地にあたる今張浦(いまはりうら)の沿岸部に新たな城を築くことを決めました。慶長7年(1602年)から築城を開始し、慶長9年(1604年)に今治城と城下町を完成させました。今治城は、海水を堀に引き込んだ海城として設計され、城の防御力を高めるとともに、海運を活かした経済活動にも適した城となりました
しかし、藤堂高虎は慶長13年(1608年)に幕府の命により今治から伊勢・伊賀へ32万石で転封されることになりました。
城主を失った今治城は、高虎の家臣で藤堂家の養子である藤堂高吉(とうどう たかよし)が城代となり、この地域を引き続き統治していましたが、寛永12年(1635年)に藤堂家自体が伊賀国名張に領地替えとなったため、藤堂家の今治統治はわずか35年ほど終了しました。
その後、入れ替わる形でこの地を納めることになったのが「久松松平家」です。久松松平家は今治上を居城として今治藩を立藩、以降廃藩置県となる明治4年(1871年)までの約236年間にわたってこの地を納めました。
つまり藤堂高虎は今治城主でこの地を統治していましたが、その期間は1600年から1608年までのわずか8年間だけあり、今治藩主もありませんでした。
しかし、藤堂高虎は今治城の築城と城下町の整備により、今治の発展の基盤を築いたことは間違いありません。高虎の設計した城は、以降の今治藩の中心地として機能し、幕末まで藩政の重要な拠点となったのです。
このことから、今治ではその功績を称え、藤堂高虎を偲ぶ碑や銅像が設置されるなど、今治市民にとって馴染み深い存在となっています。
【初代藩主】「松平定房」
『今治藩主の墓』の正面に眠る初代藩主「松平定房(まつだいら さだふさ)」は、今治藩の礎を築いた人物であり、松平(久松)定勝の五男として生まれました。
兄は松山藩初代藩主の松平定行、父の定勝は徳川家康の同母弟であり、松平家は幕府の親藩として強い影響力を持つ家系でした。定房の妹は老中井伊直行の正室となるなど、幕府内での繋がりも深い家柄でした。
寛永12年(1635年)、伊勢長島藩7千石から3万石に加増され、今治藩の初代藩主となった松平定房は、藩の統治を担うとともに、領民の生活を安定させるための産業振興に力を注ぎました。特に、塩田の開発と綿花の栽培の推進は、今治藩の経済基盤を築く大きな功績となりました。
今治は瀬戸内海の温暖な気候と穏やかな海に恵まれ、塩田の開発に適した土地でした。定房の奨励により大規模な塩田が整備され、生産された塩は瀬戸内海沿岸を中心に流通し、今治藩の重要な財源となりました。また、綿花の栽培を積極的に推奨し、これが織物産業の発展につながりました。この流れが後の今治タオルの礎となり、現代にも受け継がれています。
さらに、これらの産業の発展に伴い海運業も成長し、商業の活性化を促進しました。今治藩が築いた海運の基盤は、現在の海事都市「今治市」の発展にもつながる重要な要素となっています。
定房は藩政の整備に尽力するとともに、幕府からの厚い信頼を受け、江戸城の城代という要職を任されました。その功績が評価され、さらに1万石の加増を受け、最終的には4万石の大名へと昇りました。
そして延宝4年(1676年)、73歳でその生涯を閉じ、今治藩の礎を築いた名君として歴史に名を刻みました。
【3代藩主】「松平定陳」
『今治藩主の墓』の正面から左側に眠る「松平定陳(さだのぶ)」は、藩政改革に力を注ぎ、今治藩の発展に大きく貢献した名君とされています。その治世はわずか26年でしたが、その間に軍事体制の強化、農業政策の改革、新田開発、商業の安定化など多方面で実績を残しました。
特に、江島為信(えじま ためのぶ)という兵学者を重用し、藩の軍事体制を整備しました。江戸時代の平和な時代においても、藩の軍備を強化することは、領内の治安維持や幕府との信頼関係を築くうえで重要な要素でした。
また、定陳は農業政策にも力を入れ、甘藷(さつまいも)の栽培を奨励し、新田開発を推進しました。甘藷は痩せた土地でも育ちやすく、飢饉対策としても有効な作物でした。
さらに、大島での塩田開発を行い、今治藩の特産品である塩の生産を拡大。これにより藩の経済力を向上させるとともに、商業の発展を促しました。
定陳は、商業の安定化を目的として元禄8年(1685年)に「町法度(はっと)」を発布し、商人による買い占めや売り惜しみを禁止しました。この政策は城下町の経済活動を活性化させ、庶民の生活を安定させる役割を果たしました。
また、元禄11年(1698年)には、幕府の命により関東にあった5,000石の飛び地を返還し、その代わりに伊予国宇摩郡の18村を領地として受領しました。宇摩郡の土地は急斜面が多く、灌漑が難しいため農業生産には不向きでしたが、定陳は有能な代官を派遣し、ため池の建設や井関(いせき)の修築を進め、農業生産の向上を図りました。その結果、年貢の収公率を大幅に向上させ、藩の財政基盤を強化しました。
このように、松平定陳は今治藩の発展に大きく貢献しましたが、元禄15年(1702年)、わずか36歳という若さでこの世を去りました。しかし、彼の政策や改革は今治藩の基盤を築き、その後の発展へとつながっていきました
【4代藩主】「松平定基」
『今治藩主の墓』の正面から右側に眠る4代藩主・松平定基(まつだいら さだもと)は、31年間にわたる治世の中で、多くの自然災害に見舞われました。
宝永4年(1707年)10月28日に発生した宝永地震は、南海トラフ巨大地震の一つとされる大規模な地震で、愛媛県今治市(大三島町)を含む瀬戸内地域にも大きな被害をもたらしました。この地震により、今治でも強い揺れと津波が発生し、沿岸部の村々に甚大な影響を及ぼしました。城下町の建物や橋が倒壊し、農地にも被害が出たと記録されています。
その後も、宝永7年(1710年)と享保7年(1722年)には蒼社川(そうじゃがわ)の氾濫による大洪水が発生し、城下町や周辺の農村に甚大な被害をもたらしました。また、享保5年(1720年)には今治の室屋町で大火が起こり、城下町の多くが焼失しました。これらの災害により、藩は復興に追われることとなりました。
定基は、これらの災害復興に尽力し、特に度重なる水害の被害を抑えるため、蒼社川の改修事業を進め、治水対策を強化しました。当時の蒼社川は、現在とは異なり、大きく蛇行しながら流れていたため、洪水の発生リスクが高い状態でした。この改修事業では、川の流れを直線化し、堤防を強化することで氾濫のリスクを軽減し、今治藩の水害対策を大きく改善しました。
また、川の付け替えだけでは豪雨時に水が溢れる可能性があったため、堤防の強化や植林による地盤の安定化も進められました。さらに、定期的に川の浚渫(しゅんせつ)を行うために宗門掘りという制度を導入し、河川の維持管理を徹底しました。
このような復興と治水の取り組みにより、藩内の安全が確保され、住民の暮らしが安定しました。定基は宝暦9年(1759年)、74歳でこの世を去りました。
詳しくはこちらから▶︎「蒼社川の氾濫を止めろ!」今治が1200年かけて積み上げた治水プロジェクト
今治藩の所領と分家の影響
今治藩の所領は、2代藩主・松平定時(まつだいら さだとき)の時代に3万5千石に変更されました。定時は弟の松平造道(つくりみち)に5千石を分与し、新たな分家を成立させました。これにより今治藩の所領は3万5千石となり、その後の藩政にも影響を与えました。
久松松平家はその後も今治藩主として統治を続けましたが、幕末の動乱を経て、明治維新を迎えました。
明治元年(1868年)、新政府の太政官布告により、今治藩は版籍奉還に応じ、藩を返上しました。これに伴い、松平家は旧姓である「菅原姓久松氏」に復姓し、幕府の親藩として名乗っていた「松平」姓を廃棄しました。
翌明治2年(1869年)、版籍奉還により、10代藩主・松平(久松)定法(まつだいら さだのり)は今治藩の藩知事に任命され、引き続き行政を担うことになりました。しかし、新政府の統治機構の変化により、藩制度そのものが存続することはありませんでした。
明治4年(1871年)、政府の廃藩置県の実施により、今治藩は正式に廃止されました。これにより、久松松平家が今治藩を統治していた時代も終わることになりました。
今治藩の居城であった今治城も廃城の道をたどり、明治5年(1872年)までの間に城内の建物は取り壊され、石垣と堀を残すのみとなり、江戸時代を象徴する城郭は姿を消しました。
その後、今治藩の領地は「今治県」として一時存続しましたが、わずか2年後の明治6年(1873年)には松山県と合併し、さらに統合が進み、愛媛県が発足しました。
こうした時代の流れの中で、居城であった今治城が廃城となったこともあり、10代藩主・松平(久松)定法の代に久松松平家は東京へと移住しました。
これにより、約236年にわたり今治を治めた久松松平家の歴史は幕を閉じることになったのです。
その後の久松松平家は、明治政府の新たな体制のもと、旧大名家は華族として存続し、明治17年(1884年)の華族令施行により、久松松平家は「子爵」に列せられました。その子孫は明治以降も軍や政治の分野で活躍し、特に久松定秋(さだあき)子爵は貴族院議員として活動するなど、足跡を残しました。
かつて藩政を支え、城下町の発展に尽力した藩主たちの足跡は、今もこの地に刻まれています。江戸時代を通じて築かれた町並みや、城下に残る史跡は、往時の繁栄を静かに物語っています。
松平家藩主の墓所と霊巌寺
さて、このように長きにわたり今治藩主を務めてきた久松松平家ですが、今治の古国分山には初代藩主松平定房、3代藩主松平定陳、4代藩主松平定基の墓があるものの、2代藩主松平定時をはじめとするその後の歴代藩主の墓は存在しません。
では、いったいどこにあるのでしょうか?
その答えは、江戸時代の制度である「参勤交代(さんきんこうたい)」にあります。
参勤交代とは、江戸幕府が全国の大名に課した制度で、各藩の藩主は1年おきに江戸と領地を往復し、江戸に屋敷を構えて暮らすことが義務付けられていました。
これは単なる儀礼ではなく、幕府が大名を統制し、反乱を防ぐための重要な政策でした。大名に頻繁な移動と江戸での生活を強いることで、藩の財政を圧迫させ、反乱を起こす余裕を奪うという狙いがありました。
また、大名が江戸に定期的に滞在することで幕府はその動向を監視しやすくなり、謀反を未然に防ぐことができました。さらに、大名の正室や世継ぎとなる子供は江戸に常住することが義務付けられており、万が一大名が幕府に反抗すれば、江戸にいる家族が人質となるため、謀反を防ぐ強力な抑止力となりました。
この制度の影響で、多くの大名は江戸で生まれ、江戸で育ち、そして江戸で亡くなることが一般的になりました。藩主が領地で亡くなるとは限らず、江戸で最期を迎えることも少なくなかったのです。
当時の埋葬は土葬が一般的でしたが、亡くなった遺体を遠く離れた領地まで運ぶことは容易ではありませんでした。特に夏場に亡くなった場合、長距離の移動は腐敗の問題もあり、非常に困難でした。そのため、江戸で亡くなった藩主たちは、江戸に菩提寺を持ち、そこで葬られることが一般的でした。
この制度の影響で、多くの大名は江戸で生まれ、育ち、そして最期も江戸で迎えることが少なくありませんでした。
当時は土葬が主流でしたが、遺体を遠く離れた領地まで運ぶのは困難でした。特に夏場は腐敗が進みやすく、長距離の移送は現実的ではありませんでした。
これらの理由のため、江戸で亡くなった藩主は、江戸に設けられた菩提寺に埋葬されるのが一般的になりました。
今治藩の松平家も例外ではなく、江戸の霊巌寺(れいがんじ)を菩提寺としました。
霊巌寺には、今治藩松平家の歴代藩主のみならず、正室や幼くして亡くなった子どもたちの墓もあり、かつては数十基にも及ぶ墓石が立ち並んでいたと伝えられています。
しかし、1923年(大正12年)に発生した関東大震災により、霊巌寺とともに久松松平家の墓石群も壊滅的な被害を受けました。
その後の震災復興の過程で、当時の東京市(現在の東京都)からの要請により、広大な墓所を整理・縮小することとなり、最終的には現存していた2代藩主松平定時の墓石を基に、歴代藩主やその家族の墓をすべて合葬することが決まりました。昭和初期の墓域整理の際、形の良い石造五輪塔の一基が選ばれ、それが松平家の墓として現在も霊巌寺に残されています。
現在、霊巌寺には2代藩主松平定時をはじめ、5代藩主松平定郷、6代藩主松平定休、7代藩主松平定剛、8代藩主松平定芝、9代藩主松平勝道、10代藩主松平定法といった歴代藩主が葬られており、それらのお墓はこの五輪塔のもとに合祀されています。