朝倉地区・水之上(みずのかみ)に鎮座する「飯成神社(いなりじんじゃ)」は、古代から受け継がれてきた稲荷信仰と、この土地の自然や人々の暮らしに根ざした信仰が結びついた由緒ある社です。
「水之上」という地名は、頓田川(とんだがわ)の上流に位置する村落であることに由来します。
「頓田川」の名にある「頓田(屯田)」は、古くは「御田(みた)」を意味し、朝廷が直接管理した直轄領の田地を指します。
御田は単なる耕作地ではなく、収穫物を納める倉や、それを維持するための水利施設、耕作に従事する人々までも含む、古代国家の経済基盤を支える重要な存在でした。
水之上は、その御田を潤す水源地にあたります。
川の最上流に位置し、清らかな水を絶やすことなく田畑に供給するこの地は、古代から神聖視され、村人たちは「水之上」と呼んで大切に守ってきました。
田畑を実らせる命の水は、豊穣と生活の安定をもたらすものであり、この水源を守ることは地域の存続そのものでした。
こうした自然への感謝と畏敬の念が、この地に根付く信仰の礎となり、飯成神社の祭礼や社伝にも深く息づいています。
飯成神社の由緒と社号の変遷
飯成神社の創建については、古代伊予の政治や文化、そして農耕を基盤とした生活と密接に結びついた複数の伝承が伝わっています。
越智玉澄説
一説によれば、伊予国司であり、後に河野氏の祖ともされる小千玉澄(おちの たまずみ、越智玉澄)が、山城国の伏見稲荷大社から稲荷明神を勧請し、伊予国越智郡朝倉郷・水之上明神山に鎮座していた宇迦之御魂神の古社に「一郡一社」として奉斎したことに始まると伝えられます。
この水之上明神山は古くから霊山として信仰を集め、稲荷信仰と在地神への崇敬が融合する場となりました。
越智為澄(越智宿禰為澄)説
別の伝承では、嵯峨天皇の詔勅を受け、弘仁15年2月の初午の日(グレゴリオ暦824年3月6日)、当時の伊予国司・越智為澄(おちのすくね ためずみ、宿禰為澄)が社殿を創建したとされます。
為澄は山城国(現・京都府)の稲荷山に鎮座する伏見稲荷大社から十の稲荷社を勧請し、伊予国内の各地に配祀しました。
その一社が飯成神社であり、これらの勧請は地域の安寧、開発の成功、そして農耕神としての稲荷信仰の普及を目的として行われたと考えられます。
社号の謎
創建当初、当社は「飯成神社」ではなく、本社と同じく「稲荷神社」と称されていました。では、なぜこの社号が「飯成神社」へと改められたのでしょうか。
その背景には、明治時代における国家と宗教の関係の大きな変化がありました。
明治期の改称と「飯成」の由来
時代が明治へと移り変わった明治元年(1868年)、新しく誕生した明治政府は、近代国家を築くためのさまざまな改革に着手しました。
「神仏分離令」
その中の一つが、「神仏分離令(神仏判然令)」の発布です。
それまでの日本では、「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」と呼ばれる信仰の形が長く続いており、神道の神さまと仏教の仏さまが同じ場所で一緒に祀られるのが一般的でした。
稲荷信仰もまた、仏教の守護神である荼枳尼天(だきにてん)と結びつき、神社の中に仏像が安置されるなど、神仏両面の性格を持っていました。
「国家神道」
そうした中、明治政府は、神道を国民統合の要とする方針を打ち出しました。この考え方は、のちに「国家神道(こっかしんとう)」と呼ばれるようになります。
国家神道とは、天皇を神格化し、神道を国の正式な信仰体系として制度化した国家的な宗教政策です。これにより、神社は「宗教施設」ではなく、国家が管理・統制する公的な祭礼の場として位置づけられるようになりました。
この政策の一環として、政府は神道と仏教を明確に分離する「神仏分離」を強行し、仏教的要素を神社から徹底的に排除する運動が全国に広がりました。
稲荷神社から飯成神社へ
稲荷神社もまた例外ではなく、仏教的な表現や儀式を禁じられ、純粋な神道の神社として再編成されることになったのです。
また、全国に「稲荷神社」という同名の神社が多数存在することから、神社ごとの独自性を明確にするために、地域の地名や伝承にちなんだ新たな社号への改称が奨励されました。
そうした時代の流れの中で、今治市にあるこの神社もまた、「稲荷神社」から、地域の稲作文化や土地の実りへの感謝を反映した「飯成神社(いいなりじんじゃ)」という社名へと改称されることになったのです。
「稲荷」と「飯成」二つの“いなり”のちがい
「稲荷(いなり)」と「飯成(いなり)」は、いずれも五穀豊穣を指しますが、その表記や由来には若干の違いがあります。
「稲荷」
「稲荷」という言葉は、「稲が生る(なる)」という言葉に由来します。稲は日本の農耕文化において最も重要な作物であり、古代から生命の源とされてきました。
「稲が生る」という表現には、稲が豊かに実ることで人々の生活が支えられるという願いが込められています。このため、稲荷神は農業の神様として、また五穀豊穣の象徴として広く信仰されてきました。
「飯成」
一方、「飯成」の「飯(めし)」は炊き上がったご飯を意味し、「成」は「成る」「実る」という意味を持っています。
これにより、「飯成」は「飯が成る」、つまり食物が豊かに実り、それが人々の食事となるという一連の流れを象徴しているといえます。
この表現には、単に農作物の実りを祈る「稲荷」の意味だけでなく、それが食事として人々の命を支えるという意味が込められているのです。
飯成神社に祀られる宇加之御魂神
飯成神社は、伏見稲荷大社と同様に「宇加之御魂神(うかのみたまのかみ)」を主祭神として祀る神社です。この神様は、稲作をはじめとする農業や食物の豊かさを守護する神として古くから深い信仰を集めています。
「御(み)」は神聖さや敬意を、「魂(たま)」は神の霊力や命の源をあらわしており、「宇加之御魂神」という名は、稲に神聖な霊が宿るという古代の信仰をそのまま言い表したものといえます。
宇加之御魂神の記述は、『古事記』や『日本書紀』などの古典に登場します。『古事記』では「宇迦之御魂神」と記され、『日本書紀』では「倉稲魂命」と表現されており、どちらも農耕文化と結びついた神として描かれています。
また、これらの記録には性別についての明確な記述はないものの、古くから女神として信仰され、家族の安全や商売の繁盛を見守る神としても信仰されてきました。
「お稲荷さん」としての広がり
「宇加之御魂神」は、「お稲荷さん」として全国に広く知られ、日本各地に稲荷神社が建立されていることからも、その信仰の広がりの大きさがうかがえます。
現代においても、宇加之御魂神を祀る稲荷神社では、稲の豊作や地域の繁栄を祈願する祭礼が毎年行われ、多くの参拝者が訪れます。
飯成神社も同様に、地域の稲作や人々の幸せを願う行事が盛大に催されており、宇加之御魂神への信仰は今も大切に受け継がれています。