今治市玉川町三反地の山あいに、静かにたたずむ古刹「医王寺(いおうじ)」。
薬師如来を本尊とし、古くから病気平癒や延命祈願の道場として、地域の人々の信仰を集めてきました。
その歴史は千年を優に超え、伊予の豪族・河野氏と深く関わる由緒ある寺として、今なお信仰の灯をともし続けています。
河野深公と医王寺の創建
医王寺の創建は、平安時代前期・清和天皇の御代(858〜876年)。
当時、伊予国司としてこの地を治めていた河野深躬(こうの ふかみ)が、高僧・徳上人に命じ、現在の玉川町三反地に一宇を建立させたのが始まりと伝えられています。
高縄寺の松寺
創建当初の医王寺は、越智氏の一族で、古代伊予の大領(地方官)を務めた小千守興(おちのもりおき・越智直)が、北条・横谷の地に建立した「高縄寺(たかなわじ)」の末寺として位置づけられました。
高縄寺はその後、守興の子孫にあたる越智氏、そしてその血統を受け継ぐ河野氏によって、一族の祈願所として篤く尊崇され、伊予国における宗教的・精神的な中心地としてその名を高めていきました。
そして医王寺もまた、高縄寺の信仰を受け継ぐ寺院として、河野氏の精神的支柱となる祈願所のひとつとして発展していったのです。
信仰の繋がりと河野氏の成り立ち
この信仰の系譜を正しく理解するには、まず河野氏の成り立ちをたどる必要があります。
時代をさかのぼること7世紀、白村江の戦い(663年)。
唐・新羅連合軍と百済救援に向かった日本軍が朝鮮半島で激突します。
伊予水軍を率いてこの戦いに参加したのが、小千守興でした。
しかし、唐・新羅の連合軍は兵力・戦術の両面で日本軍を圧倒し、日本側は重装艦隊と火矢による攻撃を受けて壊滅的な打撃を被り、敗北。
百済は完全に滅亡し、日本は朝鮮半島における影響力を失う結果となりました。
この戦いの中で、守興は新羅軍の捕虜となり、越国(こしのくに)で勾留されましたが、なんとか脱走に成功し、伊予国の小千の地に戻り、大領としてこの地域の治めることになりました。
時代は進み、守興の子・玉興(たまおき)が家督を継ぎ、小千の地を治めていました。
ある日、玉興は海の上で思いがけない人物たちと出会います。
それは、かつて越の国で生まれ育った、父・守興の忘れ形見たちでした。
実は守興、かつて越国に勾留されていた折、現地の女性とのあいだに二人の男児を授かっていたのです。
そしてその兄弟は、母の故郷である越国で成長し、父の故郷・伊予を訪ねて、船に乗って海を越えてきたのです。
玉興は、彼らの語る言葉と携えていた書付に記された父の筆跡を見て、目の前の若者たちが自分の腹違いの弟であることを確信し、ふたりを温かく迎え入れました。
そのうえで、兄を「玉守(たまもり)」、弟を「玉澄(たますみ)」と名付け 越国から来たことにちなみ、それまで「小千」や「乎致(おち)」と称されていた一族の姓を「越知(おち)」と改め、彼らに「越知玉守」「越知玉澄」と名乗らせました。
この「越知」の表記は、やがて「越智」へと変化して、伊予を代表する在地豪族・越智氏となっていきました。
その後、弟の玉澄は、伊予国風早郡の河野郷に移住し、地名にちなんで河野玉澄(こうの たまずみ)と名乗りました。
こうして、河野玉澄を初代とする、伊予の名家・河野氏の歴史が幕を開けました。
中世伊予の信仰と政治を支えた高縄寺
越智氏の血を引き、風早の地に根ざしたその一族は、やがて中世伊予を代表する在地勢力へと成長していきました。
その政治的・軍事的な影響力の拡大と歩を合わせるように、河野氏は精神的支柱としての宗教的な基盤を重んじ、国家鎮護や一族繁栄、地域安定のため、多くの神社仏閣を保護・支援していきました。
その中の一つが、河野氏の祈願所である高縄寺でした。
室町時代の天文元年(1532年)には、第22代当主・河野通宣(こうの・みちのぶ)によって、高縄寺は北条・横谷の旧地から、現在の高縄山中腹へと遷されました。
これにより、高縄寺はより厳かな山岳寺院としての風格を備えることとなり、河野氏一門の祈願所としての格式と霊威をいっそう高めることになったのです。
「三反地村」河野家による寄進と医王寺の発展
医王寺は、この高縄寺の信仰の系譜を受け継ぐ寺院として、河野氏の第4代当主・河野深躬によって創建されました。
以降、河野氏の信仰を体現する祈願所として、また地域社会の精神的支柱として、長きにわたり重要な役割を果たし続けています。
医王寺の建立後も、河野氏は医王寺の発展に尽力し、たびたび寺領の寄進を行っています。
寺伝によれば、「寺領十町四方(約9ヘクタール)」におよぶ広大な土地が寄進されたほか、「田地三反(約3,000㎡)」が祈祷料田として与えられたと伝えられています。
そして、この祈祷田にちなみ、周辺の村落は「三反地村(さんたんじむら)」と呼ばれるようになりました。
この地名は現在にも受け継がれ、「今治市玉川町三反地」として、かつての信仰と暮らしのの名残をとどめています。います。
医王寺の中興と復興の歴史
医王寺は、その長い歴史の中で何度か衰退しましたが、優れた僧侶たちによって再興され、現在も地域の信仰を支えるお寺として存続しています。
嘉永七年(1854年)に書かれた記録「光林寺末山先師各霊加」によると、玉範上人が医王寺の再建(中興)し、天正十九年(1587年)4月に亡くなったとされています。
続いて、医王寺のさらなる再興を果たしたのは祐範上人で、寛永十年(1633年)8月9日に亡くなったことが記録されています。
このように、玉範上人による中興と祐範上人の復興によって、医王寺は度重なる困難を乗り越え、今も地域の信仰を支える寺として存続しています。
薬師如来のご利益と信仰
本尊・薬師如来(やくしにょらい)は、大乗仏教において病気平癒や健康長寿、厄除開運、眼病治癒などの現世利益(げんぜりやく)をもたらす仏として、古来より広く信仰されてきました。
正式には「薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)」と称し、「東方浄瑠璃世界」の教主として、人々の苦悩や病を癒す誓願を立てた仏です。
薬師如来が立てたとされる「十二大願」の中には、「病を癒して衆生の苦しみを除く」「心身ともに安楽に導く」「寿命を延ばす」など、現世における救済を中心とした内容が含まれており、現代においても多くの人々の信仰を集め続けています。
そのお姿は、静けさの中に確かな慈悲をたたえています。
左手には、人々の病を癒す霊薬を納めた薬壺をそっと携え、右手は胸の前でおおらかに差し出され、恐れや苦しみを静かに取り除く「施無畏印(せむいいん)」を結ばれています。
薬壺は病を癒す霊薬を象徴し、施無畏印は恐れを取り除き、安らぎを与えることを意味しています。
また、薬師如来の脇侍(わきじ)としては、日光菩薩(にっこうぼさつ)・月光菩薩(がっこうぼさつ)が左右に侍し、さらにその周囲を守護する十二神将が従うという荘厳な形式をとることが多く見られます。
十二神将は、薬師如来の教えを守護する武神であり、信仰者の災厄を祓う力を持つとされています。
奈良の薬師寺や京都の東寺などをはじめ、全国には薬師如来を本尊とする寺院が数多く存在し、人々の病苦に寄り添い続けています。
今治市玉川町の医王寺もまた、そうした薬師信仰の伝統を今に伝える寺のひとつであり、地域住民の心の拠り所として、大切に守られ続けています。
戦国武将の供養塔
医王寺の境内には、二基の堂々たる五輪塔が人知れず佇んでいます。
風雨にさらされながらもなお崩れることなく、そびえるそれらの石塔は、かつてこの地に生き、戦い、そして散っていった戦国武将たちの魂を静かに祀っています。
幸門城最後の城主・正岡経政
一基は、河野氏十八将のひとりに数えられた正岡経政(正岡右近太夫経政)の供養塔です。
正岡氏は越智郡北部に勢力を張った有力武士で、特に鷹取城や幸門城(さいかどじょう)といった要衝を担い、河野水軍と連携して伊予国の防衛に重要な役割を果たしました。
なかでも幸門城は、今治市玉川町竜岡下の幸門山(大戸山)山頂に位置し、北には瀬戸内海、南には玉川の谷筋を見渡せる天然の要害として築かれた堅城です。
今治から松山方面へ抜ける峠道を押さえたこの地は、海と陸を結ぶ軍事・交通上の拠点でした。
天正13年(1585)、豊臣秀吉の四国攻めによって河野氏の諸城が次々に落ちる中、正岡経政は主家への忠義を貫き、最後まで幸門城に籠もって抗戦しました。
しかし圧倒的な兵力差の前に城は落ち、経政はこの地でその生涯を閉じたと伝えられています。
その忠節を悼み、建立されたのが医王寺に残るこの五輪塔であり、高さ約2メートルに及ぶその堂々たる姿は、今も静かに経政の忠義を伝えています。
米田城主・別宮光貞
もう一基は、米田城の城主、別宮光貞(別宮修理太夫光貞*の供養塔です。
別宮氏は正岡氏と同じく越智郡の有力家臣団で、光貞は経政の叔父にあたり、正岡氏を支えた重臣のひとりでした。
米田城は、現在の玉川町中村に所在していたとされる小規模な山城ですが、幸門城と連携して山間部の軍事・行政を担っていたと考えられます。
光貞もまた、戦乱の中で主家と運命を共にし、命を落としたとされ、その供養のために医王寺に五輪塔が建立されました。
医王寺を訪れた際には、ぜひこれらの五輪塔に足を止め、激動の時代を生きた人々の記憶に、そっと思いを重ねてみてください。