朝倉地区は、古くから人々の暮らしとともに歩んできた、歴史深い地域です。
この地には、弥生時代中頃(約2000年前)から古墳時代中頃(約1500年前)にかけて築かれた、大小さまざまな古墳が点在しており、古代から続く営みの痕跡が、今も静かに息づいています。
そのなかには、地名ではなく、風景にちなんで名付けられた古墳もあります。そのひとつが、「一本松古墳(いっぽんまつこふん)」です。
山口地域の高台に築かれたこの古墳は、その名のとおり、かつて古墳の上にあった一本の大きな松「一本松」にちなんで名付けられました。
そしてこの古墳の敷地内にあり社が、「一本松社(いっぽんまつしゃ)」です。
初代一本松『根上がり松』
実は現在の一本松は二代目にあたり、初代は推定樹齢350年の大木で、『根上がり松』と呼ばれていました。
根上がり松の規模(推定)
- 樹高:約31メートル
- 幹の周囲:約9メートル
- 枝の広がり:南北 約41メートル / 東西 約30メートル
- 根の張り出し:南北 約18メートル / 東西 約20メートル
この松は台地の上に生えていたため、根が大きく地表に露出し、四方八方に広がって大地を這うような独特の姿を見せていたことから、『根上がり松』と名付けられました。
その優美な樹形と圧倒的な存在感は、当時の県文化財専門委員の視察時にも「県内随一の名木」と称され、昭和30年(1955年)には、愛媛県の天然記念物にも指定されました。
「山口の一本松」
その圧倒的な存在感と堂々たる姿は遠方からでも容易に確認でき、まるで地上を覆う巨大な傘のように見えたといわれています。
『根上がり松』は別名「山口の一本松」とも呼ばれていました。これは、その一本松としての威容が遠方からでも眺めることができたため、地名と合わせて名付けられたものです。
旅人を導いた風景
もともとこの松は、目印として旧道の一里塚や街道沿いの並木の一部として植えられたとも伝えられています。
このことを裏づけるかのように、一本松古墳の脇には、慶応三年(1867年)に作られたとされる道標(どうひょう)が今も残されています。
道標とは、目的地までの距離や方角を旅人に示すための石柱や標識のことで、江戸時代の交通インフラの一端を担う重要な存在でした。
この道標には、次のような目的地が刻まれています。
- 「金比羅大門江廿四里(こんぴらおおもんえ にじゅうよんり)」
- 「多伎宮江拾二丁(たきぐうえ じゅうにちょう)」
- 「和霊宮江六拾丁(われいぐうえ ろくじゅっちょう)」
これらの文字が指し示すように、この地はかつて四国各地を結ぶ交通の要衝であり、旅人たちが往来する重要な拠点のひとつだったことがわかります。
この中で、『根上がり松』も重要な目印となっていたと考えられます。
『根上がり松』にまつわる逸話
『根上がり松』には、その堂々たる姿にふさわしい、こんな逸話が語り継がれています。
昔、ある殿様が領内を巡視していた折、この松の根元に腰を下ろし、一息つきながら地元の庄屋(または村人)にこう尋ねました。
「この松の樹齢は、いかほどか?」
村人はすかさず、「千八年になります」と答えました。
殿様は不思議そうに眉をひそめ、千年というのは理解できるが、なぜ“八年”を付け加えたのか?」と問い返しました。
すると村人はこう説明しました。
「松は千年を過ぎると、枝が垂れ始めると申します。この松の枝も、ちょうど八年前から下がり始めました。ですので、千八年と申し上げたのです」
この言葉を聞いた殿様はたいそう感心し、村人の知識と観察眼を称賛したと伝えられています。
「根上がり松」の終焉と惜別
かつて「県内随一の名木」と称された初代『根上がり松』は、長きにわたり、地元の人々によって定期的な手入れや消毒など、丹念な保存作業が繰り返され、大切に守られてきました。
しかし、時代の移り変わりとともに、松を取り巻く環境も変化していきます。周囲には舗装道路が通り、住宅の開発も進み、根や枝には次第に大きな負荷がかかるようになりました。
そこへ追い打ちをかけたのが、1980年代に全国的に猛威を振るった「松くい虫」の被害です。
地域の当局や教育委員会は、県事務所や林業試験場の協力を得て、繰り返し防除作業を行いましたが、残念ながら被害を食い止めるには至りませんでした。
そして1980年(昭和55年)6月25日、二幹のうち一方の枯死が避けられないと判断され、県教育委員会および林業試験場の指導のもと、伐採が決定されました。
残されたもう一方も、支えを失いながら懸命に立ち続けていましたが、その後の台風による強風と大雨に耐えきれず、ついに倒れてしまいました。
県の天然記念物に指定されてから25年もの間、朝倉のシンボルとして多くの村民に親しまれていたこの松の消失は、地域にとって大きな損失となりました。
一本松古墳の発掘と「四面四獣鏡」の出土
初代「根上がり松」が松くい虫による被害で枯死し、その伐採と処理が進められる中、地域では新たな歴史的発見の機会が訪れました。
地元・山口地域の了承を得て、愛媛県教育委員会の指導のもと、古墳の発掘調査が実施されることとなったのです。
この調査は、財団法人愛媛県埋蔵文化財調査センターの専門員である坂本安光先生と井原主事の指導のもと、細心の注意を払って実施されました。
調査の結果、倒木した松の根元付近から貴重な遺物が次々と出土しました。
中でも注目を集めたのが、一面に四神獣の文様が施された「四面四獣鏡(しめんしじゅうきょう)」と呼ばれる銅鏡でした。
この鏡は、中国鏡の影響を受けた古墳時代の祭祀用具とされており、被葬者の高い地位や信仰観を物語る重要な遺物です。
出土した銅鏡は、視察に訪れた前・愛媛大学教授の西田先生によって本物「四面四獣鏡」であることが確認され、その後、慎重に保管されることとなりました。
さらに、多数の土器片も出土し、この地が弥生時代中頃から古墳時代中期にかけての重要な拠点であったことが裏づけられました。
「一本松古墳(根上がり松古墳)」
この一連の発見を契機に、これまで正式な名称を持たなかったこの古墳は、「一本松古墳(根上がり松古墳)」と名付けられ、地域の歴史的価値があらためて見直されることとなりました。
「一本松社」の建立
この発掘を契機に、山口地域では古墳跡の保存と活用を目的として、昭和57年11月に社を建て、出土した銅鏡を御神体として祀ることとなりました。
これが「一本松社」です。
こうして、一本松古墳(根上がり松古墳)は地域の歴史を後世に伝える場となり、一本松社は歴史と信仰の象徴として、現在も大切に守られています。
二代目「根上がり松」の植樹と現在
さらに、同年の、昭和57年(1982年)には県林業試験場で育成された「根上がり松」の二世の苗木が植えられました。
長い年月をかけて成長し、風雪に耐えながら立派な姿を見せていましたが、残念ながらそのうち一本は再び枯れてしまい、現在は一本のみが残っています。
それでも、その一本はしっかりと大地に根を張り、訪れる人々に歴史の重みと自然の力強さを感じさせています。