今治市大浜町。
その穏やかな海岸沿いを瀬戸内の潮風に吹かれながら静かに歩み進めると、やがて姿を現すのが「石中寺(いしなかでら)」です。
港町の風景の中に溶け込むように佇むこの寺は、古より霊峰・石鎚山(いしづちさん)と深い絆を結び、修験道の総本山として全国の修験者や参詣者の祈りを受けとめ続けてきました。
石中寺の起源と歴史
石中寺の歴史は、飛鳥時代の第38代天智天皇(668年〜671年)の頃、伊予国の国府が置かれていた今治市清水地区の中寺に建立された一つの寺院から始まります。
この時代、伊予国は地方行政の中心であり、その中で石中寺は地域信仰の中核として重要な役割を果たしました。
特に奈良時代や平安時代においては、石中寺は修行や祈りの場として多くの人々に崇められ、地域全体の信仰の中心地として栄えました。
仏教が日本全国に広まり、地方の寺院が重要な精神的支柱となる中、石中寺もまた、地元の人々にとって欠かせない存在だったのです。
遺構に残る往時の姿
その名残は現代にも残っており、今治市内には「石中寺」という名のバス停があり、近くにある「西念寺(西念禅寺・せいねんじ)」には石中寺の礎石や古瓦(布目瓦)が保管されています。
さらに清水小学校には周辺から出土した瓦が保存されており、田畑からは人骨も発見されています。
このことから、石中寺が単なる宗教施設ではなく、地域社会に深く関わり、広範囲にわたって影響を与えていたことがわかります。
修験道の開祖・役行者「山岳信仰の始まり」
中寺が清水地区に建てられていた頃、その境内には「不動院」と呼ばれる別院が併設されていました。
中寺に建立されていた寺院石中寺には「不動院」と呼ばれる修行や祈りの場が併設されていました。
この不動院は、地域の人々から「お不動(おふどう)」と親しみを込めて呼ばれ、日常的な祈願や厄除け、心願成就を願う場として大切にされていました。
地域信仰のよりどころであり、また修行者にとっても心身を鍛える場所であったのです。
大宝元年(701年)、この不動院に全国を行脚していた修験道の開祖・役行者(役小角・えんのおづぬ)が立ち寄ったことから、石中寺は新たな霊的な役割を担うこととなります。
役行者は不動院を修行の拠点「根本道場(総本山)と定め、孔雀明王(くじゃくみょうおう)、不動明王(ふどうみょうおう)、愛染明王(あいぜんみょうおう)の三尊に祈りを捧げ、自らの修行の成功と、人々の救済を願う大きな誓いを立てました。
すると、不思議なことに、空高く五色の雲が天をおおい、神々しい光が満ちあふれ、その雲間から楢原、石土、豊岡、象頭の四大権現が姿を現しました。
- 楢原権現(ならはらごんげん)
今治市玉川町・楢原山の霊神で、山林の霊気と自然調和の象徴。古くから牛馬安全、雨乞い、農耕守護の神として信仰され、神仏習合のもと楢原大権現とも称されました。山頂には奈良原神社が鎮座し、別宮大山祇神社にも分霊され祀られています - 石土権現(いしづちごんげん)
石鎚山そのものの神霊であり、堅固不壊の大地の霊力と修験道の霊山の象徴。不動の力をもって修行者を守護し、蔵王権現の霊験と深く結びついています。 - 豊岡権現(とよおかごんげん)
- 伊予郡の旧広田村・豊峰権現山(「西の石鎚」と称される霊山)に祀られる神霊。五穀豊穣と水の恵みの守護神で、修験の行場としても知られ、山頂には豊峰神社(蔵王権現)が鎮座しています。
- 象頭権現(ぞうずごんげん)
香川県琴平町の象頭山(琴平山、金刀比羅宮の鎮座地)に宿る霊神で、象の頭のような山容と山野の守護、海上安全を象徴。神仏習合の象徴的存在であり、蔵王権現や金毘羅大権現の霊格と結びついています。
これを神意のあらわれと受け止めた役行者は、石中寺の住職である峰仙(ほうせん)とともに、石土蔵王権現を祀るにふさわしい霊山の場所を定めるため、東の険しい山々を巡り始めました。
この旅は容易なものではなく、二人は過酷な自然環境の中、草衣木食(草や木の実を食べる質素な生活)を続けながら厳しい修行を行いました。
そしてついに、石土山(石鎚山)の瓶ヶ森において尊い霊感を授かり、この地こそ蔵王権現をお迎えするにふさわしい霊域であると悟ったのです。
役行者は、この石土の地に蔵王権現を祀り、さらに清水の石中寺にもその尊像を本尊として迎え入れました。
この尊像は、仏の三つの姿(法身・報身・応身)すなわち三身、また過去・現在・未来の三世を象徴し、蔵王権現の力と慈悲を示す神聖な存在として崇められるようになりました。
こうして石中寺は、石中寺は修験道の修行の場として、山岳信仰の中心地となり、厳しい修行を行う修行者たちが集う霊場となったのです。
また、数々の密法や修法もこの地に伝えられ、その伝統は脈々と今日にまで受け継がれています。
ここまでが、石鎚山を霊峰として仰ぎ、蔵王権現を中心とする修験道の聖地として石中寺がその歴史を刻んできた歩みでした。
その後、石中寺はさらに円珍(えんちん)の教えを礎とし、天台宗門派の寺院として発展を遂げていきます。
天台寺門の根本道場
円珍(814~891年)は滋賀県三井寺を開いた智証大師であり、天台宗の開祖・最澄(さいちょう)、慈覚大師・円仁(えんにん)とともに天台宗三祖の一人に数えられる高僧です。
唐から持ち帰った数多くの経典を三井寺に納め、同寺を天台寺門の根本道場としてその礎を築きました。
石中寺はこの円珍を宗祖と仰ぎ、その教えを基盤に天台宗門派として信仰と修行の場を広めていきました。
石土宗の総本山「石中寺」
しかしその歴史の中では、戦乱や社会の変動、財政的困難などにより衰退を余儀なくされた時期もありました。
それでも、石中寺はそのたびに復興を遂げ、信仰の拠点としての役割を果たし続け、昭和22年(1947年)には小笠原観念住職の尽力により寺は再興され、その規模が大幅に拡大しました。
同時に、石中寺は「石土宗」として天台宗門派の三井寺から独立を果たし、石土宗の総本山として全国各地から篤い信仰を集める重要な寺院の一つとなりました。
現在の地へ
以降、石中寺は「石土宗」として、石鎚山を霊峰と仰ぐ修験道の精神と、智証大師・円珍の教えを基盤とした独自の宗風を確立し、多くの修行者と信徒の心の支えとなってきました。
しかし、時代の変遷とともに寺は財政的な困難に直面し、清水地区中寺にあった石中寺は惜しまれつつも取り壊されることとなりました。
それでも、石中寺は決して廃寺となることなく、信仰の灯を守るべく、本尊とともに今治市大浜町の地へと移され、その地で新たな歴史の一歩を踏み出したのです。
これが現在の石中寺になります。
全国に広がる石中寺の信仰
大浜町に移った後も、石土宗の教えと修験道の精神は変わらずに受け継がれ、御本尊を中心に日々の祈りや供養が絶えることなく続けられています。
こうした信仰の営みの中で、石中寺では『石土経』という貴重な経本が伝わっています。
これは蔵王権現、不動明王、そして修験道の祖である役小角を描いた重要な経典であり、その中には真言や印の結び方、勤行式(修行や儀式の手順)が記されています。
石中寺の修行や儀式において、この経本は今も大切に用いられ、古来の儀式や密教の教えが脈々と今日まで受け継がれているのです。
また、石土宗の総本山として、大阪、鳥取、福岡、香川、山梨など全国に末寺を有し、各地で信者を集める拠点となっています。
中でも、毎年7月1日から10日にかけて行われる「お山開き大祭」は、石中寺の最も重要な行事の一つです。
この期間中、全国から多くの信者が集い、霊峰石鎚山への登拝を通じて信仰を深め、霊的な浄化を求めます。
白装束に身を包んだ修行者や参拝者が、祈りを捧げつつ山を登る姿は、石中寺の長い歴史と信仰の力を今に伝えるものです。
霊峰石鎚山の象徴である蔵王権現や石鎚大権現への篤い信仰は、寺を訪れる人々の心の拠りどころであり、石中寺は今日も修行と祈りを行う神聖な場所として、その伝統を守りながら新たな歩みを続けています。
新たな信仰の場所への移設計画
そして今、石中寺はさらなる信仰と修行の拠点を築くべく、今治市桜井地区の旦(だん)に新本山を建立する計画を進めています。
所在地は愛媛県今治市旦字八ケ谷甲727番9に定められ、寄付を募りながら、その実現に向けた準備が着実に進められています。
この新たな本山は、石土宗の教えと修験道の精神を未来へと受け継ぎ、さらなる信者や修行者を迎え入れる新たな聖地として大きな期待が寄せられています。
「石中寺と石鎚山」四国の霊峰と修験の聖地
このように石中寺は、霊峰石鎚山を霊場として仰ぎ、その信仰と修験の伝統を今に伝えてきました。
では、石中寺と石鎚山、そしてその信仰の深い結びつきとは、どのようなものなのでしょうか。
四国の霊峰・石鎚山
石鎚山(いしづちさん)は、愛媛県と高知県の県境にそびえる四国最高峰であり、標高1,982メートルを誇ります。
その雄大な山容は、四国山地の主峰として石鎚山系の中核として、古来より四国の人々にとって特別な存在でした。
自然の美しさと神霊の宿る霊山として畏敬の念を集め
山頂からの眺望は壮大で、瀬戸内海の島々や四国全域、天候に恵まれれば中国山地や九州の山々まで見渡すことができます。
「日本七霊山」山自体に神が宿る
石鎚信仰の最も大きな特徴は、山そのものが神聖な存在として信仰の対象となっている点にあります。
古代から、山は「神が宿る場所」とされ、特に高い山は天と地を結ぶ神聖な場所として崇拝されてきました。
西日本最高峰を誇る石鎚山もその例に漏れず、富士山・立山・白山・御嶽山・大峰山・恐山と並んで「日本七霊山」の一つに数えられ、霊的な力を宿す特別な山として古代から長く人々の信仰を集めてきました。
これらの霊山は、山そのものが神の宿る場所とされ、修験道や山岳信仰の聖地として、多くの修行者や信者の篤い信仰を集めてきたのです。
石鎚山の険しい鎖場を伴う登拝道は、信仰登山の厳修の場であり、多くの修験者が身を清め、霊的成長を求めて山に挑んできました。
周囲は石鎚国定公園に指定され、原生林、断崖絶壁、渓流、巨岩が織りなす自然の造形は、古来「神の造りし聖域」と称され、訪れる人々に神秘的な感動を与えてきました。
この神秘的な景観と霊的な雰囲気は、今もなお修行者、登山者、参詣者の心を深く打ち、まさに「霊峰石鎚山」の名にふさわしい存在感を放ち続けています。
石鎚信仰の広がり
石鎚山の信仰は、単なる山岳修行にとどまらず、古くから四国や瀬戸内沿岸の農民・漁民の暮らしと深く結びついてきました。
人々は石鎚山に宿る神霊に海上安全、豊漁、五穀豊穣、家内安全、無病息災を祈り、信仰は広く生活に根付いてきました。
各地には「石鎚講」と呼ばれる講社が組織され、今治をはじめ瀬戸内各地の人々が毎年の「お山開き」の時期に石鎚登拝を行いました。
白装束に身を包み、険しい鎖場を登り山頂で祈りを捧げるこの登拝行は、心身を清め、霊的な成長を願う大切な修行でした。
また、登山が叶わない人々は、各地の石鎚遙拝所や寺院に詣で、山頂に向けて祈りを捧げました。
この信仰は現代でも脈々と受け継がれ、石鎚山は今なお多くの人々の心の支え、祈りの対象として生き続けています。
守護神・蔵王権現
その信仰の中心が修験道の守護神である蔵王権現(ざおうごんげん))です。
正式には金剛蔵王権現(こんごうざおうごんげん)、または金剛蔵王菩薩(こんごうざおうぼさつ)と称され、日本独自の山岳仏教である修験道の本尊として崇められています。
修験道の開祖とされる役行者(役小角、えんのおづぬ)が吉野の山中で修行を重ねる中で感得した神仏であり、釈迦・観音・弥勒の三尊が忿怒の姿となって現れたものと伝えられています。
この憤怒の形相は、悪を退け、正しい道を歩もうとする修行者や信者を力強く守護し導く存在として、古来より広く信仰されてきました。
蔵王権現は、吉野山の金峯山寺をはじめとする全国の修験道の聖地で広く信仰を集めており、その中で石鎚山も重要な霊場のひとつとされています。
多くの修行者や信者がこの山に挑み、蔵王権現の加護を求め、心身を鍛え、霊的な成長を願ってきました。
石鎚山の険しい鎖場を伴う登拝道は、蔵王権現に祈りを捧げるための試練の道とされ、古くから修験者たちが己を試し、悪を祓い、清めの道として歩んできたものです。
毎年の「お山開き」は、蔵王権現に祈りを捧げる登拝儀式として行われるもので、今も多くの人々が山頂を目指して霊峰に挑む姿が見られます。
役行者との関係
そんな石鎚信仰は、石中寺と深い関係がある修験道の開祖・役行者によって始まりました。
役行者は、7世紀後半から8世紀初頭にかけて、奈良を中心に各地の霊峰を開き、神仏と交信しながら山岳信仰を広めていきました。
「役行者」という名前は、多くの霊的な活動や修行の成果からつけられましたが、本名は「役小角(えんのおづの)」と伝えられています。
また、「役優婆塞(えんのうばそく)」、「神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)」、「山上様(さんじょうさま)」などの尊称でも呼ばれ、後世の信者たちによって存在そのものが信仰の対象として崇拝のされ続けてきました。
石鎚山の開山時期ついては、石中寺に伝わる伝承では大宝元年(701年)とされる一方、一般的には飛鳥時代の持統天皇の御代(685年)に行われたとされています。
どちらにせよ、この頃すでに石鎚山は、現在の瓶ヶ森周辺を含め神聖な山として地域の人々に崇められ、自然そのものが信仰の対象となっていました。
役行者はこの神聖な山で修行を行い、さらに強い霊的な力を感じ取ったことで、石鎚山を神仏が宿る場所として定め、山頂に蔵王権現(ざおうごんげん)を祀ったのです。
この出来事が、石鎚山信仰の礎となり、石中寺の歴史とも深く結びついていくことになりました。
役行者の伝説
役行者による石鎚山の開山は、四国全体の宗教的な流れに大きな影響を与えた出来事でした。
石鎚山が開山されて以来、修験道の聖地として多くの修行者がこの霊峰を訪れ、霊的な力を求めて修行に励みました。
山頂で祈りを捧げ、神仏との交信を行うことは、心身の浄化と霊的な悟りを得るための重要な修行であり、修験者たちは険しい山道を登り、蔵王権現に祈ることで霊的成長を目指し、信仰がさらに深まっていったのです。
こうした修験の伝統とともに、全国各地に役行者にまつわる多くの伝説も語り継がれています。
大宝元年(701年)6月7日、役行者は68歳の時、長年にわたる修行の集大成として老母を伴い奈良県の天上ヶ岳(大峰山)へ登りました。
修験道の祖として数々の霊峰を修行の場としてきた役行者にとって、この登頂は最終的な霊的到達点ともいえるものでした。
そして山頂に達した役行者は、そのままそこで亡くなったと伝えられています。
しかし伝説によれば、それは肉体的な死ではなく「昇天」であり、その魂はインド(天竺)へ向かい、さらに修行を続けたとされています。
「石鎚山法起坊大天狗」
そして石鎚山には、昇天後の役行者にまつわる不思議な伝説が残されています。
昇天した役行者の魂は、修行の地であった石鎚山に戻り、「石鎚山法起坊大天狗(いしづちさんほうきぼうだいてんぐ)」 という大天狗の姿となってこの霊峰を守護するようになりました。
法起坊大天狗は、石鎚山に登る修験者や参詣者の祈りにそっと耳を澄ませ、その心の誠を見極めます。
ときに登拝道に試練をもたらし、ときに霧深き断崖や鬱蒼たる原生林の奥からそっと導きを授け、迷いや弱さを抱く者に霊的な気づきを与えてきました。
霧に煙る鋭い岩峰、鎖場の先に立つ巨岩の陰、風が木々を震わせる音の中に、大天狗の気配を感じたという話は、今も語り継がれています。
登拝者たちはその姿を見たわけではなくとも、確かにそこに宿る霊威を感じ、畏敬の念を抱いて山を下りるのです。
霧に煙る鋭い岩峰、鎖場の先に立つ巨岩の陰、風が木々を震わす音のなかに、大天狗の気配を感じたという体験談は、古くから数知れず語られ、登拝者たちの畏敬の念をかき立ててきました。
石鎚山法起坊大天狗は、石鎚山の霊威そのものと一体化した守護の化身として、日本八大天狗のひとりに数えられることもあれば、別格の霊威を持つ存在として、今も石鎚山に息づいています。
また、役行者の弟子であった前鬼(ぜんき) も、師の昇天後に大峰山において「前鬼坊」と呼ばれる天狗となり、吉野の地を守護する存在となったとされます。
こうして役行者とその弟子たちの霊的な力は、天狗の姿を借りて各地で今も信仰され続けています。
そして石中寺は、このような石鎚山信仰と重なり合いながら、山と人と神仏を結ぶ場所として、、今も訪れる人々の心の拠り所であり続けています。