四国八十八箇所霊場第57番札所「栄福寺」。
全国から多くの巡礼者を迎えるこの札所ですが、かつてその役割を担っていたのは、八幡山の山頂に鎮座する「石清水八幡神社(いわしみずはちまんじんじゃ)」でした。
現在の札所は栄福寺(今治市・玉川地区)へと引き継がれましたが、両者のあいだには、切っても切れない信仰の歴史があります。
創建の伝承①「別当寺 栄福寺」
栄福寺の起源は弘仁年間(810〜824年)。
この地を訪れた空海は、周辺海域で海難事故が相次いでいるということを耳にし、何とかして災難を鎮めようと考えました。
そこで空海は、府頭山(八幡山)に登り、山頂で「護摩供(ごまく)」という特別な修法を行うことを決意します。
この護摩供は、火を焚き、不浄を清めて災いを鎮め、地域に平穏をもたらすための祈りの儀式です。空海はその炎にすべての祈りを込め、日夜修行に励みました。
そして、護摩供を続けた末、ついに満願の日が訪れました。
満願の日とは、長い修行や祈りが一区切りを迎え、願いが成就することを期待する特別な日です。
この日、空海の心を込めた祈りが最高潮に達し、すべての想いを炎に託しました。
すると、山頂から見下ろす海は静寂に包まれ、まばゆい光が辺り一面を照らしました。
それは、空海の祈りが成就した瞬間でした。
そして、その光に包まれるようにして、海から阿弥陀如来が浮かび上がるように現れました。
この神秘的な光景に深く感銘を受けた空海は、阿弥陀如来の姿を心に刻み、その感動を形にするために自らの手で阿弥陀如来の尊像を彫り上げました。
そして、その尊像を安置するためにお堂を建て、本尊として祀りました。
このお堂は山号を府頭山として、「府頭山 長福寺」という名が与えられました。
この長福寺は現在の「栄福寺」の起源とされています。
神仏合体の霊場「八幡宮」の誕生
時代は下り、八幡信仰が全国へと広がりを見せていた平安時代の貞観元年(859年)。
都であった平安京は、表向きこそ華やかな貴族文化に彩られていましたが、裏で深い闇を抱えていました。
地方の荘園では豪族が私兵を養い、都の内外では盗賊や乱暴者が夜ごとに現れ、財貨を奪い、人々の命までも容赦なく奪っていったのです。
治安は衰え、都の夜は恐怖に包まれていました。
この混乱の中で即位したのが、わずか9歳(満8歳)の若き帝、清和天皇(せいわてんのう)でした。
天皇とその周囲の人々は、乱れゆく世と都の安寧を願い、神の御加護を求め、それにふさわしい人物を探し求めました。
そこで白羽の矢が立ったのが、大和国(現在の奈良県)の大安寺に身を置く高僧、行教律師(ぎょうきょうりっし)上人でした。
行教上人が授かった御神託
行教上人は、前年の天安2年(858年)、真言密教の開祖として名高い弘法大師(空海)の推薦を受け、清和天皇の即位を祈願するという大役を任され、九州の宇佐八幡宮(現・宇佐神宮)へ派遣されていました。
その翌年、無事に清和天皇の即位が果たされたため、行教上人はさらに天皇の護持と国家鎮護を祈り、宇佐八幡宮において90日間の参籠修行 ·(さんろうしゅぎょう・断食修行)に入りました。
行教上人は、宇佐八幡宮の御神前に籠り、昼夜を問わずただひたすら祈りを捧げ続けたのです。
食事や休息を最小限にとどめ、雑念を払って身を清め、心を尽くして神の御心をお受けしようとしたその修行は、厳しく孤独なものでした。
するとある夜、その献身的な姿勢に感応した八幡神(八幡大菩薩)が夢の中に現れ、次のように神託を授けました。
「吾れ深く汝が修善に感応す。敢えて忍忘する可からず。須らく近都に移座し、国家を鎮護せん。」
(私はあなたの誠実な修行に深く感じ入りました。その功績を決して忘れません。どうか私を都の近くにお迎えし、国を守らせてください)
「勝岡八幡宮」府頭山の山頂に創建
この神託を受けた行教上人は、「山城国(現在の京都府)」の男山に新たな社を創建しようと決意し、その創建のために瀬戸内海を何度も往復していました。
しかし、ある旅の途中で暴風雨に巻き込まれ、今治の沖で漂流してしまいます。
命からがら今治の地にたどり着いた行教上人は、目の前にそびえる「府頭山」が自らの目指していた男山にあまりにも似ていることに驚きました。
さらに、当時の府頭山の山頂には阿弥陀如来を本尊とする「長福寺」が建てられていました。
阿弥陀如来は、八幡神の本来の姿とされる「本地仏(ほんじぶつ)」でもあり、八幡神と仏教が深く結びついている特別な存在です。
行教上人は、この地に八幡神と仏教が強く結びつく特別な縁を感じ、山頂で心を込めて祈りを捧げました。
その夜、行教上人が眠っていると、夢の中に阿弥陀如来が現れ、お告げを伝えました。
このお告げには、この地に八幡明神を迎え、新たな信仰の場を築くようにとの内容が含まれていたのです。
翌朝、この神秘的な体験を受けた行教上人は、八幡明神をこの地に祀ることを決意し、すぐに動き出しました。
翌年の貞観2年(860年)、行教上人の決意を受けた朝廷の支援によって、勝岡八幡宮(かたおかはちまんぐう)の社殿造営が急ピッチで進められ、ついに府頭山の山頂に壮麗な神社が完成しました。
この勝岡八幡宮の創建は、八幡神への信仰と仏教の教えが結びつく「神仏合体」の霊場の誕生を意味し、神道と仏教の融合が地域の信仰に深く根付く契機となりました。
「勝」という字は、戦勝や繁栄、勝利を意味し、地域にとって縁起の良い名前として選ばれた可能性があります。
八幡神は戦いの守護神として古くから信仰されていたため、「勝利」との関連が深く、この名が選ばれたと考えられます。
「岡」は、地形を表す言葉で、小高い丘や山を指します。勝岡八幡宮が鎮座している場所が丘陵地に位置していることから、その地形に基づいて「岡」が付けられた可能性があります。
伊予の石清水八幡宮
永承年間(1046〜1053年)には、京都の本家「石清水八幡宮」にあやかり、「伊予の石清水八幡宮(現:石清水八幡神社)」として知られるようになったといいます。
この時代、水の確保は生活の安定に直結していたため、湧水地や水源の周囲に集落が形成されることが多くありました。
東側の表参道や南側の参道がある場所は「清水地区」に位置し、清らかな水が石の間から湧いていたことから、この地名がついたとのかもしれません。
この水源は生活の中心であると同時に、地域の信仰の対象として神聖視されていた可能性も考えられます。
このように、神道だけでなく仏教とも深く結びついた歴史的背景から、石清水八幡宮は勝岡八幡宮の時代に、四国八十八箇所霊場の第57番札所として定められ、巡礼者にとって重要な拠点となりました。
当時、勝岡八幡宮の祭祀は、天慶年間(938〜947年)に創建された(今治市・清水地区)が担っており、山麓に建てられた「弥陀堂」を巡礼者(お遍路さん)の宿泊の場として提供していました。
しかし、弥陀堂は後に焼失してしまい(詳細は不明)、その後、貞享年間(1684年〜1688年)頃に「長福寺」が新たに別当寺としてその役割を引き継ぎ、納経業務や宗教活動を担うようになりました。
「長福寺」は、もともと山号を、石清水八幡宮が鎮座する「府頭山(ふとうざん)」としながら、享保11年(1726年)に「乗泉寺(府頭山 乗泉寺)」へ、さらに寛政4年(1792年)には「栄福寺(府頭山栄福寺)」へと寺院名が改称されていきました。
府頭山は、八幡宮が山頂に鎮座するようになってから、どこからか自然に「八幡山(はちまんさん)」と呼ばれるようになり、後の時代にはこの地域の住所も「八幡(やわた)」となりました。
それでも栄福寺は、山号を本来の「府頭山(ふとうざん)」と定め続け、第57番札所である石清水八幡宮の別当寺として、神社と密接に連携しながら活動を続けてきました。この深い結びつきは時を経ても変わらず、現在に至るまで続いています。
神仏分離令によって分裂
このように長年にわたり深いつながりを築いてきた石清水八幡宮と栄福寺も、1868年、明治政府によって施行された神仏分離令により引き裂かれることとなりました。
この政策は、長らく共存していた神道と仏教を分離し、神道を国教的地位に据えるための政策でした。
それまでは、神社には別当寺と呼ばれる寺院が併設され、神仏が一体となって地域の信仰を支えていましたが、この政策によって神社と寺院は強制的に分離されることになったのです。
この結果、栄福寺は山頂から中腹に移転し、物理的にも精神的にも石清水八幡宮と離れ、別当寺ではなく独立した寺院となりました。
それにともない、石清水八幡宮は四国八十八箇所霊場の第57番札所から外れ、「栄福寺」が正式にその役割を担うこととなりました。
創建の伝承②「源頼義と八幡神」
もう一つの伝承では、この八幡神は今治の南東にある衣干(鳥生町衣干)の海岸から現れ、現在の立花地区(鳥生)にある「衣干八幡神社(きぬぼしはちまんじんじゃ)」が鎮座する「衣干山(きぬぼしやま)」に祀られていたとされています。
平安時代、海賊や武装集団が各地で暴れ、日本全土が不安定な状態に陥っていました。中央の力が弱まる中、特に地方での治安が悪化し、瀬戸内海や九州地方では海賊の活動が盛んになり、沿岸の村々や船が襲われる事件が頻発していました。
このような混乱を収め、国を平和にするために、朝廷(政府)は神仏の力に頼ろうと考えるようになりました。
当時、人々は神様を信仰し、神様を敬うことで世の中が安定すると信じていました。そのため、朝廷は九州大分県にある宇佐八幡宮の八幡神を、当時の日本の政治と文化の中心である京都にお祀りすることを決定しました。
宇佐八幡宮は、全国に八幡神を祀る神社の総本社であり、八幡神は武運の神として古くから信仰を集めていました。朝廷は八幡神のご加護によって、国の混乱を鎮めようとしたのです。
衣干の八幡神社
貞観元年(859年)8月、八幡神を祀るための船が大分を出発し、瀬戸内海を経由して京都へ向かいました。その途中、船は今治沖にある小さな島に上陸しました。この島が「衣干」でした。
当時、今治平野はほとんどが海に覆われており、衣干山は「衣干の島」として存在していたと考えられています。
八幡神がこの地に立ち寄り、しばらく休息を取ったことを記念し、衣干にも八幡神社が祀られることになりました。この出来事は、神の旅路における重要な出来事とされ、地域の信仰を集めました。
衣干から移動
しかし、この地の有力豪族であった河野氏の当主、河野深躬(こうのふかみ)は、八幡神を祀るのにもっとふさわしい場所があると考えました。河野深躬は衣干から周囲を見渡し、もっと神聖な場所として一つの山を選び、そこに八幡神を移すことに決めました。
この新しい場所は、現在の石清水神社の位置から南へ約0.5kmの場所にある「片岡」と呼ばれる山でした。河野深躬はここに八幡神を祀り、「勝岡八幡宮」と名付けました。
源頼義が伊予に赴任
時代が進み、永承年間(1046~1053年)になると、伊予の国守として任じられた「源頼義(みなもとの よりよし)」が、任地である伊予に赴任しました。
頼義は、京都の石清水八幡宮を篤く信仰しており、伊予に赴任してからもその信仰を変わらず大切にしていました。
ある日、頼義は同じ八幡神を祀る勝岡八幡宮が無残にも荒廃している姿を目にしました。そのあまりの光景に言葉を失いました。
「このままでは八幡神に申し訳ない。なんとかしなければ…」
頼義は心に強く誓い、新たに神殿を建て直すこと決めました。
そして八幡神を祀るにふさわしい場所を見つけ、再びその神威を取り戻すため、周囲の土地を丹念に調査し始めました。
ある日、近くの府頭山(現在の八幡山)に登った際、その山容が山城国(京都)の男山に非常に似ており、北を流れる蒼社川が男山に対する淀川のように見えることに気づきました。
「これこそ無二の霊地である」
そう確信した頼義は、この地に新たな八幡神を祀るための準備に入りました。その後、深躬の子孫「河野親経(こうのちねつか)」と協力して、府頭山(八幡山)の頂上に新たな社殿を作り始めました。
建設が着々と進んでいたある日、境内の地中から清らかな水が突然湧き出しました。
頼義はたいへん驚きましたが、すぐに思い出したのは、京都の男山の石清水八幡宮でも同じように石から清水が湧き出たという伝承でした。
これを神の導きである感じた頼義は、神社の社号を「石清水八幡宮」と定め、八幡神の神威を宿す社殿を見事に完成させたのです。
こうして創建された石清水八幡宮は、同時代の伊予において建立された数ある八幡宮の中でも、ひときわ群を抜く威厳と格式を備えた神社として重んじられるようになりました。
別当寺と栄福寺と共に神仏習合
また、いつの頃からかは定かではありませんが、明治初年の神仏分離が実施されるまで、石清水八幡宮は四国八十八箇所霊場の第57番札所として、別当寺である栄福寺とともに神仏習合の形態を保っていたといわれています。
そして、神仏分離を経て札所は寺院に引き継がれ、現在のかたちになったと伝えられています。
鎌倉時代の信仰を伝える御神像
石清水八幡宮には、主祭神である八幡三神「品陀和気命(応神天皇)、息長帯比売命(神功皇后)、帯中津彦命(仲哀天皇)の御神像が今も丁重に祀られています。
それぞれが父・母・子という家族の構成をなしており、この三体の神像は「家族神信仰」の象徴として長く地域に根ざしてきました。
品陀和気命(ほむだわけのみこと)
- 神格と由来
第15代応神天皇の神格化された姿であり、八幡神そのものとされています。奈良時代に宇佐神宮(大分県)において八幡神が崇敬され始めた際、主神として祀られたのがこの品陀和気命です。 - 歴史的信仰の広がり
平安時代以降、八幡神は「国家守護神」「武運の神」として都でも信仰され、特に源氏が氏神として崇めたことから、武家政権の時代には全国に八幡宮が広がりました。鎌倉幕府、室町幕府、さらには戦国大名たちもこぞって八幡神に戦勝祈願を行い、武士の守護神としての地位を不動のものとしました。 - 神仏習合の影響
中世には、八幡神は「八幡大菩薩」と称され、阿弥陀如来の化身と見なされるなど、仏教との融合(神仏習合)が進みました。とくに石清水八幡宮は、国家鎮護と密接に結びついた神仏融合の象徴的存在となりました。
息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)
- 神格と由来
古代日本の女傑として名高い神功皇后を神格化した存在です。記紀(『古事記』『日本書紀』)に記される伝説では、妊娠中にもかかわらず朝鮮半島へ軍を率いて渡り、戦わずして三韓を平定したとされる知勇兼備の聖母的存在として知られます。 - 信仰の広がり
神功皇后は、古来より安産・子授け・子育ての守護神として信仰され、全国の八幡宮、特に女性や母子の健康を祈る場において、重要な神格とされてきました。また、軍神である息子・応神天皇の母であることから、勝利を導く「母なる存在」としても崇敬されました。 - 女性守護としての意義
中世以降は「女人守護」の神としての地位を確立し、安産祈願・乳児健康・家族繁栄など、女性と家庭を支える神格として広く親しまれました。神功皇后を本地仏である「如意輪観音」と重ねて信仰する地域もあり、女性の人生を守る仏神としての役割も果たしていました。
帯中津彦命(たらしなかつひこのみこと)
- 神格と由来
第14代仲哀天皇に相当する神で、神功皇后の夫神にあたります。記紀によると、朝鮮出兵の途中で急逝した天皇とされ、実際の統治記録は少ないため、後世の信仰対象としては応神天皇や神功皇后ほど前面に出ることは少なく、八幡三神の中では最も知られにくい神格とされています。 - 象徴的な役割
仲哀天皇は王統の正統性と家族の絆を象徴する存在と見なされ、神功皇后・応神天皇とともに「三神一体」の家族神として八幡三神を構成します。特に、家内安全・夫婦和合・祖先崇拝といった民間信仰と結びついており、八幡宮では見えにくいながらも重要な神格です。 - 家族神信仰としての価値
父・母・子の三神をそろえて祀ることは、「家族の絆」「血統の正統性」を守る祈りであり、国家・家系・村落といった共同体の安寧を願う象徴的な信仰形態といえます。
御神像と文化的価値
これら三神の神像は、鎌倉時代(1185〜1333年)に制作されたと伝えられています。
いずれも等身大のヒノキ製木像で、当時の彫刻技術の粋を集めた精巧な造形は、当時の工芸文化の高さを伝え、中世彫刻史における貴重な文化遺産でもあります。
これらの御神像は非公開とされていますが、毎年9月15日に限り、一体ずつ順番に御開帳される習わしがあります。
この御開帳は、古くから続く神事の一環として厳かに執り行われ、地域の人々はもちろん、近隣各地からも多くの参拝者が訪れる大切な行事となっています。
鎌倉時代の繁栄と八幡宮の存在感
同じく鎌倉時代の文献に、石清水八幡宮の繁栄ぶりを示す重要な記録が残されています。
建長7年(1255年)の文書には、当時の伊予国の役人であった田所木工允・紀氏(きのうじ)が幕府に提出した報告の中で、石清水八幡宮に合計60町6反1畝10歩、つまり「東京ドーム約12.8個(約60ヘクタール=0.6k㎡)」もの広大な田畑が寄進されていたことが記されています。
このような広大な土地の中で、四村、郷、鳥生などの地域にも鳥居が建てられ、多くの人々からの信仰を集めました。
その中には、河野氏・細川氏・西園寺氏など、伊予の有力な武家も名を連ねており、石清水八幡宮は地域社会において宗教的・文化的な中心として大きな存在感を放っていました。
特に戦前までのお祭りは大変な賑わいを見せ、鈍川から鳥生(衣干)、そして立花に至るまで、三体の神輿や奴、笠鉾が町々を練り歩く盛大な行列が行われていたと伝えられています。
聖武天皇時代から続く高い格式
石清水八幡宮は、第45代聖武天皇(在位724年~749年)の時代に設立された「一国一社八幡宮」の一つに数えられています。
一国一社八幡宮とは、それぞれの国(現在の都道府県)に、八幡神を守護神として祀り、その地域の平安と繁栄を祈願するために設立された神社のことです。
当時の伊豫国(伊予・現在の愛媛県)の中心である国府は、現在の今治市に位置しており、石清水八幡宮はこの国府に作られました。
このため、石清水八幡宮は伊予国における第一の神社として非常に高い格式を持ち、伊予国全体を守護する重要な役割を担っていました。
また、石清水八幡宮は「四国八十八箇所の第57番札所」でもありました。
これにより、神道の守護神としての役割に加え、仏教にも影響力を持つ神社となり、全国の巡礼者からも信仰を集める場所となっていました。
今治藩に認められたお神輿
江戸時代、宗教行事を行うには藩の許可が必要であり、特に神輿の渡御(神様を神輿に乗せ、氏子の町内を巡る儀式)は、地域社会や政治に大きな影響を与える重要な行事とされていました。
そのため、藩はこの行事を厳しく監視していました。
今治藩において、神輿の渡御が正式に認められていたのは、特別な格式を持つ大浜八幡神社と石清水八幡神社の2社のみでした。
これらの神社は、藩の信頼を得ており、神輿が正式に町内を巡り、地域の守護を祈る行事として許可されていました。
一方で、必ずしも他の神社で神輿が出されなかったということはなく、地域の氏子である若者たちは、地元の神様に感謝を伝えるため、無許可で神輿を担いで町内を巡ることがありました。
これは「俄神輿(にわかみこし)」と呼ばれ、荒々しい行動に発展することがあったため、問題視されて藩によって取り締まりの対象となっていました。
歴史と共に昇格した神社の歩み
石清水八幡宮に現存する本殿は寛政4年(1792年)に再建されたものであり、拝殿は文化13年(1816年)に造営されたものです。
いずれも江戸時代後期の建築で、時代を超えて受け継がれてきた社殿は、当時の建築様式や宗教観を今に伝える貴重な文化遺産でもあります。
本殿は、神々を祀る最も神聖な空間として、また拝殿は地域の人々が祈りを捧げる場として、長く信仰の中心を担ってきました。
丁寧に修復・保存されてきたこれらの社殿は、今もなお厳かな雰囲気を漂わせ、神域としての風格を保っています。
明治以降の社格昇格
明治時代に入ると、明治政府によって近代的な神社制度が整えられ、全国の神社に対して序列を設ける「社格制度」が導入されました。
この制度のもとで、石清水八幡宮はまず村社に列格し、その後の明治14年(1881年)には郷社へと昇格しました。
郷社とは、旧郡を単位とする地域の代表神社であり、その地域における信仰と文化の中心であることを示しています。
さらに昭和5年(1930年)には県社へと昇格し、愛媛県内において特に重要な神社のひとつとして認められ、地域の信仰の中心として重要な地位を築きました。
現在の石清水八幡神社
現在の石清水八幡宮は、いつからか石清水八幡神社と称されるようになり、かつては立花地区にまで及ぶ広範囲にわたる村々の氏神として崇敬されていました。
しかし、時代が進むにつれてその影響範囲は縮小し、現在では、主に五十嵐、小鴨部、別所、八幡の各地域で、その信仰が今も受け継がれています。
石清水八幡宮に奉納される巨大絵馬
石清水八幡宮では、平成27年(2015年)から、今治市立南中学校の美術部による「巨大絵馬」の奉納が毎年年末の恒例行事となっています。
この絵馬は、その年の干支をテーマに生徒たちが丹精込めて描き上げるもので、完成した大きな絵馬は年始の参拝者を迎えるように境内に掲げられます。
絵馬には、地域住民の無病息災や健やかな一年への願いが込められており、若い世代の手によって伝統と信仰が現代的な形で継承されています。
この行事は単なる美術作品の発表にとどまらず、地域社会と神社、そして未来を担う若者たちとのつながりを深めるものとして定着しています。
毎年、多くの参拝者が生徒たちの力作を楽しみに訪れ、神社の新たな魅力として親しまれています。
地域の絆を伝える江戸時代の絵馬
また、神社の社殿内には、江戸時代の**天保の大飢饉(1833〜1837)**の際に奉納された貴重な絵馬が今も残されています。
この絵馬は、当時の今治城を背景に、源義家(みなもとのよしいえ)を描いたもので、今治藩の御用絵師であった「雲渓(うんけい)」が手掛けたとされています。
特筆すべきは、この絵馬の奉納者が「氏子中」ではなく、「郡中(ぐんちゅう)」と記されている点です。
これは、越智郡一帯の人々が神社に直接関係があるか否かを問わず、地域全体で力を合わせて奉納したことを意味しています。
天保の飢饉を乗り越えた感謝と祈りが、郡全体の連帯として形になったこの絵馬は、郷土の絆と信仰心の深さを今に伝える文化遺産です。