全国には「岩戸神社(いわとじんじゃ)」と名のつく神社が数多く存在しますが、ここ愛媛県今治市朝倉地区にも、同名の「岩戸神社」が鎮座しています。
「朝倉天皇石戸宮」
その創建時期は不明ながら、かつては現在も社号に残る「朝倉天皇石戸宮(あさくらてんのういわとぐう)」として知られていたことがわかっています。
この「朝倉天皇」とは誰を指すのか…。
それはいまだ明らかではなく、現在も謎に包まれたままです。
ただし、他の岩戸神社と同様に、この神社でも御祭神として祀られている「手力男命(たぢからおのみこと)」は、「岩戸」と深い関わりをもつ神であり、その神格を辿ることで、神社創建の背景に迫る手がかりが見えてきます。
祭神「手力男命」
手力男命は、日本神話に登場する力の神であり、その名の通り「手の力の強い男神」を意味します。
『古事記』では「天手力男神(あめのたぢからおのかみ)」、『日本書紀』では「天手力雄神(あめのたぢからおのかみ)」と表記され、それぞれの神典において重要な役割を担っています。
そんな手力男命と「石戸」の地名を結びつけるのが、「岩戸伝説(いわとでんせつ)」です。
「岩戸伝説」
はるか昔、神々が住む「高天原(たかまがはら)」には、世界に光をもたらす太陽の神「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」がいました。
天照大御神は神々の住まう天上界を治め、地上にも光を届けることで、秩序と調和をもたらしていました。
しかし、その平穏を乱す存在が現れます。それが、天照大御神の弟「須佐之男命(すさのおのみこと)」でした。
荒ぶる神・須佐之男命の追放
須佐之男命は海原を統べる神でしたが、激しい気性を持ち、時に暴風を巻き起こし、大地を荒らしました。
父・伊邪那岐命(いざなぎのみこと)から「海原を治めよ」と命じられた須佐之男命は、当初その役割に従っていました。
しかし、亡き母・伊邪那美命(いざなみのみこと)を慕うあまり、黄泉の国へ行きたがり、役目を放棄してしまいます。
この態度に怒った伊邪那岐命は、須佐之男命に神々の世界からの追放を言い渡しました。
高天原への訪問と「誓約(うけい)」
地上に降りる前、須佐之男命は姉・天照大御神に別れを告げようと高天原を訪れます。
しかし、荒ぶる神の突然の来訪に「須佐之男命は天照大御神の領域を奪おうとしているのではないか?」と高天原の神々は疑い始めました。
これに対して須佐之男命は、自身の潔白を証明するため、天照大御神に「自分に邪な心がないことを証明するため、誓約(うけい)を行おう」と提案しました。
天照大御神は須佐之男命の剣を受け取り、それを噛み砕いて吹き出すことで、三柱の女神を生み出しました。一方、須佐之男命は天照大御神の勾玉を受け取り、同じようにして五柱の男神を生み出しました。
このとき天照大御神は、「自分の清らかな心から、神聖な存在である女神が生まれた」と解釈しました。
誓約は単に神々を生む儀式ではなく、どちらの心がより清らかであるかを神の力を通じて明らかにする儀式とされており、その結果として生まれた神の性質(女神か男神か)が、心の純粋さを象徴するものと考えられたのです。
こうして天照大御神は、「自分が正しければ、相手も潔白である」と納得し、須佐之男命の疑いは晴れることとなりました。
高天原での乱暴
しかし、安心した須佐之男命は高天原で次々と乱暴を働き始めました。
田畑を荒らし、稲を踏み潰し、天の川の堤を壊し、さらには神々の御殿に糞をまき散らすなど、高天原に混乱をもたらしました。
当初は寛大な心で見守っていた天照大御神でしたが、須佐之男命はついに取り返しのつかない行為をしてしまいました。
「天岩屋戸」
ある日、須佐之男命は皮を剥いだ馬を機織りの館の天井から投げ込みました。この突然の出来事に驚いた機織女は、動揺のあまり事故に遭い、命を落としてしまいました。
この悲劇に天照大御神は深く心を痛め、「天岩屋戸(あまのいわやど)」という洞窟に閉じこもってしまいました。
太陽神である天照大御神が姿を隠すと、世界は一瞬で闇に包まれました。
太陽の光が失われたことで、大地は凍え、作物は枯れ、あらゆる生命が衰え始めます。
さらに、闇を好む魔物や悪しきものたちが這い出し、人々は混乱と不安に満ちていきました。
天岩屋戸を開けるために
困り果てた八百万(やおよろず)の神々は、高天原の「天安河原(あまのやすかわら)」に集まり、対策を練ります。
そこで知恵の神「思金神(おもいかね)」に助言を求め、天照大御神を岩屋から引き出すための策が講じられることになりました。
神々はまず、長鳴鳥(ながなきどり)を鳴かせ、夜明けが来たように見せかけました。
続いて、神聖な供物を捧げ、祝詞を唱え、高貴な神が現れたように装いました。
そして、芸能の神である「天宇受売命(あまのうずめのみこと)」が桶の上で激しく舞を舞うと、神々は大声で笑い、あたりは歓声に包まれました。
この外の騒がしさに、天照大御神は不思議に思い、天岩屋戸を少しだけ開けて問います。
「なぜ外がこれほどまでに楽しそうなのですか?」
天宇受売命は答えます。
「あなたよりも尊い神が現れたのです。」
その言葉に驚いた天照大御神がさらに岩戸を開いたその瞬間、待ち構えていた怪力の神「天手力男命(たぢからおのみこと)」が、岩戸を一気にこじ開け、天照大御神を外へと引っ張り出しました。
こうして太陽の光が再び世界に戻り、大地は息を吹き返し、混乱は収まりました。
須佐之男命、地上へ
この事件の責任を問われた須佐之男命は、神々の世界・高天原から追放され、地上へと降り立ちます。
そしてその後、出雲の国にて、暴れる巨大な蛇「八岐大蛇(やまたのおろち)」を退治し、英雄としての名を残すことになりました。
力の守護神「天手力男命」
一方、天岩屋戸を力づくでこじ開け、天照大御神を引っぱり出した天手力男命は、その比類なき怪力と勇気によって、神々の秩序を回復させた立役者とされました。
この偉業を讃えられ、天手力男命は「筋力の神」「怪力の神」として信仰されるようになります。
現在では、武道やスポーツの守護神としても広く崇敬され、全国の多くの神社で祀られています。
岩戸神社と岩戸信仰
朝倉地区の「岩戸神社」も全国の岩戸神社と同じ様に、天照大御神(あまてらすおおみかみ)が身を隠したとされる天岩戸(あまのいわと)を神聖視し、それを神格化した「岩戸信仰」と深く結びついていると考えられます。
この岩戸信仰は、洞窟や巨岩を神の依代(よりしろ)とする「磐座(いわくら)信仰」とも密接な関係にあり、
自然そのものを神聖視する古代の信仰形態を今に伝えるものでもあります。
斉明天皇の伝説と石戸宮
これらの信仰的背景を踏まえると、社号の「朝倉天皇石戸宮」には、単なる神名や地名以上の意味が込められている可能性があります。
「岩戸」という言葉は、古代において墳墓の羨道(せんどう:墓室へと続く通路)の出入り口に立てられた岩の戸を指すことがあります。
このことから「朝倉天皇石戸宮」は「朝倉天皇の墳墓の入り口の宮」と解釈することもできます。
では、この「朝倉天皇」とは何者なのか……。
その実在については定かではありませんが、朝倉地区には斉明天皇にまつわる伝承が残されており、この地で崩御したとする言い伝えも存在します。
また、古代の日本で天皇の崩御後、その霊を鎮めるために「御陵(ごりょう)」や「宮」が祀られることがありました。
これらの背景を踏まえると、「朝倉天皇」は斉明天皇を指すという仮説が導き出され、「朝倉天皇石戸宮」は、斉明天皇の墳墓の入り口を神聖な場所として祀った神社である可能性があると考えられます。
歴史の謎と受け継がれる信仰
推測の域を出ませんが、これらの要素が同じ場所に集まっていることは、歴史と信仰が交差する、きわめて興味深い事象であり、今後の探究にも大きな可能性を残しています。
今後の発掘調査や文献研究の進展によって、「岩戸神社」と「朝倉天皇石戸宮」の関係について、より具体的で確かな理解が深まっていくことが期待されます。
しかし、たとえすべての謎が明かされなかったとしても、この地が長い年月を超えて受け継がれ、今なお人々の心を引き寄せ続けていることに変わりはありません。