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古くから信仰を集めてきた神社の由緒と、その土地に根付いた文化を紹介。

寺院BUDDHA

人々の心のよりどころとなった寺院を巡り、その背景を学ぶ。

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時代ごとの歴史を刻む史跡を巡り、今治の魅力を再発見。

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持宝院(今治市・波方地区)

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「持宝院(じほういん)」は、波方町樋口にある天台宗寺門派(正式名称:天台寺門宗)の寺院で、瀬戸内海に面したこの地で、海と共に生きた人々の信仰を支え続け、地域の歴史を見守ってきました。

戦国の海を見守った祈りの寺

持宝院は、明応9年(1500年)、慈光法師(じこうほうし)が大阪・四天王寺から本尊である青面金剛尊(しょうめんこんごうそん)を勧請し、この地に寺を開いたことから始まりました。

この頃、室町幕府の権威は急速に衰え、戦国大名たちが各地で勢力を争う戦乱の時代が幕を開けていました。

瀬戸内海も例外ではなく、大内氏・細川氏・河野氏・村上水軍といった諸勢力が海上権益をめぐってしのぎを削り、海上交通の安全すら脅かされる不安定な状況にありました。

こうした中で、持宝院は海上安全・戦勝祈願・疫病除けの信仰の拠り所として、地元の人々や海上を行き交う船乗りたちの篤い信仰を集めるようになりました。

中でも、来島の来島城を拠点に瀬戸内海を統治していた村上水軍の御三家の一つ、来島村上氏からは特に厚く庇護され、持宝院は祈願所として大いに発展しました。

海とともに生き、瀬戸内海の秩序と安全を守ってきた来島村上氏にとって、持宝院は精神的支柱ともいうべき存在だったのです。

杣田村へ移転

その後、ある時期に持宝院は現在の場所から杣田村(そまだむら)へと移転されています。

この移転の詳細な理由は史料に明記されていませんが、当時の寺院の経営状況の変化、戦乱による影響、また地域の勢力図の変動や集落・港の機能移動などが背景にあった可能性があります。

戦国末期から江戸初期にかけての激動の時代、寺院が移転を余儀なくされる事例は決して珍しいことではありませんでした。

この移転の詳細な理由は史料に残されていませんが、当時の寺院の経営状況や、戦乱や地域の勢力変動、集落や港の機能移動などが背景にあった可能性が考えられます。

現在の地へ

元禄4年(1691年)、持宝院は再び現在の地に戻り、地域の祈願所・信仰の場としてこの地にとどまることとなりました。

しかし、その頃には、かつてこの海域を統治し、この地を守っていた来島村上氏の姿はありませんでした。

来島村上氏が去った理由と戦国の歴史

では、なぜ来島村上氏は伊予の地から姿を消すことになったのでしょうか。

そこには、戦国の激動に翻弄された歴史の物語が潜んでいます。

河野氏との絆と衰退

来島村上氏は、代々伊予国の有力豪族である河野氏に仕え、来島海峡をはじめとする海域を統治していました。

しかし、戦国時代の混乱の中で、河野氏は次第に勢力を失い、かつての威勢を保つことができなくなっていきます。

特に天正5年(1577年)、織田信長が羽柴秀吉を中国地方遠征軍の総大将に任命し、毛利氏に圧力をかけ始めたことで情勢は一変します。

毛利氏の支援を失った河野氏は、四国統一を目指して進軍する土佐の長宗我部元親の攻勢に押され、次第に劣勢へと追い込まれていったのです。

当主・来島通総の葛藤

ここまで来島村上氏は河野氏と連携し、土佐の長宗我部氏やその他の敵対勢力になんとか対抗し続けてきました。

しかし、もし織田信長の軍勢(羽柴秀吉率いる軍)が四国にまで侵攻してくれば、もはや太刀打ちできないだろう。

そんな最悪の想定が現実味を帯びる中、通総は「このまま河野氏に従い続けることは一族を滅ぼすことになるのではないか」という危機感を強めていったのです。

さらに、来島村上氏の中には河野氏に対する不満もくすぶっていました。

実は、通総の父・来島通康(くるしま みちやす・村上通康) は河野氏の娘と婚姻し、かつて河野本家を継ぐ約束を取り付けていました。

しかし、河野氏内部での家督争いや分家との対立による抗争が起き、その約束は反故にされてしまったのです。

この屈辱的な出来事も、河野氏との関係を考え直す要因の一つとなっていた可能性があります。

また、通総の母は河野氏の出身でしたが、実家が河野氏内部の抗争の中で分家に乗っ取られ、その勢力を失っていました。

そのため河野氏とのつながりに執着することはなく、むしろ時代の流れに乗り、天下統一を目指す織田信長に従うことを支持していたと伝わっています。

「村上水軍の裏切り」来島村上氏の離反

天正9年(1581年)、こうしたさまざまな要因が積み重なる中、来島村上氏の当主・来島通総は、ついに一族の存続を優先し、長年にわたって忠誠を誓ってきた河野氏との関係を断ち切る決断を下しました。

通総は羽柴秀吉との同盟を選び、村上水軍の一角を担う来島村上氏は織田軍の勢力に加わることとなったのです。

また、他の御三家である能島村上氏・因島村上氏も織田軍へと同調する構えを見せ始めました。

同年9月、来島通総は20隻を超える軍船を率いて風早郡柳原の浜に押し寄せ、河野氏の家臣らと戦火を交えました。

この「反逆」とも言える行為には、河野氏だけでなく、中国地方の覇者・毛利氏も激しく反発しました。

実は村上水軍は、毛利水軍の中心戦力として瀬戸内海の制海権を維持するうえで重要な役割を担っていました。

この頃、織田軍と敵対していた毛利氏にとっても、村上水軍は瀬戸内海の制海権を支える不可欠の存在であり、来島村上氏の裏切りはその体制を根底から揺るがす重大事だったのです。

毛利氏は事態を重く見て、村上御三家三家(来島・能島・因島)を毛利陣営に引き戻すべく、信頼厚い家臣・乃美宗勝を派遣し、能島・因島両氏への説得を試みました。

その一方で、織田方も両氏に接触を図り、村上水軍全体を織田方に引き入れようと動きました。

こうして始まった村上水軍三家をめぐる水面下での「誘引合戦」は翌年まで続き、ついに天正10年(1582年)4月、因島村上氏が毛利方に人質を差し出し、忠誠を誓います。

続いて能島村上氏も乃美宗勝の説得に応じ、毛利方に復帰するとともに、織田方の羽柴秀吉に絶縁状を送りつけました。

その結果、来島村上氏が織田方に、能島村上氏・因島村上氏が毛利氏・河野氏方に属することとなり、かつて瀬戸内海を制した村上水軍は、ついに分裂の時を迎えたのです。

「裏切りの代償」来島村上氏の敗北

その後、毛利・河野両氏は何度も考えを改めるように説得を試みましたが、来島村上氏は方針を変えることはありませんでした。

そして、天正10年(1582年)5月、痺れを切らした毛利氏は、能島村上氏・因島村上氏に攻撃を命じ、両氏は軍勢を率いて来島村上氏の拠点であった風早郡の難波・正岡両郷へと攻め込んだのです。

瀬戸内海の制海権を巡る戦いは、かつて共に村上水軍として海を制した同族同士による、壮絶な内乱の様相を帯びることとなったのです。

さらに軍勢は来島城を襲撃し、越智郡の大浜浦(現:今治市大浜)を焼き払いました。

天正10年(1582年)10月には、能島村上氏の軍勢が来島村上氏の勢力下にあった大島の椋名(むくな)に攻め入り、来島村上氏の領地への圧力を一層強めていきました。

そして6月27日、能島・因島の軍勢は大浦ノ砦を激しく攻撃し、これを陥落させると、いよいよ海と陸の両面から来島城への総攻撃を開始します。

毛利・河野の連合軍、そして同族であった能島・因島村上氏の容赦ない攻撃の前に、来島村上氏は次第に追い詰められ、滅亡寸前にまで追い込まれました。

この危機的状況の中で、当主・来島通総はついに重大な決断を下します。

それは、拠点である来島を放棄し、毛利・河野の包囲網を突破して豊臣秀吉のもとへと逃れるというものでした。

天正11年(1583年)3月、来島通総は夜の風雨にまぎれて毛利・河野連合軍の厳しい包囲網を突破。

そのまま瀬戸内海を南下し、なんとか羽柴(豊臣)秀吉の陣営へと身を寄せることができました。

こうして伊予を去ることとなった来島村上氏でしたが、この時の決断が、その後の命運を大きく左右することとなります。

四国攻めの一時中断と来島村上氏の孤立

この頃、信長軍は天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変によって織田信長が家臣・明智光秀に討たれ、四国攻めは一時中断を余儀なくされていました。

そのため、来島村上氏は織田軍からの援軍を期待できず、拠点を捨てるという決断をとったのです。

「秀吉の四国攻め」河野氏と他の御三家の衰退

しかしその後、実権を握った秀吉は信長の志を引き継ぎ、天下統一を目指して勢力を拡大。

天正13年(1585年)、ついに四国制圧を決断し、小早川隆景、黒田官兵衛、宇喜多秀家らを指揮官に据え、水陸合わせて10万ともいわれる大軍を四国に派遣。

いよいよ秀吉による四国攻めが始まったのです。

このとき、伊予では河野氏が最後の抵抗を試み、湯築城に籠城しました。

しかし圧倒的な豊臣軍の前に抗う術はなく、小早川隆景の説得を受け降伏。

こうして、河野氏による長きにわたる伊予統治の歴史は終焉を迎えました。

一方、土佐を本拠とする長宗我部元親は、すでに四国のほぼ全域を統一し、四国の覇者として君臨していました。

しかし、各地で豊臣軍に圧倒され、讃岐・阿波・伊予の諸城は次々と落城。

最終的に土佐に追い詰められた元親もまた降伏し、四国は完全に豊臣政権の勢力下に入ることとなったのです。

海賊行為の禁止と来島村上氏の繁栄

天正16年(1588年)、瀬戸内海の秩序を確立した秀吉は、海上交通を統制するため、全国に向けて「海賊停止令(海賊禁止令)」を発布しました。

これにより、私的に海上で武力を行使すること、すなわち海賊行為が全面的に禁じられ、瀬戸内で強大な勢力を誇っていた能島村上氏や因島村上氏は、従来のような独立した水軍勢力としての活動を制限され、急速に弱体化していきました。

その一方で、いち早く秀吉に従った来島村上氏は、例外的に水軍大名としての存続を許されるという特別待遇を受けました。

実は、来島村上氏は天正13年(1585年)の秀吉による四国攻めにおいて、毛利氏の反発を受けながらも秀吉の強い意向によって来島への復帰が認められ、秀吉の水軍の先鋒として目覚ましい武功を挙げていました。

秀吉はこの功績を高く評価し、村上水軍の中で唯一、来島村上氏に水軍大名としての存続を認め、さらに伊予風早郡(現:旧北条市周辺)に1万4,000石の領地を与えました。

これにより、来島村上氏は豊臣政権公認の大名家としてその地位を確立し、鹿島(旧北条市鹿島)の鹿島城(かしまじょう)を居城とすることとなりました。

一方、能島・因島村上氏は伊予の情勢が変わる中で、秀吉軍の輸送・補給の役目を担っていたものの、来島村上氏のように評価されることはありませんでした。

「朝鮮出兵」来島通総の戦死

天正18年(1590年)、豊臣秀吉は小田原征伐を終えて関東の北条氏を滅ぼし、全国の大名を服属させることで 事実上の天下統一を成し遂げました。

しかし、秀吉はこれにとどまらず、次なる野望として明(中国)への進出を目指し、その足がかりとして朝鮮半島への侵攻、いわゆる 朝鮮出兵(文禄・慶長の役) を開始します。

この朝鮮出兵において、来島通総も水軍を率いて従軍しました。

しかし、慶長2年(1597年)、鳴梁(めいりょう)海戦で朝鮮水軍の名将・李舜臣(り しゅんしん)の反撃を受け、壮絶な戦いの末、36歳の若さで戦死してしまいました。

通総は、かつて瀬戸内の海を自在に駆け、伊予の地で一族の繁栄を支えてきたその生涯を、遠く異国の地・ 朝鮮の海 で閉じることとなったのです。

来島康親が当主へ

その後、当時わずか16歳だった来島康親(当時の名は長親)が当主となり、若くして一族の命運を背負うこととなります。

康親はすぐに朝鮮出兵に自ら志願して従軍し、勇敢に戦いました。

この朝鮮出兵は、秀吉が天下統一の余勢を駆って開始した大規模な海外遠征でしたが、慶長3年(1598年)、秀吉の死去に伴って戦は終わり、康親も帰国。

伊予風早郡・野間郡の地を治めることとなりました。

しかし、帰国からわずか2年後の慶長5年(1600年)、天下を二分する「関ヶ原の戦い」が勃発します。

康親率いる来島村上氏の命運は、再び大きな時代の波に翻弄されることとなったのです。

「関ヶ原の戦い」来島村上氏の決断

康親は当初、豊臣家や毛利家との関係を重んじ、西軍に与する意志を示しましたが、情勢の変化を見極め、決戦直前に東軍に内通しました。

関ヶ原の戦いでは、東軍の勝利により西軍の大名たちは厳しく処分され、所領を没収されるなど、日本の勢力図は大きく塗り替わりました。

康親は直前で東軍に転じたことで、一旦は本領安堵を受けますが、最終的には所領を没収され、やがて鹿島城も廃城となりました。

森藩の藩主としての道

その後、来島村上氏の家臣たちは、漁師となる者、他藩に仕える者、各地の村で新たな生活を始める者など、それぞれの道を歩んでいきました。

康親自身は数名の家臣とともに京都・伏見に身を寄せ、再起の道を模索。やがて大阪へと移り住み、必死の思いで復権の機会を探り続けました。

そうした中、妻の伯父であった福島正則の口添え・取りなしを得て、ついにその努力が実を結びます。

慶長6年(1601年)、康親は豊後国(現:大分県)の玖珠郡・日田郡・速見郡にまたがる1万4,000石の所領を与えられ、森藩(後の豊後森藩)の初代藩主となり、来島村上氏は新たな地で大名家としての歩みを再び始めることとなったのです。

慶長6年(1601年)、康親は豊後国(現:大分県)の玖珠郡・日田郡・速見郡にまたがる1万4,000石の所領を与えられ、森藩(後の豊後森藩)の初代藩主となり、来島村上氏は新たな地で大名家としての歩みを再び始めることとなったのです。

このようにして、戦国の激動の時代、来島村上氏は伊予の地から姿を消し、持宝院が再び現在地に戻った元禄の頃には、もはやその姿を見ることはできなかったのです。

現在の持宝院として

持宝院は、長年厚い庇護を受けてきた来島村上氏という大きな支えを失った後も、地域住民や残された信仰の力によってその歴史をつないできました。

しかし、明治時代の半ば(1887〜1900年頃)、持宝院は一時無住(住職不在)の状態となり、荒廃の危機にさらされます。

この時期は、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)という仏教寺院の排除が進んだ時代で、多くの寺院が廃絶の危機にさらされました。持宝院もこの影響を受け、寺としての機能が一時的に停止してしまった可能性があります。

それでも、持宝院は地域の人々の強い信仰心によって再び立ち上がりました。地域住民たちの力により、寺院の再建が進められ、何度も修復が行われました。

そして、昭和57年(1982年)には、現在の建物が新築され、持宝院は再び地域の信仰の中心としてその役割を果たし、現在も地域の人々に大切に守られ続けています。

本尊「青面金剛尊」

持宝院の本尊である青面金剛尊(しょうめんこんごうそん)は、石像が多い中で木造という珍しい形式で造られており、その精巧な彫刻技術と歴史的価値の高さから、町の指定文化財として保護されています。

青面金剛尊を安置する厨子(ずし) は、寛政7年(1795年)9月 に奉納されたものです。

厨子とは、仏像や神像を納め、ほこりや風雨から守るための箱型の小さな建物や箱で、その荘厳さが仏像の神聖さを一層際立たせています。

持宝院を訪れる人々は、今も変わらずその霊験に静かに手を合わせ、祈りを捧げています。

庚申信仰

青面金剛尊は中国の道教の教えから発展した庚申信仰(こうしんしんこう)に深く結びついた神で、日本では民間信仰として広く親しまれてきました。

庚申信仰は、中国の道教に由来し、日本では平安時代以降、民間信仰として広く広まったものです。

この信仰では、人間の体内には「三尸(さんし)」と呼ばれる虫が棲んでおり、庚申(かのえさる)の日の夜、眠っている間にこの三尸の虫が体を抜け出し、天帝にその人の罪や悪行を告げ口すると信じられていました。

天帝はこの報告を受けると、その人の寿命を縮めると考えられていたのです。

このため、庚申の夜には人々は徹夜をして「庚申待ち」を行い、眠らずに過ごすことで三尸の虫が天に昇るのを防ぎ、寿命を守ろうとしました。

庚申待ちは、村人や仲間同士で集まって夜を明かし、酒食をともにしたり経を読んだりする、地域の結びつきを深める行事ともなっていました。

青面金剛尊は、この三尸の虫を抑え、悪霊や病気を退ける守護神として庚申信仰の中心的な存在とされ、持宝院の本尊としても地域の人々の篤い信仰を集めてきたのです。

脇仏「不動明王」と「十一面観世音菩薩」

また、持宝院には本尊の脇仏として、不動明王(ふどうみょうおう)と十一面観世音菩薩(じゅういちめんかんのんぼさつ)が祀られています。

  • 「不動明王」
     不動明王は、悪を打ち砕き、信仰者を正しい道へと導く守護の仏です。剣と縄を持ち、怒りの表情で悪を退ける姿は、力強さと安心感の象徴であり、人々の苦難除けや安全祈願の対象となっています。
  • 「十一面観世音菩薩」
    十一面観音は、頭上に十の顔を持ち、あらゆる方向を見渡して人々の悩みや苦しみに目を向け、救いの手を差し伸べる慈悲の菩薩です。地域の人々にとって、日常生活の困難を和らげ、救済を願う存在として深く信仰されています。

不動明王は、仏教における守護の神であり、悪を打ち砕き、正しい道へ導く存在です。

剣と縄を持ち、怒りの表情を浮かべる不動明王は、強い力を象徴し、信仰者に安心を与える役割を果たしています。

脇仏「十一面観世音菩薩」

十一面観世音菩薩は、観音菩薩の中でも特別な姿をした菩薩で、頭上に十の顔を持ち、あらゆる方向から人々の悩みや苦しみを見守り、救いの手を差し伸べるとされています。

十一面観音は、慈悲の象徴であり、地域の人々が日常生活で遭遇する困難や苦しみに寄り添い、救済を求める存在です。

これらの脇仏も、持宝院の信仰において重要な役割を果たしており、地域の人々から深く信仰されています。

「庚申堂」地域の伝統と繋がり

こうした信仰を 持宝院は、樋口地域に檀家こそ持っていませんが、地域の歴史や文化に密接に結びいており、地元では「庚申堂(こうしんどう)」として親しまれています。

「潮早神社と持宝院」来島村上氏との縁

持宝院の裏手には、多くの氏子によって支えられる潮早神社(しおはやじんじゃ)があります。

この潮早神社も、瀬戸内海を治めた来島村上氏と深い関係があり、来島村上氏が海の守りの要として築いた防衛拠点 潮早砦(しおはやとりで)の跡地に鎮座しています。

潮早神社へは、持宝院の境内から木々に囲まれた静かな階段を登って参拝することができ、訪れる人々は往時の海と人々の営みに思いを馳せながら、心静かに手を合わせています。

金刀比羅神社

また、潮早神社へと続く木々に囲まれた静かな階段の途中に、神仏習合の神様として知られる「金刀比羅大権現」を祀る金刀比羅神社が鎮座しています。

この金刀比羅神社は、もともと海山城団地にありましたが、土砂崩れの被害を受けたため、現在の場所に移されました。

毎年1月10日には、「初金毘羅(はつこんぴら)」という縁日が行われ、多くの地域住民が集まります。

この日には、持宝院でも「大般若経の法会」が行われ、地域の神社総代が世話役となり、お経を納めた箱を樋口地域全体に巡回します。

住民の健康や安全を祈るこの行事は、地域に深く根付いた大切な伝統として、今も変わらず守り継がれています。

「清元堂」整体・リザクレーション

持宝院の敷地内には、持宝院の副住職であり整体師でもある伊藤祐一氏が、地域の人々の心と体の健康を支える場として開設した、整体・リザクレーション「清元堂(しょうげんどう)」が併設されています。

「清元堂」という名前は、伊藤氏の法名である「清元(しょうげん)」に由来しています。

「来られるお客様が、清らかな水のように心も体も安らぎ、元気になって帰っていただけるように」という願いが込められ、訪れる方々に穏やかな癒やしの時間を提供しています。

清元堂では、整体やリラクゼーションの施術を通じて、現代人の抱える疲れやストレスを和らげ、心身の調和を取り戻すことを目指しています。

施術は一人ひとりの状態や悩みに合わせて丁寧に行われ、持宝院の静かな環境も相まって、訪れた人々に深い安らぎをもたらしています。

また、清元堂では定期的に休業日や施術に関するお知らせが発信されており、地域の方々に信頼され、親しまれる存在となっています。

持宝院という歴史と信仰に支えられた場にあって、清元堂は現代における「癒しの道場」として、多くの人々の心と体の健康を支え続けています。

寺院名

持宝院(じほういん)

所在地

愛媛県今治市波方町樋口1851

電話

0898-41-6144

宗派

天台宗寺門派

山号

青面山

本尊

青面金剛神

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