今治市玉川町三反地の地に、ひっそりと佇む古刹「浄土寺(じょうどじ)」。
その静寂に包まれた境内には、長い歳月を経てもなお、阿弥陀仏への篤い信仰の息吹が脈々と息づいています。
浄土寺の開創と念西上人
建長元年(1249年)、浄土宗の僧・法印念西上人によって開かれ、阿弥陀如来をご本尊とする「妙高山阿弥陀院浄土寺」としてその歩みを始めました。
念西上人は自ら阿弥陀如来像を彫刻し、本尊として安置したと伝えられています。
「越智氏と関係」鷹ヶ森城主・越智通能
やがて浄土寺は、鷹ヶ森城を拠点とした河野氏一族の武将・越智通能(越智駿河守通能・越智頼能)による篤い庇護を受けるようになります。
その厚い信頼と支援を受けて、浄土寺は越智氏の祈願所としての役割も担うこととなり、地域における信仰の中心として、より一層の重みを持つ寺院へと成長していきました。
では、この浄土寺の歴史を紐解く前に、まずはその舞台となった鷹ヶ森城、そしてこの地に連綿と息づく伊予の歴史に目を向けてみましょう。
その歴史を読み解く鍵となるのが、伊予を代表する二つの有力一族、越智氏と河野氏。
さらに、この両氏と深く関わりながら、瀬戸内海を自在に駆け抜けた村上水軍御三家のひとつ、来島村上氏の存在です。
「越智氏と河野氏」伊予を統治した一族
越智氏は、古代伊予国の越智郡において「国造(くにのみやつこ)」や「郡司(ぐんじ)」といった地方官職を世襲した有力氏族です。
その祖先は、大山祇神社を創建したと伝えられる小千命(おちのみこと・乎知命)とされ、古代から続く伊予の名族として知られています。
やがて越智氏の勢力は越智郡にとどまらず、伊予国全体へと広がり、律令国家体制下でも在地豪族として重要な地位を占めていきました。
中世に入ると、越智氏の嫡流とされる河野氏が台頭します。
河野氏は、伊予国守護を務めるなどして事実上の「伊予の国主」としての地位を築き、南北朝・室町期を通じて伊予国を代表する戦国大名へと成長していきました。
その河野氏の伊予統治を支えたのが、瀬戸内海を拠点とする村上水軍(三島村上氏)でした。
村上水軍と来島村上氏
村上水軍は、「能島(のしま)」「因島(いんのしま)」「来島(くるしま)」の三つの島を拠点とする、能島村上氏・因島村上氏・来島村上氏の三家からなる海の武士団です。
それぞれが独自の船団を持ち、瀬戸内海の海上交通や交易、海の安全を守る警護、そして合戦などに従事していました。
形式的には伊予国の守護・河野氏の重臣とされていましたが、必ずしも完全な従属関係にあったわけではなく、独自の判断で行動することも少なくありませんでした。
一方、来島(くるしま)を本拠とする来島村上氏は、河野氏と婚姻関係を結んでおり、伊予沿岸の海上交通・防衛・戦争において強力な同盟関係を築いていました。
なかでも、来島通康(村上通康)は、河野氏の当主・河野通直の娘婿となり、義父に対する深い忠誠と支援を示しました。
この忠義に報いる形で、河野氏の象徴である「折敷に三文字」の家紋が授けられました。
この家紋は、もともと越智氏が用いていた「折敷に揺れ三文字(おしきにゆれさんもんじ)」に由来し、河野氏がその流れを継いで家紋としたもので、「越智氏→河野氏→来島村上氏」と家格と信頼の象徴として受け継がれたことになります。
さらに、通康の子である来島通総(村上通総)は、河野氏から特に信任を受け、その功績により、「越智」の姓を名乗ることを許され、「越智通総」とも称したとされます。
これは、河野氏が自らの出自である越智氏の系譜と重ね合わせ、特別な家格を認めたことを意味しています。
「鷹ヶ森城」越智氏と来島村上氏が交錯する城
鷹ヶ森城(たかがもりじょう)は、かつて愛媛県今治市玉川町の鷹ヶ森(標高352.4メートル)の山頂に築かれていた山城です。
その創建は平安時代末、白河天皇(在位1073〜1087年)のころと伝えられており、伊予国の有力豪族・越智氏の一族である越智大和守春友によって築かれたとされています。
春友は、旧鈍川村・鬼原村・畑寺村を領地とし、鷹ヶ森の山頂に本丸・二の丸・三の丸を備えた堅固な構えの城郭を整備しました。
さらに周囲には鬼原城・大西城といった支城を配し、鷹ヶ森城を中心とした防衛体制を構築。
この地は以後およそ五百年にわたり、越智氏の拠点としてその勢威を誇ることとなります。
やがて時代は中世から戦国へと移り変わり、鷹ヶ森城は河野氏の統治下に置か、河野氏と深い繋がりがある来島村上氏の勢力圏に組み込まれていきました。
こうして、鷹ヶ森城は越智氏の居城であると同時に、来島村上氏の戦略的拠点ともなり、両氏の影響が交錯する重要な舞台となっていきました。
その歴史は、「来島騒動」と呼ばれる河野氏の家督をめぐる争乱の中にも深く関わっていきます。
「来島騒動」
享禄年間(1528〜1532年)、伊予国守護・河野氏の本家(府中本家)を率いる河野通直は、正室との間に男子を得られず、家督の後継問題に直面しました。
家臣たちは、一族の分家である「予州家」の惣領・河野通政(のちの河野晴通)こそが後継者にふさわしいと考え、通直に進言しました。
しかし通直は、自身の側室に生まれた娘の夫であり、来島城主でもある村上通康を後継者に指名。
本拠である湯築城に迎え入れて政務を任せるようになりました。
これに対して、予州家を支持する家臣団は強く反発しました。
彼らは通政こそが正当な後継者として担ぎ上げ、神仏に誓って忠誠を誓う「起請文(きしょうもん)」を交わして結束を固めると、村上通康を討ち取るべく兵を挙げ、湯築城を包囲しました。
当時、湯築城内で通直に味方する勢力は少なく 防衛にあたったのは、実父・来島通康(村上通康)とその家臣団のみという極めて不利な状況でした。
通康は、河野氏水軍を指揮する、いわば“海軍司令官”としての重責を担っていたほどの手練れでしたが、圧倒的多数の包囲軍を前に、防戦は困難を極めました。
やがて通直は自害を覚悟しますが、通康はそれを思いとどまらせ、幼い通直の子を背負って湯築城の包囲を突破。
自身の本拠である来島城へと避難させました。
その後、来島城も包囲されましたが、ここは単なる城ではありませんでした。
来島城は、来島海峡に浮かぶ小島に築かれた、まさに“海の要塞”だったのです。
この来島海峡は、日本三大潮流のひとつに数えられる激しい潮流地帯であり、1日に数回も潮の流れが変化し、最大で時速10ノット(約18キロ)を超える流速を記録することもあります。
この海峡に慣れていない軍勢にとって、船の操舵すら困難であり、まともな上陸戦を挑むのは自殺行為に等しいものでした。
ところが、来島村上氏は代々この海域を根拠地とし、潮流・海底の地形・風向き・潮目の変化まで完全に把握しており、通康を筆頭とする一族は、文字通りこの海を“庭”とし、自在に艦隊を操ることができました。
さらに本土との補給線も確保されていたため、包囲側はどうすることもできずに手をこまねくしかありませんでした。
こうして戦局は膠着。
最終的には、豊後の戦国大名・大友義鑑の仲裁により和議が成立し、通直と通康の府中家は予州家との和睦に応じ、家督は通政(のちの晴通)が継承することで決着がつきました。
来島通康は後継者の座こそ退きましたが、河野氏の一族としての立場は認められ、河野の家紋の「折敷に三文字」使用と「越智」姓を名乗ることが許されるという特別な待遇を得ました。
鷹ヶ森城「五人衆さん」
来島騒動の後、河野家中の力関係は大きく変動し、その余波は伊予各地の有力家にも及びました。
本家(府中家)と分家(予州家)の間で争われた家督問題は、表面上は大友義鑑の仲裁による和議で収束を見たものの、根本的な対立が解消されたわけではありませんでした。
特に、河野氏を支えていた家臣の間には、忠誠と立場を巡る不穏な空気がくすぶり続けていたのです。
なかでも、来島村上氏を支持する勢力と、予州家(河野晴通)を推す勢力との対立は、のちのちまでくすぶる火種となり、家中の微妙な緊張関係を生み出し続けました。
そしてそれは、鷹ヶ森城を拠点とする越智氏の周辺にも迫っていたのです。
越智通能は、代々来島村上氏との結びつきが深く、河野本家(府中家)を支持する立場を崩していませんでした。
しかし、家中における予州家(河野晴通)の影響力が急速に増していくなかで、通能の立場は次第に微妙なものとなっていきます。
そんな中、同じく来島村上氏と深い関係にあった正岡氏も、大きな岐路に立たされていました。
玉川町竜岡下の幸門山の山頂には、かつて幸門城という堅固な山城が築かれ、代々、河野氏に仕える正岡氏がその城主を務めてきました。来島騒動以前は、来島通康の実弟にあたる正岡経綱が当主としてこの城を守っていました。
しかし、来島騒動を機に家中の権力構造が変化し、経綱は隠居へと追い込まれてしまいます。
その後、永禄9年(1566)、母方の叔父で予州家に属する別宮光貞が後見役となり、正岡家の家督を継いだのが、のちに「河野十八将」の一人として名を残す正岡経政でした。
さらに経政は、予州家当主・河野晴通の娘を正室に迎えたことで、正岡氏は来島家から離れ、予州家の方針に従う立場を明確にしていきます。
そんな中で発生したのが、天正7年(1579年)の「五人衆さん事件」と呼ばれる悲劇です。
正岡家の家老であった鳥生石見守は、来島村上氏への忠義を貫き、予州家に傾いた主家を再び来島方へと引き戻そうと画策します。
石見守は、鷹ヶ森城の城主・越智通能と通じ、自身が仕える正岡経政を討つ計画を立てました。
しかしこの謀反は事前に露見。石見守は経政に呼び出され、その場で討たれます。
逃亡を試みた妻子も、鈍川と鬼原の境で捕縛され、一族5人すべてが処刑されたと伝えられています。
この悲劇は、今も玉川町鬼原に「五人衆さん」として墓が残されており、戦国の世に翻弄された忠臣たちの悲劇として、地元に語り継がれています。
来島村上氏、河野氏の決別
このような状況の中で、長年にわたり河野氏の海軍力を担ってきた来島村上氏は、やがて重大な決断を下すこととなります。
天正5年(1577年)、織田信長は羽柴秀吉(豊臣秀吉)を中国地方遠征軍の総大将に任命し、西国の覇者・毛利元就の後を継ぐ毛利家に対し、本格的な攻勢を開始しました。
当時、伊予の河野氏は、四国統一を目指して勢力を拡大していた土佐の長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)と戦っており、毛利氏の援助によってようやくその攻勢に対抗している状況でした。
しかし、信長の中国攻めによって毛利方の余力は失われ、やがて河野氏への支援は途絶えていきます。
毛利氏との連携を断たれた河野氏は、次第に防戦一方となり、長宗我部軍の攻勢の前に劣勢を強いられるようになります。
そんな中で、来島村上氏もまた、一族の生存をかけて大きな岐路に立たされていました。
かつては河野氏の海軍力を担い、河野氏に忠義を尽くしてきた来島村上氏でしたが、「来島騒動」以降、予州家(河野晴通)が実権を握ったことで、河野氏との関係は次第に疎遠なものとなっていきます。
そして天正9年(1581年)、来島通総は羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)への従属を決断。
しかしこの動きは、ただちに毛利氏・河野氏、さらには村上水軍の同族である能島・因島の村上氏らの反発を招き、来島村上氏は四面楚歌の状態に追い込まれます。
やがて来島城は攻撃を受け、通総は拠点を追われて秀吉のもとへと逃れることとなりました。
「四国攻め」秀吉方についた来島村上氏
そして時は流れ天正13年(1585年)。
本能寺の変で討たれた信長の志を受け継いだ秀吉は、天下統一に向けて本格的な「四国征め」を開始しました。
伊予国方面には、すでに秀吉に臣従していた毛利家の名将・小早川隆景が、大軍を率いて侵攻を開始。
その先鋒を任されたのは、かつて伊予を追われた来島村上氏でした。
天下統一を目前に控えた圧倒的な軍勢を前に、越智郡の諸城は次々と開城し、大半は抵抗することなく降伏していきます。
「鷹ヶ森城の落城」越智氏の命運を託された武人
多くの城主たちが生き延びる道を選ぶ中で、ただ一人、最後まで徹底抗戦の構えを崩さなかった武将がいました。
それが、鷹ヶ森城(今治市鷹取町)の城主・越智通能です。
かつての味方であった来島村上氏が、今や豊臣秀吉軍の先鋒として攻め寄せてくる。
それはまさに、戦国という時代の非情な現実を突きつけるものでした。
通能は、天下に名だたる豊臣の兵を相手にして勝ち目がないことを承知しながらも、なおも籠城の姿勢を崩さず、最期まで戦う覚悟を固めていました。
やがて城は包囲され、落城はもはや時間の問題となります。
そのとき、通能は己の命運を悟り、一族の血脈と家名を守るための最後の命令を下しました。
「城を脱出し、光蔵寺(高蔵寺)に身を寄せている一族の後継者である、門間左衛門佐の子供、門間太郎を連れて逃げよ」
命じられたのは、鷹ヶ森城の出城・大西城の城主を務め、この戦いにも共に参戦していた実弟・右衛門尉でした。
しかし右衛門尉は、「自分だけ生き延びるわけにはいかない!」と声を荒げ、主君であり兄でもある通能の命令を、どうしても受け入れようとはしませんでした。
その言葉を受け、通能は静かに、しかし厳然とこう言い放ちました。
「従わぬというのならば、たとえ七度生まれ変わろうとも、おまえを勘当し続ける」
越智家の血統を絶やしてはならぬ…通能の言葉には、主君として、兄としての強い意志が込められていました。
右衛門尉は涙ながらに兄の気持ちを受け入れ、朝倉地区の光蔵寺(高蔵寺)に身を寄せていた門間太郎を連れ出し、「衣干砦(衣千八幡大神社)」に一時身を隠し、その後、菊間町の重茂山城(重茂神社)へと逃れました。
しかし、そこにも追手の手が迫っていました。
刻一刻と迫る危機のなか、右衛門尉は門間太郎を嵯峨山寺(嵯峨山大井寺?)に預けて、自身は周桑郡方面へと逃げることにしました。
その後、なんとか周桑郡への逃亡を果たした右衛門尉は、武士としての道を捨て、土に生きることを選び、農夫として静かにその生涯をまっとうしたと伝えられています。
そして、ふたりの血を引く子孫たちは越智郡や周桑郡に定住し、江戸の世を通じて、越智の命脈はひそやかに、しかし確かに受け継がれていったとされています。
鷹ヶ森城跡へ
鷹ヶ森城はその後、越智通能の自刃によって落城し、越智氏の五百年にわたる歴史はここに終焉を迎えました。
現在、山城の遺構のみが静かに往時を物語り、鷹ヶ森城跡としてその武勇と忠節を偲ぶ石碑が建てられています。
また、通能が自刃した地には、小さな観音堂とともに、越智駿河守の墓が祀られ、今も地元の人々によって、ひっそりとした供養が絶えることなく続けられています。
「焼失と再建」苦難を乗り越えた寺院
そして、浄土寺もまた、越智通能の自刃によって庇護者を失い、戦国の動乱に翻弄されることとなりました。
以後、幾度もの困難に直面しながらも、地域の信仰と住職たちの尽力によって、寺の灯は守り継がれていきます。
享保9年(1724年)には大火により堂宇の大半を焼失するという大きな被害を受けますが、当時の住職・徳貞上人の尽力によって、享保13年(1728年)には庫裡や客殿などが再建されました。
さらに文政元年(1818年)には、第7代今治藩藩主・松平 定剛(まつだいら さだよし)の篤い帰依により、本堂が再建されました。
この本堂は、現在に至るまで浄土寺の中心伽藍としてその姿を保ち、 静かに、しかし力強く、歴史と信仰を今に伝えながら、訪れる人々を迎え続けています。